そして翌日紙面を賑わせたのは『カネケヤキの桜花賞制覇』と『プリマドンナの負傷・復帰時期未定』の2つの見出し。
鮮烈に明暗の分かれた2つの報せは、クラシック戦線の栄華と過酷さを何よりも鮮烈にウマ娘達に思い知らせる事となった。
勝者と敗者、苦難の足枷。残酷なコントラストに彩られたバトンは、そして王道路線の選択者たちに受け渡された。
奮い立つ者に恐れる者。
抱いた感情はウマ娘それぞれだろうが、よもや「面倒臭い」と感じている者は流石にいるまい。
『はいワン・ツー・ターン! 笑顔が固い! 動きが緩慢!! 指の先まで気を抜かないっ!!』
『んぇぇぇええええ!!!』
「今日も汚いなぁ・・・・・・」
いた。
ダンスレッスン用の教室から漏れ聞こえてきたシンザンの鳴き声に、ドアの前まで様子を見に来たトレーナーは1つ頷いてその場を去る。
前にセンターの振り付けしか練習していない事をトレーナーが咎めたにも関わらず、それを改善する気配が無いことをコーチから伝えられたトレーナーがとうとうコダマにタレ込んだのだ。
今はバックダンス用の振り付け、要するにレースの結果が4着以下に終わった時のポジションを教わっているらしい。
彼女は自分が『無駄』と感じた事をしない。
一生踊る事のない振り付けを覚える意味が分からないと頑なだったシンザンだが、
そして開催まで2週間を切った大舞台を前にトレーナー室で追い切りメニューの調整をしていたところ、ノックもなくそこそこ大きな音でドアを開けて入ってきたウマ娘がいた。
誰あろうシンザンである。
普段はレッスンが終わるとぐったりと寮へ直帰するそうだが、そろそろ腹に据えかねるらしい。
つかつかとトレーナーに近付いてきたシンザンは、何とかやり過ごせないかなあと気付かないふりをする彼の肩を掴んで振り向かせる。
「トレーナーさん。すぐにコダマさんにもうレッスンは必要ないって言いな。負けた時の想定なんてあたしにゃやる必要も意義もないだろうがよ」
「無茶を言うな。怒られたのは俺だって同じだぞ。自主性に任せるのはいいが1歩間違えれば放置と変わらないって。それも5つ以上歳下の
「あんた正月に言っただろ。忘れたとは言わせないよ。『お前が自分の天運を信じるなら、実力は俺が担当する』って。・・・・・・あんたが担当したあたしの実力は、3着にも入れないかもしれない程度でしかないってのかい?」
・・・・・・非常にシリアスな物言いだが、問題の根っこが「もうレッスンやりたくない」なのだから締まらない話である。
非常に微妙な顔をしていたトレーナーだったが、しかしそれを言質に取る論法で来るのなら引く訳にはいかない。
ずいっと顔を寄せて詰めてきていたシンザンに逸らしていた目線を合わせ、トレーナーは冷たい石のような声で彼女に突きつける。
「お前達はプロだ。ファンの方々がお前達に最高の姿を望んでいるのなら、走りでもライブでもその期待に足るものを魅せる義務がある。
そこに綻びがあってはならない。競走ウマ娘だけじゃない、どんな場所に立ってもその場所での最高をいつでも発揮してみせるのが一流というものだ」
「発揮するに決まってるだろ。だからこんな無駄な事させんなって話をしてんだよあたしは」
「その傲慢さはお前の強さだ。だがそれは少し踏み外せば怠慢に変わる。お前のように
お前がどれだけ『自分は別だ』と考えていて、たとえそれが事実だとしても────俺が担当する実力に、そんな弛みは許さない」
『驕ること』と『舐めること』は違う。
舐めた言動は内面を腐らせ、腐った内面は言動を変えるのだ、と。
今まで自分の気性を尊重してきたトレーナーの初めての説教にシンザンは思わず怯んだようだった。
シンザンを聞かせる体勢にしたところで、トレーナーは彼女の要求に対する答えを整然と述べた。
「無駄だ何だの話をするなら、サボった結果こんな状況になる方がよっぽど無駄だろう。ダンスが仕上がればコダマのレッスンも終わる、真面目にやってさっさと仕上げなさい。幸いお前は要領が良いんだから」
「・・・・・・はーい」
少なくとも反論は無いらしい。しかしやはり不満は残るのか不承不承といった様子で唇を尖らせるシンザンに、トレーナーは少しばかりのフォローを入れる。
「もし不満ならそうだな、これからもレースに勝ってセンターに立ち続けてくれ。それを最後まで貫き続けたのなら、俺はお前に誠心誠意頭を下げよう」
「言ったね?」
部屋を出ようとしていたシンザンが足を止める。
歩く途中で急停止して片脚立ちで仰け反るようにして上半身をトレーナー室に留めた彼女は、気に食わない目の前の男をジトッとした眼差しで睨みながら人差し指を向けた。
「吐いた唾呑むんじゃないよ。この大舞台でまず1回、
そんな台詞を残してドアが閉まった。
期待してるよとドア越しに言葉を投げたトレーナーはちらりと時計の時刻を確認する。
もう寮の門限が近い。自由に出来る時間がないというのは確かに彼女には自業自得とはいえかなりのストレスだろう。これを機に今後のレッスンはサボらずやってくれるといいのだが。
さて、とトレーナーは仕切り直すように机に向き直る。
弛みは許さないと言ったからには自分も気を抜いていられない。
センターに立ち続けた彼女に頭を下げるのは、ひいては自分の理想・目標になるのだから。
「・・・・・・火を着けるのが上手いねえ。相変わらず」
