第1話
チチチとどこかで小鳥が鳴き、その
桜の盛りは過ぎたものの季節の盛り、空に浮かんだ太陽はその輝きからは連想できない程に穏やかな陽気を地上へと振りまいている。
春風の温もりと共に運ばれてきた芝の香りが、今やるべき全てのタスクを放り出して柔らかなターフに寝転がれと胸ぐらを掴んでくるようだった。
隙あらば指先を這わせてくる睡魔の誘惑を、いかんいかん、と頬を叩いて振り払う。
ヒリヒリした痛みに幾ばくか覚醒した意識で男は広大な敷地を持つ校庭を─────単に運動するための砂のグラウンドとは違う、1つの使用目的だけに特化した作りの芝のコースを見下ろした。
走ること。
その為に作られた緑色の道を、『少女たち』が駆け抜けていく。
頭頂付近から生えた人間のそれとは異なる形状の耳と、腰から靡く人間には備わっていない流麗な尾。
そんな異なる種族の特徴と共に、彼女らは掛け声に合わせて走る。
人間とは少しだけ異なる存在───『ウマ娘』。
時に数奇で、時に輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る運命を背負った少女たち。
そしてここはそんな彼女らが他の誰よりも速くレースを駆け抜けるべく通う、"己の脚を鍛えるために日本各地に存在する学園"・・・・・・その中でも最大規模、およそ2000人超の生徒を擁する『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』、通称『トレセン学園』。
『走り、競うこと』を至上とする数多くのウマ娘が憧れ、才能を見込まれたウマ娘だけがその門戸を潜り、同じだけの数のウマ娘が夢破れて涙と共に去り─────そして一握りのウマ娘が栄光と威光を掴み取る戦場である。
そして戦場たる学園に在籍する彼女らを鍛え導く存在、『トレーナー』。
春の日和に瞼を
昨日は充分に寝たはずなんだがなあ、と首を捻っていると、ハッハッハと快活な笑い声が近付いてきた。
欠伸をしていたトレーナーの同僚だ。
彼は鳴らしていた靴音を男の隣で止め、揶揄うように顔を覗き込む。
「よう、
「・・・・・・
「はっはっ、悪い悪い」
散々前からやめろと言い続けているはずの、
その呼び名は、トレーナーのウマ娘の育成方針によるものだった。
ウマ娘の性質を正確に把握した上で組み上げる、効率を徹底したトレーニングメニュー。
定石とされるトレーニングも少しでもそのウマ娘に合わないと判断すれば、新たなトレーニングを1から作る。
無駄は排して目指すは常に最短距離。
だから、『
難色を示す本人とは裏腹に、彼をそう呼ぶ者は絶えない。
それは常にウマ娘を第一に想う彼の姿勢と、確かな手腕に対する敬意を込めた
「しかしどうだ。今年の新入生は中々粒揃いじゃないか?」
「ああ。特にあの黒鹿毛と・・・・・・鹿毛の2人だ」
そう言って2人はグラウンドを見下ろす。
今は体育の授業中で、新入生がレースで走るための基礎的な力を培うためのトレーニングを行なっていた。
レースをしている訳ではない。
本番に近いコンディションのコースと集団の中で走るというレースの空気に慣れる為に、十数人が纏まって走るのだ。
なので着順での争いがある訳ではないのだが、その中でも抜きん出ている者・・・・・・・・・、早くも才能の片鱗を見せている者はやはり存在している。
先頭とその付近を走る黒鹿毛と鹿毛の2人の目には、競走ではないと説明されていてもなお闘争心が燃えていた。
「『ウメノチカラ』と『カネケヤキ』か。今年の目玉はこの2人かな。入試の時の時計もいいし、スカウトには苦労しそうだ」
「『バリモスニセイ』あたりも傑物だが、やっぱり俺はそのどっちかを担当したいな。あの才能を自分が花開かせるなんて胸が躍るじゃないか」
