観客席が大歓声に包まれた。
これは重賞レースで記録を打ち立てた賞賛だけではない。
日頃からシンザンをライバル視していると公言しているウメノチカラ、力及ばず苦杯を飲み続けていた彼女がとうとう下剋上を果たすに足る力を手に入れたのだという快哉だ。
勝ち続ける者が多くを従えるのは当然だが、それに刃を向け続ける姿が人を惹きつけるのもまた必然。ウメノチカラを応援しているファン達は興奮冷めやらぬ様子で快挙を打ち立てられたレースに対する想いを叫んでいた。
「やあ、どうだあの走りは! 絶好調じゃないか!」
「この夏で一気に仕上がってる、正にお天道様からの賜り物だ! まさかカネケヤキにもここまで差をつけるなんて!」
「こりゃあ今回こそやってくれるぞ!!」
口々に捲し立てる観衆の視線、そこから外れた場所でカネケヤキは荒い息を整えている。
一着、ウメノチカラ。
二着は半バ身離れてヤマドリ。
そこから2と半バ身離れて三着、カネケヤキ。
上位入線を一番人気から三番人気が埋めるというガチガチの結果ではあるが、その着差には着順以上の差が見えていた。
何せ目下最大のライバルの一角であるウメノチカラとは三バ身も離されているのだ。これが同じ夏合宿で研鑽を積んだ結果の現れとするなら、一ヶ月後に迫った《菊花賞》の見通しは厳しいが。
(大丈夫。・・・・・・今は、これでいい)
「あークッソ惜っしぃぃ・・・・・・!」
頭を掻き毟るヤマドリに対して冷静なカネケヤキ。
人々の歓声を全身にシャワーのように浴びるウメノチカラは、しかし喜びと賞賛に満ちた外よりも己の内に向き合っていた。
───またも掴んだ。
日本ダービーで至った、"忘我"と呼ばれるあの境地。
あの時に刻まれた感覚の完璧な再現。
己の潜在能力を掌握したという確信、その感触を確かめるように拳を握り締める。
私はここまでの高みに来たぞ。
お前はどうだ。シンザン。
手にした剣を掲げるようにウメノチカラは握り拳を高々と天に突き上げる。
呼応するように上がる観衆のボルテージ。
落ち着いていた歓声が一瞬で息を吹き返すその様は、この秋の主役が誰なのかを何よりも強烈に主張している。
十月の涼しい風の吹く晴れ空の下のレース場。
真夏のような熱気に包まれた観客席の中の一つで、厳しさを皺で刻んだような顔つきの老ウマ娘がその様子を無言のままに見下ろしていた。
───そしてその一週間後、シンザンが復帰後初めてのレースに出走した。
レースの格こそオープンクラスなれどクラシック三冠を目されるウマ娘の復帰戦にして菊花賞の結果を占う一戦はレースのファンや記者たちの関心を否応無しに集める。
結果オープンレースとは思えない程の注目度となった阪神レース場、控え室でストレッチをするシンザンにトレーナーは短く問う。
「体調は?」
「うーん」
曖昧な返答だがトレーナーは動じない。
そもそも万全の状態で出走させようとしたレースではないからだ。
ようやく普段通りのトレーニングが出来るようになった程度という現状、今のままのペースでは菊花賞には間に合わない。
そう判断した結果、彼女のコンディションは適当なレースを使って調整する事に決めた。
一度の本番は三回のトレーニングに相当するというトレーナーの持論に基づくいつもの手段である。
パドックでのもっさりとした様子は普段通りの証がそれとも不調の表れか、この時点では判断はつかない。
いつものようにゲートイン。
いつものようにスタート。
いつものように番手に位置取り、頃合いを見て抜け出すいつもの作戦。
「コケた奴に負けてられるかーーーーーーっっ!!!」
シンザン、2着。
ゴールラインを一番先にクビ差で駆け抜けたのは、イチミカドというウマ娘だった。
「今回の結果をどう受け止めますか?」
「結果以上の事はありません」
そしてレース後、オープン戦とは思えない人数の記者に囲まれたトレーナーは、緊張感を孕んだ空気の中で冷静に質疑応答の時間に対応していた。
「シンザンが不調の真っ只中なのは知っての通り、今回のレースは彼女を立て直す計画を立てるために使いました。先行きとしては悪いものではないと考えています」
「不調なら休養に充てるべきでは?」
「彼女と話し合った結果です。普段通りのトレーニングのみでは厳しいという事もありましたが、何より彼女自身が走る事に珍しく意欲的でしたので」
「シンザンさんに話を聞きたいのですが」
「今は休んでいますから・・・・・・」
