【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
「――ここ、は?」
「目が覚めたか。宿だよ、ルオシー」
時刻は夕方すぎ。無理に起き上がろうとするルオシーを制し、口に水差しを含ませる。全身が――特に、喪われた左腕が痛むのだろう。顔をしかめつつ、それでも細い喉を上下させて、水を飲む。
ふう、とルオシーが息をついた。
「そう。てっきり死んだと思ったんだけど、命を拾ったのね。……シキ君が?」
「いや、俺じゃない。俺も死にかけたところを、救われた。ぎりぎりで、先輩が合流してくれて」
そういうことにしておこうと、事前に先輩と口裏を合わせておいたのだ。まさか真実を語るわけにはいかない。
「シエルが?」
ルオシーの戸惑いに、視線で答える。俺の目線を追ったルオシーは、窓際にたたずむ先輩の姿を見つけた。
「シエル……そう、無事だったのね。良かった。いや、アタシがあんたの心配をするなんて、身の程知らずかな」
さすがは埋葬機関だ、と乾いた声でルオシーは笑った。嫌味のない、さわやかな表情だった。
……すごいな、と思う。できるだろうか、と思った。同じ立場になって、ああいう振る舞いが。
まあ、無理だろう。俺のような小僧にはとても。
「とんでもありません。ルオシー、わたしの不覚で、あなたに負担をかけました。心より、謝罪させてください」
そう言って、先輩は深く頭を下げる。
「それから、遠野くんを守ってくれて、ありがとうございました」
ルオシーは目を丸くして、よしてくれ、と言いかけた。けれど、その途中で何かに気づいたように彼女は言葉を呑み、うん、と言った。
「わかった。貸しにしておくから、いつか返してくれる?」
「必ず」
そのやり取りに、どういう意味があったのか、俺にはわからない。これを機に本当にルオシーが先輩に恩を売りたかったようにも思えるし、儚げな先輩に、生き残るための楔を打ってくれたようにも見えた。
詮索するのは野暮だろう。当人同士では、きっと分かり合えているはずだから。
「正直なところ、十分な処置が施せているとは言い難いのですが、命が危うくなる状況ではありません。……その、左腕は、残念なことになりました」
「それはいいわ、命と引き換えなら、左腕一本で済んだのは安いくらいだもの。そのうち、義手でも作ろうかしら」
さすがに代行者というべきか。これくらいの傷など、いつだって覚悟の上だったと言わんばかりである。
「そうだ。シキ君、ウィラの姿が見えないね。彼女はどうなったの? ダメだった?」
「いや、それが――」
実は、消息が追えていない。先輩と合流した後、あたりを探してみたのだが、ウィラの姿は見えなかった。ものすごい魔力で、ものすごく乱暴に血止めをされたルオシーが横たわっていただけだ。
乱戦の中で命を落とした可能性はある。しかし、それにしたって肉体の残骸すら見当たらないのは不自然だった。かといって、あの大群を前にして彼女が自主的に撤退できたとも思えない。
「そう……。まあ、あの性格だ。無事に離脱して、逃げ出した手前、アタシたちの前に顔を出しにくい、ということなのかもね」
「そうだったらいいんだけど」
「――その、ウィラ、という不審な代行者の話は聞きました。残念ですね。事情に詳しそうな様子だったのでしょう? 身柄を確保できていれば、もう少し有益な情報が聞きだせたかもしれないのに……」
ことさら冷酷に、先輩はそんなことを言った。彼女についての基本情報と人柄については、ルオシーが寝ている間に先輩にもインプット済みだ。先輩がウィラに、本当に聞きたかったことがなんなのか、指摘するのは無粋だろう。
「……そういえば、街は、無事だったの?」
「間一髪、結界を張るのが間に合いました。敵も一掃済みですし、ライン川の様子も平常に戻っています。異変の原因の特定はできていませんが、少なくとも今夜、この街が堕とされることはないでしょう」
むしろ、攻めてきてくれればこちらのものです、と先輩は胸を張っている。誰が見てもそうと知れる強がりを、ルオシーは笑って受けた。
「頼もしい限りだね。けれど、いよいよとなったら、アタシを殺しなさい」
「――なぜです?」
氷のような瞳である。しかしルオシーはひるまない。
「前にも言ったでしょ。アタシの命は、変事を報せる教会へのアラートになっているの。それを感知したら、アタシの死体のあるところまで、手練れが飛んでくるわ。本来なら君たちのいずれかにアタシが殺されたときに発動させるための仕掛けだけど、SOS代わりにも使えるはずよ」
「なるほど、遠慮します」
「うん、遠慮する」
そう言うと思ったけどね、とルオシーは笑みを崩さない。黙っているのもフェアじゃないと思ってさ。
