【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
夢を見た。
旧い夢。
目が覚めた。
まだ悪夢の中にいる。
失ったものを数えるには指が足りなくて。
手に入れたものは、なにひとつ残っていなかった。
どこで間違えたかなんて興味ない。
ただそこに、名残りの焔が見えるだけ。
ああ、本当のところ。
ワタシは、どんな結末が欲しかったのだろう――?
2016年12月、フランスにて
Les Amants d'un Jour
DAY 1
L'Écume des jours / 日々の泡
玄関の扉が開く音。遅れて、キッチンまで響く伸びやかな声。
「ただいま帰りましたー!」
俺の幸せホルモンを極限まで刺激する、鈴の音色。
鍋をかきまわす手をただちに止めて、いそいそと出迎えに向かう。
玄関へ続く扉を開けると、マフラーを解く彼女と目があった。
「わあ、二日ぶりの遠野くんです」
穏やかな湖水の瞳が、俺を見て嬉しそうに細められる。まとわりついた夜気を振り払うように髪を振り、とん、とこちらへ歩み寄ってくる。
すぐにでも抱きしめたい衝動をぐっとこらえ、微笑みだけをなんとか返した。
「先輩……鼻、赤いよ」
「今日は冷えます。山の方から雪まじりの風がびゅんびゅんです。……おや、なんだか良い香りが?」
「一日持て余してたんで、作ってみたんですけど」
途端、碧い瞳が輝いた。先輩はカウンターに手袋を置き捨てて、やったーと洗面所へ向かっていく。やれやれとため息をついて、その背を追いかける。
「おかえり、先輩」
遠野志貴とシエルの、二日ぶりの再会であった。
***
「それにしても」
食卓に着くなり、先輩は俺の全身に目を滑らせ、にへっと笑った。おおう、不用意にかわいいな、この人。
「遠野くんのエプロン姿、新鮮です」
「ああ、勝手に借りました、すみません」
「なんのなんの。どうぞ好きなだけ使ってください。ユニフォームにしていただいてもいいくらいです」
「えっと、それは遠慮します」
なぜ、と首をかしげている先輩を無視する。心苦しいが、仕方あるまい。
残念ながら、擬人化されたカレーパンが腹のあたりにプリントしてあるエプロンを常用する度胸は俺にはないのだ。
「さあ、冷めないうちに食べましょう」
「はいっ!」
献立は無論、カレーである。
ダイニングテーブルに向かい合って座り、スプーンを手に取る。今日の具材はシーフードだ。ルーは日本食を扱う店で買ったが、野菜類は市場で調達した。
移住してきて半年余り。俺の頼りない言葉でも、ようやく買い物くらいはこなせるようになった。
いただきます、と二人そろって手を合わせる。福神漬けをもりもり乗せている先輩を見ると、ここが異国の地であることを忘れかける。
「うれしそうだね、先輩」
「遠野くんのカレー、久しぶりですから」
「そうだっけ?」
たしか、先々月には作ったはずだ。二か月前のことを久しぶりというのは、ちょっと無理がないか。
「わたしは毎日でもいいくらいなんですけどねー」
ちらちらっとこっちを見てくる。これが冗談じゃないのが困る。もっと困るのが、この目でお願いされるとまんざらじゃない気分になってくる俺の軟弱さである。
先輩のお願いに抗える意思? そんなもん、胎児からやり直したって存在しねえよ。遺伝子的にNG項目である。
とはいえ、このままではふたりの栄養状況に深刻な問題が発生しそうだったので、話を逸らすことにする。
「アヴィニョンはヴァチカンよりずいぶん冷えますね。南仏プロヴァンスって聞いてたから、冬でももっとあったかいものだと思ってました」
「あはは。こっちは曇りがちですしねえ。わたしも冬のアヴィニョンは経験がありませんが、ミストラルの機嫌次第では、氷点下にもなるそうですよ」
