一日目の午後も、残り僅か。夕暮れの文化祭、という言葉を示すのにピッタリな情景が窓の外から見えていて、それに伴い一般客が減って来て、もう今うろうろしているほとんどはこの学校の生徒だった。
それは執事喫茶も例外ではなく、客はもうほとんどいなかった。まずまずの売り上げとなり、なんだかんだ良いスタートではなかったのだろうか?
「ふぃ〜……疲れたぁ」
「お疲れ、リカ」
「明日、明後日も私達、これやるのかぁ……」
そう言いつつも、なんだかんだ楽しかったのが透の表情から見て取れる。
三人揃って椅子に座っているのを見た文事が、三人の前に飲み物を差し出す。
「お疲れさん。俺の奢りだ」
「わぉ」
「良いの?」
「マジ?」
「ごめん。半分は笠井に出してもらった。高校生に450円は重い」
笠井とは、文化祭実行委員の女子の方だ。
三人全員にコーラを買ってきてくれたので、ありがたくいただいて口に含んだ。
「どうだった? 初日は」
「もう人来すぎ。なんで同じ学校なのに人こんなに来るわけ?」
円香が愚痴るように返す。
「ね。ていうか、俺の顔ってそんなに良い?」
「それは良い」
「……まぁ、悪くはないと思うけど」
「え」
「ははは、隙あらばイチャつくなお前ら。殺すよホント」
そう言いつつ、文事は続けた。
「ま、とにかく明日もあるから。今日は片付けは俺らでやっとくから、執事役はみんな先帰って良いよ」
「マジか」
「ありがと」
「サンキュー。……あ、俺トイレ行きたいんだけど平気かな?」
「良いんじゃね。誰か来たら言っとくよ」
「どうも」
それだけ話して、菅谷は教室から出て行く。まぁ、割と忙しかったしそのくらいは仕方ないだろう。
色々あったが、まぁあさひも結局、妹というかペットというかみたいな扱いであることが分かったし、ひとまず円香はホッとする。
その様子を見て、隣から透が声を掛ける。
「何のため息?」
「え? ……疲れただけ」
「ホントに?」
「……どう言う意味」
「や、別に?」
「……」
分かっている。意味くらい。菅谷とあさひが何の関係もないと知って、ホッとしたと言いたいんだろう。
でも、違う。あれは菅谷がロリコンでない事にホッとしただけだ。だから、深い意味も変な意味もない。
「……樋口ってさ、面倒臭いよね」
「は? 急に何?」
「別にー?」
……ムカつく。この幼馴染。
「別に樋口の好きにすれば良いけど。……でもあんま意地ばっか張ってると損するよ」
「……うるさい。別に、意地なんて張ってないから」
そもそも、この幼馴染もどういうつもりなのか。透だって菅谷の事が好きなくせに、何故そんなに自覚させようとするのか。
……まさか、二股とか考えている? そんなの、少なくとも樋口は……いや、まぁ三人でよく遊んで部屋に押しかけて家事とかしている時点で、もしかしたら見ようによっては二股だし、もしかしたら肩書きが変わるだけなのかもしれないが。
いや、何にしても、だ。そもそも自分が菅谷に対し特別な感情があるわけでもない限り、何を考えたって無駄である。
「はぁ……」
ため息をついて、とりあえず文化祭終わった後ももう少し考えないと……と、思っている時だった。
唐突に、ガラッと強引な感じで扉が開かれる。はい出た、教室の扉を騒がしく開ける奴ーと思って目を向けると、嫌そうな顔が出来てしまった。入って来たのは、さっきのナンパ三人組である。
「おいおい、執事喫茶で執事が寛いでるってどう言うことよ?」
「それな」
「遊びに来たよー。さっきの可愛い子ー」
うーわ……と、声が漏れそうになる。面倒臭い。来てなんて言ってないのに。
まぁ何にしても、今はとりあえず透をあの男達の前に出さないことを先決だ。自分が接客し、気を逸らす。
「おかえりなさいませ。ご主人様」
