ついうっかり、買ってしまった。電気ポット。不良品だったらどうしよう、という不安がないわけではないが、それでもやはり新しい家電を買った時というのはワクワクする。
明里には相談しないで買ってしまったが、まぁ許してくれるだろう、なんて実はとても当たり前の結論に達しながら、とりあえず透がいるであろう子供向けフロアに向かう。
少しいつもの癖でつい見過ぎてしまった。透には悪いことを……と、思って上のフロアに上がりきった時だ。
「とおるん、パパ活って何。どういう事?」
「いや、それは冗談で……」
「正直に言って、隣の人とどういう関係? ……もう、俺のことは飽きちゃったの?」
「そ、そんな事ないから100パー……だから落ち着」
「うん、飽きたなら言ってくれれば、もう……うん。もう……」
「え、も、もう……何?」
「……もしかして、やっぱり二股嫌だった? それとも、俺のことなんて本当は好きじゃなかった?」
「違っ……」
「いや、気を使わなくて良いよ……俺達の三角関係が良い感じに進んでると思ってたの俺だけだったって事だよね……マドちゃんにも相談して……」
「ねぇ、違うって言ってんじゃん。人の話を聞く気がないのに何しに来たの。自分だって別の女の子といっしょのくせに」
「は? 撮影被って男気ジャンケンで一緒に飲み物買いに来ただけだから。二股してる奴が浮気なんてするわけないでしょ」
「何その言い分。むしろ不安しかないから。いつ雛菜と小糸ちゃんも菅谷ファミリーになっちゃうのか」
「え、そんなふうに思われてたの?」
ヤバい、とすぐにこの流れを断ち切らないとと思った。何でいつの間にか普通に喧嘩になっちゃってるのか。
二人の透明なのにやたらと濃い圧力に気圧され、周りにいる咲耶とプロデューサーも何も出来ていなかった。
もう何故、明里がここにいるのか、なんて気にする余裕もなく、慌てて二人の間に入る。
「ち、ちょっと、二人ともその辺で……」
「「ま、円香!」」
「そこの大人二人も『助かった』みたいな顔しないで。情けない」
そう言いつつ、透と明里の間に割り込んだ。
「何があったの。落ち着いて教えて」
「「とお(リ)るん(カ)が、パパ(咲耶)活し(侍らせ)てた!」」
「だから落ち着いて教えて。一緒にしゃべられてもわかんない」
「「じゃあ俺(私)から!」」
「分かった。透から聞かせて」
一生、息ぴったりに息合わないと理解した円香は、独断で順番を決めた。
だが、そろそろそうもいかないのが咲耶であって。
「す、すまない、円香……実は、今私達は撮影の合間に男気じゃんけんで勝ってここに来ていてね……」
「後にしてくれます? レジが混んでたとか言って」
申し訳ないけど、別れるか別れないか、ギリギリの狭間にいるのでそれは困る。
「いや、しかし早く行かないと呼び出されてしまう。理由が理由だし、現場の方々に事情は説明出来ないだろう? 三人とも別れるハメになってしまうかもしれないよ」
実際の所、今日の現場は明里の事務所の人が大半を占めているので、問題は無い。それでも、こういう小さな問題の積み重ねが、今後の活動でどう支障をきたすか分かったものではない。
それを考慮した円香は、小さくため息をついた。
「……リカ、行って」
「え、やだよ」
「行って。後でちゃんと話すためにも、今は頭を冷やして来て」
「……わ、分かったよ……」
追い出した。プロデューサーにも「行け」と視線で言うと、3人で飲み物を買いに行った。
さて、残りは透と円香。ふと透の方を見ると、相変わらずすっとぼけた表情のまま……なのだが、少しだけ小刻みに震えていた。
「? 透?」
「ふ、ふふ……初めて喧嘩したわ。リカと」
そういえばそうだ。あまり2人が喧嘩をするところは見た事がない。意外……というわけでもなく、いつか喧嘩するとは思っていたが、少し透の様子が気になった。
「どうしよう。……仲直りできなかったら」
「……」
思いのほか、ショックを受けていた。というか、目尻に涙が見えるのは見間違いだろうか?
