一方、順調にトレーニングメニューを消化していたカネケヤキはしっかりとストレッチをしつつインターバルの時間を取っていた。
夏合宿は大幅なパワーアップが見込める時期だが、トレーニング強度の増加により故障のリスクが増す時期でもある。そのため合宿開始から数日は軽めのメニューで身体を慣らしてから本格的に取り組んでいく流れが一般的であり、訳あって慎重を期さねばならない彼女も次の砂浜ランニングを終えたら今日のトレーニングは終了する予定だった。
「具合はどうかしら?」
「大丈夫です。下が砂浜だけあって関節の負担が少ない。ランニングは問題無く行えるかと」
「そう、ならいいわ。だけど少しでも違和感を感じたら即座に報告しなさい。休憩の間に私は取材に答えてくるから、身体のチェックは怠らないように」
そう言って桐生院は記者たちの方へ歩いて行った。
こういった取材などが邪魔にならないようなタイムスケジュールを組むのもトレーナーの仕事だ。桐生院の場合はカネケヤキ自身に対する取材は全てトレーニング後に回すことで彼女のトレーニング中のコンセントレーションを維持しているらしい。
疲労に硬直しつつある筋肉を丹念にほぐしている最中、通りかかった人影が伸びた身体に跨った。
自分を見下ろしているらしい影の主を見上げれば、そこには黒鹿毛で垂れ目のウマ娘がにんまりと笑っていた。
「やー。おつかれー。精が出るねー」
「タッチ先輩!? どうしてここに?」
「みんなのお手伝いだねー。やっぱどこの子も色々と入用であっちこっちから搬入しなきゃいけないモノがたくさんあるからさー、こうして荷運びだったり橋渡しだったりしてるわけよー」
あははー、と気の抜けた調子で答える彼女は『スターロッチ』、カネケヤキの住む美浦寮の寮長である。語気に違わずのんびり屋だが侮ってはならない。彼女は四年前にカネケヤキと同じ『オークス』と、クラシック級でありながらシニア級の猛者たちを相手に同年の『有馬記念』を勝利した女傑なのだから。
「まあそんな訳だからちょいちょいこっちに来るかなー。そっちはどお? そろそろキツくなってきたかんじ?」
「いえまだ初日ですけれども・・・・・・、厳しいトレーニングは覚悟の上です。元より私はそうしなければ届かない」
「うんうん、わかるよ。ケヤキちゃんの歩こうとしてるのはあたしより難しい道だ」
ちょこんとスターロッチがカネケヤキの隣に腰を下ろして彼女の顔を覗き込む。
「オークスから有馬記念までの七ヶ月、全力で歯を食い縛ったからあたしはシニア級相手に百メートルの差を競り勝てた。
そんでケヤキちゃんはそれより短い準備期間で、六百メートルも長い距離で勝たなきゃなんない。それもあのシンザンちゃんを相手に」
「タッチ先輩から見ても彼女は脅威ですか」
「ん。あの子のレースは見たけどね、あーれはえげつないよ。一緒に走ってるわけでもないのにコダマより怖かった」
冗談めかして自身の身体を抱き締めるスターロッチだが、彼女の感覚は自分の事のように理解できた。
闘争心も重圧も無く、ただ自分の走りを楽しんでいた彼女の顔。阻む者など何も無しと、己を阻もうとする者を障害物とすら
異質。そう、あまりにも異質だった。
レースを走っているのではなく花道やレッドカーペットをただ一人で歩いているようなあの姿が。
「だとしても」
奮い立つように拳を握る。
彼女がどれだけ強かろうとそれは自分が劣る理由にはならない。
自分は強い。綺羅星の器。自らを栄冠の座に押し上げるのは、己の力に対する信仰だ。
「私が退く道理などありません。道が険しいというなら岩すら割って咲き誇ってみせましょう。困難の果て、荒れた大地にこそ私は輝く。
─────誰よりも華麗に、華やかに」
その言葉に迷いは無く、通った芯は強く硬い。己の進むべき道を確かな足取りで見据える者の姿だった。
カネケヤキに寄り添うべき憂いはない。
それを確かめたスターロッチは穏やかに顔を綻ばせる。寮長に選ばれた所以の資質、見守る者の笑み。
立ち上がって尻と尻尾についた砂を払い、彼女はカネケヤキにグッと親指を立てる。
「いーい顔だねー。その調子なら心配ないかー。キミが咲かせる菊の花、楽しみにしてるよ」
