【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
記憶を見ている。
――自分ではない、誰かの記憶。
許せなかったのは、なんだろう。
許せてしまったのは、どうしてだろう。
憎んだ。憎んだ。憎んだ。炎のように激しく憎んだ。死のように冷たく憎んだ。海のように限りなく憎んだ。空のように果てしなく憎んだ。憎んだ憎んだ憎んだ憎んだ憎んだ憎んだ憎んだ。
なのに、どうしてだろう。どれほどの感情にも、鮮度は必要なのだろうか。あれほど憎んだのに、いつの間にか、それでもいいかと思えていた。
殺したい、いや、殺すだけじゃ飽き足りないって思ってたのに、それでいいのだろうと思ってしまった。
――憎ませてくれているうちは、それでよかったのに。
ワタシはいつもギリギリで、いつだって崖っぷちだった。あと一歩でも踏み外せば、あとわずかでもバランスを崩せば、それで終わり。精神も肉体も、危ういところで何とか命をつないでいた。
まったく、薄氷の日々。
今にも取り返しのつかない失敗をして、呆気なく終わってしまいそうな日々だった。
その、いっそ狂ってしまった方が楽なくらいの日々で、ワタシを支えたモノがあった。彼方に輝き、此方で弾け、彼岸で煌めき、此岸で猛る、ワタシの心。
錆びついてなお、
あなただけがワタシをつなぎとめるモノだった。ワタシに残った、こだわりだった。ワタシを形作る、最後のワタシらしいものだった。
怒りにせよ憎しみにせよそれ以外の感情にせよ、最後の最後にワタシを立ち上がらせてくれたのは、いつもあなただった。
不思議なものね。
ワタシのすべてはあなたに壊されてしまったのに。
いつからか、あなたこそが、ワタシのすべてになっていた――。
――記憶を見ている。
泣きたいくらい無様で、滑稽で、切実で、正直だった誰かの記憶。
ああ、できれば。
こんなもの、知らないままでいたかったのに――。
DAY 5
Terre des hommes / 人間の土地
――ふと、目が覚めた。
部屋の中は暗く、暗く、月の光さえ届かない。
彼女は、いまいち現実感のない頭を振って、ベッドの上に身を起こした。あたりは奇妙なほどに静かだった。あらゆる生命が死に絶えたような夜に、ひとり、ほうと息を吐く。それでなんだか、身体が軽くなった。
閉めてあったはずの窓が開いている。道理で冷え込むはずだ。風が死んでいることだけが救いだったか。
体中を軋ませていた高熱は、どうやら幾分マシになっている。世界は深更に至っており、日付はすでに回ったようだ。
ああ。
それにしても、静かだ。
こんなに静かだと、頭が痛くなってくる。耳鳴りがする。
どうして、誰の寝息も聞こえないのだろう。
昨夜は、回復を欲する身体の命じるままに眠りについた。深く、夢のない埋没だった。熟睡というよりは、仮死に近いような没入感。身体の実在が不安になるようなよどみを越えて、ここに在る。
いや、あるいは。
自分は勘違いしていただけで、今もなお、覚めない夢の中にいるのかもしれない。
だって、そうでもなければ、説明がつかないではないか。目の前の、この光景に。
「――こんばんは。いい夜ね、シエル」
あり得ないはずの彼女が、ここにいる。
あ、と息が漏れる。声にはならない。きっと自分は馬鹿な顔をしている。そう理解していて、シエルは口を閉じられない。
大きく切られた窓枠に足をかけて、蒼い夜を切り裂くような純白がほころんでいる。猫のようにしなやかに。
それは、おとぎ話から抜け出してきたようなお姫様。
亡いはず風をまとい、白い白い顔がほほ笑みを象る。
花咲くような儚い笑顔。
童女のような可憐な瞳。
奇跡のような、その美貌。
――アルクェイド・ブリュンスタッドがそこにいる。
「アルクェイド……あなた、どうして」
「そんなの決まってるでしょ」
うんしょ、と気の抜けるような声を出して、窓枠に腰かける。ぶらぶらと足を揺らす様は、まるっきり幼い子供のようだ。
「あなたのことを、笑いに来てあげたの」
「そう、ですか」
「ええ。だってこんな機会、滅多にないでしょ? 見逃しちゃったらもったいないじゃない」
なにが楽しいのか、アルクェイドはくすくすと笑っている。目が離せない。あれほど嫌っていたはずのこの女に、文字通りに目を奪われてしまっている。
だから、知らず。
「――あなたは、いつまでも綺麗なままですね」