「げっ、アルプスの吹き下ろし、おそるべしですね」
「同じ南仏でも、ニースあたりまで足を延ばせばもっと温暖ですけど、残念ながら我々に引っ越しの権限はありませんからねえ」
「承知してます。けど、いいんです、俺、この街好きですから」
先輩は手を止めて、眼鏡越しに俺を見る。それから、にっこり笑った。
「はい。わたしも、遠野くんと一緒ならどこでもいいです」
「ばっ」
そういう不意打ちはやめてほしい。特に辛い物を食べているときは命にかかわる。むせかけた喉を鎮めるように、水を流し込んだ。
その様子でさえ愛おしそうに、先輩は目を細めるのだった。
……えっと。
かわいいです。
アヴィニョン。
先輩の故国、フランスの南部に位置する古い都市だ。名流ローヌのほとりにたたずむ、文化と芸術に愛された街。ここの風俗を、若いころのピカソが材に取ったことはよく知られている。彼にとって大きな転換点になった仕事だと言われる。
古い家を買い取って、俺たちがこの街の郊外に移住してきたのは、春先のことだ。それ以来、慣れない手つきなりに、幸せな共同生活を送っている。
いまは十二月も下旬に差し掛かろうというところ。
あの"アルクェイド大暴れ事件"――もとい、"極東危機"から、二年以上がたったことになる。
「それで先輩、ヴァチカンはなんて?」
「新しい任務を拝命しました。死徒討伐です」
「そう、やっぱり」
「おや、気づいていたんですか? えすぱー?」
「先に俺だけを帰らせるんだから、その手の話以外には考えられないでしょ。あの人たちが先輩にクリスマスプレゼントくれるわけないんだから」
「なるほど。言われてみればその通りですね」
どうせならプレゼントも欲しかったです、などと笑っている。うむ、よかろう。美人だ。
ロアによって半分くらい死徒化した俺を、もちろん教会は討伐しようとした。それを決死の覚悟で止めてくれたのは、シエル先輩だ。
あの事件で不死を失ったものの、先輩の戦闘能力や任務の遂行能力は、依然として並みの代行者が束になっても太刀打ちできない。そのシエルが、命をかけての交渉に臨んだ。厳しい条件と引き換えとはいえ、埋葬機関が俺の生存を認めてくれたのは、ある意味では当然のことだった。
もとより一切の異端を許さぬ聖堂教会の中でも、目的のためなら手段を択ばない潔さを持つ異例のセクションだ。単独で二十七祖を討伐する人材を失うことに比べたら、死徒になりかけの犬一匹くらいは放置しても構わない、と判断するのは理のうちである。あと、これは内緒の話だが、どうやら先輩びいきの第五位の「ボクに比べれば安い例外でしょ?」の一声が決め手になったらしい。
なおその際、埋葬機関局長のナルバレックと先輩の間で殺し合いに近い話し合いが持たれた、ということは人づてに聞いた。不覚にも俺は殺し合いと話し合いが両立することを知らなかったので、初めて聞いたときには意味が分からず首をかしげたものだ。
当然のことだが、いまだに意味はわかってない。触らぬ神になんとやら、だ。文字通り。
「任務への出発はいつになりますか?」
「それがですね、結構急ぎの案件で、明日には現地入りしなきゃいけないんですよね」
「げっ、それはまた急ですね。場所は国内?」
「うーん、それは微妙なところですね」
俺の生存にかけられた条件はいくつかある。そのうちの一つが、居住地は教会が指定する街のいずれかに限られる、というものだ。要するに俺のような危険因子は常に教会の勢力圏において一挙一動を監視しなければならない、ということだろう。学校を卒業するまで待ってくれたのは、まさに神の情けというやつだった。
提示されたいくつかの街の中でアヴィニョンを選んだ理由は、そこがフランスだったからだ。それ以上でもそれ以下でもない。だって、どうせ異国に住むなら先輩の生まれ育った国がいいからね。
