レース当日の朝、東京レース場。これからダービーが行われる芝のコースに十数人程の人影があった。
それらは皆ダービーに出走するウマ娘のトレーナー達であり、無論その中にはシンザンのトレーナーの姿もある。
彼らの目的は芝の状態の確認だ。
前日の土曜日の朝に降った雨を気にしているのだ。
空を見れば雲は気持ちよく晴れており、レース時の天気の方は問題ないだろう。公式発表でも一応は「良」と出ている。
しかしこういうものを一度気にし始めるとキリがないという用心深い者達や自分の目で確かめる事を信条とするベテランが、こうしてレースの始まらない朝の内にコースを歩いているのだ。
そして彼らの判断は正しかった。
「これ、は、見に来て正解だったな・・・・・・」
「ああ。これは突っ込ませられんぞ・・・・・・」
これがあるから自分の目で見る事が大切なのだ。
バ場状態を良と判断した公式発表に仄かに苛立ちつつトレーナーと横にいた古賀が呻く。
よりにもよってスパートを掛けるだろう場所がこの状態だ。場合によっては作戦の変更を余儀無くされるウマ娘もいるだろう。シンザンの枠番は4枠10番と中央に近くインコースの回避は比較的容易なため、走り方を大きく変更する必要はなさそうだが。
(ウメノチカラは辛いだろうな・・・・・・)
「見ろ、このインコース。とても走らせられん」
「よりにもよって経済コースがこれッスか」
佐竹や他のトレーナーにも同じ事を言って回っている古賀を見ながら彼は思う。
ウメノチカラの枠番は1枠1番の最内だ。ひとたびバ群に呑まれてしまえば彼女は為す術もなくこの不良バ場に突っ込む事になる。
しかしだからといって何もしない。
自分の担当ウマ娘の勝利が第一。
故障しろなどとは思うはずも無いが、ライバルが抱える不安材料はどれだけあってもありすぎという事はないのだ。
脳内でシンザンに伝えるべき懸念点などを纏めつつ直線の坂の下まで歩いてくると、芳しい香りが匂ってきた。
薔薇の花の香りだった。
(親父なら一句詠みそうなところだな)
胸に過った風流心にふと俳諧を嗜む父を想う。
自分の家で打った独自の蹄鉄で大活躍するシンザンをいたく気に入ったようで、皐月賞を獲った後にも彼女の勝利を祝う句を送りつけてきた。
インタビューの際についそれを見せてしまい月刊トゥインクルに父親の句がそのまんま紹介された時は苦笑したが、何ならもう一句詠ませてやろうという気概はある。
(勝てるはずだ。シンザンなら、必ず)
不安を押し潰すように強く想う。
運命の時までもう2時間もない。
彼の後ろでは、まだ古賀が他のトレーナーを捕まえてインコースの不良ぶりを説いていた。
◆
芝の上に立てばそこは彼女らの世界。
トレーナーの仕事の仕上がりはトレーナー自身が控え室で確かめる。
無事最高のコンディションで当日に臨んだシンザンが、勝負服姿で椅子に
大一番を前に鼻唄すら歌う彼女はまるで海にでも遊びに来たかのような風情で、気負うものなど何も無いとばかりに目を閉じて微かに届いてくる騒めきに耳を澄ましていた。
「いいね。皐月賞よりずっと人が多い。どのくらい来てるんだい?」
「8万7000人。東京レース場の入場者レコードだ。それだけの人がお前の二冠目に注目してる」
「前のレコードはいつ?」
「・・・・・・4年前。コダマのダービーだな」
「んんー」
絵に描いたようにご満悦なシンザン。
既に彼女の頭の中にはダービーのレイを肩に掛け勝ち名乗りを上がる自分の姿が描かれているのだろう。
これがこれまで自分が担当してきたウマ娘なら一言ピシャリと喝を入れる所だが、シンザンの場合はこれでいい。これが彼女のコンセントレーションだ。
だから自分がやるのは1つだけ。
レースに対する真剣さを引き締めてやる事だ。
「油断するなよ。人気上位は
全員がお前にリベンジを誓ってる。気を抜いてると足元を掬われるぞ」