そんな本音が、口をついてしまった。
アルクェイドは不快な音を聞いたように眉を寄せ、声を低くした。
「正気? そんなことを言うタイプじゃなかったと思うけど」
「ええ、そうですね。きっと、今夜はどうかしてしまっているんです、わたし」
だって、あなたが、こんなにも綺麗に見える。
はあ、とアルクェイドはため息を吐いた。なんだか調子が狂っちゃうなあとぼやいて。
そのあまりにも人間臭い仕草でさえ、ひとつひとつが光芒を曳くように輝かしい。涙さえ出そうなくらいに、美しい。シエルは目を細め、それ自体発光しているような彼女の全体を俯瞰する。
月の光に隈取られたような、細く甘やかなその輪郭。
それは、人の子の美ではない。
美しさは、もはや命あるもののそれではない。
――たとえば渓谷。
何万年もかけて氷河が削った、雄大な爪痕。
――たとえば山脈。
気の遠くなる年月をかけて立ち上がった、大地の棘。
――たとえば森林。
幾億の昼を幾億の夜に継いで、旺盛に茂った命の源。
たかだか数千年の人類の歴史では到底太刀打ちできない、この惑星の端末としての美しさ。あらゆる建築も、文化も、芸術も、この美しさの前では等しくまったく価値がない。
だって、彼女こそは、真の意味で完全な――。
「呆けるのは勝手だけど、わたしにはわたしの用事があるの。でなきゃ、わざわざ化けて出たりはしないもの」
「笑わせないでください。あなた、もともと化け物でしょうに」
違いないわね、とアルクェイドは笑った。それは、決してシエルには向けられることのないはずの、邪気のない笑顔だった。
シエルの口元も、わずかに緩んだ。どうしてだろう。どうして、わたしはこんなにも、心を赦してしまっているのだろう。
「本当に、情けないわねシエル。普段ならとっくに見破ってるはずの罠に、いつまでも捕まってもがいてる。虫みたいに無様で、哀れで、醜くて、これ以上は見てられないから、口出しに来たわ」
――罠。
それは、この街を覆う異常についてのことだろうか。
「そもそもね、向き合う覚悟が中半端なら、こんなところに戻ってこなければよかったのよ。ここに来れば嫌でも思い出すってわかってたはずでしょう? わたしにとっても、あなたにとっても、苦みしか残ってないあの夜のこと」
言葉を返せない。アルクェイドは怒っている。その怒りに、シエルは何も反論できない。それはまったく当然で、まっとうな弾劾だった。
「あなたがそんなだから、志貴に負担がかかってる。志貴もきっといい迷惑よ。あなたを選んだこと、いまごろ後悔してるんじゃない?」
「それはないですから、安心してください」
「……ちぇ」
口をとがらせる。笑ってしまう。あまりにも、記憶通りの彼女の姿。すねた顔にさえ、わずかな違和感も抱けない。
――ああ、だからこそ、これは。
「……わたしが、あの夜、どうして引き下がったか、あなたはわかってるはずでしょ?」
それこそ虫けらを見るような嫌悪を込めて、彼女は言った。死にたいくらいの屈辱を、彼女はあえて口にした。
その一言こそが、シエルの胸を切り裂く刃だと、彼女は誰よりも知っていたから。
あの夜。月光だけが照らす校庭で、傷だらけの彼女は、それでも最後の愛と誇りにかけて、笑顔で別れを告げたのだった。
その痛みを。
その強さを。
その美しさを。
忘れることなど、できはしない。
「わたしが望んだのは、ただ志貴の幸せだけだった。わたしより、あなたの方が志貴を幸福にできるって思っちゃったから、わたしは最初で最後のワガママを我慢した」
ええ、そう。そうですね。
声は音にならない。
「大切にしてねって言ったのに。……欲しくて欲しくてたまらなかったけど、あなたたちがあんまり幸せそうに笑うものだから、せっかく譲ってあげたのに」
心臓が痛かった。体中をバラバラに刻まれても、きっとこんなには痛くはないと思えるほどに。
「――これじゃあ、譲ってあげた甲斐がないじゃない」
お前は、なんのために生きているのだと。
まるでそう問われたように、存在そのものが痛かった。
「シエル。わたしはあなたが嫌い。あなたなんて大嫌い。昔っからずっと嫌いだったけど、わたしから志貴を奪ったあなたを、わたしはずっと赦さない」
ああ、だから、とアルクェイドは言った。
やっぱり、泣きたいくらいに美しい笑顔を浮かべて――。
「いい加減、
そうして。
今度こそ、目が覚めた。
***
「朝――か」
