【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて   作:山口 遼

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DAY 5:Terre des hommes / 人間の土地⑤

 立ち尽くす。

 見下ろす地面にはもう何もない。白い名残も、金の残り香も、すべてまとめて塵になって消え去った。

 それでいい。それでいいんだ。

 奥歯をかみしめながら、自分に言い聞かせる。たった一日足らずの再会だった。一夜限りの夢だった。ならば、潔く、未練なく、消え去るのが筋というものだ。

「――先輩」

「はい、なんでしょうか、遠野くん」

 背を向けたまま、声だけは朗らかに、先輩は答える。

「これで、全部、終わったんでしょうか」

 そもそもの話、旅の目的はこの街を食い物にしていた死徒を滅ぼすことだった。それを果たせば任務完了、俺たちは晴れてアヴィニョンの家に戻れるはずだ。

 けれど。

「嫌ですねー遠野くん。自分でやったんだから、手ごたえのなさは自覚しているはずじゃないですか」

 先輩は振り返って、困ったように眉を寄せ、痛みをこらえるようにそう言った。

「そう、ですか。やっぱり……」

 先ほど、アルクェイドの残骸を貫いた時、これは違うと直感した。視えなかったはずの点が視えていたのは、先輩の結界によってあいつが弱っていたからだとしても、あの手ごたえのなさばかりは納得できない。

 あの時、俺が突いたのは命ではなかった。偽りの、ただの死者のヴェール。その程度の、儚い抵抗しかなかった。

「そうですね。残念ですが、修道院に巣食っていた死徒は仕留め切れていません。先ほどまでは紛れもなくアルクェイドを被っていたようですが、分が悪いと見たのか、いつの間にか抜け出していたようです。最後のあたりで彼女の完成度が著しく落ちたのは、おそらくそれが原因でしょう」

「じゃあ、死徒は……?」

「今頃、修道院に戻っているでしょうね。卑怯、という言い方は、アレには当たりません。アルクェイドが解説していた通り、あれにはすでに意思も意図もありません。ただ永続するということだけを第一義に考える、ひとつの現象に過ぎませんから」

 それにしたって、あまりにも生き汚い。

 ナイフを握り締めて、見えもしない修道院の方角に視線をやる。やり場のない、名前の付けようのない感情が、マグマのように胸の奥にわだかまっている。これをぶつけるべき相手がいるとしたら、それは紛れもなく、あそこに巣食う死徒だけだ。

「――なら」

 意を決して視線を上げると、蒼い顔で、つらそうに息をする先輩と目が合った。

「焦らないでください、遠野くん」

「先輩?」

「ええ、本来なら間髪を入れずに乗り込んで追撃、一気に仕留め切るべきでしょう。そういう意味で、遠野くんの猛りは正しいです。けど――」

「先輩……!」

 ぐらり、とその影が揺れる。

 慌てて駆け寄って、華奢な身体を抱き寄せた。途端、ぐちゃりと、腕が濡れる。ねばつく、冷たい液体。とても不快な、慣れ親しんだ――。

「これ――血……?」

 急いで先輩の服を開いて確認する。どうせここには他に視線もない。

「――っ!」

 目も当てられない。肌はどこにも見当たらない。カソックの下は、すっかり血まみれだった。息が荒く、鼓動も浅い。びちゃびちゃと、服の中に溜まっていた血が落ちていく。地面に血だまりを作る。それが、陽の光を反射する。

 吐き気がした。

「先輩、どうして――」

原理血戒(イデアブラッド)を稼働させましたから、反動としては安いくらいです。ただ、情けないことですけれど、いまはまだ、歩けそうにありませんねー」

 にこりとほほ笑んで、平然とそんなことを言う。さっきまで平気な顔をしていたのは、ただのやせ我慢だったということか。そうだ。そうに決まっている。俺は十分にわかっていたはずだ。あんな無茶な戦い方をすれば、今の先輩の身体は耐えきれるものじゃないって。