「ちょっとちょっとトレーナーさん。あんた今まであたしの何を見てきたんだい」
「レースに絶対は無い。お前の事はデビュー前から見てきたが・・・・・・
ふうん、と鼻を鳴らすシンザン。
まだその段階なのかと仄かな失望のニュアンスが含まれていたが、トレーナーに動揺が見られないのを見て「頑固だねえ」と彼女は肩を竦めた。
最近こういう試すような行動が増えてきた気がするなとトレーナーは思う。自分が二つ返事で彼女の勝利を肯定するように『教育』しようとしているのかもしれない、とも。
そうはいかない。
ウマ娘の才能に殺されていてはトレーナーなどやっていられない。
やがて本バ場入場の時間になった。
控え室から出ればもうトレーナーの出番はない。
最後に一言添えて送り出そうとドアを開けた時、目に入ったのはチームメンバー全員から激励を受けるウメノチカラだった。
「いける、勝てるよウメちゃん!」
「胴上げの練習はバッチリっす!」
「1番人気喰っちまえよセンパイ!!」
ハクズイコウらに続いて古賀が咳払いをした。
腕を組んで胸を張り、地下馬道に響き渡る大声でウメノチカラの背中を叩く。
「トレーナーとして断言する! 今日は間違いなく勝てる!! 今日のお前は! 最高だッ!!」
「─────はい!!!」
彼に負けない程の声量で応えるウメノチカラ。
トレーナーだけでなくメンバーにも恵まれたか、気力・身体共に充実している事が分かる。
チームからの声援を背に昂然と胸を張って歩くウメノチカラはすれ違いざまにシンザンを鋭く見据えてそのまま去っていく。
梅の木が描かれた片肌脱ぎの勝負服と黄色と赤のスカーフを靡かせる彼女は、もはや言葉は不要だと、今日自分はお前に復讐を果たすと気迫で語っていた。
「うん、うん。そう来なけりゃあつまらない」
深い笑みを浮かべるシンザンの後ろでトレーナーが古賀と火花を散らす。
仕上げは完璧、後は結果をご
ウマ娘達がレースによって覇を争うように、彼らには彼らの土俵があるのだ。
─────トレーナーの領分はここまで。
後はもう彼女達の世界だ。
ウメノチカラに続いて本バ場へ歩く松を背負った紋付袴に、トレーナーは仕上げの一言を贈る。
「シンザン。最後にひとつだけ」
「うん?」
「腹を括って勝ってこい。重いぞ、2個目の冠は」
無責任な事は言わない。教育などされない。
そんなものをされるまでもなく、担当ウマ娘の勝利を信じないトレーナーがどこにいる。
必要な事だけ伝えて去っていくトレーナーに少し遅れてシンザンも再び先に進んだ。
すると目の前に芦毛のウマ娘が立ち塞がった。
眦を吊り上げて耳を絞るその様は並々ならぬ怒りを顕していた。
「シンザン。私を覚えてるでしょ」
「うん」
「今度は手を抜いたなんて言わせない。このレースであんたを完膚なきまでに負かして! 私の方が強いんだって分からせてやるから!!」
そう言い放って彼女は出口へと去っていった。
まるで本バ場に入るのも私の方が先だというような後ろ姿に、シンザンはぽつりと呟いた。
「・・・・・・誰だっけね、あの子」
思い出そうとしてやめた。そんなどうでもいい事を考えている暇は無かったからだ。
やれやれ、とシンザンはこまっしゃくれた幼子に向けるような顔をした。
言われるまでもなく自分の勝ちを確信しているなら最初からそう言えばいいのだ。
トレーナーとしての役割もあるだろうが、忠告という回り道などせずとも良いのだ。
「コダマさん。今日であたしはあんたに並ぶよ」
喉の奥から笑いが漏れる。
このレースが終わった後、自分が尊敬する彼女はどんな顔をするだろう。
大歓声と称賛に囲まれる自分を見て、彼はどんな顔をするだろう。
喜びか、優越感か、それ以外でも何でもいい。
欲した全てを差し出されれば、両手を上げて自分の全てを肯定する。
「トレーナーさん。あんたの栄光を持って帰るよ」