「さあ、言うだけのことは言ったわ。後は運を天に任せるしかないってところだね。起きたばかりでなんだけど、まだ身体が休みたがってる。眠ってもいい?」
回復したところでもう戦力にはならないけど、と苦し気に付け足す。そんなことはない、とは言えなかった。片腕を失くしているのだ。まともな戦闘はもう望めないだろう。
だからこそ、彼女には、せめて休んでほしかった。
「構いませんよ。異変があれば起こします。とにかく、今は眠ってください」
「うん。じゃあ、甘えることにする。……ははっ、本来の任務は監視だったのに、なんだかもう、いろんなことがアベコベね」
「アベコベ?」
「そうでしょう? でも、この体たらくじゃあ、帰るなりアタシは解任されるだろうから、もうなんでもいいや。後は野となれ山となれってね」
気分は悪くないよ、とルオシーは目を閉じて言った。だって、はじめて本当に心の底から本音で、あんたたちに向き合えてる気がしてる。
先輩は少しだけ、ルオシーを睨むように見つめて、はあ、とため息を吐いた。
「では、仕方ないですね。特例としましょう」
「え?」
なにが、という顔のルオシーである。ちなみに、俺もまったく同じ顔をしていると思う。
「解任されても、あなたは我が家に招待します。本当は、遠野くんとの家には誰も入れたくないくらいなんですけど、仕方がないから特別です。好きな時に遊びに来てくれていいですよ」
「いいの? 愛の巣でしょ?」
「だって、そういうものでしょう? 友人、というのは」
照れくさそうに、先輩は視線をそらして言った。ルオシーは一度つむっていた目を開いて丸くし、こらえきれないといったように、忍び笑いを漏らした。
「光栄ね――ああ、ありがとう。じゃあ、その時は、とびっきりのお茶を持ってお邪魔するわ」
「ええ、待ってます」
そうして、ルオシーは今度こそ目を閉じた。数分もしないうちに、穏やかな寝息を立て始める。
窓の外は、暗い。夜がやってきていた。
安らかなルオシーの寝顔を見て、さて、と先輩は一度、大きく息を吐いた。
「遠野くん。もう一度、詳しい話を聞いてもいいですか。もちろん、"彼女"のことについてです」
「はい、もちろん」
「………」
改めて一通りの説明を済ませると、先輩は深く考え込んでしまった。無理もない。話している俺自身が、あれは現実の出来事だったのだろうかと疑ってしまうくらいなのだ。
沈黙は、数十分に及んだ。その間、先輩は身じろぎもしない。ありとあらゆる選択肢や可能性を考慮し、熟慮し、仮説を立てては否定し、新しい仮説を立て、その末に、結論を下すように彼女は言った。
「あり得ません」
その六文字を言葉にするまでに彼女がたどったであろう道筋を想像すると、否定することはできなかった。そう、あり得ない。あり得ないのだろう。そんなことは、俺だってわかっている。
「そう、だよな。死にそうになった俺が、何か幻覚を見ていたっていうのも――」
言いかけて、やめる。それは嘘だ。自分さえ騙せない嘘だ。だって、いまもまだ俺は覚えている。目の前で、鮮やかなくらいにあっさりと、敵を一掃したその姿。
夢で泣くほど会いたかった、あの笑顔を。
「いえ、
「え?」
だから困っているんですよねえ、と先輩は眉を寄せた。……あ、なんかその表情、かわいい。ここ数日、張りつめていたので、ふっと表れた無防備な先輩の顔に、あさましいくらいに反応してしまう。
「む。なんですか、遠野くん、緊張感のないその顔は」
「いやー、ははは」
我ながらちょっとあきれ気味である。よくこの状況で、この怪我で、この体力で、ちょっとでも欲情できたものだ。
……いいさ。軽蔑してくれ。俺の理性なんてそんなもんだ。
「話を続けてもいいですか?」
「はい、ぜひ」
では、と先輩はわざとらしく咳払いをする。
「よしんば遠野くんがなんらかの幻術をかけられて、彼女のまぼろしを見ていたとしても、それでは不自然なのです。この場合、実際に襲ってきた怪異が全滅している、という事実は動きません。ですから、これに説明をつけるなら、何らかのアクシデントで勝手に敵が自滅した、と考えるしかありません。まずここに無理があります。なにより」
「なにより?」
「それでは、あの大破壊の跡の説明がつきません」
「――あ」
たしかにその通りだ。
「天を摩するほどのあの水柱は、わたしも確認しました。ラインを堰き止めてすべての水を上空に舞い上げない限りあんなものは作れませんし、周囲の状態から言っても、あそこで強大な力が行使されたことに疑いはありません。しかし、あれほどの破壊を一瞬で、となると、わたしだって全力を傾けてやっと、というところでしょう」
そうですか、とうなずきつつ、俺は内心で驚いている。え、先輩にもあんなことできるの?