「……ど、どうしよう……」
「……とにかく、落ち着いて。近くにスタバあるから、そこで聞かせて」
「……ふふ、死んじゃおっかなー、もう」
「だから落ち着いて。死んだら殺すから」
そんな話をしながら、近くのお店に入った。
さて、改めて話を聞く。早い話が、たまたま会ったプロデューサーに冗談で「パパ活」と言ったら、勘違いされてしまったらしい。
冗談だと説明したが、余程ショックだったのか全然、聞いてもらえずに女々しいことを言い続けた挙句「二股嫌だった?」「ほんとは俺のこと好きじゃなかった?」とか言われてカチンと来て、つい仕事だと分かっていながら咲耶との関係を疑うようなこと言って怒らせてしまったらしい。
「……なるほどね」
まぁ、タイミングが悪かったが、明里がいない場であってもプロデューサーに向けて「パパ活」なんて言ってしまったのが悪い。
特に、家でも透はプロデューサーの話になると明るくなるし、それに明里も気付いていた節がある。あらかじめ話していれば、そうもならなかっただろうに。
「……じゃ、謝れば?」
「私だけ謝るのは嫌だ」
「は?」
「私がリカの事も円香の事も好きなの、あいつ疑ってた。それはむかつくから」
「……」
その言い分は最もである。疑ってたのか、それとも今回のことで揺らいだのかは知らないが、信用されないのは悲しい事だ。
「なら、後はそれを落ち着いて伝えるだけでしょ」
「……うん。ありがと」
「あとでいちごタルトで良いから」
「えっ」
なんて話しつつも、円香はまだホッとしてはいない。何故なら、明里とはまだ話していないから。彼がどういう状況になっているのか、気にならない理由がない。
「ところで、円香」
「?」
「電気ポット買ったんだ」
「うん」
「これでカップ麺作りやすくなる」
「そればっか食べて身体壊しても知らないから」
「じゃあリカに看病してもらお」
「させないから」
なんて話しながら、とりあえず明里の撮影時間が終わるまで待つ事にした。
×××
撮影が終わった。仮にもプロである明里は、ちゃんと撮影中に喧嘩したことは顔に出さないようにしていた。
それらを終えて、帰宅の時間。撮影現場を出てなんとなく散歩したい気分だったので、車の中で着替えて現地で解散させてもらって、土手沿いにある橋を歩き始めた。
頭の中に浮かんだのは罪悪感だった。
「はぁ……喧嘩してしまった……」
ため息が漏れる。やっちゃった。つい頭に血が昇るより先に悲しくなり、怒ってしまった。ああ見えて意外とガードが硬い透が、そんなことあるはずないのに。
こんな事になるなんて……と、思いながら、橋から川を眺めた。そういえば、中学の時は3人で清掃ボランティアなんてしてたなぁと思って手すりに寄りかかっていると、手元からスマホが落ちた。
「あっ」
橋の手すりの反対側に落ちてしまったので、飛び越えて取ろうとした時だ。
「あ、あぶなああああああい!」
「ごっふぁ!」
後ろからむにゅっと柔らかい感触の割に、やたらと強い力が強引に柵から自分を引き剥がそうとする。
「え、ちょっ……な、何⁉︎ 誰‼︎」
「だ、だだだダメだよ喧嘩くらいでっ……じ、じさじさじさっ……自殺なんて!」
「時差? 何の話!」
「話なら聞くからおちっ、おちおちついて! いや、落ちて着いてじゃなくて気持ちを落ち着かせて!」
「いやお前よりは落ち着いてるけど……ていうか、マジで何の話……」
と、思っている間に柵から引き離され、正面を向かされる。そこにいたのは咲耶だった。
「白瀬さん? あの、何勘違いしてるのか知りませんけど……俺はただ……」
「と、とにかく、ちゃんと当人と話し合って! だから、だから死ぬなんて真似はダメだよ……!」
「っ、ち、ちょっと! 何して……!」
正面からぎゅっと落ち着かせるようなハグをされた。その圧は、市川雛菜さえも超す大きさと火力。どんな男であっても「ちょっとくらい堪能しよう」と思えるそれは、一瞬だけ明里の意識を持っていきかけた。
が、この男の理性は人類最強クラス。世界で一番、ルフィや悟空に近い男とも言える。
「ダメですって、白瀬さん! こんなとこ、とおるんとマドちゃんに見られたら……!」
「……」
「……」
橋の方から、歩いて来る透と円香と目が合った。
「は?」
「は?」