 なのに、今の今まで、こんな悲惨な身体に、気づけてもいなかった。

 原因なんて考えるまでもない。この愚かな脳は、他のことに気を取られていた。それだけの、罪。

「先輩、俺、すみません……」

 絞り出すように口にする。いまするべきことは謝罪なんかじゃない。そんなことは百も承知で、それでも俺の唇からは、ごめんなさい、というかすれ声しか出てこない。

 先輩はそんな俺を、困ったように見つめて、いつものように微笑んだ。

「大丈夫ですよ遠野くん。心配はご無用です。数時間も休めば回復するはずです。ほら、わたし、特別製ですから」

「だからって、こんな傷っ! くそ、なんだって俺は、こんな無茶なことを……!」

 抱き寄せた先輩の身体に手を這わせる。傷口らしい傷口はない。だとすればこれは、全身の毛穴から噴き出ている。損傷は内部だ。いま、俺が施せる手当は何もない。

 先輩は焦りに焦る俺の横顔をじっと見て、ふっと口元を緩めた。

「わたし、悔しかったんです」

「――え?」

 ゆっくりとまぶたを閉じて、夢見るように、安らかな表情を浮かべる。そういうのはやめてほしい。本当に、心臓が冷たくなる。

「遠野くんの記憶の中の彼女、本当に綺麗で、強くて、優しくて。……わたし、ちょっとだけ、妬いちゃいました。そのあと、想像して、ほんの少しだけ怖くなりました。わたしは、遠野くんの中で、どんな女の子なんだろうなって」

「――あ」

 消え去ったアルクェイドの幻影を思い出す。百人が百人、見とれるだろうその美貌。自分勝手で、明るくて、楽しそうで、この世のすべてを輝かせる彼女の心根。そういうものを、俺はたしかに、愛したのではなかったか。尊いと、失いがたいと、そう思ったのではなかったか。

 そうした俺の思いのすべてを反映して、あの幻影は現れた。

 なら、そのアイツを。

 先輩は、どういう思いで見つめたのだろう――?

 胸が痛む。いっそ、この心臓をナイフで貫いてしまえれば、どれほど楽かわからない。

「思い知りました。遠野くんにとって、彼女がどれくらい、大切だったのか。遠野くんがどれくらい、彼女を忘れられないのか。いいえ、忘れたくないと、願っているのか」

 歌うように呟く。責めるでもなく、嘆くでもなく、淡々と、事実だけを告げるように。

 わずかな、陽だまりのような静寂のあとで、ですから、と先輩は満足そうに付け足した。俺の腕の中で、苦しげに胸を鳴らしながらも。

「そんな彼女の前でくらい、意地を張りたかったんです」

「……意地?」

 はい、と静かにうなずく。そのたびに、血が流れ落ちていく。いくら手で覆っても、それは流れ出す。大丈夫だ、死んだりしない。先輩はちゃんと回復する。わかっていても、不安の棘は膨らむばかりだ。

「わたしも強くなったんです、って。あなたなんかにもう負けないんです、って。そういう意地。……ねえ、どうでしたか、遠野くん?」

 風の音にさえ掻き消されそうな、静かな声。なのに、脳髄にまで届く、貴い声。

「わたしも、捨てたもんじゃなかったでしょう?」

「――っ」

「わたしだって、なかなか、かっこよかったでしょう?」

 彼女には及ばなくても、なかなかの女の子だったでしょう、だなんて。

 えっへんと笑って、本当に誇らしげな笑顔で、先輩は言った。

 言葉もない。息も絶え絶えで、何をふざけたことを言っているんだろう。大声で叱りつけたくなるのを我慢して、思いっきりひっぱたく代わりに、血まみれの身体を抱き寄せた。

「――馬鹿だな。先輩、大馬鹿ですよ」

「あれ、ひどいですねー。わたしだって、これでも一生懸命がんばったんですよ? ちょっとくらい褒めてくれても、きっと罰は当たりません」

 いいや、褒めない。褒めるものか。あんなのは一生懸命じゃない。一生懸命どころじゃない。いつものことだけど、先輩ちょっと、頑張りすぎだ。

「……遠野くんの中に、彼女の場所があってもいいんです」

 優しい声にうがたれて、めまいがする。

 まばゆい光の中、ガードレールに腰かけていたあいつの姿を思い出す。忘れようとしても忘れられない。そうだ。それが何に対する冒涜だったとしても、俺は永遠にあいつの影を抱いていく。きっと息絶えるその時まで、地獄に落ちたその後まで、あの輝きを思い出すだろう。

