フラッシュバックというものを体験した事はあるだろうか。
過去に受けた心的外傷が突然に、あるいはその時の経験と近似した光景がトリガーになって鮮明に思い出される現象の事だ。
4日のオープン戦を終え、レース後の負担を考慮して流す程度のトレーニングを行なっている最中にトレーナーを襲ったものがそれに近い。
「ぎゃふんっ!」
柔らかな何かが引き裂かれる音。
硬い何かが砕けて割れる音。
人間の耳にも聞こえるような大きさのそれと共に、走っていたシンザンがターフの路にすっ転んだ。
右脚を押さえ苦悶の表情で
診断を下された彼女の絶望的な表情。
もう走れなくなるかもしれない。
視界が狭く暗くなっていくあの感覚と共に、目の前の光景に過去の記憶がいくつも重なり合っていく。
「────────シンザンッッッ!!!」
心と思考が悲痛な青に染まる。
顔の色を失ったトレーナーが、引き裂かれるような声で名前を叫びながら芝に倒れる彼女へと駆け寄っていった。
ウマ娘の大小様々な故障と隣り合わせな学園の性質上、トレセン学園の保健室に常駐する養護教諭には医療免許の所持が必須とされており、保健室も同様に応急処置より上に踏み込んだ医療行為が行える程度の設備が備えられている。
つまるところ学園内に小さなを病院を抱えているのと同じなので大概の身体的なアクシデントはここで対応できるのだが、シンザンの身に起きた事は対応の範囲外だった。
消毒液の匂いが漂う室内で、トレーナーはぽかんと口を開ける。
「壊れただけ?? シューズと蹄鉄が??」
「はい、腱の断裂や骨折は見られませんね。軽い打撲と擦り傷だけです」
『どうした、どこをやった、どこが痛む』。追い詰められた顔で矢継ぎ早に聞かれて気圧されている様子を苦痛で声が出ないのだと判断したトレーナーが、シンザンを抱え上げて全速力で保健室に駆け込んだ。
提携している病院に運び込んでくれと取り乱すトレーナーを落ち着かせ、ベッドに寝かされたシンザンを一通り診察した養護教諭の診断がそれだった。
「軽傷で済んだのもゆっくり走っていたからでしょうね。とはいえ暫くは様子を見て、痛みが強くなったり長引くようなら病院にかかった方がいいでしょう」
「寿命が縮んだ・・・・・・・・・」
「何だかお騒がせしちゃったね。あたし自身も身体の方は大丈夫だと思うよ、うん」
トレーナー室で上履きに履き替え申し訳なさそうに座っているシンザンの対面で、30分足らずの間で精魂尽き果てたトレーナーがデスクに突っ伏している。
普段は何か問題が起きても冷静に考えて淡々と処理するような男がこうも取り乱す様を見て、彼がウマ娘の故障にどれだけ敏感になっているかをシンザンは初めて実感した。
それでも1度は屈腱炎になったウマ娘にレースを全うさせた手腕は確かなものだと思うのだが、回復に腐心した期間とその後走れなくなったという事実はそれだけ辛いものだったのだろう。
自分の方でも気を付けなければならないなと反省しているシンザンの前で、起き上がったトレーナーは壊れたシューズと蹄鉄を改めて検分する。
「走ってる最中にシューズや蹄鉄が壊れる事はあるし、そういう場面を見たのは俺だって初めてじゃない。しかし・・・・・・」
さっきまで自分が履いていた靴をまじまじと見つめられているシンザンがその手から靴をひったくってやろうかと考えつつある視線を受けながら、トレーナーは呻くように率直な感想を漏らした。
「信じられない。こんな壊れ方は初めて見るぞ」
頑丈なものを選んだはずの蹄鉄は煎餅のように擦り減り、薄くなった真ん中で綺麗にへし折れている。
シューズに至っては散々だった。