「おぉう、もう……」
「? あ、円香。透! 今実は彼が……」
「最低」
「もう帰って来ないで」
「え?」
「……」
帰られてしまった。
×××
「はい、カフェオレで良かったかな?」
「どうも……」
場所は、283事務所近くのカフェ。あの後、咲耶を探してやって来たプロデューサーに事情を説明し、とりあえず相談する事になった。
隣にいるのは一緒にいた咲耶。とても申し訳なさそうに声を掛けられる。
「すまない……まさか、スマホを落としただけだったとは……」
「いえ、別に大丈夫です……紛らわしい行動した俺も悪かったですから……」
本当に今日は間が悪い日だ。というか、どんだけ本気で自決すると心配されてたんだろう。
「それで、連絡は?」
「全く繋がらないです……」
「そっか……」
プロデューサーさんの問いに、首を横に振って答える。
少し、明里はため息が漏れる。というか、ガッツリ漏れる。透だけでなく円香にも帰ってくるな、と言われてしまった……。
いや、そこはまぁ信じている。明里ならそんなコソコソと浮気をするはずない、と思ってくれると。少なくとも、円香なら。
しかし、透は分からない。ただでさえ喧嘩したばかりなのに、あんなシーンを目撃されてはもはや終わりだ。終わりにしないための作戦を考えないといけない。
「菅谷くん」
「なんですか……」
そんな中、プロデューサーが声を掛けてくれた。
「まずは、パパ活の件だが……」
「事実だったら弁護士呼びます」
「事実じゃないって言おうとしたんだけど……うん、まぁ事実じゃないよ。透の冗談だ」
「……」
「もしかして、透は家でも俺の話をよくしてるのか?」
「……はい。めっちゃ良い笑顔で」
その返事に、咲耶もプロデューサーも困ったような顔を見合わせる。
「あいつは本当になんていうか……」
「まぁ、透らしいと言えばそうかもね。良い事だとは思わないけれど」
透と同じ職場にいて二年目の咲耶も、呆れ気味の声を漏らす。
「でもね、菅谷くん。透は確かによく俺に話しかけてくるけど……その話の内容、ほとんど君と円香の事なんだ」
「……」
「朝ご飯を作ってくれたとか、今日は帰ってもリカがいないとか、大学で円香がナンパされてたとか、そういう話ばかりだよ」
それを聞いて、少し明里は頬がにやける。素直な反応を見て、プロデューサーも咲耶もほっこりするが、そのまま続けた。
「勿論、ああいう冗談は良くないけど、本当に俺とそういう関係はないんだ。いや、まぁ本当にパパ活してるなんて思ってないかもしれないけど、別に透が俺のことを好きだとか、そういうこともない。だから、そんなに不安になる事ないよ」
それとも、と、プロデューサーは続けていった。
「俺のことを背負い投げした男は、こんな勘違いで好きな女の子と別れるような、情けない男だったのか?」
「っ……ち、違う!」
「じゃあ、さっさと仲直りして、今日はまだ半日あるし、ゆっくりと過ごしなさい」
「は、はい!」
「まず電話!」
「はい!」
流石、元気と熱意だけで多くのアイドルを育成して来た猛者だ。すぐにバカをその気にさせてしまった。
明里はスマホを取り出し、透に電話を掛け、応答を待った。
『もしもし』
「とおるん?」
『死ね』
切られた。
「……」
「……」
「……」
先は長そうだ。
×××
仕事の合間に話をしてくれたので、二人ともそのまま解散。残念ながら、何度か透に連絡を試みたものの返事は無い。
なんかもう今日はダメかな、と思って、公園で寝る事にした。近くにあるそこは、ベンチのすぐ近くに大きな木が並んでいて、割と風を遮ってくれる。
「一日くらいなら風邪ひかないでしょ」
「ひくでしょ」
「⁉︎」
振り返ると、そこにいたのは円香。腕を組んで、怒りを露わにしている。
「何で帰ってこないわけ?」
「いや、だって……帰ってくるなって……連絡も取れないし……」
「だからって公園で寝る? あんたほんとどんな頭してんの?」
「い、いや……あ、ま、マドちゃん。それより橋の上のことは」
「白瀬さんから連絡きた。スマホ落として自殺と間違われたんでしょ。……まぁ、そんなとこだとは思ってたけど」
「だったら連絡してよ……」
「……透にスマホ取られてた。私がリカのことこっそり家に入れないようにするために」
