集団から抜け出た梅の模様が加速する。
先頭を駆けていたサンダイアルをあっという間に射程圏内に捕らえた彼女の姿に全員が目を疑った。
何故なら彼女が選んだルートは最内。レース前にトレーナー達全員が担当ウマ娘に通らせるべきではないと判断したルートなのだ。
誰も通ろうとしなかった
「おっ? これはツイてるぞ。まさか仕掛けどころの経済コースがガラ空きとはなぁ」
「いや、ちょっ、え!? あそこ通らせられないって言ってたの先輩っスよね!? 何でウメノチカラ普通に走って────」
「おい古賀。お前
狼狽える佐竹の向こうから低い声でトレーナーが睨み、素知らぬ顔で古賀は口笛を吹く。
トレーナーの方を振り向いて真意を問おうとした佐竹もそこで気が付いた。
レースが始まる前に古賀はコースの下見に来たトレーナー達を捕まえては内側の道の悪さを説いていた。
それにしてもやけにバ場の悪さを強調しているのは気になったが彼の担当ウマ娘も末脚を武器としているため、それだけ勝負所のコンディションが悪いのが気に食わなかったのだろうと思っていたが違う。
古賀は全員を誘導していたのだ。
バ場の悪さを刷り込まれた彼らが、自分の担当ウマ娘にそのルートは避けろと伝えるように。
自分の担当ウマ娘が、走るべきルートを悠々と走れるように。
「実際に芝の状態は悪かったから全員がそのルートは避けさせた。だけどそれは走りのロスに繋がるからだけじゃない、全員が『危険だ』と判断したからだ。
あの泥濘であのスピードは転倒すら招くぞ。
確かに勝つ事は大切だ。けどその判断は彼女の身を軽視してるんじゃないか!?」
「何だチカミチ、
それに俺は危険な事をさせてる気はないぞ?
走れるように鍛えたから行かせたんだ。
悪路がどうした。そんなもの彼女の敵じゃない」
『オンワードセカンドとナスノカゼが出て参りました! しかしサンダイアル粘っている! そしてインを突いてはウメノチカラであります! ウメノチカラが最内から襲い掛かってまいりました!』
佐竹は己の未熟さを突き付けられたように感じた。
自分がここまで尽くしたと思っていたベストは最高とは程遠いものだったんじゃないか、そう考えてしまう程に尊敬する先輩の自負と担当ウマ娘に対する信頼は大きい。
ついさっきトレーナーを煽った文言をそのまま引っ張ってきた古賀は、したり顔で顎髭を撫でていた。
「出来る事を全てやったなら後はドンと構えて信じりゃいいんだ。仕上げに自信がないからそう不安になるんじゃないか?」
容易い道ではない。
一歩一歩に通わせた神経が僅かでも綻べばたちまち足を取られて失速、下手をすれば転倒するだろう。
だが出来る。自分は
意識の中から音は抜け落ち、荒々しく燃える眼光が尾を引きながら後ろに流れていく。
今こそ応えよう。
両親の、チームメイトの、トレーナーの期待に。
己の勝利を願ってくれる人々の想いに。
─── 雪魄氷姿。
雪を押し除け花開くようにウメノチカラは時代の舞台へと上がる。
万感の想いを胸に抱き、彼女は今"忘我"に至った。
『さあウメノチカラが捕らえた捕らえた! サンダイアルを交わしてウメノチカラ先頭に立ちました!オンワードセカンドを押さえてぐんぐん差が開いてまいります!!
さあ残り400メートル、抜けた抜けた一気に飛び出してウメノチカラ先頭─────!!』
(嘘、でしょ・・・・・・!!)