「そうか。じゃあ俺とは競合相手になるかもな?」
「あっお前、まさか2人とも狙ってるのかこの業突く張りめ。まだ足らんのか、去年あれだけの成果を挙げておいて───────・・・・・・・・・・・・、・・・・・・すまん」
「・・・・・・気にするな、分かってる。
そう答えた男は、しかし握った手に力が入るのを抑えられなかった。
古賀に悪意があった訳ではない。事実、このトレーナーは担当したウマ娘の経歴を誇るべき戦績で彩ってみせたのだ。
ただしその結末が、彼にとっては余りにも苦く苦しいもので終わってしまっただけで。
彼の指の圧に押されてくしゃりと紙が歪むのを見て古賀は目を伏せる。
「気にしてはいないよ。だからお前が気に病むな」
「ああ、ありがとう。俺はもう行くよ。・・・・・・本当にすまない」
(・・・・・・今度酒でも奢らせるか)
あれは気のいい男だ、わざとでは無くとも人の傷に触れてしまえばずっと気に病み続けてしまう。
ならば何でもいいから適当に詫びの形でも取らせてやった方がいいだろう。
これは自分が抱えていればいいものだ。他者に腫れ物として扱われたいとは思わない。
気を取り直し、改めて新入生を観察する。
似通った姿形でヒトを優に超える身体能力ばかりが目立つが、同時に彼女らの性質にはガラス細工のように繊細な部分がある。
その内の1つは、環境の変化にヒト以上に敏感であること。
新たな環境、初めて経験する訓練。そしてそこかしこに立って自分たちを見定める、これからの自分のレース人生を左右するトレーナーたち。
緊張が高まる数多くのファクターに見舞われ、運動量以上に疲弊しているようだった。
最後の組が走り終わっても、まだ最初に走った者たちは息が整っていない。
これから彼女らはクールダウンの方法を教わる。
トレーナーが着くか『チーム』に所属するか、レースのための本格的な訓練が課されるまでに、新入生たちは徹底的に自己管理のノウハウを叩き込まれる。
最も重要で、しかし地味な講義。
それ故に資質の多寡が聞く姿勢に出たりもする。
普通に聞いている者や退屈そうにしている者、疲労に押されて半ば聞き流している者・・・・・・、あるいは真剣な顔で傾聴している一部の者。
そういう所も判断材料としてトレーナー達はこれぞと見込んだウマ娘にアタックをかけるのだ。
無論それはチカミチと呼ばれたトレーナーとて例外ではなく、首から下げた遠眼鏡を覗き込んで彼女らの様子を観察している。
そんな時だった。
「・・・・・・・・・・・・ん?」
妙な生徒がいた。
ウメノチカラでもカネケヤキでもバリモスニセイでもない、
思わず彼女を観察し続けている内に講義は終わり、ストレッチを実践した後に授業は終わりとなった。
周囲のウマ娘の様子と彼女の様子とを見比べて、また彼は首を捻った。
次の日の体育の授業はダートコースを使ったマラソンだった。
目的はもちろん基礎的なスタミナを身につける事だが、どの辺りで失速ないしはバテるかで自分の大体の脚質が明らかになったりもする。
早い内に疲労で下がれば
長くペースを保てれば
どちらが優れているという話ではないが、短距離路線のレースが軽視されている現状、スプリンターを望まないウマ娘は訓練を重ねて自らの脚質を改造していくことになる。
その鹿毛のウマ娘は、集団の最後方にいた。
皆が乱れる息を押し真剣な顔でペースを保とうとしている中、彼女ひとりだけがいかにも『仕方無しに走ってます』といった風情でぽてぽてと集団に着いていっている。
そして授業は終わった。
時間にすれば1時間程度の持久走だが、不慣れな土のコースが身体にかける負担は並大抵ではない。