「え、な、何それ……」
「ずっと透、スマホの電源切ってるし、割と本気だからアレ」
「……」
困った。かなり。思わずため息が漏れる。
「じゃ、ついて来て」
「え、ど、どこ行くの?」
「家。こっそり私の部屋に入れてあげる」
「え、い、良いの……?」
「ていうか、そうでもしないと仲直り出来ないでしょ。……一家の大黒柱が、下らない喧嘩で外泊しないで」
「……どっちかって言うと、大黒柱はマドちゃんじゃない?」
「情けなさを自覚して」
「すみません……」
そんなわけで、家には入れる事になった。
そのまま二人で家に向かう。玄関の前に立つと、円香は普通に開けて中に入った。
「ただいま」
「おかえりー。どこ行ってたの?」
「コンポタ飲みたくなって買いに行ったけど、もうなかった」
「あー、まぁないでしょ」
透の声はリビングから届いてくるだけ。円香が適当に返事をする間に、明里は慎重な足運びで円香の部屋に向かう。
そのまま部屋に到着した。ふと目に入ったのは、電気ポットの箱だった。
「そんなのあったっけ?」
「今日買った。安かったから」
「へー……ていうか、マドちゃん達あそこで何してたの?」
「ゲーム見に行ってた。実況するかもしんないから。ご飯、悪いけどカップ麺でも良い?」
「あ、勿論」
「じゃあ、取ってきてあげる」
「ホント、ありがとね」
「明日にはちゃんと仲直りして」
「うん」
それだけ話して、円香は電気ポットを持って部屋を出て、カップ麺と水入りの電気ポットを持って戻って来た。
「とおるんにバレなかった?」
「透には『今日ならリカの布団の匂い嗅ぎ放題だから』って教えておいた」
「何してんの⁉︎」
「大きい声出さないで。バレる」
数分して戻って来たので、カップ麺をありがたくいただく。
「じゃ、私下にいるから」
「え、行っちゃうの?」
「いつもはリビングで駄弁ってる時間でしょ」
「そっか」
そんなわけで、三人で住んでいる家なのに、一人飯になった。
改めて、思った。三人一緒に付き合えて良かった、と。割と円香か透、どちらかが欠けたらどうにもならない事態は多く経験して来た。二股の利点は、誰か一人が仲裁できる事にあるのかもしれない……。
なんて思いながら、食事を終えた。一々、円香が小まめに部屋に戻るのも不自然な気がしたので、あとで来た時についでに返す事にして、とりあえず待機する。
だが、円香と明里は甘く見ていた。三人暮らしの家で一人がいることを他一人に隠して生きることが、どれだけの難関を誇るのか……。
×××
リビングにて、のんびりと円香と透が映画を見ていると、ピーピピピッピーと電子音が鳴り響く。お風呂が沸いたようだ。
そこで、円香はハッとする。しまった、お風呂はどうするのか。同じベッドで寝る以上、円香は正直、明里の身体の汚れなら気にしないが、明里が「お風呂には入りたい」と言うだろう。ただでさえ、今日は川沿いでの仕事だったし。
「わぉ、この映画グロっ。リカいなくて良かった奴じゃん」
透がそんな呟きを漏らすが、円香はそれどころでは無く集中出来ない。
お風呂……三人で回して入るわけだが、今は二人。三人目がいたら確実に不自然だ。
つまり、まるで一人で入ってるかのように見せる必要がある。
「円香、お風呂良いよ。先に」
「え、あー……う、うん」
よりにもよって先か、と思いつつも、まぁ問題ない。トラブルを防ぐために、家の中では次にお風呂に入る人を呼びに行ってから入ってもらうルールを決めている。
そんなわけで、円香はまず自室に向かった。
「リカ」
「ん? あ、これゴミどうしよう」
「後で捨てて。……お風呂」
「え?」
「入る。一緒に。だから水着、用意して」
「あ、あー……出て平気なの?」
「今なら透、映画に夢中だから」
「り、了解……」
仕方なく、覚悟を決めて二人でお風呂。明里がトイレで海パンに履き替えている間に、円香は先に洗面所で着替え、バスルームで待機。
待っている間、どうしたら良いのか分からなかったので、先に頭だけ洗っておいた。シャンプーを流し切ったあと、遅れて海パンの明里が入ってくる。
「っ……や、やっぱり……綺麗だね……」
「一緒にお風呂なんてアブノーマルなことしてる時は褒めなくて良い」
「あ、ご、ごめん……」