 そのことを。

 限りないその不実を。

 許す、と彼女は言った。

「でも、その横に、わたしの場所をください」

 雨の日も風の日も、血の後も死の後も、決して曇らず、俺を見つめて続けたその瞳。

 青く青く、空より澄んだ、大きな瞳――。

 その目で、彼女は、俺を見て。

「できれば、彼女よりほんのちょっとだけいい場所に、わたしを置いてほしいんです」

 まるで、恥じらうように。

 花が、美しすぎる己の色を咎めるように。

 先輩は、頬を染めた。

「えへへ。わがまま、ですかね?」

 それはきっと、恋する少女の微笑みだった。俺はただ、目に痛い血の赤よりも衝撃的なその朱を見つめて、馬鹿みたいに口を開けた。それから、伸ばされた彼女の手を握って、頬を寄せた。

 馬鹿だな、と思った。この人は、そんなこともわかっていなかった。

 大馬鹿野郎だ、と思った。この俺は、そんなことさえ伝えられていなかった。

「そんなの、とっくに、そうなってます」

「……え?」

「俺の中の、いちばん大事な場所には、ずっと前から、先輩だけしかいないんです」

 だから、ごめん。

 そんなことを言わせてしまってごめんなさい。

 泣きたいくらいの情けなさを込めて、俺は、いまさらの言葉を口にする。

 

「愛してます先輩。何よりも、他の、誰よりも――あなたのことを、愛しています」

「あ――」

 

 目を見開いて、嬉しそうに、本当に幸せそうに顔を輝かせる先輩の瞼を閉じさせて、俺は身をかがめる。そうして、唇を合わせた。柔らかくて、暖かかくて、愛しすぎる俺だけの存在。触れるだけのキスはほんの数秒。けれど、何万の言葉よりもきっと雄弁に、俺の気持ちを伝えられた。

 いつかの真逆。朝明けの中で、俺は彼女を見上げていた。そして、穏やかに微笑む彼女の頬を引き寄せて、同じように、触れるだけのキスをした。

 遠野志貴が灰になって、魂さえ消え去ってしまっても、それだけは忘れられないたしかな記憶。

 俺の、いちばん大事な、思い出の朝。光に満ちた世界の中で、彼女だけが嘘みたいに青かったこと。

 あの、白日の碧を。

 ――俺は、死の間際にだって思い出す。

「こういうキスは、照れますね」

「……そうですね」

 目を合わせて、ふたりして笑う。それもまた、あの朝のようだ。あの時は俺が抱きかかえられて、先輩の部屋に連れていかれた。でも今度は、俺が先輩を支えなければならない。

 ぐっと腰に力を入れて膝を曲げる。こちらだって満身創痍には変わりないが、今この時に、愛しい女ひとり抱き上げられずになんとする。

 ふん、と鼻息を吐いて立ち上がる。それから、身体を休められる場所を探しに行かなければと踵を返す。

 そして。

「……ねえ。かっこつけたいのはわかるけど、いまはそんなに無理しなくてもいいんじゃない?」

 心底あきれたように笑う、ルオシーと目が合った。

 

***

 

「~~~~~!」

 声にならない悲鳴を上げて、じたばたと両手足を振り回すシエルと、そのシエルを落としてしまわないように真っ赤な顔をして踏ん張る遠野志貴を、ルオシーは肩をすくめて見守っていた。

 顔には呆れの色を浮かべておく。本心はかわいらしくて仕方がないのだが、そこまで距離を詰めるのは、監視役としてルール違反だ。

「ル、ルオシー! い、いつからそこに?」

「さあ? 自分たちで想像してみればいいんじゃない?」

 またしても目を白黒させるふたりがおかしくて、ルオシーは手で口元を覆ってひそかに笑う。

 ひとり蚊帳の外に置かれて、勝手に盛り上がられていたのだ。これくらいの嫌味は勘弁してもらおう。

「ち、違うのですルオシー。何が違うのかわたしにもわかりませんが、断じて違います。こ、これにはですね、深い、本当に深いワケがありまして……!」

 必死に弁解するシエルを、はいはいとあしらって、その体を志貴から引き受ける。ルオシーには片手しかないので、抱きかかえてやることはできない。背に負って、落ちないように右腕だけを腰に回す。……ダーリンの役目を奪うのは野暮だが、危なっかしくて見ていられないのだから仕方ない。そもそも、抱きかかえていた志貴だってそれなりに重傷なのだ。

