【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
それは、時季外れのカーニバルの一隊のようにやってきた。楽隊の代わりにかき鳴らされるのは鐘の音。ごーんごーんと鐘楼の音を響かせながら、ざくざくざくと新雪を踏みしめて行進する死者の一行。さすがに
月のない夜のことで、儚い星の明かりだけを雪が弾いて、夜をしとやかに濡らしていた。
雪原に、ぽつぽつと青白い光源が落ちる。ウィル・オー・ウィスプを掲げながら、がちゃがちゃと骨を鳴らして歩く一隊。血に飢えているのか、こつこつとあちらこちらで喉が鳴っている。禍々しい命なき躯の群れが、尾根を越え、崖を越え、林を越えてやってくる。
がっちゃがちゃがちゃ。
がっちゃがちゃがちゃ。
草木も眠った深更の大地。黒々ととぐろを巻く濃密な闇に包まれて、冬のその日、修道院は安穏の眠りのなかにあった。明日もきっと今日と同じような明日が訪れると信じ切った眠り。その不変と安逸とが、彼らがささげた信仰の見返りなのだと信じていた。
そして、時はそこで止まってしまった。
彼らは、二度と目覚めなかった。
それが一年前の夜のこと。
死徒は静かに侵攻をはじめた。ふもとの街に異変を知られるのはうまくなかった。すでに、目的の街の跡地には訪れた。土の記憶と魔力は手にした後だ。まとうべきベールの数には困らない。適当な死徒の記憶と力を譲り受け、死者の軍勢は眠りをむさぼる修道院を一気に陥れた。
これ以上ない屈辱とともに、ウィラは、ウィラの記憶は、あの夜のことを追憶する。
その夜、修道院にウィラがいたのは偶然だった。聖夜に近い、冬の夜のこと。ひとつの任務を終えた報奨休暇を使って、この修道院に戻ることにした。思い出したくもない牢獄ではあるが、ここが彼女にとって唯一の友達と過ごした家であったことに違いはない。
たまたま、クリスマスを休暇で迎えることができそうだった。であれば、生涯の友の死を悼むのに、ここに勝る場所はないと思えたのだ。生きていれば、三十の誕生日だったか。どうやってからかってやろうかと考える夜は、さぞ楽しい時間だっただろう。
すべて、仮定の話になった。彼女は、生きて三十歳を迎えることはできなかったのだから。
ノエルの死を知ったのはそのさらに一年前のことだ。極東の地で、自ら望んで死徒になり下がった挙句の果てに、あろうことか仇敵の手によって討たれたのだと聞いた。代行者としてはありふれた、しかし恥ずべき末路。末端の清掃員に過ぎないウィラの身分では、いかに探ろうとそれ以上の情報は手に入らなかった。
報せを受け取った時、ウィラの心は奇妙に静まり返っていた。
遠からずノエルが死ぬであろうことは、ウィラにとっては当たり前の結末だった。おそらくそれはノエルにとっても同じだっただろう。お互いの関心事は、生き延びることではなく、どちらが先に死んでしまうかだけ。代行者を勤め続けるには、肉体にも精神にも、自分たちは強度が足りな過ぎた。
だから、遅れて湧き上がってきた憤怒の念を、ウィラは持て余した。どうしてノエルの死にこれほどの憤りを感じているのか、自問自答の末に出てきた答えはシンプルだった。
私は彼女が死んだことに怒っているのではない。
――その死にざまに、怒っているのだ。
下手を踏んで惨殺されたのならよかった。ヘマをして死徒に喰われたのでもよかった。臆病風に吹かれて逃亡し、教会に討たれたのなら許せた。代行者をクビになりその後の人生に絶望して自ら命を絶ったのだとすれば大いに納得できた。
けれど、その最期だけは承服できない。
あれほどに死徒を、吸血鬼を、あの怪物どもを憎んでいたのに、自ら望んで死徒になったなどということは、ウィラには考えられなかった。どれほど惨めな目に遭ってでも、それだけは拒否するだろうと信じていた。ノエルの憎悪は救いがたいほどに本物だった。代行者としては二流で、聖職者としては偽物だったとしても、ノエルが神に願った復讐の心だけは真実だった。
それにはなんの意味もない。
ちっぽけで、取るに足りない、少女の意地。
そんなものだけが、彼女を支えていた。彼女が存在することを肯定していた。彼女自身が、それだけを自分の背骨として立っていた。
