そして知らないところで自分の評価が上がっているシンザンは、理事長室前での盗み聞きから飄々とトレーナー室に帰って鼻歌を歌っていた。
何故なら海。海である。
夏と言えばコレである。
トレセン学園の合宿に正直期待はしていなかった。自身の強化についてではなく主に娯楽的な意味でだ。
近場に走れる敷地や器具を備えて尚且つ多くの生徒達を受け入れられる宿泊施設には限りがあり、そして利用者もトレセン学園の生徒だけではない。そんな中で確保した合宿先に遊べる場所があるかは望み薄だったのだが、海となれば話は違ってくる。
(トレーニングはしんどいからね。楽しいものは近くにあればある程いいんだよ)
そもそもトレーニングは必要だからやるけど好きじゃないというスタンスの彼女である。
事実上決定したようなものではあるとはいえまだ海に行くと正式に決まった訳ではないのだが、シンザンの中では既に浮き輪に乗って波間を漂うビジョンが見えていた。
どれ景気付けにいいものを貰おうと戸棚の中の来客用のお茶菓子の封を切ろうとしたところでトレーナー室のドアがノックされた。
間の悪いタイミングで水を差されたシンザンが唇を尖らせる。
来客ならばトレーナーに用向きのある者だろうが、今この場には自分しかいない。どう応対するかを少し考えて、そして面倒臭くなった。
「誰もいないよー」
『いらっしゃるではないですか』
「あたししかいないよ」
『貴女に用があるのです』
室内にシンザンがいるのを確認した訪問者がドアを開けた。
気品のあるウマ娘だった。
自然体でありながらぴしりと伸びた背筋。耳飾りや薄く乗せたメイクにも過ぎた華美さは無く、その佇まいだけで彼女が高貴な生まれである事が察せられた。
目の前に立たれたら立たれた側まで直立してしまいそうな彼女に視線を遣ったシンザンだが、急須を湯呑みに傾ける手は止めない。
自分にほぼ関心が向けられていない事を悟っても黒鹿毛の彼女は表情を変えないままだった。
「何だい。あたしは今日なにもしないって決めてるんだよ」
「お話したい事が御座います。少々御足労願えませんか」
「話ならここで出来るだろ。無駄足は御免だよ」
「どうしても、でしょうか」
「んー」
たった一音にここまでやる気の無さを込められるのか。自分の価値がお茶とお茶菓子以下と見られている事に黒鹿毛のウマ娘が少し思案するように俯くが、元より『そういう奴』だという噂は耳に入っている。
湯気の立つお茶を啜り始めたシンザンに対して、彼女はその意識に割り込むように少しだけ声を張った。
「私が胸を出しましょう。これで如何でしょうか」
あっさり着いてきた。
学園外の喫茶店、奢ってもらったメロンクリームソーダのチェリーとクリームを別皿に寄り分けているシンザンに黒鹿毛のウマ娘が怪訝な目を向ける。
「・・・・・・何をなさっているのですか?」
「きちんと分けてるんだよ。サクランボはサクランボ、アイスはアイス、ソーダはソーダ。別々のものはちゃんと別々に立ってなきゃならないからね」
「成る程。理解するには私の見識が足りていないようです」
「で、あんたはどちら様? 話とやらよりまずはそっちを聞こうじゃないか」
噂通りに噂以上かもしれない。
名前はそれなりに知られている方だと思っていた黒鹿毛のウマ娘が内心で肩を落とす。
そんな自己認識を持って当然の実績が彼女にはあるのだが、同時にその認識も仕方無いのかもしれないなと彼女は思う。
長い睫毛に縁取られた瞳には、未だ関心の薄さが透けて見えるシンザンが映っていた。
「申し遅れました。私の名前はグレートヨルカ。─────
◆
「ん、あ、あー。そういや聞いた事あるねえ。そうだそうだ、先輩だった」
「ご存知でしたか。以後お見知り置きを」
思い当たったらしいシンザンに少しだけ胸を撫で下ろしたグレートヨルカが軽く頭を下げる。そもそも自分がジュニア級で走っている間にクラシックの冠を獲った彼女の名前を言われて思い出す程度の認識なのがかなり異端なのだが、彼女はもうそこに触れてもしょうがないと判断したらしい。
