レースまで後、二日。
ナイスネイチャは病室のベッドの上で目覚めた。
「んっん~……」
全身を覆っていたダルさが消えていた。ナイスネイチャは自分の額に手をあて、熱が引いたことを確認した。
看護師さんが来たので、改めて熱を測ってもらうことにした。
「よっし、回復!」
平熱だったことを確認したナイスネイチャは握りこぶしを作った。
だが、それでも完全に気分が晴れたわけではない。
「アタシ……無理しちゃってたんだなぁ」
ここでようやくナイスネイチャはオーバーワークを実感した。
ここのところ、練習に熱が入りすぎていたのもあり、まともな生活を送っていた記憶がなかった。
熱で倒れた日の朝なんて、どうやって身支度をしていたかすら、思い出せないほどだった。
「迷惑……かけちゃったな」
ナイスネイチャの脳裏に、トレーナーの顔が思い浮かんだ。
彼は寄り添おうとしてくれていた。その結果、自分が後悔するかもしれなくても、彼は自分の決断を尊重してくれたのだ。
――それを前提にして、ナイスネイチャは決断を迫られていた。
彼女が思考の海に入る寸前、ノック音が聞こえた。
「はぁ~いネイチャちゃん。元気になったかしら?」
「ま、マルゼン先輩!? どうしてここに……!?」
「トレセン学園の正門でトレーナーさんと会ったのよ。それであたしがここまで車を出してあげたってわけ」
「Thank you……。ありがとうマルゼンスキー。おかげで走らずに済んだ」
トレーナーが病室の出入り口からにゅっと現れた。身体が大きいこともあり、その登場の仕方は一種のホラーかと見間違える。
「おはよ~トレーナーさん。なんだか怖いよ、それ」
「Sorry……。なるべく静かに入ろうとしたのだがな。中々難しい」
「いや~そういうギャグを聞くのも久しぶりですね~」
ナイスネイチャが心底おかしそうに笑う。
「Check……。だいぶ回復したみたいだな」
「まーね。なんかこうやって休んだのも久々だから、早く練習に復帰しなきゃなー」
トレーナーの隣でそのやり取りを聞いていたマルゼンスキーはふと、こんなことを口にした。
「ところでトレーナーさん。確かネイチャちゃんのレースって残り二日よね? “どうするつもり”?」
レースに出るか、出ないか。それはナイスネイチャに迫られていた決断である。
トレーナーは即答した。
「Of course……。二日だけだが練習して、それでレースに出てもらう」
「あたしはそれ反対よ」
「マルゼン先輩……?」
マルゼンスキーはそこでナイスネイチャに頭を下げた。
「ごめんねネイチャちゃん。でもネイチャちゃんは弱っているわ。本当の完璧に体力が戻ったわけじゃないと思うの。……オーバーワークから来る疲れは、そう簡単には癒えない」
ナイスネイチャはドキリとした。
確かにそうだった。下半身がまだ重りをつけたような感覚だ。以前のような回転率を取り戻すには、もう少しかかる。
感覚的に、あと五日はかかる。
そこまで喉元まで上がってきたが、ナイスネイチャは何とか飲み干した。
「What……。マルゼンスキー、自分は走ってもらう。そう決めた」
「私たちウマ娘は車以上に走れるわ。そんな高速の世界では、僅かな小石に躓くことすら許されないの。もし脚がもつれたら? もしトップスピードに乗った瞬間、ふっと意識がなくなったら? はっきり言って、体力が落ちているネイチャちゃんをレースに出すのは危険よ」
マルゼンスキーの表情は真剣そのものだった。
ナイスネイチャは、マルゼンスキーの言うことをよく理解していた。彼女が言う“最悪”のシチュエーションは容易に想像がついた。
「で、ですよね~……。マルゼン先輩の――」
“言う通り”。ナイスネイチャはこの言葉を口にできなかった。それを言ってしまえば、終わりのような気がしたから。