泣きたいくらいに無様なその在り方を、愛しいと思ったのだった。きっと彼女の命は誰のことも救わない。ただのひとりも幸せにしない。そうしてきっと、彼女自身を除いて、誰のことも傷つけられない。あまりにも無力で、なんの価値もない存在だった。
だから、ウィラは彼女のことが好きだった。彼女は否定するだろうし、口が裂けても伝えるつもりはなかったけど、ノエルこそは誰よりも強いと思ったのだ。
決して特別になれず、そのことを嫌というほど自覚し、美しくも強くも潔くも清らかにも尊くもなれなかった私の友達。凡人であることの悲惨と限界を全力で表現していた彼女。
その、哀れな生存こそが強さだと。
せめて、誰かが認めてあげなければならないと、ウィラは思ったのだ。
親に売られるようにして修道院に投げ込まれ、なにひとつ傑出することのない我が身をかこつことさえせずに生きてきたウィラにとって、彼女の炎はあまりに身近で、あまりにも生ぬるかった。
ウィルヘルミナに、暖かな家庭の記憶はない。生きていたいと願った覚えもない。生まれた時から厄介者扱いをされた彼女にとって、烈しい感情を持つ者はすべてまぶしかった。けれど、希望や欲望に満ち溢れた人間の激情は、ウィラには毒だった。それは、自らの無意味さを思い出させる。
その中で、ノエルだけが、暗く、重く、輝いていた。彼女には、他の誰よりも激しい感情があった。他の何物も肯定しないモノ。彼女本人は哀れなほどに弱く、平凡で、とてもそんな激情を扱えるような人間ではないことが、余計にウィラの気を惹いた。いつかこいつは、自らの憎悪に喰われるだろう、と思った。それは、この凡俗にしてみれば、なんて美しい終わり方なのだろう、と。
あまりにも平凡な命は、結局なにも成すことなく尽きるしかない。自分の凡庸さをなによりも自覚していたウィラは、だからこそ命の使い道に迷っていた。ノエルはその問いに答えをくれた。
どんなに醜くとも、火焔を上げれば、それは否応なく輝くのだ。
意味も価値もなく、自分自身さえも救わない憎しみだけを後生大事に抱え込んで、それでも血だらけになって生きようとする彼女の姿がまぶしかった。彼女の憎しみは彼女のすべて、それだけが彼女の誇りだった。
だからウィラは、ノエルという少女に恋をした。生まれて初めて、生涯ただ一度の恋をしたのだ。
――そのノエルが、死徒になり果てたという。
誘惑に負けて、なんとも惨めなことに、彼女が誰よりも憎んだ存在に討たれた。
そんな喜劇は笑えない。そんな終わりはないだろう。
砕けるほどに奥歯を噛んで、ウィラは獣のようにうなった。涙が流れた。胸を掻きむしって、彼女のために、彼女を愛した我が身のために、ウィラは泣いた。
だって、かわいそうだ。
ノエルが、あんまりにもかわいそうだった。たったひとつ、彼女に残された純粋なモノ。その憎悪さえ、自らの手で否定しなけれならないほどに、彼女は追いつめられたというのか。一体何をどうすれば、人間の尊厳はそこまで摩耗するものか。どれほどの恥辱を、絶望を、怒りを抱けば、人間はそこまで堕落するのだろう。
偽物だらけの人生で、あの憎しみだけが流星のように美しかったのに。
そのたった一つの輝きに、自分自身で泥を塗って、ノエルは死んだ。虫けらのように息絶えた。
すべてをなげうって、誇りも、憎悪も、生命も、それまでの人生のすべてをドブにすてて、唾を吐きかけ、それでも何事もなせずに、ゴミのように殺された。
「――ああ」
許さない、とウィラは思った。
許してなるものか、とウィラは誓った。
私の友達を穢しつくしたすべてのものを、私は永遠に赦さない。
この身では何もできない。敵を討つことも、汚名をそそぐことも、ウィラにはできない。だから、笑顔の下に憎しみを抱き続けようと誓った。その激情はどこにも行かず、何もなしはしないけれども、彼女の輝きを守ろうと思った。
あらゆる平凡は、すべての特別に敗北する。それが決して覆らないこの世界の真実だったとしても、突き立てるべき牙だけはここにある。
――だから。
戦わなければならないのだと、ウィラは思った。