これはアルクェイド(謎)のほっぺたに触れたことは、なんとしても隠し通さねばならないな、とひそかに腹をくくった。
……いいさ、好きなだけ軽蔑してくれ。
「それだけの力を振るえる存在となると、可能性はおのずと限られます。しかし、それが死徒側の存在だとすれば、わざわざ敵対する遠野くんをかばう理由がない。では教会、あるいは協会側の勢力かと言えば、これまた我々に存在を秘する理由がない。仮に身分を秘さなければならなかったとしても、遠野くんに厄介な幻術をかけて認識を歪ませる必要なんてないんです」
目撃者が邪魔なら、消してしまえばいいのですから、と先輩は冷たい声で言った。……あまり愉快な想像ではないが、まあたしかに、あんな真似が可能であれば、あの状態を俺を殺すのに五秒もかからなかっただろう。
「そうなると、彼女本人が現れた、と信じたくなりますが、それこそがもっともあり得ない可能性です。千年城の監視は事実上不可能ではありますが、あそこに異変があれば教会・協会にかかわらず、こちらの世界全体にアラートが走るようにはなっています」
「……そんなに?」
「そりゃあ、次に彼女が目覚めるときは魔王になっていてもおかしくありませんから。彼女の目覚めは、大げさではなく、正真正銘世界の危機に直結します」
「は、はあ。そりゃあたしかに、違うんでしょうね」
だって、あれは相変わらずなアルクェイドだった。魔王なんてガラじゃないし、まして世界の危機って感じもしない。いたってふつうの、記憶通りのアルクェイドだ。
「しかし、話を聞く限り、たしかに遠野くんの前に現れたのは紛れもなく総耶で会遇したアルクェイドそのものだったようですし、そうなるともう辻褄の合った説明を考えるのがそもそも不可能、お手上げ、という他ありません」
まったく、いなくなっても迷惑をかけるなんて、本当に規格外に厄介な存在ですね、と先輩は眉を寄せている。口調ほどの苛立ちを感じないのは、俺の気のせいだろうか。
それはそれとして、先輩の説明を聞いていて、なんとなく思い浮かんだことがある。
「……たぶん、あいつのことだけを考えるから、理屈がつかないんだと思う」
「遠野くん?」
「なんていうか、うまく言えないんだけど、この数日、おかしなことはたくさんあった。そのすべてが、偶然の重なりって考える方に無理がある、と思うんですが……」
言い出しておいて、途中で自分が何を言いたかったのかを見失ってしまった。語尾がしぼんでしまう。
しかし、先輩は考えもしなかったとばかりにこくこくと頷いている。瞳の蒼が深みを増し、何らかの道筋を見つけたように輝き始める。
「たしかに、遠野くんの言う通りかもしれません。アルクェイドが現れた、などと聞いたので頭がそちらに占有されてしまっていましたが、看過できない不自然さなら、他にもあったはずです」
修道院の状況が教会の報告よりも悪かったこと。神殿の建設のための魔力をどこから集めたか不明なこと。尖塔が作られていたのは先輩の故郷の呪いを利用するためで、死者たちが強化されていたのは"土の記憶"を利用したからだとして、現れるはずのない流水、ライン川から蜘蛛が大量に湧いたことについては大きな謎だ。
そして、アルクェイドが現れたこと、消えたこと。
「蜘蛛の怪物については心当たりがありますが、本物のスミレがこの場所に現れたのだとすれば、それこそ教会の動きが遅すぎることが気にかかります」
スミレ、という名前は初耳だったが、先輩が独り言のように呟いているから、聞き流す。
「俺、根拠はないんですけど、なにか、呆気ないようなカラクリがあるんじゃないかって気がするんですよね。わかってしまえばそれだけかって思えるような」
「それは……?」
「わかんないんです。でも、なんでかな。そのヒントを、俺はもう持っているような気がしてて……」
空を見上げて考え込む。冬空は澄んでいて、星々の中心に満ちかける月が輝いている。