もちろん、先輩にとって"故郷"という言葉は苦みを含む。それでも、俺の希望に彼女は笑ってうなずいてくれた。
そんなわけで、先輩とここで暮らし始めた。まだまだぎこちない俺たちの二人暮らしである。
「微妙って、どういうことですか? フランス国内じゃない?」
「地域で言えばアルザスということになります。北東の極み、ドイツとスイスとの国境沿いですね」
「ああ、だから」
「はい。現時点では標的の棺の場所は国内と報告されていますが、本当のところは行ってみないとわかりません。ライン川を挟んで、こちら側に居城があれば国内、あちら側であれば国外、ということになります」
フランスでの暮らしには、思ったより苦労しなかった。言葉の壁は気合と笑顔でなんとでもなる。もともとが洋館暮らしだったので、土足の風俗には慣れている。好き嫌いはないし、水や空気が合わないということもなかった。
もっとも、仮に多少の困難があったとしても関係はなかっただろう。先輩と暮らせるという喜びを前にしては、すべての事柄が些事である。
「その辺の地理はまだ勉強不足ですが、移動は飛行機ですか、電車?」
「どちらでも構いませんが、安全を取って電車にしましょう。せっかくなのでパリ経由ですかね。五時間程度です」
「じゃあ、また先輩と旅ができますね」
先輩はカレーを口に運ぶ手を止めて、目をぱちくりさせた後に、嬉しそうにうなずいた。
「うふふ。ちょっと早いですけど、遠野くんとクリスマス旅行ですね」
死徒狩りのための遠征をそう言い切ってしまうあたり、この人の神経はなかなかに図太い。もちろん、俺も彼女も言葉や表面的な態度ほど楽観しているわけではないのだが。
教会が俺たちに課した条件の二つ目がこれだ。先輩と俺は、基本的に別行動を禁じられている。先輩が任地に赴くときには、そこがどんな死地であったとしても、必ず俺も同行しなければならない。それで巻き込まれて死ぬ程度なら勝手に死ね、ということだろう。
この条件の意図はつまり、万が一俺が反転してしまったら代行者シエルが手ずから速やかにとどめを刺せ、というところにある。庇うからには最後まで、あるいは最期まで責任を持てよ、ということなのだろう。教会もなかなかえげつないことを考えるものだ。
もっとも、先輩と片時も離れたくない俺としてはこの条件は枷にすらならない。というか、白状すればむしろ大歓迎なのだった。役得である。……ちょっと違うか?
「それじゃあ先輩、ご飯を食べたらまた遠征の仕度をしなきゃダメですね。さっきイタリアから帰ってきたばかりなのに、大丈夫ですか、疲れてませんか?」
「元気ですよ。遠野くんの顔を見たら、売るほど湧いてきました」
「それはなによりです」
「あ、これはそっけない反応ですね。むむむっ」
不満そうに見つめてくる。勘弁してほしい。こういうのにいちいち真剣に付き合ってたら体が持たない。俺の表情がにやにや顔で固定されてしまったらどう責任を取ってくれるのか。
「そうなったら責任取って、わたしが一生、一緒にいます」
「先輩、心を読まないでください」嬉しいけど。
「えへへ」
先輩も嬉しそうだ。かわいいのである。一生この笑顔を見ていたいなあ、などとバカげた妄想をする。
と、その時、虚妄を破るように、二階から下ってくる足音が聞こえた。
コツコツ、というより、ドンドン、という踏み鳴らしである。
階段を下り切った足音の主は苛立たし気に近づいてくると、寝不足の眉間に深い溝を刻みながら、重いため息を吐いた。
「――ねえ、その新婚ボケ、そろそろ終わりにならないの?」
「ほほう、新婚。いい響きですね」