みんなが大きく肩を揺らして喘鳴を漏らす中、やはり他のトレーナーたちの注目はきのう古賀との会話で名前が挙がった2人を中心とした先頭集団のウマ娘に集まっている。
しかし『近道』と呼ばれるトレーナーの視線の先にあったのは疲労の只中でも背筋を伸ばす彼女らではなく、最後方を走っていた鹿毛のウマ娘だった。
その後も彼は、彼女が履修する全てのトレーニングを見学し続けた。
鹿毛の彼女は、いつだって最後方を走っていた。
そして少々の時が流れる。
体育の授業が基礎トレーニングに加えてコーナーの曲がり方や折り合いの付け方などを学ぶ『コース追い』やスピードを鍛える筋力トレーニングが始まり、やがてトレーナー達の目に止まるための選抜レースが話題に上り始めた時、彼は行動を起こした。
褒められた行為ではない。
それどころかマナー違反と謗られるような、不文律を犯す行いだ。
それを自覚しつつも、彼は足を止めることはなかった。
「わかった。ありがとう」
「いえいえ。見つかるといいですね」
昼食後の休憩時間、彼女のクラスを訪ねたが空振り。
彼女がいそうな場所を教えてくれた生徒に礼を言って教室を出た後、教室内で
─────なぜ練習でまったく目立たない彼女にトレーナーが会いにくるのか?
そんな事には委細構わず、トレーナーは教えてもらった場所に足を運んだ。
彼女は自由時間には大体そこにいるらしい。
そうでなければまた機会を改める気でいたが、どうやらその必要はなさそうだ。
目当ての鹿毛のウマ娘は、日当たりのいい芝生の上で彼女はうたた寝をしていた。
春眠暁を覚えずを地でいく気持ち良さそうな顔で目を閉じている様に、声をかけるかどうか、というか起こしてまで話しかけていいものか若干迷ったトレーナーだがその時、ぱちりと彼女の目が開いた。
横目で自分の姿を確認した後、回るように動いた彼女の耳もこちらを向く。
────自分が来るのを知っていたのか?
そう思うくらいに彼女の動作にはゆとりがあった。
むくりと起き上がった鹿毛のウマ娘は芝生に胡座をかき、のんびりとトレーナーを見上げて言う。
「そのバッジ、トレーナーさん?」
耳を立ててこちらを注視する鹿毛のウマ娘。
興味や注意を示すウマ娘の
内心で安堵しているトレーナーに、彼女はぱたぱたと手を振りながら飄々と嘯いた。
「生憎だけど鹿毛違いさ。あたしはカネケヤキじゃないよ」
「いや、彼女目当てじゃなくて」
「冗談だよ。いつもあたしを見てた人だろ?」
「・・・・・・気付いてたのか?」
「そりゃあれだけジッと見られたらね。たぶん最初の授業の時からあたしを見てなかった?」
何でもない風なその言葉にトレーナーは思わず仰け反った。
カマを掛けている風でもない、半ば確信しているような物言い。
あれだけあちこちに立っていたトレーナー達の中から、自分の視線に気付いていたというのだ。
慣れない環境に初めての指導、生徒全員が疲れ果てたトレーニングの最中に、そこまで周りの様子を見る余裕が果たしてあったのだろうか?
─────いや、あったのだろう。
彼女ならそれができたのだろう。
何故ならトレーニングのあと皆が疲労困憊で肩で息をしている中で、
ごくり、と緊張に思わず唾を呑む。
確信があった。
今年の新入生の中には確かに煌びやかな主役がいる。
だが今は姿を隠しているこのウマ娘は、間違いなく彼女ら全てを飲み込む台風の目となるだろう、と。
トレーナーのその表情に何を見たか、ニィ、と彼女は笑うように口角を曲げた。
立ち上がってスカートの土と葉を払い、彼女は高く持ち上げた尻尾を揺らして彼の元へと歩み寄る。
挑むような強さや噛み付くような凶暴さでもない。
まるで己という存在を使って相手を試すような。
彼女の名乗りが無意識に孕む空気には、そんな圧があった。
「あたしはシンザン。あんたは?」