「うお、積極的」
「自分から来たよこの子」
そりゃ仕事ですからと内心で呟く。
真ん中にいる男が、ぐるりと教室内を見回す。分かりきったことだが、ほとんど人はいない。
「ていうか、もう閑古鳥じゃん。これなら、俺らと少しくらい遊びに行ったって良くね」
「それな。行こうぜ」
「そこのお前も」
目を向けられたのは透だ。キョトンとした表情で言い返す。
「え、なんで?」
「つーかさっきから思ってたんだけど、お前なんでタメ口聞いてんの?」
「俺ら先輩だから。敬語で話せ」
ジロリと睨まれ、透は黙る。そして、背中から回して文事にサインを出した。理解した文事は教室から出ていく。これで、もうすぐ先生が来ることだろう。
その隙に、透が余計なことを言う前に、円香が口を挟んだ。いい加減、イライラがピークに達しつつある。
「あの、なんなんですか? いきなり勝手に入ってきて失礼ではありませんか?」
「……あ?」
思わず口走った正論に、男は容赦なく食いついてきた。
「だから、わかってんのか? 俺ら、先輩の上に客なんだけど」
「もしかして、礼儀を知らない奴?」
「わからせた方が良いんじゃね。上下関係」
「……だな」
勝手に話が進んだと思ったら、ガッと円香の手首を掴む。思った以上に強い力。今更になって、こいつら口では引かない、と思わず畏怖を覚えるほどの。
「っ、ち、ちょっと……離して……!」
「樋口……!」
「おっと、そうだ。お前も来い。さっきからナメた口聞いてたろ」
「っ……!」
その視線は、まるでべっとりとまとわりついて来るような鋭い視線。蛇でも絡み付いているのかと思う程だ。
透でさえ少し恐怖を覚えた隙をつくように、別の男が歩き始めた時だ。
「この手は何?」
直後、あまりに近くから声が聞こえる。円香や透だけでなく、男達でさえビクッと背筋を伸ばす程、近くから。
反射的に顔を向けると、そこには菅谷が円香の手首を掴む男の手首を掴んで立っていた。
×××
5分ほど前。
廊下を走っていた文事は、走っていた。早く教員を呼ばないと、何が起こるか分からない。
そんな風に思っていると、見覚えある執事が欠伸をしながら歩いて来てるのが見えた。
「あっ、す、菅谷!」
「あ、どうも。……ちょっと聞いてよ。入った個室の中にゴキポンがいて……俺、ゴキポンと一つ屋根の下で……」
「んな場合じゃねえよバカ!」
「? 君もゴキポンとなんかしたの?」
「樋口と浅倉が危ないから!」
「……と言うと?」
「上級生のナンパだよ。結構、強引に迫ってきてて、ヤバいかも!」
「……」
直後、文事は背筋に冷たいものがコンマ1秒ほどで流れた。菅谷が、見たことないキレ顔を晒したからだ。
「……まだ教室いる?」
「いる! 俺、先生呼びに行くから……」
「うん。でものんびりお茶してきてからでも良いよ」
「は⁉︎ お前、何言って……」
「大丈夫、逃がしゃしないから」
「え、に、逃がす……?」
逃げるんじゃなくて? と言うツッコミを入れることも出来ず、菅谷はそのまま走って教室に戻った。
×××
で、今に至る。ギリギリと万力で押し潰すかのような力の入れよう。その菅谷に、男は尋ねる。
「誰お前?」
「手を離せ」
会話が成り立っていない。円香だけでなく、鈍い透でも「怒ってる」とすぐに理解した。
「言葉わかんねーの? 誰だって聞」
「あと一回しか言わないよ。手を、離せ」
直後、男が先に動いた。菅谷の腹に思いっきり蹴りを入れた。菅谷の手に力が抜け、後方に飛んで席を崩して背中を強打する。
「! リカ!」
「離したのお前じゃん」
「ぷふっ! ダサッ!」
あからさまに小馬鹿にしたような笑いが出たのも一瞬だった。机の群れから菅谷が飛び出した。
円香の手を握っていた男も喧嘩慣れしている。カウンターに合わせるつもりのようで、ギリギリまで引きつけてから足を引き上げようとした。