シエル先輩の見事な返しに、女はまたも海より深いため息を吐いた。これが埋葬機関の七位とか、いまだに信じられないんだけど、いや、信じたくないんだけど、などとぶつぶつ言っている。
ツァオ・ルオシー。
代行者には珍しい中国系のルーツを持つこの女が、教会が俺に着けた三つ目の首輪だった。もっとも、名前は偽名であろうと疑っている。だって、曹姓にルオシーって、いくら何でも平凡すぎやしないか。
ルオシーの任務はシエルと遠野志貴の徹底的な監視である。俺たちが鎖を嚙み千切って反旗を翻したときに、いち早く教会に知らせ、可能であれば討伐せよ、という命令を受けているらしい。とはいえ、教会もその可能性は極めて低いと考えているようだ。代行者は二人一組での行動を基本とするが、あまりにも人員がもったいないという理由で、この任務だけは彼女一人に負担をかけることになったと聞いた。
もっとも本人は、
「はっ、その万が一が訪れたとしても、アタシ程度が悪名高い"弓"を仕留められるわけないでしょ。もしもシキ君とシエルが裏切る気になったら、真っ先にアタシを殺して逃げることね。あたしの命は教会へのアラートを兼ねるから、それで晴れて広域指名手配よ」
と、なんだかあきらめ気味である。先輩いわく、ルオシーも決して平均的な代行者ではない、誇るべき実力者らしいのだが。
「わたしと構えたら、五分は持たないでしょうね」
というのが先輩の戦力分析である。
……いや、わかってたよ? わかってたけど、規格外すぎませんかね貴女?
そんな先輩は、眠そうにこちらを見つめるルオシーに不動の笑顔を向けながら、声だけは恐ろしく冷たく言った。
「ところでルオシー、まさかずっとこの家にいたんですか?」
二日間も? わたしの不在中に? 遠野くんと? 二日間も? と重ねていく。迫力は黒鍵の連打に勝る。
「そのまさかだけど、こっちだって任務なの。殺気は勘弁してくれない?」
冤罪よ、あんたの愛しいダーリンには指一本触れちゃいないんだから、とルオシーは両手を挙げている。
「あ、そそ、そうですか。であれば特に問題はないのです、いつもお勤めご苦労様です」
でもその、ダーリンという呼び方はですね、などと頬に手を当ててごにょごにょ言っている。俺が言うのもなんだが、いくらなんでもチョロすぎないか?
諸事情あって遠野志貴とシエルが別行動を取らざるを得なくなった場合、ルオシーは遠野志貴の監視を優先することになっている。危険性が高いのは俺の方だから当然だろう。
一週間前、俺と先輩、そして監視役のルオシーはヴァチカンへ召喚された。特に理由はない。俺の定期健康診断のようなものだ。イレギュラーがあったのはその後のこと。先輩だけ二日ほど長くヴァチカンに滞在するように、という命令が下ったのだ。
かくして俺とルオシーは先にアヴィニョンに帰ってきた。普段は近所に住んで最低限の監視で済ませているルオシーだが、こうなると話が変わってくる。
万が一の際の処刑人であるシエルが傍にいないときは、ルオシーがその任務を代わることになる。つまり、遠野志貴の反転に備えて、彼女は四六時中俺の挙動を見張らなければならなかった、というわけだ。したがってルオシーはこの二日、一睡もしていない。
なお、さっきまで二階に引っ込んでいてくれたのは、二日ぶりの再会を邪魔すまい、という彼女なりの気遣いだったのだろう。ぶっきらぼうだが、ルオシーは気遣いの人なのだ。教会組織ではさぞ気苦労をしていることだろう。
「ではルオシー、わたしは無事に帰ってきましたので、もうお帰りいただいて結構ですよ。お疲れでしょうから、今夜はゆっくり休んでくださいね。さあ、夜が更けないうちに早く。さあ、さあ」
半分は本音の気遣い、残り半分の本音は一刻も早くふたりきりになりたい、といったところだろう。慇懃無礼とはこのことか、という態度の先輩に対し、ルオシーはそっけない。