「ははあ読めたよ。それで有名になったあたしを自分の派閥か何かしらに引き入れようってんだね。でも残念、これっぽっちの奢りじゃあたしは釣れないよ。あたしの底値はとっくの昔に過ぎてるからね」
「いえ、私は学園内にそのような組織を作ってはおりませんので。・・・・・・私が貴女に御足労願ったのは、これから話させて頂く事を貴女のトレーナーに聞かれてしまうと少々角が立ってしまうからです」
ミルクを注いだコーヒーをスプーンで混ぜながら彼女は湯気に乗せるように言葉を溢す。
真剣な眼差しだった。
とりあえず真面目な話が始まる事を悟り口を挟む代わりにサクランボを口に入れたシンザンにグレートヨルカは問いかける。
「シンザンさん。貴女に好敵手はいますか?」
「それよく聞かれるけど、特にこれっていうのは思いつかないんだよねえ。路線が違ったり走るレースが被らなかったりでさ。よく突っかかってきて楽しいのはウメなんだけど、最近はね」
「どうかなさったのですか」
「ずーっと沈んでばっかなんだよねえ。あたしに負けが込んでるからなんだろうけど、負けたくらいであそこまで気落ちするもんかね?」
「・・・・・・彼女にとってはただの敗北ではないのでしょう。その方に如何なる
首を傾げるシンザン。
どこが分からなかったのだろう。ただの敗北ではないとはどういう意味なのか、あるいはウメノチカラの心中がなのか、恐らくは両方なのだとグレートヨルカは察しが着いた。
これは───想像以上かもしれない。
じわりと存在感を強めてきた『強敵』を前に、彼女は静かに居住まいを正す。
「私にも好敵手がいました。レースでは2番人気より下に落ちた事がないような、強敵にして好敵手が」
「へえ」
「初めて戦った東京記念の白星をスプリング
「それがどうかしたのかい?」
「貴女は彼女とよく似ています。性格も考え方も、まるであの時の彼女を見ているとすら思える。故に私には、この先貴女の辿る道も分かります」
彼女がコーヒーをかき混ぜていたスプーンをソーサーに置く。ぶつかり合った金属と磁器が区切るように小さな音を奏でた。
シンザンが口からサクランボの種を出す。
対面の彼女の口から放たれたのは鋭い警句。
呑気に揺蕩う彼女に突き刺して縫い止めるように彼女は強く断言する。
「次の菊花賞。貴女は敗北するでしょう」
少しの間沈黙が流れた。
真剣な面持ちを前にしたシンザンがソーダの上から下ろしたアイスクリームを口に運んだ時、シンザンの敗北を予見した彼女は再び口を開く。
「三冠は確実とすら言われた彼女を殺した毒がその驕りでした。己の力を絶対と信じ、栄光の光に曇った瞳は己を狙う刃を映しません。貴女の双肩に懸かっているものが何なのか、今一度見つめ直すべきかと」
「なんで?」
「あの失望は繰り返されるべきではないのです。世間が二度目の王手に浮き足立つ今、貴女は盤石の足取りで進まなければなりません。まして貴女を差し返そうという好敵手がいるのなら」
「ごちそうさま」
残ったメロンソーダを一気に飲み干してシンザンはグラスを置く。話を打ち切られる気配を察したグレートヨルカだが、彼女が制止するより先に二冠ウマ娘は席を立った。ひらひらと振る手で別れを示し、社交辞令をそのまま形にしたような笑顔で言う。
「ありがと、いい店だね。今度また来てみる」
ドアのベルが鳴る音だけを残してシンザンは去った。胃袋から逆流して口から出ようとする炭酸を手で抑えながら窓の向こうへと消えていく彼女を目で見送り、一人残されたグレートヨルカは手付かずのコーヒーを口に運ぶ。
どうやらこれ以上の話は無駄と判断されたらしい。
(せめて何故こんな話をしようと思ったのか、疑問には思って頂きたかったのですが)
舌に残る苦味を乗せて嘆息する彼女だが、しかし原因は自分にあるなと思い直す。
初対面の相手にいくら何でもずけずけと言い過ぎた。彼女からすれば見ず知らずの先輩にいきなり説教を喰らわされたのだ、適当な理由を着けて退席するのは自然な流れとも言える。
自分の思慮の至らなさに口をへの字に曲げるグレートヨルカだが、そこでふと自分自身に疑問を抱いた。
───なぜ自分はこうまで一方的に喋った?