「はい。ありがとうございます」
気にかけてくれたんだなとカネケヤキは察した。
二冠ウマ娘のコダマだけでなく菊花賞ウマ娘の『キタノオーザ』、シニア級のダービーウマ娘『コマツヒカリ』に天皇賞ウマ娘『オーテモン』。有馬記念で彼女にのし掛かった錚々たる面子からのプレッシャーを、トリプルティアラに王手を掛けた自分に重ねたのだろう。
先輩からのエールをしかと受け止めた彼女だがその時、立ち去ろうとしていたスターロッチがふと思い出したように立ち止まって振り向いた。
「あ、そだ。あたしってさ、周りから呼ばれるあだ名って大体『スター』とか『ロッチ』とかそんな感じなんだけどさ」
「? はい」
「べつにイヤって言うんじゃないけども。『タッチ』て呼ぶのはどーゆー感性?」
スターロッチの素朴な問い。
どうしてそんな事を聞くんだろう、とカネケヤキはきょとんと首を傾げた。
「・・・・・・? 華やかでしょう?」
「そっかー」
◆
「ん゛え゛えぇぇ゛ええ゛えい」
「親父が風呂に浸かる時と声が同じなんだよなあ」
合宿初日のトレーニングは終了、シンザンに対するトレーナーのメンテナンスはさらに念入りになる。
疲労の回復にストレッチが有効なのはアスリートの分野では徹底される基礎中の基礎だが、専門的な知識を持つ者の手によって行われればさらに効果は高まる。「何言ってんだド助平」「まあまあやれば分かるから」と担当ウマ娘ばりの我の強さで押し切ったトレーナーが合わなければ即やめるという条件でマッサージを始めたのだが、どうやら無事彼女にとって『必要』の分類に入ったらしい。
自分一人では不可能な
「成る程ねぇえ゛、これは声が出るね゛ぇえ゛。ただの助平心じゃなかったん゛だねえ゛え」
「何でお前は俺のアイデアが全部スケベ由来だと思ってるんだよ」
「こんだけ女の子を痛めつけるアイデアに溢れた男が助平じゃなけりゃ何だってんだい」
「トレーナー業そのものに最悪の一石を投じてきたな・・・・・・」
健全な学園が急にインモラル共の集まりになってしまった。被せられた不名誉を如何にして晴らしてくれようかと押されたら痛いツボがある場所を脳内でピックアップし始めた時、シンザンが全身を脱力しながらぼやくように聞いてきた。
「アイデアといえばトレーナーさん。トレーニングの事で聞きたい事があるんだけど」
「元から休みは多めで組んでるぞ」
「そうじゃなくて。トレーナーさん、合宿のトレーニングメニューはどういう意図で作ったんだい?」
うつ伏せになったシンザンの腰をマッサージしていたトレーナーの手が止まった。
「試しに他の子がどんな事してるのか見てたんだけどさ。ビーチフラッグだとかビーチバレーだとかやってる所が割とあってね。
聞いたところによると夏合宿ってそういう変わり種な事やったりするそうじゃないか。
まあ流石にビーチバレーなんかはやる気を出したり気持ちを切り替えたりがメインだろうけど、いずれにせよ普段と違う鍛え方をする為に違う事をやらせるんだよ、どこも。
そこへいくとあたしのトレーニング、どれも普段やってる事と同じなんだけど。どうなんだい」
始まったな、と慣れた様子のトレーナー。
シンザンは自分に対して時折こういう試すような事をやるが、それは大体何かしらの不満がある時だ。おおかた騙されて遠泳させられたのが気に食わないのだろうが今回は事前にメニューを共有していたのだから言いがかりのようなものだし、向こうも自覚的に吹っかけてきているのだろう。
ただ、ここで詰まったらシンザンはサボる。
明確なビジョンが無いのであれば、彼女はそれを『不要』とする。
とはいえビジョンも無しにウマ娘を鍛えるトレーナーなどいない。半目で視線を寄越してくる彼女に、マッサージを再開しながらトレーナーは答えた。
「結論から言うと特殊な何かはいらない。何故かと言うとな、そもそもやり方を変えても結局鍛える場所は変わらないからだ」
「へえ?」
「お前が言った通り普段と違う鍛え方をするのは気分を変えて慣れを防ぐため。それだけでも効果はあるが、お前の場合は基本形でやった方がいい。その理由がココ」
「ぐえ」
トレーナーが場所を示すように両手のひらでシンザンの腰を強く押した。