が、菅谷の足はそれを上から踏みつけて封じる。その隙に、左手で円香の手首を握っている手を、右手で胸ぐらを掴んだ。
「痛ッ……!」
掴んだ左手で、親指の付け根を圧する。それで、強引に手を離させつつ、その手首を引っ張って重心を崩す。
それと同時に踏みつけていた足を離して前方へ振り上げると、踵で踵を打ちつけて薙ぎ倒した。
大外刈り……文字通り足元を刈り崩す技だ。体育の柔道でさえ習う技だが、その性質は恐ろしく、背中から足元を持っていかれて地面に落ちる。……つまり、受け身を取らなければ怪我では済まないことだってある。
「ッッ‼︎」
男が強打したのは背中だった。だからまだマシだった。痛みで気絶した程度で済んでいる。
「!」
「こいつ……!」
「マドちゃん、下がってて」
「っ……!」
次に来たのは、透の方へ歩いて行っていた男。姿勢を低くして、両手を広げて構えている。
「柔道なら俺も中学で黒帯取ったぜ。受け身さえとれりゃ怖くねえ」
「……」
無視である。男がこちらに襲い掛かって来るのよりも早く懐に潜り込み、相手の腕と腰に手を添えて、真上から投げ込んだ。肩から床に落とし込む。
大腰……最初に習う、相手を担ぎ上げる技である。
菅谷の柔道は護身用のもの。つまり、試合でレフェリーがつくためのものではない。相手に受け身なんて取らせない速さで仕留めるようにできている。
さて、残りは一人。ギロリと視線をやると、残りは戦意を失っているからか、後退りした。
「っ……!」
「……」
そこで、ふと菅谷は我に帰る。ちょっと、やり過ぎたかも、と思い、改めて辺りを見回した。自分より背が高い男が二人とも伸びている。
正直、円香と透に手を出そうとした時点で万死に値するが、まぁこの辺で許してやっても良いかもしれない。
そう思い、さっさと帰るように言おうとした時だ。
「おい、なんの騒ぎだ!」
「……あっ」
そこに現れたのは、文事が呼んだ教員。それも、教育指導の先生だ。視界に入っているのは、上級生を薙ぎ倒した自分の姿。まずい、と思った菅谷は、反射的に反対側の入り口を指さした。
「あっちに逃げました!」
「指導室に来い!」
そのアホ回答に円香と透は全力でため息をつきつつも、いつの間にか菅谷の後ろに回り込み、ギュッと執事服の裾を掴んでいた。
×××
嘘なんてつけば当然、疑われるわけで。ただまぁ、新品の衣装についた蹴りの跡、残り一人、無事だった上級生の証言から3対1だった事、女子生徒を庇った事と目撃証言で、何とか停学は免れた。柔道を習っていたのか、という点は「昔見様見真似で練習したことあるだけです」と頑なに誤魔化した。
で、今は保健室。
「いだだだだだ! 沁みる、沁みるって!」
菅谷は、円香に湿布を貼ってもらっていた。
「……うるさい。蹴り飛ばされて背中から突っ込んだのに、腰に負担かかる技使うとか……バカでしょ」
「いやー、柔道やってたとは聞いたけど、強かったんだね」
「いやまぁそれなりに実践向きに習ったから……だから痛いから!」
「我慢して。……蹴りの方が痛かったでしょ」
「いやあんま覚えてない」
正直、痛みより殺意の方が多かった事しか覚えていない。
「って、ま、マドちゃんだから痛いって……!」
「……うるさいってば」
「と、とおるん! なんとか言ってよ」
「じゃあジュース買ってくるね。助けてくれたお礼」
「いやそうじゃなくて……」
それだけ言って、透は保健室を出て行った。全くもって冷たい人である。そう思った直後だ。さっきまでとは比べ物にならない重みが背中に響いてきた。
「いぎっ……だ、だからマドちゃ……!」
「うるさい」
「うるさいじゃなくて……」
