かつて、イナセビャクヨウというウマ娘がいた。とある菊花賞バの子で、クラシックで戦績を上げることは出来なかったが母も走った菊花賞では三着に入着し、その後は阪神大賞典で優勝するなど活躍していた。その後は平地競走であるトゥインクルシリーズから、障害競走であるスパークルシリーズに転向した。
転向後、無敗の四連勝を上げ、一番人気で迎えた中山大障害、そこで彼女を待っていたのは悲劇的な運命だった。レース前にパドックに移動中、急に顔を覆って蹲った。一度通路から外され、係員が確認すると直ちに救護室へ連れられ、そのまま競走除外となった。
……彼女は、顔の、右目の部分に火傷を負っていた。それも、湯や火ではなく薬品の匂いがしていた。その後の調査で、場内に濃硫酸の残留した容器が見つかり、他にも服に穴が開くなどの被害を受けた係員がいたこともあり、何者かが出走するウマ娘たちを狙って濃硫酸を投げ込んだ疑いが濃厚になった。
が、当日の天候が悪く、容器に指紋も残っていなかったことから捜査は振るわず、結局この犯人は見つからずじまいであった。
――これが世にいう、「イナセビャクヨウ事件」である。
彼女は目の治療が終わったあと、一度は選手として復帰した。が、それ以後は精彩を欠き勝利からは遠ざかってしまった。そしてそのまま、現役を引退していった。
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デュオスクトゥムは図書館で読んでいた本を閉じた。この事件はかなり有名な話で、これ以後持ち物検査など強化され再発防止が徹底されている。彼女のその後を知るものはそう多くない。その人が、自分のトレーナーとして再びレースの舞台に戻ってきたのだ。
(……頑張らないと)
どんな形でも、この舞台に戻ってきたということは走ることに関わっていたいということだと思う。だったら、自分が彼女にできることはきっと、彼女の期待に応えることだけだろう。
そんな事を考えながら、デュオスクトゥムはトレーナー室に向かう。今日もまた、彼女とのトレーニングが待っている。
「失礼します」
「あ、いらっしゃい、授業お疲れ様」
「はい……あ、着替えてきますね」
「わかった」
なにか資料を整理していたらしいイナセビャクヨウと挨拶を交わすと、デュオスクトゥムは着替えスペースとして備え付けられた衝立の向こう側に入り、制服からジャージに着替えてまた彼女のもとに戻る。
「それじゃあ一旦方針の再確認をしようか」
「はい」
「この間走りを見せてもらったけど、あなたは中・長距離向きだと思うからまずはその距離を走りきれるように体力づくり、あと脚質は逃げがあっていると思うからそれと合わせてスピードの強化、これがとりあえずメイクデビューに向けた方針……大丈夫かな?」
「大丈夫です!」
「わかった、じゃあ今日は芝コースで走り込み、行こうか」
二人は連れ立って練習コースに向かう。その最中
「少し、気負ってる?」
「え?」
「なんだか気が張ってる気がして」
「……そう、ですか?」
「うん、もしそうなら、私のことをなにか気負うことはないよ」
少し驚いたような顔で立ち止まるデュオスクトゥムに、イナセビャクヨウは微笑みを向けつつ言葉を続ける。
「……私は、あなた本来の走りをしてほしい。止まってしまった私じゃなく、あなたのね」
「トレーナー……」
「背負うなら、自分の勝ちたいって気持ちを背負ったほうがいいよ?」
「……わかりました」
「うん、すぐに切り替えられないかもだけど……今はとにかく6月のメイクデビューに向けて、集中しよっか」
「はい」
二人はまた歩き出す。デュオスクトゥムは、「止まってしまった」という彼女の背中をただじっと見つめていた。