ヒール部分には亀裂。最も動きが大きく負荷が掛かり、故に最も頑丈に作られているはずの部分が綺麗に引き裂かれている。軽く揺らすだけでぱかぱかと大口を開閉する腹話術の人形みたいになったシューズをシンザンに返し、呆れたように彼女に言う。
「蹄鉄もシューズも痛み方が尋常じゃない。走ってる時の不具合も凄かっただろ。物持ちがいいタイプなのかもしれないけど、これはいくら何でも貧乏性ってもんだ」
「・・・・・・・・・・・・」
「この間出かけた時に買い込んでおいて正解だったな。これからシューズや蹄鉄は違和感が出たらすぐに交換するように─────」
「これで最後」
「え?」
「買ってもらったシューズも蹄鉄もこれが最後」
信じがたい言葉を聞いた気がした。
唖然とするトレーナーに対してシンザンはばつが悪そうに顔を逸らす。決して安くはない物の数々をすぐに消費してしまった申し訳無さか、彼女の説明にはいつもの飄々とした図太さはなかった。
「
あの数のシューズと蹄鉄が、ものの数ヶ月で駄目になる。
俄には信じがたい弁明だったがトレーナーの脳内でその瞬間、全てが繋がった。
あのスタートダッシュが答えだ。
──────
シューズが痛み方の割に汚れが少なかったのはそれだけ短い期間で寿命を迎えたからで、薄っぺらくなった蹄鉄はそれだけ交換をケチっていた証拠だろう。
思い返してみれば出かけた時に服や化粧品を買い漁っていたのは、シューズや蹄鉄に財布を圧迫されていたからなのだ。
蹄鉄やシューズは生徒自身で申請すれば経費で落ちる物品だが、彼女のペースでは不正利用の可能性有りと申請が通らなかったのだろう。
親からの仕送りを含めてもカツカツだったのか。
外見に無頓着なのではなく、金をそちらに回す余裕が無かっただけで。
(となるとそうか・・・・・・。練習で走らないのもシューズと蹄鉄の摩耗を抑える為だったのか・・・・・・)
「まあその、そういう訳でね? 断じて絵馬の話じゃないけどね。練習のメニューを軽ーく、軽ーくしてくれないかな? 特にラップ走をね、無くしてもらえたらなって。ホラあれ凄い走るから」
(いやものぐさなだけだな・・・・・・)
こんな状況なのに瞳に「あわよくば」が透けていた。靴が保たないという正当性に期待を込めてそわそわと尻尾を揺らしている。
『練習そのものが面倒な訳ではない』とその口から聞いた覚えがあるのだが、果たして彼女の中で如何なる理屈が通っているのだろうか。
それについても今後のために早いうちに解明しなければならないが─────
それはもう少し後でいい。
いま直ちに解決するべきは、彼女が十全にトレーニングするための環境を整える方法だ。
「? トレーナーさ・・・・・・・・・、」
黙り込んで反応が無くなったトレーナーの様子を伺おうとしたシンザンが、彼の顔を見て何かを察したように口を閉じる。
恐らくは自分に発生したアクシデントを再発させないための、いま自分を取り巻く問題を解決するための方法を模索しているのだ。
寿命の短いシューズに蹄鉄に金銭的な問題、それら全ての問題を最短で結ぶ
こうなったらこちらも集中を削ぐような事はしないほうがいい。
トレーナーの言葉を黙って待つ事およそ2分。
茫洋とした目に意識が戻り、思考の海から帰還したトレーナーは開口一番にシンザンに言い放った。
「よし。お前の下半身を調べさせてくれ」
「なに言ってんだいド助平!!」
「違うそういう意味じゃない」
思わず自分の両脚を抱いて叫んだシンザンに突っ込みを入れる声はどこまでも平坦だった。
お前の言い方が悪かったんちゃうんかと微妙に腑に落ちない思いを抱えることになった彼女に、そうじゃなくてさ、とトレーナーは改めて自分の考えを話し始める。
「覚えてるか? ほら、初めて会った時にウチの家業のこと話しただろ」
「?