「腰の筋肉。姿勢のバランスや踏み込みの力を地面に伝える全ての土台だ。触ってみて改めて感じたけど、シンザンは
「成る程。それで?」
「基本っていうのは色んな要素を最も効率的に纏めた形だ。そこを変えると他の効果を得る代わりに何かを捨てる事になる。それが合わないんだよ。
例えば今までのトレーニングで自覚はしてると思うけどシンザン、重バ場苦手だろ」
「砂浜で足腰鍛えるついでに重バ場での走り方を磨こうって訳かい。そいつは一挙両得だね。確かに走る以外じゃこうはいかないか」
「そう。戦法も鍛え方も変えなくていい。シンザンは基本を突き詰めた王道が一番強いんだ。・・・・・・ま、それ以外が間違ってるって訳でもない。内容の変更については応相談ってところかな」
「分かったよ。あたしの王道とまで言われちゃしょうがない」
泳ぐの自体も嫌いじゃあないしね、とあっさり引き下がったシンザンに、やはり全てを察していた上でこっちを試していたことを確信した。
これが自分にとって不要か必要かを確認する作業とは少しだけ違う、自分の答えを試すような行動。
─────『自分はいま不機嫌だけど、その上で押し通すだけの覚悟があるんだろうな』。
ビジョンの有無もそうだが、彼女自身のナチュラルな傲慢さを踏まえて考えてみると案外そういう考えがベースとなった心の動きなのかもしれない。
ひとまず自分の回答は彼女の採点基準で及第点を満たしたらしいと胸を撫で下ろしていたトレーナーだが、そこでシンザンがうつ伏せのまま何かに思い当たったようにこちらを振り返った。
「ちょっと待って。つまりあんたのいう通りに鍛えるとあたしはああいう洋服が似合わなくなっていくのかい?」
「よし、マッサージはこんな所かな。明日からは少しずつ強度を上げていく。いつも通りに身体の違和感は些細なことでも逐一報告するように」
「なあおい」
「消灯時間は守るんだぞ。それじゃお休み」
「コラ」
◆
「・・・・・・話は分かった。だが直ちに反映とはいかん。これについてはこれからトレーニング後に話し合っていこう」
「分かりました。お願いします」
そう言い残してウメノチカラは退室し、一人残された古賀は難しい顔で腕組みをしつつ息を吐く。
初日のトレーニング後にウメノチカラから提案されたのはトレーニングメニュー変更の提案だった。
紙に纏められて提出された新たなメニューの草案に目を通しての評価は端的に言って『無茶』の一言。ひたすら重い負荷を掛け続けることを目的とした内容が誰を意識しているかは言われずとも分かる。
しかしトレーナーとしてこれに首肯は出来ない。
自主トレの内容について熱心に自分に相談してきたかつての彼女からは考えられない焦り方だが、今のウメノチカラは相談しようとしないどころか自分との会話すら最小限にしようとしている節がある。
このコンディションが続けば元々のメニューすら満足な成果を出せないまま終わってしまうが・・・・・・彼女は恐らく、自分を頼ろうとしていない。
自分から近寄ろうとしても彼女は遠ざかるだけだ。
「・・・・・・・・・・・・、うむ」
しばしの黙考の後に古賀は決意した。
初日からこんな形で頼るのはトレーナーとして情けない限りだが、大切なのは自分の体面ではなく担当ウマ娘の復調だ。
やや自分勝手ながら自分が思い浮かべた者たちは彼女のために応えてくれるという確信がある。
古賀は引き出しから便箋とペンを手に取って、縦罫線と縦罫線の間にインクの文字を滑らせた。
それから数日後、トレーニングを始めようとしていたウメノチカラがポカンと口を開ける。
───夏合宿の参加資格を持つのはクラシック級以降のウマ娘。故に彼女らがいるのは不自然だし、事実チームで参加しているのはウメノチカラだけだ。
つまり彼女らは共通の目的があってここを訪れたという事だが、それが何故かは分からない。
「ウメちゃんやっほー!」
「お呼びとあれば即参上っす!」
「なんか元気がないって聞いたぜー」
ハクズイコウ。
キーストン。
カブトシロー。
学園にいるはずのメンバーが集結し、チーム《スピカ》がここに揃う。
状況が理解できていないウメノチカラの後ろで、古賀がどこか得意そうな顔をしていた。