【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
もう、夢は見ない。
いずれ訪れる暁のもとで、すべての過去を清算しよう。
***
夕暮れの中、冗談みたいに赤い世界で、シエルは目を覚ました。
アルクェイドとの死闘で傷つき、その直後に食らったもろもろの精神攻撃に耐えきれず、もういいやと意識を手放したのだった。数時間ほども寝ていただろうか。全身に少しずつ力を込めていくと、期待以上に身体が回復していることが理解された。
肌は、清潔に保たれている。眠っている間にルオシーが拭いてくれたのだろう。あとでお礼を言わないとと思いながら、体を起こす。
「―――」
窓からは、終末だけが見えた。まばゆいほどの夕日が、残酷なまでに真実を暴き出す。
すでに廃墟となって久しい街。その中にあって、奇跡的に往時の姿をとどめる、とある民家。そこが、いまシエルが目覚めた場所だった。周囲には結界の気配。寝ている間に襲われないように拵えておいてくれたのだろう。
壁には写真がかかっていた。額は割れている。ここに住んでいた家族の末路は知れているけれど、シエルはせめてもの祈りを捧げた。
きっと、そんなことを望んでもいないでしょうけど。
「――死徒は、必ず」
起き上がり、軽く身づくろいをしてから、窓から身を乗り出す。目を凝らし、気配を探る。案の定、ここから数百メートルほどのあたりで、白い光が立ち上るのが見えた。
「まったく、あなたも大概、ワーカホリックですね」
苦笑は、ルオシーに向けたものだ。窓枠に足をかける。腹筋に力を込めて、赤一色の街中へ身を躍らせる。屋根を伝って、二度、三度と跳躍すると、やがて眼下に、長い影を引きずるようにして歩く、ルオシーと志貴を見つけた。
「ああ、起きたのねシエル。夜になる前で良かった」
目の前に降り立つと、紙のような顔色になったルオシーが、つまらなそうに言った。その後ろで、志貴は狼狽を浮かべている。
「先輩、さっきまであんなに血だらけだったのに、いきなり跳んでくるなんて……」
「大丈夫です、傷はおおむねふさがりました。それよりルオシー、これはいったい、どういうことです?」
顎をしゃくる。先ほどまで彼らが結界を張っていたであろうあたりを振り返って、ルオシーは肩をすくめた。
「別に大したことじゃないでしょう? あんたが寝ている間、暇だから街の浄化を完了させておいただけ。シキ君を勝手に借りたのは悪かったけど、そこまで怒られることかな」
「怒っているんじゃなくて、呆れているんです。あなただって、片腕を失ったばかりでまったく本調子じゃないでしょう。なのに、なぜこんなことを」
ルオシーは、うーん、と口をとがらせて、髪をかき上げる。赤光が網膜を射抜いたか、まぶしそうに眼をすがめて、終わってしまった街並みを見渡した。
「なぜって、だってアタシ、代行者だもの」
絶句する。反論のしようのない言葉だった。それはそうだ。その通りだ。なにも、悲嘆はシエルだけの特権ではない。こうして滅びた街を目の当たりにすれば、誰にだってそれなりの感慨は湧く。自分にできることをしようとする。
そもそも、人間とはそういう生き物だ。
唇を噛むシエルの様子を確かめて、ルオシーはゆっくりと歩き出す。その背にさらに声をかけようとした時、追い打ちをかけられた。
「神のしもべが穢れを払うのに、理由がいるの?」
あ、と間抜けに口を開けて、もう何一つ、言葉が残っていないことに気が付いた。苦笑いを浮かべて、降参です、と両手を上げる。
「その通りですね。ごめんなさい、ルオシー。わたしが気絶なんてしていたばっかりに、あなたにまた、負担をかけてしまいました」