そこで、ふと異変に気付く。背中の激痛などではなく、腰から回された両腕に。そして、背中の生肌にあたる、円香の髪の感触。何より気になったのは、それらが全て小刻みに震えていることで激痛を産み落としていた事だ。
震えに気が付いてしまえば、流石に「痛いから離れて」とは言えない。
「……マドちゃん?」
「……怖かった」
「え……あの連中が?」
「そんなのより……リカが」
「え、俺?」
「……怪我したかと、思った。あんな勢いで、ヤンキー漫画みたいに机の中に突っ込んだから。目の前で、あんなの目にした人の気になって」
「……ああ」
前に階段から転げ落ちた時とはまた違ったのだろうか? まぁ、他人にやられたものと勝手に事故ったものでは違うのかもしれない。
「その後も、怖かった」
「俺の? 何処が?」
「怒るにしても、後先考えて怒って。……今回は大目に見てもらえたかもしんないけど、相手が再起不能の怪我とかになってたら、あんた退学じゃ済まなかったでしょ」
「……あー、うん」
「あんたがいなくなったら、助かっても嬉しくない人がここにいるって、ちゃんと理解して。その小さい頭に、しっかりと叩き込んで」
そう言いながら、ギュウッと抱きしめる。罵倒が入り混じっているのも、その中できちんと心配してくれているのも、おそらく本心だろう。
「ごめん」
そこまで考えていなかった。いや、考える余裕がなかったと言うべきか。ここに来て普通じゃない学園生活をしてきたツケが回ってきた感覚だ。
小さくため息をつき、助けたつもりが不安を煽る結果になってしまったことに心底後悔する。こんなんだから、自分はダメなのだろう。
小さくため息をつき、自分の迂闊さをのろっていると、後ろからさっきまでより遥かにか細い声が聞こえてきた。
「…………でも、ありがと。助けてくれて」
「……はえ?」
「カッコ良かった」
「…………へ?」
直後、頬が熱くなるのを感じる。褒められたのに、なんか気恥ずかしい。褒められたのに、吐血しそうになる。
洗濯物を干す際、パンツを見られた時より、上半身裸を初めて見られた時より、何より恥ずかしかった。
……いや、違う。嬉しいんだ、多分。それがオーバーヒートして、羞恥心となっている。何せ、円香から外見以外で「カッコいい」なんて言われたのは初めてだから。
「……にへ、にへへ……」
「……少しくらいカッコつけていられないわけ? 男が出して良い笑い方じゃないから」
「はっ」
今更になって、今日はもう少しカッコつけてた方が良いことを把握する。考えてみれば、やり過ぎとはいえ女の子を危ないところで助けたのだから。
「いや、もう遅いから」
「あ、あはは……やっぱり?」
「あんたにそういうカッコ良さ求めてないから、それで良い」
「ええ……ん? じゃあどういうカッコ良さ求めてるの?」
「……」
「……?」
「……言わない」
「えー、なんでさ。俺はマドちゃんの可愛いとこ割と聞かれてるのに」
「あんたが勝手にベラベラ言うからでしょ」
「嫌なら言うのやめるけど?」
「……」
「……あ、あの……マドちゃん? 背中痛い……」
「うるさい」
「あ、さっきのうるさいと違う! いだだだだ! わざとだこれ……!」
「うるさい」
なんてやっている時だった。ガラッと扉が開く。
「リカー、飲み物ー」
「菅谷、怪我平気か? お菓子買ってきた」
「菅谷くん、おにぎりもあるけど……」
「あっ」
直後、視界に映ったのは、透と実行委員二人と手芸部。が、上半身裸の男の背中におでこを押し付けている円香を見て、透を除く三人はフリーズする。
ツカツカと何一つ気にしていない透は、食べ物と飲み物が入った袋を持って来る。
「はい。これ」
「……あの中に平気で入っていける、だと……?」
「つまり……もはやアレは日常の一部……」
