一人の男がいた。精悍な顔つきに、慈悲深く爽やかな性格の好青年だった。
青年は神父だった。幼少期に親に捨てられ、神父に拾われ育てられた後、自身も同じ道を辿った。若輩ながらも信仰深く、神を信じ、神の救いを信じ、善行を行い人を救おうと今日も唯一神へ祈りを捧げていた。
青年の慈善活動は様々な場所に及んだ。紛争地に、貧困極まるスラム街に、救いを求める人々がいる場所にその足で向かい、弱き者たちを救い、護り、死した者には涙を流しながら十字を切り死後の安寧を祈った。
そんな青年はいつしか『天使』と呼ばれるようになった。紛争地で歓迎され、貧困な街で手を合わし祈られ、そう呼ばれると青年は困ったように微笑んで答える。
『私はただの神父ですよ。』
神に仕える者として理想だった。その信仰心は本物だった。
青年が神父として最後に出向いた土地は、正に地獄そのものだった。
食糧が足りず飢餓にまみれ、痩せ細った住民たち。強奪、強盗、略奪が横行し、いつも何処かで怒号と悲鳴が聞こえる。
女は売春によって金を得ようとするが、栄養失調により痩けた体は売り物にならず相手にされない。
子供は労働力として駆り出され、録な食べ物も与えられず直ぐに動かぬ肉袋になり、ゴミのように捨てられる。
母親は乳が出ず赤子が死に、その死んだ赤子を他の子供に食べさせる。
救援も軍隊もヒーローも、全て
───そこに
衣も、食も、住まいも、学も、人が持つ当然の権利は全て力ある者に奪われる。
出生記録も国籍もない、
青年は嘆いた、こんなことが許される筈がないと。
そして彼は其処にいる者たち
食事を配り、怪我や病により衰弱した人々を治療し、急拵えの学舎を作り子供たちに言葉を教え、死に行く者に最後まで寄り添いその死を弔った。
青年は唯一神に祈った。
『主よ、彼らに救いを。彼らの生に救いがあらんことを。』
そして青年は考える。この地に来たのは、主の天命ではないのかと。
彼らに己が全てを捧げ、救済せねばならないと。
青年は決意した。自分の命を賭けてでも彼らを救うと。
それから青年は目まぐるしく各地に動き回った。
より多くの食を
より多くの衣服を
より多くの住まいを
より多くの学びを
より多くの治療を
彼らに与えようと、日夜問わず走り回った。
いつか彼らが救われることを信じて。
今を乗り越え、皆が幸福に暮らせることを信じて。
───だが現状が変わることはなかった。
どれだけ食を与えても、衣服を与えても、住まいを、学を与えても
救っても、救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても救っても──
──怒号は、悲鳴は鳴り止まなかった。
──死体は減らなかった。
──略奪は失くならなかった。
──子供は道具のまま名も与えられずに死んだ。
与えられた者から奪い、そいつから奪い、またそいつから奪い…負の連鎖は止めどなく続き、結局満たされるのは一部の者のみ。
それどころか略奪と強奪はさらに激化し、より多くの人間が死ぬことになった。
また新たな死体が運ばれる度に青年は思った。
──なぜ神は、彼らを救いにならない。
殴殺された死体が
刺殺された死体が
陵辱された死体が
死体が増え続けるごとに、沈黙し続ける神に……青年の信仰に、陰りが見え始めた。
そんな青年の精神の最後の砦となっていたのは、齢十四ほどの一人の少女だった。
少女はこの地域では珍しくない孤児だった。孤児院にも入れずフラフラとこの悪意渦巻く地を彷徨っているところを青年が見つけ、保護したのだ。
彼女はこの地にて生まれたのが信じられぬ程に優しかった。
食事を与えれば空腹の自分より先に近くの子供たちに譲り
清潔な衣服を与えてみれば『寒いだろうから』と言いまともな服を着ていない者に着させ
本を与えるといつの間にか姿を消し、何処かで子供たちに読み聞かせている。
だがその優しさは、自身を滅ぼしかねないものだった。ときにはその事を叱ることもあった。この地の本性を知る彼だからこそ、その優しさに漬け込まれ、悪意の下に晒されかねない彼女が酷く心配だったからだ。
それでも少女は変わらなかった。なお善行を止めなかった。
ある日青年は少女に尋ねた。
『なんで君は、この地でそこまで人々に優しくできるんだい?』
すると少女は照れくさそうに笑い、答えた。
『私ね、いつかあなたみたいになりたいの!皆を助ける神父様に憧れたから、私も誰かを助けたいの!』
その言葉が、どれだけ嬉しかったか。その言葉に、どれだけ救われたか。
今まで、誰かを救おうとただひたすらに各地を駆け回ってきた。より沢山の、より多くの人々を。