「……ダメだ、わからない。俺の頭じゃ、この辺が限界みたいです」
数十分も考えた挙句、お手上げだとばかりにソファーベッドに倒れ込む。知恵熱が出そうなほどに考えても、そもそもの魔術知識が貧弱な俺では正解にたどり着ける気がしない。
それにしても、静かな夜だ。昼間の大暴れが効いたのか、修道院の死徒も損害が大きくて攻勢に出られないのか、不思議なほど今夜の街は静まり返っている。
「先輩は、何か思いつきましたか?」
「思い付きレベルではいくつか。しかし、どれも手ごたえがありません……今夜は、わたしもお手上げです」
「そっか。先輩でも無理なら、もう今日は考えるのはやめにして、ゆっくり休もうか」
そういえば昨夜、俺はこの民泊で夜を越したが、先輩は野外泊だったはずだ。疲労の蓄積は俺の比ではないだろう。さっきから左腕をかばっているのも気になる。なんらかの処置が施されているようで、明日になれば八割方動くようになる、ということだったが、安静にするに越したことはない。
うむ、と気合を入れて、寝仕度を整える。夜になったからか、身体からダメージが抜けていって、快調なくらいだった。
その俺にゆっくり近づいてきて、先輩はにっこりと笑った。……いやあ、かわいい。
「ところで遠野くん」
「は、はい」
不意打ち気味の笑顔についつい狼狽してしまう。その俺の赤面を眼鏡越しにいたずらっぽく見つめて、先輩は言った。
「キスでもしませんか?」
「はい。……え?」
驚いて見つめ返すと、先輩こそ頬を染めている。夜でもはっきりとわかる、その
どくん、と心臓が高鳴った。
まずい。まずいまずい。これはまずい。これはまずいぞ。俺はいま、まずいものを見た。だってかわいい。あまりにもかわいすぎる。超ド級にかわいい。
「そ、そそ、それは、なんらかの魔術的な話、でしょうか。その、怪我の治りを早くするための儀式、とか……」
しどろもどろに適当なことを言ってみるが、
「ち、違います!」
瞬時に否定されてしまった。
「その、遠野くんの顔を見て話していたら、だんだん、してほしくなってしまって、ですね」
いっそ明るい声で先輩は続ける。恥ずかしそうに頬を染めながらも、決して俺から視線をそらさない。ああ、もう、普段は真面目ぶってるくせに、なんだってこういうときだけこんなにずるいんだこの人!
思考停止状態に追い込まれ、俺は返事ができない。その狼狽をどう取ったのか、先輩はわずかにうつむいてしまった。
「あの……だめ、ですか?」
ダメだ。終わった。死んだ。俺の理性は死んだ。
上目遣いで、前髪越しで、真っ赤な顔で、うるんだ瞳で、かすれ声。
バフ盛りすぎにもほどがある。無理でしょ。これは人類には耐えられない。たぶん、いや確実に、ブッダでも落ちる。
「……あっ」
というわけで、俺はもう耐えきれずに先輩を掻き抱いて、あっという間に唇を寄せてしまった。
触れるだけ、なんてケチくさいことは言わない。舌で唇を割って、口内を散々に蹂躙する。先輩の舌は最初戸惑いがちに、でもだんだんと積極的に、俺の愛に応えてくれた。
脳髄がしびれる。目を開けると、先輩の白い瞼が目に入った。まつげが長い。肌が綺麗だ。ああ、もう、なにもかもが愛しい。
たっぷり数分ほどもそうしてから、口を離す。名残惜しいが、このままだと窒息しかねない。そういえば隣でルオシーが寝息を立てているが、この際、あまりにもどうでもいい。
ふう、と息を取り込んで、先輩を見る。
先輩は陶然とした瞳のまま、ふはっと荒い息を吐いて、口回りの唾液を舌でなめとった。ちろりと、燃えるような舌がのぞく。
それから、笑う。嬉しそうに、女の顔で。
細めた目で、朱に染まった頬を緩めて。
「えへへ。今日の遠野くんは、ちょっと乱暴さんですね」
でもわたし、そういう遠野くん、好きです、だなんて。
そんな台詞を重ねられたら。
もう、まともではいらなかった。
――ではさらばだ。さよなら知性、品性、人間性!