口角を面白そうに曲げながらそう独り
来たるその日まで1週間と少し。
ここ最近よりは軽い足取りで、シンザンは日の沈みかけた寮までの帰り道を歩いていった。
「よう。担当の調整の具合はどうだ?」
「上々だ。コンディションに懸念すべき点はない」
「自分もやれる事は全部やりました。後はあいつを信じるだけです」
普段は友人。レースではライバル。
その関係はウマ娘だけに止まらない。大一番を前に力を尽くすのは彼女らのトレーナーとて同じ事。
パドックに現れた1枠1番のウマ娘、自分の担当の前に立ち塞がる強敵の1人を、トレーナー達は鋭い面持ちで見据えていた。
4月19日『皐月賞』。
ティアラ路線の桜花賞に続く、
『最強』の座を夢に抱いて心を燃やすウマ娘たちが刃を交わらせる最初の舞台が、とうとう幕を開けた。
◆
「いやあ、初めて勝負服を着たウマ娘が上がるパドックはやっぱいいもんだな! 張り切ってるのがこっちにまで伝わってくる」
「ああ、誰が勝つか全く予想がつかん。あの気迫は全員に可能性があるだろう。人気は低いがバリモスニセイもひょっとするかもしれないぞ」
「13番人気は流石に無いだろ。メイクデビュー以降勝ち切れてない勝負ばかりだし、やっぱりここはシンザンで決まりだよ」
「ちょっとアイツしばいていいっスか」
「落ち着け
聞こえてきた会話の主に舌打ちと共に詰め寄ろうとした佐竹を古賀が止めた。
ギャラリーが増えれば口さがない者も多くなる。そういう相手への対処法を身に付けるのもトレーナーの通過儀礼のようなものだが、腕はあっても学園のトレーナーの中ではほぼ最年少の佐竹はまだ精神的な未熟さが残っているようだった。
「後は信じるだけと自分で言ったろう。目に物見せるのは彼女の役割だ、熱くならずに構えてろ」
「・・・・・・はいッス」
「分かればいい。とはいえ気に食わない気持ちはよく分かるぞ? もうどこで聞いても、この皐月賞はシンザンの話で持ちきりだ」
皮肉げな顔で周囲を見渡す古賀。
声が集まって一塊となった音の中からでも『シンザン』という名前は聞こえてきた。
ここまで無敗の5連勝、破竹の勢いでスプリング
例えばシンザンに対して前走のスプリング
例えば13番人気という下馬評をこの大一番で引っ繰り返し己の力を証明せんとするバリモスニセイ。
誰も彼もが眼光と立ち姿で気炎を吐くパドックで、
勝負服姿でのっそりと現れたと思えば降り始めた春の小雨の風情を楽しむように空を見上げ、そして思い出したように観客たちにゆるゆると手を振り、適当に腕組みのポーズをしてみせてからのっそりと退場していった。
『・・・・・・牛か?』
あまりにも落ち着き払ったその様子に、観客の誰かがそう呟くほどだったという。
「あそこまでパドックで異彩を放つウマ娘はいない。少なからず緊張するものなのに、あの肝の太さは大したもんだ」
「あれは自分が勝つのが既定路線と思ってるやつのリラックスですよ。・・・・・・前から気になってたんですが、レース前に一体なんて声を掛けてるんですか?」
そう聞かれたトレーナーは思い出す。
パドックに上がる前、控え室のイスで鼻歌でも歌いそうなほどにゆったりとしていたシンザンの様子。
強張りは無く緩んでいる訳でもない、ベストパフォーマンスを確信できるコンディションだった。
もはや自分が気を揉む事はなく、ただ「行ってこい」と送り出すのみと思われたその時、シンザンの方からトレーナーに会話を持ちかけたのだ。
『トレーナーさん。そういやあたし、前から気になってる事があってさ』
『っ、どうした?』
思わず身構えた。
シンザンの気になっている事というのが何かは分からないが、もし質問の答え方によってはレース直前にブレが生じるかもと考えると気楽ではいられない。
自分よりも神経質になっているトレーナーに対して、シンザンが問いかけた心の
『なんで
『創設された当初から2回名前が変わって今の「皐月賞」になったんだが、レースが初めて開催されたのが4月の事でだな・・・・・・』
「・・・・・・普段通りの雑談だよ。元々あいつが図太すぎるだけだ。俺は何もしていない」
またそれだ、と言いたげな佐竹の不満顔。
もしやその雑談の内容と言葉選びに秘密があるのではと更に探りに行く姿勢になっている彼だが、そう答えたトレーナーの目がどこか遠くを眺めているのを古賀だけは理解していた。
(成る程、こりゃいい。一足先にケヤキが感じたのはこれだった訳だ)
隙間なくひしめく観客の数。
色とりどりの己の象徴を纏った出走者達。
そして胸を満たす高揚。
挙げる全てが普段とは別格、オープン戦とは比にならない『八大競走』の熱気を、シンザンは小雨に立ち上る芝と土の匂いと一緒に胸一杯に吸い込んだ。
特に『勝負服』だ。
これを全員が着ているというのがいい。
着ているだけで溢れるこの全能感を全員が感じているのが最高だ。
そんな奴らと一緒に走れば自分は絶対に楽しい。
期待に胸を躍らせながら、シンザンは共に走る友人2人に朗らかに声をかけた。
「ウメもニセイも難しい顔してんじゃないよ。せっかくの舞台だ、思い切り楽しもうじゃないか!」
その言葉にどう答えたか、2人は覚えていない。
ああとかうんとか、そんな返事をした気がする。
頭に残らなかったのだ。
前に1度見たはずの姿。紋付袴にも似た己の象徴を纏ったシンザンが一瞬、