数回のコール音の後、電話は繋がった。
「もしもし、ななか?」
聞き慣れた少女の声に安心して、常盤ななかは深く息を吐いた。それと一緒に肚から迫り上がってきた生暖かいものをなんとか吐き出さずに済んだのは、ななかの最後の意地だった。
「……さやかさん、こんにちは。今平気ですか?」
「うん、大丈夫だけど……。どうかしたの?」
声の背景に乗った喧騒のお陰で、美樹さやかの声は少しだけ聞き取りづらかった。
「いえ、何というわけではないのですが……。そうですね、強いて言うなら、声が聞きたかった、とでも」
「なにそれ。どうせ明日会うのに、そんな恋人みたいな……」
初めてななかがさやかの声を聞いた時も、そんな呆れ返ったような声だった。あの時は志筑仁美に無理やり連れて来られたのだ、と後で聞いて、それはつまらなかっただろうな、と少しの同情を抱いたものだった。華心流の生け花の展覧会に来ていたさやかと出会ったのは、もう一月も前の話になっていた。並ぶ作品たちの前で、友人らしき少女と呆れたような声で話すさやかの左手には、青く輝く運命が嵌められていた。ななかが魔法少女になったのはもう半年程度前の話で、その時のさやかは魔法少女になってからまだひと月も経っていなかったらしい。
「……あの」
声をかけたのは、彼女が魔法少女だったからだった。一瞬びくりと肩を動かしたさやかは、訝しげに声をかけたななかのことを見返した。
「私の生け花は、どうですか?」
「私の……? ってこれ、あんたが作ったの?」
ちょうどさやかが立っている目の前には、ななかが生けた作品があった。さやかと友人はしげしげと作品を眺めて、その後にななかと作品を見比べながら、よくわからないため息を吐いていた。
「ええ、まあ。私は、常盤ななかといいます」
わざと握手の要領で左手を差し出すと、反射的に右手を出そうとしたさやかは少し戸惑って、それから左手の指輪に気付いたのか、静かに息を飲んだ。けれど隣にいる友人には気付かれたくなかったのか、それは一瞬のことで、すぐに左手を握り返して、平静を装っていた。
「あたしは、美樹さやか。よろしくね」
その時の、中指の指輪が軽くぶつかった感触や、少し恥ずかしそうにはにかむさやかの顔を、ななかはふと思い返しては、電話口に向かって少しの笑いをこぼした。
「……なによ」
「ふふ……いえ、少し、思い出して」
走馬灯のように、という言葉は、今のためにあるのだと、ななかは徐々に薄らいできた意識の中で、ぼんやりと考えていた。
「……飛蝗の魔女?」
「ええ。各地を飛び回り、災いを撒き散らす魔女……。私の追っている魔女です」
紙のカップに入ったコカコーラをストローで飲みながら、さやかは険しい顔をしていた。
「華心流で起きた騒動も、その魔女の仕業です。そして、神浜近くで事故に遭ったという、上条恭介さん……」
「恭介の事故も、そいつのせいだっていうの……?」
「私の魔法は、“倒すべき敵を見極める”力です。それが、私の騒動も、上条さんの事故も、同じ犯人を指し示しています」
上条恭介という少年は、さやかとは幼馴染で、さやかが想いを寄せているのは傍目から見て明らかだった。ななかはさやかの恋路を応援しようと思ってはいたが、けれど魔法少女が普通の恋愛をできるかと聞かれれば、それには沈黙で返すしかないとも思っていた。命がけで魔女と戦う魔法少女は、結局のところ今こうしてななかが瀕しているような危機に陥るのだから。
「そいつはどこにいるの」
「わかりません。飛蝗と名付けた通り、神浜市の近くを飛び回っているようなので」
「あんたのその魔法でわかんないの?」
「相手がそうであるとわかるだけなので、居場所までは……」
詰るような目線を真っ直ぐに見返すと、向こうが先に根負けしてついと目を逸らした。してやったりな気分と一緒にアイスティーを流し込むと、対面のさやかが小さくため息をついていた。
「……ななか、あんた大丈夫? なんか変だけど」
心配そうな声を聞くのはもう何度目だったか。魔女との戦いの中では、さやかはやたらと仲間のことを気にかけるのだ。自分は治癒魔法で無茶が効くからと率先して盾になりにくるし、そのくせ自分よりも軽い怪我をしたななかのことを自分以上に心配してみせるのだ。
「ええ、大丈夫ですよ。このくらいなら擦り傷ですから。それより、さやかさんの方がよっぽど酷い怪我ですが」
白いマントを自分の血で染めるのも、もはや見慣れた光景になりつつあるのが怖かった。ななかのフォローが間に合わなければただでは済まなかった瞬間も二度三度ではない。魔女の攻撃で千切れ飛んださやかの一部分を見て嘔吐してしまったのも、今では懐かしい話だ。
「いやぁ、あたしは大丈夫だよ。ほら、ピンピンしてっから!」
ぐるぐると腕を回すさやかの姿が痛々しく見えて、ななかは知らずに視線を下げていた。
「その危なっかしい戦い方をやめてほしい……と言ったところで、聞かないでしょうが」
「あはは……悪いとは思ってるよ。けどあたしは、マミさんみたいに綺麗には戦えないから、こうするしかないんだよね」
さやかが時折口にする巴マミという魔法少女を、ななかは知らない。さやかよりも数段強く、けれど魔女に敗れてしまった魔法少女。さやかの話の中のマミはいつも煌めいていて、さぞや素敵な魔法少女だったのだろうな、とななかはぼんやりと想像していた。
「……私も、巴マミさんにはなれませんでした」
そんな言葉が口をついた。
「どういう意味よ」
さやかの怪訝な声がなんだかおかしくて、ななかは乾いた笑いを振り絞った。じわり、じわりと黒い何かが自分の心を蝕んでいるのが分かった。何が近づいてきているのかを、ななかは本能的に悟っていた。もう後戻りできないことも、分かってしまっていた。
「さやかさん」
「……ななか?」
何を言おうか少し迷って、けれどななかは、自分の魔法を最後まで信じることに決めた。
「敵は、キュゥべえです。奴を、信じないでください」
何言ってんの、とななかの話を笑い飛ばすさやかは、もうどのくらい前のさやかだったか思い出せなかった。耳元へ携帯電話を支えていた右腕からすうっと力が抜けて、コンクリートに叩きつけられた電話から何かを話す声が遠くなっていった。
「……ごめんなさい、さやかさん」
今まで感じたことのないほどの寒気が押し寄せてきて、ななかは動けなくなっていた。赤紫色の魔法少女衣装はすっかり赤黒く染まってしまって、さやかと二人で会得した痛覚の遮断を用いても、損傷を誤魔化しきれるものではなかった。遠くなっていく音の中で、電話越しのさやかの声は妙にはっきり聞こえていて、それをもっとよく聞こうと落ちた電話に手を伸ばそうとしたけれど、どれだけ足掻いても指先ひとつ動く事は無かった。目の前が真暗になってもなお、ななかの中にはさやかの必死な声だけが聞こえていた。