 まったく、どんな怪物とやり合えば、この二人がここまでぼろぼろになるのだろう。不真面目な話だが、戦闘の場から離脱しておいて本当に良かったと息を吐く。

「ルオシー、聞いていますか。で、ですからですね、い、いまの接吻はただのアクシデントと言いますか」

「接吻って、あんた、それはさすがにひどいわよ」

 耐えきれず吹き出して、ルオシーは笑う。本当におかしい。面白い。これだから、この二人の監視役は最高なのだ。

 戦えば上級死徒さえ殲滅するはずの、鋼より靭いこの女が、まるっきりの小娘になってしまう。幸せという項目を辞書で引けば、きっとこの二人の営みのことが書かれているに違いない。

「なんだってキスのひとつやふたつで、いまさらそんなに照れるのよ。あんたたちの恥ずかしいことなんて、アタシは他にもいっぱい見てるのに」

「……え?」

 固まったのは志貴も同時だ。おや、とルオシーは意外に思う。まさか、気づいていなかったのだろうか?

「ル、ルオシー、それ、まさか……」

「当然でしょう? あなたたちの情事も、ちゃんと監視対象よ」

「ばっ――!」

 志貴が何かを言いかけて、固まる。もはや脳が何かを理解することを拒んだのだろう。一方のシエルはというと、熟れたリンゴのように耳の先まで真っ赤にして、目をぐるぐるに回している。なにか恥ずかしい振る舞いをしなかったのか検索でもしているのだろうか。だとしたら、あまりにも無意味だ。彼らのやり取りに、恥ずかしくないものなど一つもない。

「シキ君はともかく、なんでシエルまで驚いてるのよ。性交の最中なんて、もっとも反転の危険が高いタイミングでしょう。そこを監視しない監視役なんてありえないでしょうに」

 もちろん、ルオシーにも遠慮や配慮、もしくは人間性、というものはある。なるべくそっとしてあげたい気持ちはあったのだが、任務は任務である。せめてそのことは話題に出すまいと気遣っていたのだが、どうやらここで裏目に出てしまったようだ。

 泡を吹きそうになっているふたりをからかってやるネタなら無限にあるのだが、それを口にするのはさすがに趣味が悪すぎる。あの、同情するべき相手が夜ごとに入れ替わる奇妙奇天烈な営みについては、他言無用、墓場まで持って行ってやることにする。

 ……それにしても、思い出すだに不可思議である。酒の席でのネタとしては滑り知らずの鉄板に違いないのが、まったく惜しい。

 女の方が泣きながら、もう限界です、許してください、とよだれ交じりに懇願しているのに、意地の悪い笑みを浮かべてあっさり却下し、さらに獣のようにその身体をむさぼり続ける狼の正体が、こんなに無害そうな子犬系男子であることも。

 男の方が息も絶え絶えに、もう限界だ、これ以上は勘弁してください、と蒼い顔で降参しているのに、傾国もかくやという嫣然たる笑みを浮かべて馬乗りになり、さらに男を挑発し続ける狐の正体が、こんなに無垢な一面を持つ眼鏡女子であることも。

 ルオシーのような健全に成長した人間には、いまいち理解ができない。夜ごと攻めと受けが入れ替わるというのは、世にままあることなのだろうか。

「人の世には、まだまだ不思議がいっぱいね」

「……ルオシー?」

 七不思議の一角であるところの子犬系男子が、心配そうにこちらをのぞき込んでくる。

「ううん。何でもない。シキ君は自分で歩けるわね。あっちの方に、まだ小綺麗なままの家があったから、ひとまずそこを借りましょう」

「先輩は……」

「うん? ああ、これ、寝ちゃったのかな。それとも、あまりにショックで気絶した? ま、どっちでもいいわ。このまま寝かせておきましょう。たぶん、数時間もすれば自然に目覚めるだろうから」

 歩き出す。街は静かだ。死んだように、ではない。死に絶えているから静かなのだ。

 あるいは、シエルは気絶してしまった方が、かえって良かったのかもしれない。

 この光景は、嫌でも彼女に、故郷の有様を思い出させるだろうから。

「………」

 隣を、うつむきがちに沈思している志貴が追い越していく。まあ、それでいいだろう、とルオシーは思う。何かしら、思うところがあるのだろう。

 そういうものを乗り越え、飲み込み、笑い飛ばしてこそ、一人前というものだ。

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