自分が栄光に向けて歩くのではない。
まるで栄光が自分に向けて歩いてくるのだとばかりにシンザンは両手を広げて地下馬道の出口を潜る。
トンネルに遮られていた人々の音と日の光が、抱擁するかのように彼女を包み込んだ。
◆
「さて。当日だけど自信の程は?」
「「「シンザン(ウメ)(ニセイ)が勝つ」」」
「そう言うと思ったわ」
分かりきった返答だった。同時に断言した古賀と佐竹とトレーナーに、桐生院がこれといった感情もなく言葉を返す。
「やれる事は全てやりました。負けないッスよ、アイツは」
「芝の状態や警戒すべき相手は伝えたが、後はシンザン次第だな。メンタルも好調、後は力を出し切るだけだ」
「ハッハッハ甘いぞ佐竹にチカミチ! 俺達は出走直前まで勝つ為のベストを尽くしてるからなぁ!」
「貴方達が尽くしてるベストってあれ?」
呆れた顔で桐生院が見るのは観客席の最前列に齧り付くチーム《スピカ》の面々。
全員が両手の平をウメノチカラへと突き出して「勝てぇぇぇええ」と呪詛のような念を送っていた。
チームメイトの勝利を祈念するのは当たり前だし、かつてダービー前に神社を巡って願掛けした身としては微笑ましくもあるのだが、あれは果たして彼女の勝利に寄与するのだろうか?
真剣な面持ちで精神を研ぎ澄ましている最中にうっかり目撃してしまったウメノチカラが思い切り噴き出している。
とはいえ、成程。確かにこれは古賀のチームだ。
「『人事を尽くして天命を待つ』、か。・・・・・・ここまで日本ダービーを的確に言い表す言葉もないな」
皐月賞は『最も
フルゲートで行われる大人数の大レース故に、ひとたびバ群に呑まれようものならそこから勝つのはまず不可能と言っていいからだ。
加えて出走資格のハードルと倍率の高さ。
この何百人という夥しい数の淘汰を勝ち抜いて1着を掴み取ったウマ娘は、確かに豪運と呼ぶべきウマ娘だろう。
だが、しかし。それにしても。
トレーナーは後ろを振り返って観客席にひしめく人々を眺める。
これだけの観客が集まったのは決してシンザンの注目度によるものだけではない事をトレーナーは理解していた。
東海道新幹線に首都高速道路網、4年に1回の祭典を控えて昼夜兼業の工事が進む、高度経済成長計画のもとに組み立てられた数々のロマン。
一般にはあまり浸透していなかったウマ娘のレースが、潮のように押し寄せる熱狂を受けて国民的なイベントに生まれ変わろうとしている。
そして今日この時、強さと時代が揃った。
レースの世界に訪れた過渡期に、シンザンというウマ娘が現れた。
いかに時代が熱くともウマ娘の強さが生半可では激流に呑まれて消えるだけ。
いかに強いウマ娘でも時代の熱が下火ではその名は日本に轟かない。
シンザンが
「・・・・・・『最も運のいいウマ娘が勝つ』、か」
二冠目のレースの格言をぽつりと呟いて。
熱に浮かれたどよめきの中、トレーナーは芝の上に立つ赤と黒の紋付袴を見下ろした。
叫ぶ実況。沸き上がる大歓声。
詰めかけた全員が新たな『時代』を待っている。
自らにその期待を背負う膂力があるのかどうかを、彼女達はもう間もなく己の脚で証明するだろう。
レースの名は『
緑に光る芝の上、日の丸が如き闘志の炎が赫赫と天に立ち昇る。
『注目のウマ娘を紹介しましょう!皐月賞では2着と好走、3番人気アスカ! 前走のNHK盃は6着なれど気合充分、待望の勝利を掴めるか!!』
『2番人気はウメノチカラ!! 同じく前走のNHK盃で優勝をもぎ取った勝負根性が今日も発揮されるのか! 皐月賞ウマ娘へのリベンジにジュニア級チャンピオンが燃え上がっております!!』
『そして! ここまで圧倒的な勝率を誇ります皐月賞ウマ娘シンザン堂々の1番人気!! 確信している己の勝利を泰然自若と見据えます、宣言通りの三冠目指して! さあ見せてくれナタの末脚!!!』