神の名のもと、己が信仰のすべてを他者に捧げ続けた。それが誰かの救いになるならと、自分にとっての
──だがこの地に来て、青年は知った。この世には
───救う…救ってみせる、彼女だけは絶対に。
自分には無理だった。自分では、彼らを救えなかった。だが彼女なら、彼女なら救えるかもしれない、彼らのような人々を。
ほんの少しだけ見えてきた希望はやがて現実になるはずだ。彼女が振り撒く優しさは、いつかこの地全てを潤すと。
そう信じた。
──とある日の午後
『神父様、風邪薬ちょうだい!』
『おや、どうしたんだい?元気そうだけど…』
『違うの、おつかい頼まれちゃったの!』
『おつかい?誰にだい。』
『えっと、北の方の四番地に住んでるおじさんのお母さんが、風邪ひいちゃったらしくて風邪薬が欲しいから貰ってきてくれないかって。』
『四番地の……あれ、あの人お母さんといっしょに住んでたのかい?』
『少し前まで遠くのところにお仕事探しに行ってて、帰ってきたときに具合が悪くなったんだって。』
『そうなんだね…長旅が祟ったのかな。分かった、薬といっしょにこのシーツも持って行きなさい。少し遠いけど大丈夫かい?』
『大丈夫大丈夫!歩いて二十分くらいだからそんなに掛からないよ!』
『分かったよ。…本当はいっしょに行ってあげたいけど、私もこれから行くところがあるから、気をつけてね。』
『うん!いってきます!』
『あぁ、いってらっしゃい。今日も君に、神のご加護があらんことを。』
少女を送り出した青年は、自らの仕事のため身支度を整える。彼女が帰る前には家にいるだろうから、夕飯を作っててあげよう。今日は冷えそうだからシチューを作ってあげようか。そんなことを考えながら、青年も教会を出た。
(しまった、遅くなったな……)
予定より仕事が難航し、大幅に遅れて急ぎ足で帰路に着く青年。時計を見れば六時を過ぎている。彼女もお腹を空かせて待っているだろう。
(あの娘は大丈夫かな。少し瓦礫が多い道もあったから、怪我でもしてなければいいけど…)
しょっちゅう無茶をして怪我をしてくる娘だ、心配にもなる。
そうして教会に着きドアを開け、奥の生活用の部屋に入る。
『ただいま。ごめんね遅くなって…あれ?』
部屋の中に、彼女の姿はなかった。寝ているのかと寝室を探したがおらず、辺りを探し回ったが何処にもいない。まさか迷子に?不安を募らせ、彼女の捜索に出かける。
『――、どこだ!返事をしてくれ!――!』
彼女の名を呼びながら、目的地へと向かう。彼女が立ち寄ったはずの、北側の四番地にある男の家――というよりは、木と廃材で建てられた粗末な小屋――だ。中から物音がするあたり、留守ではないようだ。
『夜分にすみません。私は二番地の教会の……は?』
扉とは到底言えぬ仕切り替わりの布切れを潜り、彼が見たのは――
胸に一本のナイフが刺さった状態で凌辱される――彼女の姿だった。
『ハッ、ハッ、くそっ!ガキが贅沢に上等な服着やがって…!あの神父も気に入らねぇ…!』
聞くに堪えない怨嗟と、肉欲を求め少女の体を貪る獣の荒い呼吸音、肉を打ち付ける音だけが嫌に鮮明に聞こえる。そこに聞いていた男の母親の姿は無く―――謀られたのだと理解する。
『ハッ、…ハハ!だがこれだけ上等なら血さえ落とせば金になるだろ…!へ、へへ!』
彼女の優しさは、慈愛は、善意は…一人の男の悪意によって――嬲られ、犯され、辱められていた。
『……何を、何をしている…!!』
『!!…チッ、なんだ神父様か。見ての通り―――てめえの可愛い娘で、ちょいと発散させて貰ったんだよ。』
行為を止め、刺していたナイフを引き抜き立ち上がる。彼女の穿たれた胸から血が溢れている。
『しかし…このガキも馬鹿だよなぁ。《病気の母がいる》なんてちゃっちな嘘に騙されて、ホイホイここに来て…この様だ。』
醜悪で下種な笑みを浮かべ、彼女の血が付いたナイフの切っ先を青年に向ける。垂れた血が床を跳ね、汚していく。
『皆が幸せに…だったか?へっ、おまえも知ってんだろ?――
声を上げ男は笑う。それは、もの知らぬ愚かな少女に向けた侮蔑を込めた嘲笑だ。
『…はぁ、せっかく楽しんでたのに邪魔しやがって。だがまあいい、気に入らねぇおまえも――あの餓鬼のところに送ってやるよ!!』
『ふざけるな…ふざけるな!よくも…あの娘をぉ!!』
男は振るう。血に濡れたナイフを、嘲笑いながら、理性なき獣のように。
男は振るう。怒りに染まった拳を、叫びながら、奪われた救いに狂いながら。
肉が裂ける音と、鈍い音が響いた。
『何故だ!何故君が傷つかなければならない!!』