「気にしないでいいよ。だって、あんた、これからもうひと働きなんでしょ? 付き合うわ、どうせ、アタシは今夜が最後だもの。明日は同行できない」
笑いもしない。その代わり、ルオシーは残った手を差し出して、
「頑張ってね」
と、シエルの細い指を握り締めた。
その手を握り返して、シエルは思う。口にするには恥ずかしいけれど、心で唱えるだけなら問題ない。
――監視役があなたで、わたしは本当に幸せでした。
そして、志貴を伴って訪れたのは、この街でもっとも高いビルの上。
ビルといってもせいぜい十階建て。それでも見晴らしは良く、清澄な冬の大気も手伝って、平野の極みまで見渡せる。禍々しいほどに紅かった夕焼けは終わりに近づき、じき夜が訪れようとしていた。
肺に残ったわずかな息を吐きつくし、シエルは顔を上げる。狙うは数キロ先の修道院。視認はできないが、位置関係は完全に頭に入っている。
――十分だ。あとは、覚悟を決めるだけ。
「主の御名において――第七の死因よ、来よ」
夕闇に、凛と響く。
声に従って現れるのは、夕日より鮮烈な紅をまとう、破城弩弓。シエル本人よりも大きいそれが、無骨な出で立ちを吹きさらしの屋上に現した。素朴な街の、廃墟となった影には似合わない、破壊のためだけに作られたその兵装。赤黒く闇を統べるその武器は、カタチではなく魂を破壊するための執行機。
第七聖典を構成する六つの武装の内、もっとも大きく、もっとも美しく、もっとも威力のある死因。彼女以外の何人も扱えぬその異形を、繊細を極めた魔力運用と腕力、そして基本骨子となった幻想種との相性をもって、シエルは完全に制御する。
ゆえに、彼女に冠された称号は"弓"。
魔人が巣食うと恐れられる埋葬機関にあってさえ、畏怖と侮蔑をもってイレギュラーと称えられた、人類最強の弓兵である。
「ぐ――づ――」
しかし、それだけに反動は果てしもない。武装を構成する霊木の根は、射手であるシエルの魔力を貪婪に喰らい、際限なく膨張しようと暴れまわる。その反動で、皮膚が破れ、肉が裂ける。しかし、ここで手綱を緩めるわけにはいかない。なんとしても、これだけは今日の内に終わらせなければならないのだ。
「――第六の死因よ、来よ」
歌うように、願うように、祈るように、シエルの声は天へと登る。続いて現れたのは、物々しくも輝かしい、巌のような甲冑だった。
シエルの守りが換装されていく。拷問具、
敵は害獣ではない。後でペナルティがあるだろう。それでも、この護りなくして、破城弩弓の反動には耐えられない。
背後で、志貴が心配そうな顔で見守っている。大丈夫だと、答えてやれる余裕はない。痛みは消えたが、今もまだ聖典詠唱の反復制御でこちらの神経は手一杯だ。
だが。
それも、終わる。
狙うは修道院に併設された、土の塔。無様にも風を切って屹立する、死徒の寝床。醜く、おぞましいその土の塊を、この一撃を以って浄化する。土の魔力さえ消し飛ばしてしまえば、もはや死徒はあの夜の記憶を再現できない。純粋に戦略の上でも必要な措置だが、それよりなにより。
「必ず、解放する――」
呪うように、声は低い。
赦さない。許してはならない。そんな理由を、見過ごしていいはずがない。死してなお、死者を覆うヴェールとなるために、彼らは死の眠りの中にあるのではない。これが都合のいい言い分だったとしても、あまりにも無惨な終わりだったからこそ、彼らにはせめて、安らかな眠りがあるべきだ。囚われた記憶を砕き、魂を完璧に破壊する。そうしてはじめて、終われるのだ。
そうでなければ、ならないのだ。
それを成し遂げるべきは、この身を置いて他にない。よしんば傲岸な思い上がりだったとしても、この地球の上に、この使命を背負うに、自分ほどの適任がいるはずがない。だから、間違えず、過たず、しっかりと。