ほとんど照れ隠しで言ったのだが、謝られてしまった。
一緒にお風呂に入る、なんて友達同士では何度も経験した事のはずなのに、不思議とどうしたら良いのか分からなくなっていた。
えーっと……そう、小糸だ。ベクトルは違うとはいえ、明里も小糸も動物みたいなもの。確か一緒に入ってる時は……洗いっこしてた。
ダメだ、それは無理。触られるのも触るのもなんか意識する。そうじゃなくて、効率よく洗うには……。
「私、今から身体洗うから、その間に頭洗っちゃって」
「あ、了解」
そう、これだ。合間合間で洗う事。……まぁ、せっかくの機会だし、湯船には一緒に浸かりたいとか思ってるし。
さて、これをした理由はもう一つある。身体を洗うには、当然水着の内側も洗いたい。だが、それをしたら見られる。だからその間に顔が隠れる明里に、頭を洗わせた。逆の時? それは知らない。見られるのは恥ずかしいけど、見る分には問題ないし。
さて、作戦通り、水着の内側を洗う。……明里の後ろで恥ずかしい部分を洗う背徳感はこの際、堪能している場合じゃないと我慢して、何とかトラブルなく終えた。
続いて、洗顔。その間に明里は身体を洗った。残念なんかではない。
そして最後に、自分はトリートメントをして、明里は洗顔……と、順序よく進んでいった。
「じゃ、入るよ」
「うん」
「……先入って」
「? う、うん?」
まずは明里に入らせた。蓋を開けて、明里が中に入る。すると、思わず円香は困ってしまった。何故なら、面積がほとんどなくなってしまったから。
「……これ、何処に入るの?」
「え……は、反対側は?」
「……」
とりあえず、それで入ってみる。反対側に腰を下ろすように足を入れて、座る。足を伸ばそうとした直後、ふとそれが止まった。女の子的に足を開くのは嫌だ……が、かと言って閉じたまま伸ばせば……。
「……背もたれになって」
「え?」
一度立ってから、向きを変えた。ほとんど生肌の背中を、明里の生肌の上半身に乗せるように体重をかける。
「っ、ひあっ……」
「うるさい。変な声あげないで」
「そんなこと言われても……」
「いいから」
円香にもその気持ちはわかる。だからこそやめて欲しかった。この距離と、この肌の設置面……ちょっと、理性を抑えられそうにない。
心臓が高鳴る。胸が苦しい程痛む。頭が熱く重くなる。何もかもが吹っ飛びそうな時、後ろから少し色っぽい声がかけられる。
「マドちゃん」
「……何」
「キス、したい」
「……!」
今、そんなことしたら、確実に止められない。それは明らかだった。断った方が良い、と理性は言っている。
しかし、ふとそこで気がついた。いつの間にか明里の両手が、自分のお腹の前で、まるで逃がさないかのように組まれている事に。
それを理解した直後、自分は無言で明里の肩に後頭部を置きながら、唇を尖らせていた。
そこに降り注ぐ、明里の唇。重なり合い、当然のように舌の侵入を許しそうになった時だ。
──ガラガラっと、洗面所の扉が開く音で慌てて正気に戻った。
扉一枚、隔てた先では透がいる、そう思った直後、二人はわちゃわちゃと慌てた後、明里が湯船の中に潜り、円香はお風呂の蓋を乗せた。
その僅か二秒後、声が聞こえてくる。
「円香ー、お風呂まだー?」
「えっ? ま、まだ20分くらいでしょ」
「もう40分入ってるけど」
「そっ……そう、ごめん。もう出るから待ってて」
そんなに経ってるの⁉︎ と聞きそうになったのを抑えて、謝った。やがて、扉が閉まる音がして、そこでようやく蓋を取って明里が水面から出てくる。
「……」
「……」
「……あ、上がろっか……」
「……ん」
気まずい空気のまま、湯船から出る。
明里は……どういうつもりでキスしたい、なんて言い出したのだろうか? いや、あのシチュエーションなら一つしかないが、明里の事だ。単純にそれだけの可能性もある。
……だが、万が一にも、そのつもりだったのだとしたら……。
「リカ」
「何?」
「……続きは、部屋で……」
「……う、うん……」
今度は、こちらから勇気を振り絞ってみた。
×××
さて、歯磨きを終えて、いよいよ寝る時間。二人は、円香の部屋のベッドで布団の中に入る。
二人とも、これから何かを始める気満々、と言わんばかりに頬を赤らめ、今にもキスをしそうな感じだ。……が、少しだけ落ち着いた今、二人の中には引っかかるものがあった。