「言われなくてもそうするわ。眠くて死にそうなんだから。他人の恋路を邪魔して馬に蹴られたらかなわないしね」
「恋路とは!」
「違うの?」
「違くは、ありませんが……」
真っ赤になった先輩を、ルオシーは楽しそうに眺めている。
年のころは二十七だという。代行者としての戦歴も長い。なんだかんだ、頼りになる大人のお姉さん、という雰囲気である。短く切りそろえた黒髪と、切れ長の黒い瞳、鍛え抜かれたスマートな体つきと油断のない挙措が、その印象をいっそう強くしている。
くあ、と大きなあくびを残して退室しようとするルオシーの背中に、俺は声をかけた。
「ルオシー」
「ん、なに?」
「ルオシーも、せっかくだからカレー、食べていかないか?」
「……は?」
「そう思って多めに作っといたんだ。監視は疲れただろうけど、あんたも二日間ろくに食べてなかっただろ。寝るにしても何か腹に入れてからの方が良くないか?」
「寝る前にカレーって、シキ君、アタシを牛にするつもり?」
「そのスタイル、すこしくらい不摂生しても問題ないだろ」
むむっと面白くなさそうに先輩が眉を寄せる。いや、俺としては先輩の触り心地が世界一であることに変わりないんですけどね、と口にしかけてやめた。
好んで寿命を短くすることもあるまい。
「……いいの?」
ルオシーの言葉は先輩に向けられている。
「遠野くんがそう言うなら、わたしに拒否権はありません」
実際、先輩だってルオシーには感謝しているのだ。監視役が他の代行者だったら、俺たちの生活はもう少し不自由なものになっていたのだろうから。
「では、お言葉に甘えましょう」
ルオシーは椅子を引いて腰かけてくれた。その前に皿を出す。ルオシーは小さく「いただきます」と言ってから、スプーンを口に運び始めた。
一口ふくむなり、おっ、と目を輝かせている。俺は知っているのだ。実はルオシーも、先輩に劣らずカレー愛好家であることを。
あ、いや、嘘だ。先輩には劣る。
先輩はルオシーの様子を見ながら、ああ遠野くんのカレーが減っていきます、でも遠野くんのカレーの振る舞いを断るなんてあってはならないことですし、ああでも減っていってしまいます、と呪詛か泣き言かわからない独り言を繰り返している。ちょっと面白い。
食事の時間を短く、というのは代行者の技能の一つなのかもしれない。物音ひとつ立てないまま、あっという間に完食してしまった。……いや、これは単に腹が減っていただけか。
ルオシーはナプキンで口元を拭ってから、水を一息に飲み干した。
「うん。おいしかった。ご馳走様、シキ君」
「お粗末様。いつも悪いね、負担かけて」
「こっちの台詞よ。アタシだって、本当はこんな無粋な任務は好きじゃないんだけど」
あと、命がいくつあっても足りなさそうだ、と先輩の方を見て肩をすくめる。
「救いは、監視対象の二人のことは、そう嫌いじゃないってことだけかな」
それだけ言い残し、ルオシーはコートを羽織って出ていった。外はもうとっぷりと闇に暮れていて、雪交じりの風が横薙ぎに吹いていた。
「風邪ひくなよ、ルオシー」
はは、とルオシーは乾いた声で笑う。
「シキ君に体の心配されてちゃ、アタシも世話ないね。おやすみ」
ドアが閉まってから、そういえば明日からアルザスへ遠征することを伝え忘れたな、と思った。
まあ、大丈夫だろう。任務なんだから、教会から別ルートで報告があるはずだ。
***
食事を終えてシャワーを済ませ、ベッドルームへ。
いつもの就寝時間よりずいぶん早いが、明日からのこともある。早めに休むに越したことはない。そう思いつつも、顔を赤らめながら弾む先輩の足取りを見ていると、早寝はあきらめた方が良さそうだった。
もちろん、俺としても望むところではある。