「大人になったとかじゃなく、もう完全に三馬鹿姉弟だった……?」
菅谷も透も理解していない。この子達、何言ってるんだろうと思っている。
だが、感性が比較的まともな円香はそうもいかない。クラスメートに目撃された危機感をちゃんと持っていた。
菅谷の背中に額を押し付けたまま。真っ赤になった顔で睨みつける。
「誰かに、言ったら、殺す……!」
「「「イェス、マムっ」」」
三人ともこれでもかというほどの敬礼を放ち、逃げるように解散した。
×××
さて、帰宅。二人とも菅谷のマンションに入る。菅谷がもらった食べ物を三人で分けたため、夕食はいつもより控えめにした。量的には。
手間的にはそれなりに掛かった。……何故なら。
「おー。美味い、この炒飯」
「流石、樋口が焼き豚から作った奴だよね」
「……どうも」
助けられたお礼ってわけでもないが、少し気合入れた結果である。時間は掛かったが、その手間に見合ったものが出来た。
「いや、ホント美味い」
「ふーん……」
興味なさげに返事をしつつ、円香は内心では緊張気味に唾を飲み込む。今日の席順は、円香と菅谷が隣同士で、お向かいが透。
円香は、腹に決めたことがあった。今日、もし菅谷がやられていたら、或いは菅谷がやっちゃってて学校からいなくなるハメになっていたら。
自分の中には、絶対後悔が残る。これまで、もうたくさん全力で楽しんで来たつもりだが、これからは128%を取る。その為には、やはり自分に素直になるしかない。
彼がいなくなるかも、その時に感じた恐怖が、それを呼び覚ました。
覚悟を決めると、内心ではドギマギさせながらも、身を菅谷の方へ寄せた。
「うえっ?」
「……んっ」
肩と肩が触れ合う。別に肌を寄せ合うくらい、もう何度もしているのに、なんだか今日は緊張する。
それでも、それに負けじと顎をくいっと上げて目を閉じる。
「……な、何?」
「言わなきゃ分からないの? 美味しい炒飯だけ貰って何も返さないなんて、さすが女の子二人侍らせてる良い御身分の人。言葉にしないとコミュニケーションが取れない子供じゃないんだから、私が何して欲しいかくらい察して」
「……」
勇気を振り絞っているのだから。分かりやすいかもしれないが、他の方法など思い付かないのだから仕方ない。
撫でやすいように頭を差し出しているのだから、察してもらうまで待機する覚悟だった時だ。
喉を、二本の指でこしょこしょと撫でられた。
「ひゃああぁぁぁんっっ⁉︎」
「ぷはっ……何今の声……!」
「それな」
「じゃないでしょ! なんで喉⁉︎」
笑った透に同意した菅谷の胸ぐらを掴む。
「え、違ったの?」
「猫か私は⁉︎ 頭撫でて欲しかったの!」
「な、なるほど……」
「頭でも猫っぽいよね」
「あ、確かに」
「浅倉うるさい。……リカ、良いから早く撫でて」
「はいはい……ん?」
そこで、菅谷は今更になって意外そうな顔で円香を見る。
「……え、マドちゃんが?」
「……悪い?」
「い、いやいや……それくらい良いけど」
「なら早く」
また喉を撫でられないように、今度は少し俯く。その頭の上に、菅谷は手を置き、優しくブラシを通すように撫でた。
「いつも美味しいご飯、ありがとう」
「……んっ」
……思った以上に恥ずかしい、と言うのが二人の感想だったが、少なくとも円香はまだ余裕があった。……何せ、今まで透ばかり甘えて自分は意地はって我慢してきたのだ。どんなに触っても触り足りない。
次の案を思いついたので、円香はとりあえずスプーンを持つ。
「痛っ……」
「ど、どしたの? マドちゃん」
「……さっきあの男に腕を握られた時、ちょっと痛めたみたい」
「わかった。そいつの腕も折ってくれば良い?」
「そうじゃないでしょ。そんな事したって私の腕は治らないし、食べづらい現状も変えられない」