そしてウイニングライブの時間となりインタビューは終わり、残された記者達が口々に感想や所感をこぼす。トレーナーの口から後ろ向きな発言こそ出なかったものの、ざわざわと重なる会話や独り言の内容はやはり安堵からは遠い。
「うーむ、やはりシンザンの体調は芳しくないか」
「着順こそ2着ですが、ここまでの戦績を考えると・・・・・・」
「まあまあ、そう難しい顔になる事もない。彼女が日頃は抜いて走っているというのは前から言っていた事だろう。今回も例に漏れなかったという話さ」
「・・・・・・確かに、オープン戦で1着を逃したのはこれが初めてでもないか。レースをトレーニング扱いする姿勢なら、まあ想定内ではあるかもしれない」
「それにあのコダマを育てた人だ、担当の不調の対応も慣れたものだろうしな」
「まあまあ・・・・・・」
そういった声がそこかしこから聞こえる。
安堵はできない。不安視する声はあるが、しかしどこか楽観や希望的観測を含んだ展望を語る彼ら。
まるで安心できる材料を探しているようじゃないかと壁に寄りかかりながら沢樫は思うが、それは人々がシンザンの両肩にかける期待が裏返りかけているからだという思いがあった。
無視できない不安に駆られた時、場所であれ関係であれ理屈であれ、人間は安心できる拠り所を探そうとする。
真実を見抜くべき記者ですらそうなっているというのは、世間的な空気にはかなり焦りが広がっているようだ。
(・・・・・・果たして楽観できるものか)
彼女の戦績は頭に入っている。
流して走るオープン戦では最低でも二バ身以上離して快勝、落としても先頭との着差は0.1秒。これは今回のレースも例外ではない。
確かに普段通りと言えば普段通り、先行きは悪いものではないというトレーナーの言葉に偽りは・・・・・・
「・・・・・・いかんな。所詮は俺もただのファンか」
冷静に俯瞰しているつもりが気付けば他と変わらない考え方をしていた自分に苦笑する沢樫。
豪傑の帰還を、英雄の誕生を皆が望んでいるのだ。
きっと今度こそ夢が叶うと信じているのだ。
オープン戦だから手を抜いただけだと。
重賞レースなら流石に気合を入れるはずだと。
だから彼らはその日も信じていた。
11月1日の京都レース場。
重賞レース《京都杯》。
距離1,800の中距離戦を制したのは───
『バリモスニセイ1着───ッッ!! シンザンを抑えてバリモスニセイ1着であります!! ここまで重賞負け無しのシンザンをここでバリモスニセイが下した───ッッ!!』
唖然としたのはバリモスニセイの方だ。
彼女も普段のオープン戦でのシンザンの様子はよく知っている。
勝ちに行くのではなく周囲の環境や取るべき行動に対する自分の状態を把握することに注力して走り、結果として最適解を出す彼女に他のウマ娘が引き剥がされる生まれついての強者の走り。
今回も1着とはいえ着差は1と1/4バ身、時間にすれば0.2秒と僅かな差。
しかしそれ故にバリモスニセイには彼女の顔がよく見えた。
辛そうに、しんどそうに走っていた。
一杯一杯で走っていた。
それが今できる精一杯だというように、
(・・・・・・本当に、不調なんですね)
歓声の中でも確かに聞こえる困惑のどよめきの中、戻ってきたシンザンは明らかに苛立っていた。
荒い息遣いは疲労によるものだけではなく、かつての普段と現状の乖離による焦燥もあるだろう。絞った耳を隠そうともせず、蹄鉄で地面を掻きながら彼女は吐き捨てる。
「トレーナーさん」
「どうした?」
「・・・・・・動けねえってのは腹立つねえ」
「・・・・・・そうだな」
気色ばんだ記者達がトレーナーを取り囲む時間が終わり、また彼らは口々に所感をこぼす。
交わされる言葉はどれも暗い。前回のオープン戦の時のような楽観は無くなり、誰も彼も難しい顔をしていた。
「重賞を落としたか・・・・・・」
「体重も適正ラインを大きく上回っていたというし、正直落胆したな」
「トレーナーの方は相変わらず強気一点張りだが・・・・・・」
『ここでシンザンが最高潮だったなら、菊花賞では逆に調子を落とすこともあります。重賞ということで深刻に捉えている方も多いでしょうが、これもあくまで調子を整えるための一戦です。そう気にする事はありません』。
『皆さんも前からご存じでしょう。彼女は本番以外じゃ走らないんですよ』。
全てインタビューに答えたトレーナーの
夏が始まる前なら彼女の実力に見合った傲慢さとして誌面を盛り上げた発言だが、この状況に至ってはただの虚勢か負け惜しみのようにすら聞こえてしまうというのが正直な感想だった。