ベッドに横になると、先輩が待ちかねたとばかりに俺のシャツをまくり上げてくる。皮膚のひきつった、醜い傷跡にゆっくりと口づけていく。胸の中心にうがたれた血の記憶。死徒化しても、この傷は癒えなかった。
「ロアのやつも気が利かないよな。この古傷も一緒に治してくれればよかったのに」
思わずぼやくと、先輩は苦笑した。この傷は魂に届いているものですから、そう簡単には治りませんよ、と。
赤い舌が、唇を割って覗く。それ自体、生き物のようになまめかしく、舌は俺の肌を這った。
「遠野くんは気になりますか、この傷のこと?」
「俺は気にしないけど、見目のいいものではないからね」
「でも、これは目に見える傷です」
見える傷なら大したものではないでしょう。夜の中、先輩はささやくようにそう言った。
応える言葉はなかった。代わりに、腕を伸ばした。服を脱がせると、先輩はまだ恥ずかしそうに笑った。隠そうとする腕を制止すると、はにかみながら従ってくれた。
カーテンの隙間から、月明かりが漏れている。半月の光を浴びて、彼女の肢体は夢のように白く、美しかった。
「わたしの身体にも、傷が増えてきちゃいました」
女の子らしくないですね、と先輩は苦笑いを浮かべた。不死を失ってからのダメージは、肌に蓄積された。任務での激戦を越えるたび、陶磁のような肌に、ひとつ、またひとつと傷跡が増えていくのを、俺は誰より間近で見つめてきた。
上体を起こし、もっとも新しい腹の傷に唇を寄せる。先輩の身体がわずかに震え、ん、となまめかしい吐息が、か細い喉から漏れていった。
「大丈夫だよ、先輩。見える傷なら、大したものじゃないから」
「あはは、そうでしたね」
えいっと再びベッドに押し倒される。追って、柔らかい肌が降ってきた。首筋に、熱い息が触れる。
「たった二日なのに、とても長く感じました。……はやく、遠野くんとこうしたかった」
「うん。俺も、先輩が欲しかった」
えへへ、と耳元でささやかな笑みが漏れる。その肌をまさぐって、呟きを漏らす。
「先輩、ふわふわ……」
「むっ、それはどういう意味ですか」
がばっと起き上がりかける身体を制して、俺は笑った。
「気持ちいいから、ずっと触っていたいって意味だよ」
「あ、そ、そそそうでしたか。え、ええ、では、お好きなだけ堪能していただければ」
「好きなだけ? 本当に?」
意地悪に問いかけると、ただでさえ赤かった顔が、耳まで染まった。
「そ、その、明日からは任務ですから、睡眠時間の確保はですね……」
「遅いよ」
がばっと体勢を入れ替えて、ベッドの上に組み敷いた。こうしてみると、この華奢な身体のどこにあれほどの強さが秘められているのかわからなくなる。
「俺だって我慢してたんだってことを、先輩にも存分にわかってもらわないと」
「あ、あの、なんというかですね、ぜひお手柔らかに……」
「却下します」
「なんですと!?」
手を伸ばし、上になり下になり、声を上げ、笑顔を交わす。
その後。
俺の胸に頬を寄せながら、先輩は細く笑った。それから顔を上げて、唇を寄せてくる。こちらの唇を割って、温かい舌が差し込まれた。
顔を離すと、唾液が糸を引いた。それを舌で巻き取って、ひどく煽情的に、先輩は唇を枉げた。
「遠野くん、おいしい」
ぞくり、と背筋が泡立つ。ついつい再開したくなる高ぶりを収めて、その頬にてのひらで触れる。
「カレーとどっちが?」
「それは意地悪な質問です」
ふたりして微笑みあって、肌を寄せる。瞳を閉じると、眠気はすぐにやってきた。
「遠野くんです」
「え?」
「遠野くんの方が、おいしいです」
夢見心地に聞いたその声が現実のものかどうか、俺にはもはや判別がつかなかった。
そんな日々だ。
先輩と俺はいま、そんな風にして暮らしている。