彼女を諫めようとしたのはそうだが、そもそもなぜ面識も義理も無い相手を連れ出してまでそうしようと? なぜ自分はああも感情的な語気で─────
「ああ。成る程」
しばしの黙考の後、彼女は答えを見つけた。
その肩に懸かっているもの、繰り返してはならない失望。全ては自分が口にした事。
あれこれと持って回った言い方をした割には、自分を動かした想いの正体は実に単純なものだった。
「私は、怒っていたのですね」
勝ちたいと思った。
この女は試練だと、この女を倒さなければ自分の栄光は無いと拳を握り締めた日々。誰も隣を走れないあの強さは超えるべき壁にして自分の憧れで、そして誇りですらあった。
だからそれが壊滅する様に耐えられなかった。
三度の逆襲を誓った好敵手が慢心の脂肪に脚を引かれて沈んでいく様は今も鍋底の焦げのように記憶に残っている。
勝負としては自分は逆襲を果たした。
しかし、こんな筈ではと歪んだ横顔を追い越して、ただ自滅していった者を相手に晴らした雪辱に何の意味があったのか。
クラシック最後の冠を争うレースを走る自分の胸の内にあったのは、今までの自分の悔しさや努力それら全てを無為にされたような怒りと虚しさだった。
それだけは繰り返して欲しくなかった。
彼女は強者として君臨し続けるべきだと思った。
全霊を以て斃さんとする復讐者の執念に十全に応え得る、圧倒的な存在として。
『ウメノチカラ』。
シンザンに逆襲を誓う彼女は今も牙を研ぎ続けているだろう。骨身に染みて思い知らされた力を、ともすれば自分の中で実物よりも大きくなった
────
それがグレートヨルカの心情であり願いだ。
「どうか十全の走りをなさって下さい。ゴール板を過ぎた後、好敵手から罵声を浴びる事のないように」
空っぽになった対面の席。かつての『彼女』がいたはずの場所。
届かない言葉をそれでも綴り、グレートヨルカは少し冷めたコーヒーを口に運んだ。
「もうちょっと黙って聞いてればよかったかねえ」
そうしたらもっと奢って貰えたかもしれなかったのに、と自分の反射的な行動をシンザンは少しだけ後悔していた。
必要無い事はやらない、しかし何だかんだでトレーニングと一緒だ。『いいこと』は我慢の後に来る。これからはもっと先を見据えた損得を考えるべきかと彼女は学園への帰路をのんびり歩きながら思案する。
それにしても、まだ。
まだ自分を諫めようとする者がいる。
結果を出せば全員黙るとトレーナーは言っていたが予想以上に小心者が多い。そもそもお小言の多いトレーナー自身がもう小心者ではないかと内心思っているが、彼含めて全員を黙らせるにはクラシック二冠でもまだ足りないようだ。
「うん。やっぱ要るね、三つ目が」
頭の中で買い物のリストを作るような調子でシンザンは独り
史上二人目の偉業を成し遂げんという決意表明にしては余りにも軽い物言いだが、その程度の軽さで考えるなら学園に帰った後でトレーナーにどう謝るかを考えていた方が有益だったかもしれない。
何故なら彼女には、淹れかけのお茶と開封しっぱなしのお茶菓子を放置していた事について叱られる未来が既に決定しているからだ。
◆
「うん。状態は分かった。これからプランを組むから、そっちも合宿が始まったらよろしく」
「分かってる。感謝するわ」
シンザンが放っていった湯呑みだ急須だお茶菓子だを机の脇に寄せて交わされる声が二つ。何事かが記された紙の束を受け取ったシンザンのトレーナーとカネケヤキのトレーナーである桐生院翠だ。
会話の内容は不明だが少なくとも明るい話題ではなかったらしい。トレーナーは真剣そのものの顔をしており、桐生院の方も固く口を引き結んでいる。何か大きな覚悟を腹に括った、そんな顔だった。
「・・・・・・桐生院さん。何度も同じ質問をするけど、本気なんだな?」
トントンと紙の束を揃えながら彼は問う。