そう、透のことだ。
透と喧嘩中に、二人でそういう雰囲気になったからってそれをする……というのは、なんか違う気がする。
そもそも、さっきまで謝らなかったのは、一方的に連絡も取れなかったから。
つまり、今なら謝る機会がある。それをしないと、筋が違う。
それで追い出されたらー……いや、その時のために円香がいるのだ。
二人揃ってそれを決めた時だった。
「円香ー」
「「っ⁉︎」」
こちらから行こうとしたら、まさかの向こうから来て反射的に明里は布団の中に隠れてしまった。円香の下半身にしがみつくような構図になり、思わず円香は身悶えしそうになる。
明里が布団の中に入るのと同時に、円香は身体を起こし、下半身にだけ布団をかけている寝る前の状態にシフトチェンジする。
その後、すぐに透が入ってきた。その服装は、寝巻きの上にジャージを羽織っている。
「何?」
「リカ、探してくるね」
「え、き、急にどうしたの?」
「んー……なんか、落ち着いて来てから、心配になって来て。リカ、公園で寝たりしてないかな」
「……」
「……」
どうやら、透は透で色々と考えてはいたようだ。……いや、もう何も考えていない昔とは違う。少なくとも、透はユニットと三角関係については考えるようになった。
何にしても、心配かけさせてしまっている。
「円香は寝てて。私の責任だから」
「え、いや一人じゃ……」
「いいから。じゃ、おやすみ」
言うだけ言って、透は部屋から出ていく。残った二人は、バサッと布団を剥がした。
「……リカ」
「うん。俺も同じ事思ってた」
「じゃ、続きは後で」
「……ん」
すぐに、後を追った。何にしても、こんな時間に女の子一人で外に出すわけにはいかない。
玄関に行くと、透は靴を履き始めている。
「待って、とおるん!」
「? ……え、リカ。いたの?」
「ごめん、マドちゃんに入れてもらってた」
「……ふーん」
素直に自白したからだろうか? 透の表情に不快感が出たのは一瞬だった。
正直、明里だけが悪いわけではない。だが、もうそういう事じゃなかった。
「ごめん、白瀬さんの事は……アレは」
「さっきチェイン見た。自殺と間違われたんでしょ」
「う、うん……」
「私も、プロデューサーとのことは……」
「聞いた。冗談だったんでしょ。」
「や、それだけじゃなくて」
「?」
「昔の知り合い。子供の時、一回だけ遊んでもらった」
「……そうなんだ」
「うん。だから……別に好きとかじゃないけど、思い出してほしくて、結構距離近くしてた」
「……」
「……」
二人とも、言いたい事は言えた。そして、お互いに事情があることも理解した。そうなったら、もうやる事は一つだ。
靴を脱いだ透と、一歩踏み出した明里が、正面からハグをする。
「ごめん」
「いいよ。ごめん」
「いいよ」
淡白だが、それ以上に言葉はいらない謝罪。それ故に、効果は抜群だった。
「……リカがいないと、寂しかった」
「俺も。マドちゃんが色々してくれたけど、やっばり一人足りなかった」
「……」
「……」
しばらくハグを続ける。そして、至近距離からお互いの顔を見合わせると、コツンと額をくっ付けてキスをした。まるで、海外映画のワンシーンのようなその様子に、円香は邪魔をしないようそっと目を閉じる。まったく、世話が焼ける彼氏と彼女である。
……さて、しばらく放っておいても良いが、明日は円香と透は仕事である。そろそろ寝ないといけない。まぁ、自分はこの後、リカと……それなわけだが。
「二人とも、もう夜遅いから」
「……あ、そうだね」
「はーあ、リカとの大学生活の、1,460分の1日無駄にした」
「あ、俺はその点無駄ではなかったかな。さっきマドちゃんとお風呂入ったし」
「……は?」
「え?」
「……」
空気が変わった。
「何それ」
「え? 水着着て、二人で」
「私の時は悲鳴あげて逃げた癖に?」
「それは俺が何も履いてなかったから……」
「……ずるい」
「え?」
「円香、これ私が借りるから」
「えっ」
「えっ」
「一緒に寝るよ、リカ。水着で」
「それ意味あるの⁉︎」
「や、ちょっ……」
結局、水着にはならなかったものの、明里は透に抱き枕にされ、円香は溜まったものを何とかした。