そしてそれはシンザンの復活を期待してレース場に来た観客達も同じ事で。
「シンザン、負けちゃった・・・・・・」
「いやあの距離はバリモスニセイの得意距離だし、きっとシンザンも本気じゃなかったんだよ」
「しかし目に見えて苛立っていただろう。あれは勝てる勝負に勝てなかった顔だ」
少しずつ。
「ここまでかな・・・・・・」
少しずつ、諦めが。
「いけると思ったんだが・・・・・・」
少しずつ、少しずつ、広がっていく。
「三冠、見てみたかったな」
別に悪い結果を出した訳じゃない。
そう言う者もいるだろう。
しかし愛想も撒かず話も聞かず揺るがぬ結果のみで登り詰めた者が、それを失えばどうなるか。
事実に基づいた擁護で守られるほど、シンザンというウマ娘が築き上げてきた強さの偶像は小さくはなかった。
ならば人々が物語のページを完結を待たずして閉じようとしてしまうのも無理はない話だろう。
ましてその失望を二度に渡って味わってきたのなら尚更───
「コダマにメイズイと来て、シンザンも駄目か・・・・・・」
誰かが、そんな事を呟いた。
◆
「目線こっちお願いしまーす!」
カメラマンの声に被写体が従えば、シャッター音とストロボが空間の中を無数に瞬く。
今日は菊花賞を目前に控えた合同インタビューだ。
面子はクラシック三冠に王手をかけるシンザンと同じくトリプルティアラに名乗りを上げるカネケヤキ、そして飛ぶ鳥を落とす勢いの実力を着けシンザンへの下剋上を期待されるウメノチカラ。
正に世代を代表する三人と言っていいだろう。
自分の勝負服を纏った彼女らをプロが整えた環境で切り取った画は月刊誌の表紙をこの上なく彩ることを予見させたが、当然メインはそこではない。
《菊花賞》への意気込みやそれにまつわる他のウマ娘への想い、今の彼女らを
「今回こそはシンザンに勝てる、という思いはありますか?」
「勝ちます」
シンザンこそ最大のライバルと公言するウメノチカラに必然の質問が入る。
そしてウメノチカラも当然、即答。
その瞳に一切の気後れはない。
「皐月賞とダービー、私は二度シンザンに敗れている。リベンジではなく下剋上という言葉を使われているのも、唯一冠を持たない私を格落ちと見る向きもあるからというのも理解しています」
重なる敗北、格落ちという自覚。
涙と共に叫んで逃げた二つの
弱さを認めるということは字面ほど簡単なものではない。そこから奮起して乗り越えた者のみに芽生える力が、確かにウメノチカラに宿っていた。
「その全てを、私は引っ繰り返す」
打ち破ると決意した相手が隣にいる、その上でウメノチカラは抜いた刃の鋒をシンザンに向けた。
「それが叶うだけの力は身につけた。それを本番で示してみせましょう。私を叩き直してくれた人、私に期待と夢を預けてくれる全ての人の為に」
「──────、」
「菊花賞は『強いウマ娘が勝つ』レース。
その気迫に、誰もが圧された。
あのレコード勝利ですら力の証明ではない。その大言がハッタリの類ではないのを魂で理解させる、炎のような熱量がウメノチカラから噴き上がっていた。
───やはり聡くて、真っ直ぐだ。
当然この場に記者として参加している沢樫は感心したように顎を撫でる。
ウメノチカラは返答の中に用いた表現によって、『不調のシンザンになら勝てるという事か?』という曲解をさせないように念を押したのだ。
それは同時に、シンザンは必ず仕上がった状態で本番に来るという信頼でもある。
ここまでの情熱を魅せられて、何をどう答えれば次のウマ娘は三人の中で埋没せずに済むのか。
次のお鉢を回されたカネケヤキは、勝負服のスカートの裾を持ち上げてお辞儀。静かながら華やかさを秘めた恭しいカーテシーの所作に、それを目の当たりにした記者達が一瞬見惚れた。
───ウメノチカラが支配した空気は消えた。
顔を上げた彼女は、熱量に満ちていたウメノチカラとは打って変わって穏やかに言葉を紡ぐ。
「まずはこのような場に私を選んで下さったこと、数多の花の中から私に注目して下さっていることに心より御礼申し上げます。万全の準備を整えて下さった手前心苦しくはあるのですが、まずはこの場をお借りして皆様に伝えなければならない事があります」
質問を待たずして報告。
何がどうしたんだと彼らが首を傾げたその一瞬後。
胸に手を当てて彼女が口にした言葉に、ほぼ全員が耳を疑った。
「私は、《菊花賞》を最後にレースを離れます」