「きゃっ……!」
がばっと勢いのままに先輩を押し倒そうとする。そのまま服を脱がせてしまおうと思う。その一歩手前で、ようやく俺はその違和感に気づくことができた。
「――あれ……先輩、熱くないですか……?」
そう、触れている肌がやけに熱い。上気している顔も、言われてみれば熱っぽい。これが情事の高ぶりでないのなら……。
「あ、はい、そうですね。代謝が高まっているんだと思います」
にこりとほほ笑んだまま、そんなことを言う。ただ、「心配」という名の理性を取り戻した俺には、もはやその顔は蠱惑的には映らない。荒い息にも、もはや情欲はそそられない。
「代謝って、それ、先輩、大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ。むしろこれ、一種の好転反応なんです。夜になったので、身体が回復のタイミングだと判断したんでしょうね。ダメージが大きかったので、反動が大きく出てるみたいです。大丈夫、明日の朝には引きますから」
そういって、くらりと立ちくらんだように、先輩がゆれる。その体を抱きとめて、ゆっくりと慎重に、傷つけないようにベッドに寝かせた。
「遠野くん……?」
「先輩……そうか、そうだよな。すごい無茶して駆けつけてくれたんだもんな。……ごめん、気づかなくて」
いやもう、本当に一分前の自分を殺してやりたい。こんなにつらそうな先輩に気づかず、俺は何を自分勝手な欲情を……。なにがバフだ、ブッダだ、人間性だ。恥ずかしすぎて死にたくなる。
ベッドに腰かけて、手を握る。指先まで熱い、ということは、寒気はそれほどでもないだろう。水差しを確認して、水がたっぷり残っていることを確認する。
「先に寝てください。先輩が寝付くまで、俺、こうしてますから」
「え、遠野くん、いいんですか……?」
「もちろんです。大丈夫ですよ、先輩が眠ったら俺もちゃんと寝ますから。だから、いまは自分の体のことを」
「あ、いえ、そうじゃなくて……」
「? なんですか?」
先輩は掛け布団を口元まで引き上げて、真っ赤な顔のまま、かすれそうな声で言う。
「その……いいん、ですか。最後まで……しなくて」
「――っ」
こらえる。決死の思いでこらえる。特に意味なく有彦の顔を思い浮かべ、ふたりで行ったサウナのことを回想する。
それでようやく、俺の衝動は収まってくれた。
……あっぶねえ。危うくまた「さよなら知性!」とかいう、それこそ知性の欠片もない発言をするところだった。……いや、もともと口にはしてないけど。
「それは、全部片付いて、身体が万全になったらのお楽しみに取っておきます」
「そそ、そうですか。わた、わたしは別に、いまでも構わないのですが……」
「……先輩。俺も人でなしにならないために必死なんで、そんなに無意識の挑発を繰り返すのはやめてもらっていいですか?」
先輩は額にハテナマークを浮かべ、はて、挑発ですか、などと言っている。その顔さえ煽情的だ。
「とにかく、今日は寝ましょう。明日また、ハードな戦いが待ってるかもしれないんだから。……でも、その代わり」
「その代わり?」
「全部終わったら、本当に一晩中、疲れても止めても嫌がっても、泣いても拒んでも許してって言われても、とことんまで、これ以上ないってくらいに、ぐっちゃぐちゃにしてやるから、しっかり覚悟しておいてくださいね」
先輩は絶句したまま俺の口元を数秒ほど凝視し、やがて目を細めて、穏やかなほどの微笑みで、
「はい」
と言った。
「それ、すごく、楽しみです」
あどけない少女のように、口元を緩める。その台詞を最後に先輩は目を閉じ、そのまま静かな寝息を立て始めた。
……くそう。最後までやられた。この借りは、宣言通りに返してやる。
最後に一度、先輩の頭をなでて、自分のソファーベッドに向かう。ひっくり返ると、低い窓から夜空が見えた。
暗闇に月。
いまだ満ちない、硝子の月。
なんの確信もないけれど。
終わりが近いのだろうと、ぼんやりとそんなことを考えた。