「俺としてはもっと安全な、堅実な道を選ぶべきだと思ってる。もちろん彼女の意思は尊重したい。だけど俺達の道は」
「一言一句違わず答えるわ。本気よ」
断ち切るように桐生院は言い切った。
「私は彼女の覚悟に添い遂げる。彼女の願いを叶えてみせるわ。彼女達の道を万全に整えるのが私達の道なら・・・・・・彼女達の覚悟に応えるのも、また私達の道でしょう」
そうだな、とトレーナーは肯定する。
再三に渡る確認はただの自分の経験からくる不安によるものだ。
考え直して欲しくないと言えば嘘になる。しかし桐生院の選択は紛れもなくウマ娘に対する『トレーナー』としての大きな決断であり、それに対して口だけで翻意を促せるなどと思ってはいない。
それに自分だって、担当であるシンザンを勝たせる為に彼女の話に乗っているのだから。
目的は決定的に違えているが、自分達はある意味で共犯と呼べるのかもしれないな、とトレーナーは自らのエゴを嗤った。
◆
外は暗い。もう幾許もしない内に寮の門限が来る。
にも関わらずグラウンドには足音が響いていた。
躍動の気配が消え静寂が支配するコースでただ一人芝を蹴る彼女の元にもう一つの足音が近付いていく。
顎髭を無精に生やした彼は、無言で走り続けている彼女の肩を掴んで引き留める。
「戻れ、ウメ。オーバーワークだ」
「・・・・・・走っているウマ娘の肩を掴むなんて何を考えているんですか。下手をしなくても大怪我に繋がりますよ」
「掴んでも問題なかったからだ。自分の状態を把握してるか? どんなペースで走ってるつもりだったかは知らんが、今のお前は人間と同じ程度のスピードしか出てなかったぞ」
そう言われて初めてウメノチカラは自分の疲労を自覚した。意識していなかった筋肉の硬直が一気に現実となって襲いかかってくる。
集中していて気付かなかったのではない、思考が空回りしていたせいで意識に入って来なかったのだ。
やっと自分が限界に達していたことに気付いた彼女に水筒を手渡し、古賀は静かな声で通達する。
「二日、いや三日は休息に充てろ。その時の状態によってはもう少し延長する。お前が今やるべきはトレーニングじゃない」
「不要です。私に休む暇などありません」
「このままだと有効活用するべき合宿すらままならんと言ってるんだ。強くなりたいなら休め。正しいトレーニングを正しく血肉にしたいのならな」
「・・・・・・正しいトレーニングでは・・・・・・」
ウメノチカラは何かを言いかけて辞めた。その代わりに水筒を受け取ってフラフラとした足取りで寮へと戻っていく。
ダービー以降彼女はずっとこうだ。責任感や自責の念、それ以上の何かに駆り立てられるようにして無茶な自主トレーニングを繰り返している。
勝ちたい、ではない。
そんな強迫観念にも似た気配を古賀は感じていた。
(一度面と向かって話がしたいんだが・・・・・・)
今、自分は彼女にどことなく避けられている。
理由を聞いても答えない。
まるで自分には自分しかいないと思っているような態度にチームメイトからも心配の声が上がっている。彼女がダービーでのリベンジにどれだけの熱を捧げていたかを知っているからだ。その敗戦がどれだけショックなのかは察するに余りある。
彼女が自分を無力と責めているのなら、自分は彼女に教えなければならない。
百歩譲ってお前が無力なのだとして、その無力を共に粉砕するために自分はいるのだと。
彼女がレースで滾らせるギラつくような闘争心はまだ死んでいない。
己のすべき事を再確認した彼は、強い眼差しでウメノチカラの背中を見据えていた。
残す冠はあと一つ。
最後の栄冠を前にした彼女達に贈られるのは二ヶ月に渡る時間の砥石。
それぞれの決意と思惑を熱気の中に巻き込んで、トレセン学園の夏合宿が始まる。
シンザンのヒミツ①
実は、外食では和食か定食メニューしか頼まない。
燃え残った全てに火を着けているため筆が滞っております。