この役目だけは果たさないと。
それが、破城弩弓の暴走を食い止め続けるシエルの意地。食いしばった歯の間から血が噴き出る。眼球を侵食する血管が視界を塞ぐ。それでも胸を張って腕を引いて、シエルの全身は微動だにしない。
その立ち姿に。
どれだけの無念と決意が秘められていたのだろう。
誰も知らない。彼女だけが知る、彼女だけの、都合のいい贖罪。あまりに醜い悪心だとしても、崩すと決めた。あの醜悪な土から、いま、あなたたちの魂を奪い返す。
魔力が横溢する。コンディションの条件が整う。精神、肉体、ともにグリーン。さあ、と頭の中で声がする。指がかかる。筋繊維の一本までをも調整しきる、肉体制御の神業の果て。
今こそ、土は土に。
「撃ち抜く――!」
人類世界最速の矢が、殺戮の反動を代償に、禍々しき塔に向けて放たれた。
そして落ちる、灼熱。
音速を越え、光となって大気を切り裂く聖なる閃き。遅れて轟音がやってくる。風圧はあたりの障害物を薙ぎ払い、流星のように矢は空を灼く。射手の腕はその反動で無惨に砕けた。飛び散る血。指はそれぞれが勝手な方向へ曲がり、肘からは白い骨が突き出した。しかし、それもまだマシな方。もっとも悲惨なのは、衝撃を耐える土台となった両足。瞬時、計測不能な圧力をたった二本で支え切った彼女の脚は、皮膚がはじけ肉が焦げ骨が砕けて吹き飛んだ。もはや原型などどこにもない。彼女自身も背後に吹き飛び、ぼろ布のように屋上の床を転がった。制御された魔力を開放するときに、神経をズタズタに引き裂かれた。胃がポンプのように収縮するたび、びちゃびちゃと血が噴きだす。おもちゃのようだ。口が蛇口になったように、血液の嘔吐は止まらない。神経を苛む痛み。背後に忍び寄る死の恐怖。狂いそうになる痛みの中で、それでも彼女は勝鬨を上げる。
だって、生きてる。
五体がバラバラになっておかしくない衝撃を受けて、それでも我が身はここにある。第六の死因の加護と、なによりぎりぎりの魔力調節のなせる業。九死に一生どころではない。百に百、死んでいたはずの賭けに、彼女は勝った。
ああ、だから。
遠くで、何かが崩れる音がする。山の向こうから、巨大な砂埃が立ち上っている。それは、彼女が消し飛ばしたものの断末魔。彼女の故郷を辱めた死徒の蛮行は、いまここに断罪された。
――これで、良かったんだ。
真っ青な顔をして駆けてくる志貴が見える。もうほとんど泣いている。叫び声も聞こえない。笑って、大丈夫です、と返してあげたいけれども、舌が灼けて言葉が出ない。血でふさがって、喉が動かない。ああ困ったな、意思を伝える手段がない。
本当に、いつもいつも、心配させてばかりで悪いけど。
今回はきっと、これで最後だから。
身体の状況は把握できている。結構きついけど、死ぬことはない。明日の朝までにどれほど回復するかはわからないけれども、きっと歩ける程度にはなっている。そうしたら、もうほとんど抜け殻のあの修道院を攻略する。全部終わったら、あの家に帰るのだ。
計画は完璧だ、と血まみれの意識でシエルはほほ笑む。この満足感を志貴に伝えられないことだけが残念だけど、今日のところは良しとしよう。だってもう、こうして考えていることさえ痛すぎる。
じゃあ、また明日。おやすみなさい。
言葉にならない意識の中で、のんきな挨拶だけを残し、そうして、シエルは意識を閉じる。
血まみれの屋上を覆い隠すように、間もなく夜がやってきた。いま、この街に、命の輝きは三つだけ。命たちは、確かな予感とともに、夜明けまでの時をそれぞれに過ごす。
もう、誰もが知っていた。
海より深いこの夜が明けるとき、この旅の終わりがはじまるのだ、と。