「No……。ナイスネイチャはレースに出す。明日から練習にも復帰してもらう」
トレーナーは一切迷うことなく、マルゼンスキーへそう言い返した。
「トレーナーさん……! ネイチャちゃんに何かあってもいいの!?」
マルゼンスキーはこの件に関しては、絶対に退くつもりはなかった。
意地悪で言っているつもりではない。それで実際に潰れたウマ娘を見てきているからだ。彼女の発言には経験が伴っていた。
そんなことは百も承知のトレーナーである。
「ナイスネイチャ。君はどうしたい?」
「アタシは……」
マルゼンスキーは黙っていた。
トレーナーはここで、口を挟んでくるかと思っていたので、拍子抜けしてしまった。
誰も促さない。ただ、じっとナイスネイチャの言葉を待っていた。
「アタシは……マルゼン先輩や、トレーナーさんと過ごしたあの時間を無駄にしたくない」
ナイスネイチャはトレーナーをしっかりと見据えた。
「アタシ、走りたい。走らせてください、トレーナーさん!」
「All right……。無論だ」
「トレーナーさん。貴方、何かあったら絶対に後悔するわよ」
「Yes……。そうだ、だが、それで終わるつもりはない」
トレーナーはナイスネイチャに近づき、彼女の手を握った。
「と、トレーナーさん!?」
「君の走りの全てに、自分は責任を持とう。レースの最中、もし君の脚が折れたら、自分は同じ脚を折る。君の腕が折れたら、自分は同じ腕を折る。もし君が転んでレース復帰困難になってしまったら、一生をかけて君をサポートする」
トレーナーの口から、英語が消えていた。
「わぁお」
マルゼンスキーが途中からニヤニヤし始めていたが、トレーナーは一切気がついていない。
ナイスネイチャの顔はもう最初から真っ赤だ。茹でダコだ。
「て、手ぇ離して!」
「? Sorry……」
ナイスネイチャは両手を大事そうに握りしめながら、言った。
「……アタシがこうやって言えたのは、全部トレーナーさんのおかげ。多分、トレーナーさんと会う前だったら、すぐマルゼン先輩の言うことを聞いていたかもしれない。けど! トレーナーさんはアタシが“出来る”と思ってくれたから! だから、アタシは頑張りたい。トレーナーさんの期待に……応えたいんだ!」
「Great……。その言葉を待っていた」
「マルゼン先輩も!」
「あら?」
「マルゼン先輩にも、練習に付き合ってもらいたいです! 勝手なこと言っているのは分かってます! それに、アタシがあと二日で何が出来るのか、どこまでやれるのか、正直分かりません。けど、アタシはやってみたい。それがどんな結末になろうとも、アタシは走りたいんです! ウマ娘だから!」
マルゼンスキーもナイスネイチャに歩み寄った。そして、ナイスネイチャの手をそっと取った。
「ええ……もちのろんよ。あたし、ネイチャちゃんならきっと、そう言ってくれると思ってた。あたしの言葉を跳ね除けられるくらいの力が、ネイチャちゃんにはあるって信じてたから」
「それじゃマルゼン先輩、わざと……」
「……トレーナーさん、ごめんなさいね。あたし、きっと無意識にトレーナーさんとネイチャちゃんを試しちゃったのかもしれない」
「Don't worry……。君のその両手を見て、誰が責められる?」
「え……?」
マルゼンスキーは自分の両手を見た。握りすぎて、一部血が滲んでいた。
トレーナーは二人の前に、手を差し出した。
「Victory……。自分たちトレーナーと、ウマ娘たちの合言葉は常に一つだ」
「……うん!」
「そうね、ネイチャちゃん。明日から厳しいわよ?」
三人の手が重なる。代表して、トレーナーがその言葉を告げた。
「――勝つぞ」
この瞬間、三人の気持ちが一つになった。
第9筋肉でした!
いよいよ、もう少しで最終回です。
最後の最後までお付き合い願います!
さよなら筋肉!(謎挨拶)