上り坂で脚を使い切ってしまい下がってきたナスノカゼを交わしたヤマニンスーパーが、見る間に小さくなっていくウメノチカラの背中に絶句した。
最短距離かそうでないかの差もあるだろう、しかし仕掛けたタイミングは殆ど同じだったはずだ。
なのにこの差。ここまでの差。
NHK盃では同じ場所でアタマ差で競り合ったはずの敵が遥か前を走っている冷酷な現実に、ヤマニンスーパーは呼気に混ぜて血を吐くように叫ぶ。
「あの時は本気で互角だったのに・・・・・・っ、どこからその脚、引っ張り出してきたの・・・・・・ッッ!!」
場内が沸いた。
ただ1人悪路を選んだ彼女が覚醒する瞬間を目の当たりにした人々の歓声が坩堝のように渦を巻く。
────逆襲なるかウメノチカラ。
観客の胸にそんな期待が膨らんでいく。
誰よりも疾く駆け抜ける彼女の姿に、さしものトレーナーも目を見開いた。
「信じられん。カネケヤキだけでなく彼女もあそこに至ったのか」
「ああ、音が消えていく感覚がしたと聞いた時は耳を疑ったぞ。断言できる、俺のここまでのトレーナー業の中で1番の仕事は彼女のトリガーを見付けた事だ!!」
「いっけーーーー!!ウメ先ぱーーーい!!!」
「そのまま行っちまえーーーー!!」
「ウメちゃーーーーーーん!!!」
最前列で叫ぶチーム《スピカ》。
握った拳を震わせる古賀。
自分が担当するウマ娘が時代を象徴する器を示した瞬間を目撃したのだ、栄光はもうすぐそこにあると彼が確信するのは当たり前の事だろう。
今に彼女の願いが叶う。
熱望した勝利と復讐は今日、遂げられる。
掻き消してくる歓声には負けんとばかりに拳を掲げて大声を張り上げた。
「1着は貰った!! 突っ走れ!! もうすぐお前が日本一だ──────ッッ!!!」
一歩一歩が走るのではなく飛ぶ、まるで脚に翼が生えたような自分の走りをウメノチカラは静かな世界で感じていた。
邪魔する全てを抜き去った自分の前には何者も存在せず、自分の後ろから追いついてくる者もいない。
これは勝つ。自然にそう思った。
今まで感じた事のない底力を掌握した自分こそが最強であると、ウメノチカラはそう確信していた。
それは唐突だった。
「それはどうかな?」
雷が落ちたか地面が揺れたか、ドン!!!!!という轟音が背後から聞こえてきた。
音すら排除された自己の世界にまで届く何かの存在を感じたウメノチカラは咄嗟にそちらを振り向く。
・・・・・・いや、本当は振り向くまでもなかったのかもしれない。
ただこの目で見たかったのだ。
知る限りでは誰より強く、そして間違いなく此処に至る好敵手の姿を。
「勝ったと言うにはまだ早いぞ。確かにウメノチカラは素晴らしいウマ娘だ。けどここまで他の追随を許さない力を示し続けてきたシンザンも同じ領域に辿り着いていると考えるのが自然じゃないか?」
「! シンザンも入口を見付けてたのか!? もちろん彼女もその器だって話には何の疑いもない。だが今までのレースやトレーニングの様子も注視してたが、そんな様子は何一つ無かったぞ!」
「ああ、特に何かを掴んだ様子はない。何せウメノチカラとは対極の不精者だからな、今がようやく入口といった所だろう。
・・・・・・だけど、やはりシンザンは天才だ。見ろあの顔を。彼女は闘争心の極限じゃなくて────ただ楽しむ事で"忘我"の領域に指を掛けてるんだ!!」
トレーナーの背筋に震えが上っていく。
数年前にも感じた予感。時代が変わる確信。
呼応するようにシンザンのボルテージが上がる。
やはりあいつが、あいつこそが要。
自分の栄光の道を彩る最も大きく綺麗な華。
前を行くその背中を見据える自分と巨大な気配に振り返ったウメノチカラ、2つの視線が激突した瞬間に未知の力が脚に漲るのをシンザンは感じた。
思考は要らない。ただその衝動の命じるままに、シンザンはその力で強く強く地面を後ろに蹴り飛ばす。
「さあ! ウメ!! 遊ぼう!!!」
「勝負だ!! シンザン!!!」
チリチリと火花のような光を瞳から散らしてシンザンは叫び、呼応するようにウメノチカラは吼える。
地に伏せた龍が微睡みから薄く瞼を開くのを感じたウメノチカラ。彼女の目に映るシンザンは、とても楽しそうに笑っていた。
ウマ娘の末脚とはどういうものか。
レース的な意味としてはゴール前の最終直線における最後の加速の事であり、身体的な意味としては脚そのものの性能を指す。