血と体液で汚れた少女を抱きかかえながら叫ぶ。いつの間にか外には雨が降っていた。悲痛な慟哭は、雨が地面を打ち付ける音に掻き消される。彼の後ろには男が倒れ伏している。その右肩にあの娘を刺したナイフが刺さった状態で。
彼も幾つかの傷を負っていた。漆黒のカソックは切り裂かれ、血に濡れている。
『君が何をしたというんだ!君に、君になんの罪がある!?』
『主よ!なぜこの娘に…ここにいる人々に、なぜ救いを与え下さらない!』
心からの叫びも、耐え難い苦痛にも、少女の優しき献身にも、無数の祈りにも、神は沈黙したままだ。どれだけの人々が苦しんでいるだろう。どれだけの人々が死んでいるのだろう。
自分が、家族が生きるため、どれだけの人々が他者から奪うことを強制されているのだろう。未だ沈黙を続ける神に、憎悪と怨嗟を向けていた──そのときだ。
『ぅ…あ』
『ッ!!』
彼女がか細い声を上げた。まだ息がある。この娘はまだ生きている。良かった。まだ希望は、救いは、失われていないのだ。
『し、んぷ…さま…』
『大丈夫だ!ここにいる』
安心させるように彼女の手を握る。まるで氷のように冷たい手には、ほとんど力が入っていない。
『いたい────くるしい───も、う』
『苦しいなら喋らなくていい!すぐに助けを…!』
『もう──
『…え?』
『くるしいのも────こわいのも─いやだ─わたし──』
──そうだ。仮に彼女の治療が間に合い、助かったとしてそこからどんな思いで彼女は過ごさなければならない?この地を離れたくても、世間からすれば【この地で産まれた】という事実だけで迫害するのは十分すぎる理由だ。
ならばこの地で…この地獄のような世界で、後の生を過ごすのか?
ナイフの痛みに、男の獣性に、人の悪意に、恐怖し震えながら彼女に生きろというのか。それは───
『──大丈夫、今痛いのをとってあげるからね。』
幽鬼のような足取りで男に向かい、刺さってたナイフを抜く。男の血が着いて汚らしい。持っていたハンカチで丁寧に拭き取る。
『…い、たいのなくなるの?』
『あぁ。痛いのも、苦しいのも、怖いのも、全部』
彼女の胸を見やる。視線にあるのは未発達な膨らみ──ではなく、その奥にある心臓だ。
先程刺されていた痛々しい傷に顔を歪ませながら、ナイフを振り上げる。
『ほんと?…よかった…』
『だから…だから…ゆっくりお休み。』
『うん、しんぷさま』
『いつもあ、りがと…』
──慈悲の刃が心臓に深々と突き刺さった。
彼女の顔は安らかだ。全ての苦しみから解放され、穏やかに眠った。
『――あぁ主よ、何故、何故この娘が――』
『それは君の信じる神が無力だからだ。』
突然後方から男の声がした。まるで見計らったようなタイミングで現れたコアトゥルが彼に囁く。
『幸い、君は答えを得た。――私と共に来なさい、正しき信仰と正しき救いを、教えよう。』
あまりにも怪しすぎる誘い…だが神に裏切られ、救いを奪われた彼にその手を取らない理由はなく――
ここに、
「―――そういうことか…」
全て繋がった。瞳に宿った諦観も、絶望も、憤怒も、信仰も、合点がいく。
信仰に生き、信仰に捧げ、信仰に溺れ、信仰の果て狂うしかなかったあまりにも悲しき男、それが奴だ。
「なんだ…私の…
「言っただろう?おまえの物語だ。なあ、神父様よ。」
「…っ!!煙る鏡、俺の人生そのものを映し出したか!」
急な動揺具合に、緑谷と轟が何事かと目を向けてくるが今は説明している暇はないぞ。
「あぁ見たのなら分かるだろう?俺の信仰が、慈悲が!」
「死こそが救済…だろ。」
「そんな、そんな理論が許されるわけが」
「貴様らのような恵まれたものに分かるわけがない!!この、絶望と理不尽、
それは心からの叫びだ。裏切った神への、格差しかない非情な現実への憤怒と憎悪に塗れた膨大な感情の奔流が、威圧として襲い掛かる。緑谷と轟は、声を発せない。あまりの威圧に、あまりにも、悲痛な叫びに只々呆然としている。
確かに、彼の苦しみは想像を絶するのだろう。彼の怒りは、正当なものだろう。
―――だが
「てめぇ…今なんつった?」
そんなこと、今はどうだっていい。
「この世界に悲劇しかねぇだと…!絶望と理不尽だけが、この世界全てだと!!」
この言葉だけは、許せない。『語り屋』波激衝として、それだけは言わせない―――!
「おまえら、手ぇ出すな!!そこで見とけ!」
「なっ!?なにを」
「これは、これだけは誇りの問題なんだ!!」
拳を握り、構える。
「パディブロ!!てめぇの知らない世界を、教えてやらぁ!!」
――あぁ、天上に座します
決着は近い。