目を閉じたまま朝の光を探す。眼鏡をかけて、頭を振って、大きく息を吐く。
ゆっくりと、瞼を開く。光の洪水が流れ込んできて、あらゆる意識を漂白する。
その瞬間。
また、滅びの幻影を見た。
「ぐ――あ」
はじめてこの街を訪れた時に見た光景。すでに終わってしまった街の残骸。
ここは廃墟で、塵が太陽に照らされて輝いている。部屋の隅には、闇がわだかまっている。壁は剥がれ、屋根は崩れ、床は瓦礫で足の踏み場もない。旺盛に生命を謳うのは、その切れ間から覗く若葉たち。
そこは静かで、悲しほどに無意味だった。
だって、それはもう、ずいぶん前に終わってしまったこと。
ここがかつて、人間の土地であった名残りの破片――。
「――遠野くん?」
響く声さえ虚ろ。肩に触れる手の感触はおぼろ。目の前の、悲しいだけの光景は瞬きのたびに薄れていく。
夢から覚めるような浮遊感。先輩が俺に触れ、声をかけてくれる。なのに、俺はここから離れたくないと思っている。目覚めたくないと思っている。どうしてだろう。先輩が呼んでいるのに。声が聞こえるのに、離しがたいものにしがみつくように、かたくなにココロがこの光景に固執する。
夢は覚めるもので、朝はやってくるもので、幻は払われなけれならない。そんなことは知っている。知っているのに、この身体は目覚めを拒否する。
いや、あるいは。
だからこそ――。
「あ――…」
そして、目覚める。
幻影は払われ、耳には鳥のさえずり。開かれた窓の下からは、ささやかな、けれども健やかな朝の喧噪。甘やかな夜明けの空気が、ねばついた肺に涼やかな目覚めを送ってくれる。
どこにでもある、幸せな情景。田舎町の、いつもの朝。
そんなものが、どうして。
こんなにも、悲しく感じられるのだろう?
「遠野くん……どうしたんですか?」
「あ、先……輩?」
焦点が結ばれた先で、先輩が心配そうにこちらをのぞき込んでいた。その白くしなやかな指先が伸ばされて、俺の頬に触れる。
「あ――れ?」
指先の感覚で、自分が泣いていたことを知った。
「なんで俺――泣いて……?」
どうしてか、とてもとても悲しいことに、気づいてしまったような――。
「そう……遠野くんは、もうとっくに、わかっていたんですね」
そんな俺の様子を、痛ましそうに先輩は気遣って。
「行きましょう。そろそろ終わらせてしまわないと、彼女に怒られてしまいますから」
昼日中の街にはふさわしくない、カソックの裾を翻した。
***
「本当に、アタシもついていった方がいいの?」
三人で連れだって宿を出た。先輩とはすでに、すこしだけ話した後だ。やるべきことは、それで明確になってくれた。
一夜明け、俺はほとんど全快で、先輩も八割方の性能は戻ってきているとのことだ。少々の戦闘であれば問題ない。ルオシーは申し訳ないが戦力外だが、だからこそ余計に、宿に残しておくわけにはいかなかった。
「ねえ。あんたたち、これから、何をするつもりなの?」
不審げに聞いてくる。俺と先輩は目を合わせ、それから、まぶしいほど穏やかな街並みを目に焼き付けた。
「目を、覚ますんです」
「うん。そろそろ、夢は終わりにしないとな」
街の中心部にたどり着く。眼鏡を外すと、大地には禍々しいほどの点があった。
頭痛がする。神経が嫌な音を立てている。額の中に、焼きゴテを押し付けられているような猛烈な痛み。
でも、終わりにしなければ。
どんなに美しい夢でも。
誰も、何も失われていない幻だとしても。
甘いだけの幻影を背負っては、人は前には進めないのだから。
「遠野くん――視えますか」
「ああ、はっきり視える――じゃあ、これでさよならだ」
ナイフを抜き放つ。先輩は一度、本当に苦しそうに眼を閉じて、
「お願いします」
と言った。
そして、吸い込まれるように、銀の刃が大地に突き立てられる。
瞬時に砕け散る幻想。幸せだった夢のカタチ。この土地が記憶していた、在りし日の幸福たち。粉々になったガラスのように、認識の海に散っていく虚飾の華。
そうだ。本当は、はじめからわかっていた。すべての事柄が、この結論を示していたのだから。
瘴気が渦巻き、視界を覆いつくし、大地が鳴動し、すべての偽りが剥がれ落ちる。音もなく、光もなく、影もなく、暴かれていく時の仮面。
死者たちと同じだ。川が山へは上れぬように、時はさかしまには流れない。街は、本当の姿を覆い隠し、記憶をヴェールとしてまとっていたにすぎない。その薄絹は、他ならぬ街自身の記憶で織られていた。