速さは勿論のことスピード勝負の過負荷や長丁場の疲労にも負けない持久力や、そこから加速する瞬発力。
高いレベルでそれらを備えた脚を持つウマ娘が末脚が
具体的にイメージし辛いなら、いま目の前を走っている2人を見れば理解が早いだろう。
ウメノチカラとシンザンは、それだけ別格だった。
『シンザン来たシンザン来たシンザン来た!! オンワードセカンドとヤマニンスーパーの間からシンザン抜けて参りました!! アスカはどうだ伸びないか!! ウメノチカラは先頭で粘っている!!』
歯を食い縛って脚を回すが前との差が詰まらない。
自分が加速していない訳じゃない。ただ前の2人が速過ぎるのだ。隣を走るヤマニンスーパーと前にいるオンワードセカンドの顔は見えないが、恐らくは自分と同じ顔をしているだろうなとアスカは思う。
その予想は概ね正しい。
間違っている所があるとするなら、
────ここまで来たら駆け引きの段階ではない。
ただ残った全てを出し切るだけ。そして自分はこのペースのまま走り切れる。ならば彼女より先に没入して前に出た分、自分の方が有利。
ウメノチカラはそう思っていた。
「あははははは!」
『伸びてきた、シンザン良い脚を使って伸びて参りました! グングングングン差が詰まる! ウメノチカラの脚色はどうだ! リードはおよそ半バ身!!』
「・・・・・・・・・・・・ッッ!?!?」
加速度的に増していく圧。
極限の集中に割り込む程のプレッシャー。
飛ぶように走り、走るように飛ぶ。そんな理想を体現して
ついさっきまで3バ身は離れていた彼女が、もうすぐ後ろまで迫って来ていた。
「粘れ! 粘れウメ!! 走り切れ!!!」
「ウメ先輩逃げてーーーーー!!!」
観客席からの声援はもう悲鳴に近かった。
それだけウメノチカラは追い詰められている。
自分に何ら不調は無い。まるで自分がルームランナーの上で走っているような錯覚を感じる程に、
自分より後に仕掛けたにも関わらずこの短い区間で自分に追い付く瞬発力と最高速度を維持する持久力。
『ナタの末脚』─────
脳裏に浮かんだ言葉に戦慄が走った。
『さあシンザンが並びかけて参りました! 後続との差はおよそ3バ身先頭は完全に2人のマッチレース!! シンザンとウメノチカラ、シンザンとウメノチカラの熾烈な鍔迫り合いであります!! さあ残り200メートルを切ってここで前に出た、前に出たのは─────』
ふと1年前の事を思い出す。
初めてシンザンと走った最終直線、彼女に抜かれまいと死力を尽くして1着を掴み・・・・・・そして彼女は手を抜いていた事が発覚したあの選抜レース。
もし彼女が真剣に走っていたとしたら、ちょうど今のような展開になっていたのだろうか。
敗北の色に染まりかけた心を、ウメノチカラは気迫で吹き飛ばした。
「あああああああああああッッッッ!!!!」
皆に背中を押してもらった。
沢山の期待を背負ってここに立った。
勝ちたい! 勝ちたい!! 負けたくない!!!
ここまで来て、ここまでしてもらっても駄目だったら自分は──────
楽しい!!
彼女の心を満たすのはそれだけだった。
一歩踏み出す毎に扉が開く感覚がする。
地面を蹴る度に意識から全てが遠ざかっていく。
もしかするとこれがそうか? これがトレーナーの言っていた場所なのか?
時代を創るウマ娘が至るという領域が、いま自分が立っているこの先にあるのか?
それじゃあもっと潜ってみよう。
まだ先がある、まだまだ深い場所がある。
潜って潜って底にあるものを掴めたら、自分の走りは一体どれ程の──────
「おっと。いけない」
呼吸も捨てて走る自分。
その横に並んで追い抜いていく足音。
自分が睨み付けた彼女の横顔は、どこまでも真っ直ぐに前だけを見つめていた。
第31回、日本ダービー。
その最終直線で背負った期待は確信に変わる。
全てのウマ娘を捩じ伏せて名乗りを上げた挑戦者を悠々と超えていくその姿に、人々は熱狂の夢を見た。
断ち切る末脚。鹿毛の大鉈。
彼女の名は──────
──────シンザン。
『
2着にはウメノチカラ、3バ身ほど離れて3着はオンワードセカンド!!
いやこれは強い! シンザンが強過ぎる!! 他のウマ娘を圧倒、まるで寄せ付けませんでした!!
ついに頂点の栄光に王手を掛けました!!