「そうだ。うちで
恐ろしく予想外の結論が出てきた。
自分の足に合う蹄鉄を自分に合うように調整するのは当たり前の事だが、最初からそのウマ娘専用の蹄鉄をオーダーメイドする事例は未だ聞いたことがない。
目を丸くしているシンザンの前で、トレーナーはさらに詳細な説明を続ける。
「その為にお前の脚のサイズから筋力まで詳細な数字が欲しいんだ。だけどただ蹄鉄を改良すれば済む話じゃない。どんなに急いでも完成には1ヶ月、いや2ヶ月は掛かるだろう。
だから今日のトレーニングは大事をとってここで終わらせて、身体に異常が無ければ明日ジムでデータを取りたい。いいか?」
「う、うん。分かった。ちなみにその1、2ヶ月のトレーニングはどうすんの? まだ経費の申請が通るか分かんないし、靴と蹄鉄がないと・・・・・・」
「やるとすれば水泳でスタミナを強化する位だな。筋トレについてはあまりサイズが変動すると試作品も作れないから、維持する程度に控えめに」
「お、言ってみるもんだね。単純に水泳のメニューを増やすことになるのかな?」
「明日までにメニューを作って渡すよ。俺も完成までそっちに付きっきりになるからシンザンには自主練してもらうようになる。難しい仕事を投げると親父と兄貴だけじゃ本業が回らなくなるからな」
「・・・・・・それなら、自分で『今日は体調が悪いな』ってなった時は?」
「休暇も自己判断に任せようじゃないか」
「言ってみるもんだねえ!!」
目を輝かせて尻尾を振るシンザン。
この時点でもう真面目にやるかどうか怪しいのだが、如何なる意図があるのかトレーナーがそこについて言及する事はない。
ただ一言だけ、彼女に次のレースに対する忠告するだけに留めた。
「油断はするなよ。2ヶ月後のスプリングステークスは謂わば『皐月賞』前の腕試し、三冠を目指す強敵揃いだ。油断してると足元を掬われるぞ」
「うんうん、分かってる。ちゃんとやるよ」
その翌日、身体の異常は見られなかったシンザンは約束通りにトレーナーのデータ収集に付き合った。
足のサイズや幅、
─────足のサイズは分かるけど、何で
まあ自分が知らないだけで蹄鉄のオーダーメイドはそれだけ精密にやるものなんだろうと自分で納得し、メニューを渡されて解放されたシンザンはそのままプールへと移動。
指示されたメニューを消化するべくしばし水中を泳いでいたが、見ている者も会話する者もいない。途中で張り合いが無くなってプールから上がる。
練習内容の半分も終わらせない内に本日分のトレーニングを切り上げたシンザンは、せっかくなので学園外に遊びに行く事にした。
百貨店や服飾店などをあれこれ物色し、今度トレーナーと遊びに出た時にねだるものを頭の中にメモしてから帰宅。
─────やっぱりねえ、持つべき物は身体を労ってくれる優しいトレーナーだよ。
のんびりとベッドに寝転がりながら、彼女は同室のウメノチカラにそう語ってみせたという。
シンザンには案の定『サボり癖』がついた。
そんなある日。
「おい。お前のトレーナーが理事長室に呼ばれたようだが、何か心当たりはないのか?」
お前に関わる何かではないのかと、シンザンはウメノチカラからそんな報告を聞いた。
◆
「よく来たね」
座ってくれ、と。
理事長室の扉を開けたトレーナーを迎えたのは、つば広の帽子と空色のタイトなドレスを纏った暗褐色の髪の女性。その
応接用のテーブルとソファに通されたトレーナーは、自分の芯の部分が石のように固まっていくのを感じていた。
あまり良い話をされる予感がしない。
呼び出された時から感じていた予感は今も段々と膨れ上がっている。
トレセン学園で3番目に怖い女がコダマなら、1番目と2番目は目の前にいる彼女達だ。
ドレスの女性は眉雪の女性がテーブルに置いたお茶に口を付けるよりも早く、まるで天気の話でもするかのように切り出した。
「今日ここにキミを呼んだのはね。キミには彼女ではなく、他のウマ娘を担当してほしいからなんだ」
トレセン学園理事長・秋川さつき。
そして理事長秘書・
敬意と共に恐れられる学園の統治者は、トレーナーが重ねてきたものを実にあっさりと崩しに来た。