「……つまり?」
「聞く前に考える事をしない脳みそを無用の長物というのでは?」
「……」
言われて、菅谷はしばらく考え込んだ後、スプーンを円香の炒飯の中に突っ込み、掬う。
そして、そのまま円香の口元へ運んだ。それを前に、円香はまた頬を赤らめる。……何せ、この薄らバカは気付いていないだろうが、そのスプーンは菅谷のものだ。そんなもので食べさせてあげるとか、間接キスを無理矢理されるようなものである。
だが、まだ口にはしない。出来なくなるからだ。
「はい、あーん」
「あーん……んっ、美味しい。流石、私が作った炒飯と、あんたが使ったスプーン」
「え? ……あっ」
「じゃ、そのままそのスプーン使って。後は自分で食べるから」
「……あの、とおるん」
「ダメ」
「マドちゃんが答えるんだ……」
先読みは容易い。
円香が、それはもう実にツヤツヤした表情で、菅谷にベタベタと甘えながら食事をしている時だった。
お向かいにいたはずの透が、いつの間にか椅子ごと菅谷の反対側に持って来て移動していた。
「リカー。私も撫でて」
「え、喉?」
「うーん……じゃあ喉」
「良いよー。おいでー」
「ゴロゴロゴロ……」
言いながら、透は目を閉じて、菅谷の膝の上に頭を置く。
「あ、それはダメ。牛になる」
「猫なのに?」
「それもそっか」
「いやダメでしょ」
口を挟んだのは円香。普通に牛になられても困る。
そう言いながら炒飯を掻っ込む円香に、透はニヤニヤしながら言った。
「ふーん……樋口、羨ましいんだ?」
「……別に。今は私ももう満足したし。……それに、その辺は後でちゃんとリカに平等に摂取させてもらうから」
「えっ」
「……なるほど。そういう感じか」
「どういう感じ?」
一人いまいち理解しきれていない菅谷を置いといて、透と円香は微笑み合う。わざわざ取り合うなんて馬鹿げている。元々、三人一緒にいても全然不愉快ではない仲だし「羨ましい」と思うことはあっても「邪魔」と思うことはない。
「じゃ、今日は樋口の日ね。どうぞ。リカのこと好きに使って」
「……良いの?」
「勿論」
「あの……俺は何に使われるの……?」
「じゃ、ソファー使って。私、洗い物するから」
「ありがと。来て、リカ」
「あ、うん」
……そのまま説明もなく、菅谷を連れて円香はソファーの方に向かい、座る。隣に菅谷も座らせると、肩の上に頭を置くように寄り掛かった。
「んっ……」
「あ、あの……マドちゃん。どうかしたの?」
「何が?」
「何がって……色々。なんか、こう……ちょっと恥ずかしいんだけど」
「そう。良いザマ」
「え……ま、またそんな意地悪を……」
「嫌ならやめるけど?」
「……んっ、嫌じゃないよ」
……嫌じゃないなら構わない。円香は引き続き、菅谷の方に身を寄せ続け……。
「終わったー」
直後、ガバッとジャンプして来たのは、透だった。二人の膝の上にダイブするようにヘッドスライディングした。
ソファーに座る二人の膝の上で寝転がる透。……が、自分でそれをした割に動かなくなった。
「浅倉?」
「お腹、打った……リカの膝硬い……」
「……だ、大丈夫?」
「リカ。気にしなくて良い。自業自得だから」
無視したまま、透は菅谷に身を預け続ける。
「……一応、もっかい言っとくよ。リカ」
「な、何……?」
「私も浅倉も、あんたがいなくなったら嫌だから。……それだけは、ホントに覚えておいて」
「……ん」
まるで、絶対に離さないと言わんばかりに円香は菅谷に体重をかけ続けた。
しばらく、このまま食休みだろう。せっかくなので、何か見ても良いかもしれない。
「なんか見る? ドラマ」
「何でもいい」
「じゃあ、アントマン見たい。複雑な家庭っぽいし」
そんな話をしながら、割と遅くまで長居した。
もう二度と喧嘩なんてさせない。