鮮やかだった街並みから、色という色が奪われていく。貫かれた点を中心に、急速に褪せていく生活の気配。ここで営まれていた人々の日々は本物でも、俺たちが目にしていたものは幻想に過ぎなかった。
それを、認めるのは怖い。目の当たりにするのは恐ろしい。変貌していく街の中心で、俺は先輩の手を握る。震えるその指先を握り締め、決して離すまいと力を込める。
この終幕は、彼女の傷を刺激する。いつまでもかさぶたにならない傷口から、黒い汚濁が流れ出す。それは仕方ない。それこそが彼女の選んだ道だから。
だからせめて、その瞬間を、俺は隣で迎えたかった。
ああ、そうだ。
――この街は、すでに滅びている。
やがて、世界は収束する。わかりきった結末へ向けて。
あたりには瓦礫が散乱し、命の気配は毛ほどもない。すでに白骨化した死体があちこちに放置されている。石畳にはかつて大量の血が流れたのだろう。黒くこびりついているのは、焼けたからか乾いたからか。まだかすかに腐肉が残っているのか、鼻を突く嫌な臭いがあった。
はじめてこの街にたどり着いたときに目にした幻影と、まったく同じ滅びの姿。間違っていたのは認識の方だ。つまり、幻影こそが真実で、いままで俺たちが現実だと思っていた姿こそが幻だった。
――そう。
この死徒は、記憶を再現するのだ。
「――え、これ」
つぶやきはルオシーのものだ。信じられないものを見るように、周囲に視線を配っている。無理もない。俺だって、いきなり見せつけられればそうなるだろう。
この街が終わってしまったのは、少なくとも半年前。住人は残らず食われたのだろう。そして、死都となったものを記憶のヴェールで粉飾し、死徒はこの街の真実を隠した。
食料となった人間たちから吸い上げた魔力で、死徒はあの神殿を築き上げた。たまに訪れる旅行者や帰省者は、そうと気づかぬまま夢にとらわれ、やはり食われた。そうして少しずつ少しずつ準備を進め、防備を完全なものにした。
そのようして今日までこの街を覆っていたものを、いま、俺のナイフが殺しきった。
あらゆるテクスチャは洗い流され、街が街本来の姿を取り戻した。
そうすることに、ためらいがなかったわけではない。完全な夢は、少なくとも見る人の心を傷つけはしないから。
でも俺はナイフを握った。
そうしようと、彼女は言ったのだ。たとえそれが、15年前の光景の再現だとしても、その終幕を、自分には見届ける義務があると。
だから俺はナイフを握った。
幸福だった過去をはぎ取り、穏やかだった幻想を打ち払い、醜い素肌を暴き出そう。それがたとえ死者を辱める行為だったとしても、許されざる罪科だったとしても、放っておくことはできないから。
どんなに厳しい現実であっても、受け止めないことには、前には進めないのだから。
「ルオシー、下がっていてください」
先輩は震える肩を励まして、懐から黒鍵を引き抜く。死者たちが、暗がりから群がり出る。彼らもまた、かつてはこの街で暮らしていたものか。夢を破られ、怒りに震えて目を血走らせている。いや、そんなはずはない。この階梯の死者たちに自我は希薄だ。この怒りは、俺の感情が勝手に像を結んだものだろう。だって、誰だって、こんな現実を突きつけられたくはない。
けれどもう、戻れない。
もう二度と、夢の中には帰れない。
先輩は迷妄を振り払うように黒鍵を振るう。付け焼刃の俺の技量とは格が違う。すさまじい威力で打ち出される弾丸は、次々と死者たちを血祭りにあげていく。
振るうほどに、先輩の顔は歪んでいく。それでも、彼女は戦うのをやめない。殺すのをやめない。やめることが、できない。
「あ、あああああ!」
叫びは、なんのためのものか。痛みに耐えるためか、苦しみを振り払うためか。
きっと、そのどちらでもない。
まるで祈るように、真実祈りながら、彼女は刃を振るい続けた。
――ものの数分で処理は終わった。
焼け焦げた死体と、散っていく灰。そのただなかで先輩は頭上を見上げてたたずんでいる。つられて見上げて、空が青いな、なんて場違いな感想を抱いた。
そして、その終わりを証明するように。
「――上出来じゃない。見直したわ、シエル」
白い化身が、ふたたび俺たちの前に姿を現した。
ごーーん。
ごーーーーーーーん。
ごーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。
いまさらのように。
まだ、鐘楼が鳴っている。