目が覚めた時にはすでに死者の軍勢は修道院を囲んでいた。それが千年クラスの存在規模を誇る死徒であることなど、ウィラには知る由もない。ただひとつ、目覚めた瞬間に、この夜が生涯最後の時間になることだけが確信された。
良い。そんなことは、毎日のように覚悟していた。
起き抜けにハルバードを握った。すでに死者の一軍は、あちこちの扉や窓を壊して侵入してきている。水も漏らさぬ包囲だ。結界術、あるいは隠密行動に長けた代行者であれば脱出も可能かもしれないが、あいにくウィラにそんな器用な真似はできない。
「あー、もう、来るんじゃなかったな!」
愚痴のひとつくらいは漏らさせろ。この修道院に、戦闘ができるものは自分しかない。そして、事態は決して、己の腕一つで何とかなるレベルではない。法王庁へのアラートなど、飛ばせたとしても間に合わない。試しに天窓から鳩を放ってみたが、星明りを浴びる前に瞬殺された。
これで、通信手段もない。
「おとなしく死ねってわけかぁ。うーん、遠くないだろうと思ったけど、そっか、今夜か。うーん、終わりがココって、ほんとに神様って意地が悪いっていうかなんて言うか。もうほんと、お前らみんな死ねって感じ!」
ハルバードに軽量化の秘蹟をかけて、思いっきり振りかぶる。扉を破って突入してきた死者の頭蓋を砕いて、ひとつ。そのまま踊るように外に出て、あたりを闊歩していた死者たちの頭を砕きまわって十、二十。
屋根は破壊されているが、月がない。光は落ちない。毀たれた燭台から落ちたろうそくが、あちらこちらでわずかな火を広げている。割れるような悲鳴が響いている。殴打の音。水音。骨が砕かれる音。阿鼻叫喚とはこのことだ、とウィラは鼻をつまんだ。
神にその身を捧げたというのに、終わりが吸血鬼に食いちぎられるってどうなんだろう。さすがに、あの鉄の女たちも、信仰を悔いたりしたのだろうか。だとしたら、まあちょっとは痛快だ。何しろ私は、教会っていうものがそもそも気に喰わない。
ふん、とハルバードを振り回す。死者たちに襲われていた修道女もろとも粉砕してしまうが、気にしない。どうせ全滅は目に見えているのだ。彼女も、異端に喰われるよりは主の洗礼を賜った斧槍で散った方が本望だろう。
「なんてね♪」
もはや命の区別などない。編み上げブーツを鳴らしながら、がつがつと、飢えた獣のようにウィラはハルバードを振るった。動くものすべてを手あたり次第に破砕する。手に返ってくる感触が最高だ。しびれるほどに全身が歓喜する。呼吸が乱れる。頬が紅潮する。胸が高鳴る。股が濡れる、興奮する。脳髄が絶頂を求めて死者をあさる。
「あはっ!」
楽しい。なんて楽しいのだろう。きっと、この命はもう一時間も持たない。もっと手ごわい敵が出てくれば、花を摘むように刈り取られることだろう。それでいい。せめてそれまでは、己を虐げた世界すべてを憎みながら、この鉄塊を振るい続けよう。
死徒も、異端も、吸血鬼も。
教会も、神も、修道院も。
すべてをぶっ壊して、その果てに命尽きてやろう、とウィラは思った。あちこちで上がる断末魔。胸を貫かれ、生きたまま手足を食われていく修道女。目玉を舌で転がして、下卑た笑みを浮かべる吸血鬼。喉を鳴らして処女の血を嚥下するゴミムシども。聖母像に必死に祈りを捧げる女たちが、尻から爪で引き裂かれる。乳房をもぎ取られ、血と脂肪をまき散らしながら絶命していく。
地獄だった。その中で、光のように血を浴びて、ウィラだけが踊っていた。わざわざ新月を選んで攻め込んでくるなんて、舐められたものだ。けれど、それも当然か。ここには刃がない。警戒などしても無意味だ。狼が赤子を食らうように、死者たちはただ蹂躙すればいい。無力な羊たちを。
もはや数えることも忘れていた。何十体目かの死者を屠って、荒い息をつく。疲労のせいで、軽量化の秘蹟をかけるタイミングが、少しずつずれてきている。そのせいで、筋繊維へのダメージが蓄積した。ぷちぷちと、何本かの筋が断裂する音がする。腕をまくってみれば、皮膚の下は内出血で紫に染まっているだろう。
「ふう――ふう――!」
それでも、強引に斧槍を振りかぶる。壊れた筋肉があるなら、別の部位で補えばいい。手足が動かなくなっても、口で武器をくわえて叩き潰してやる。すこしでも数を減らして、少しでも――。
「あれ? 少しでも、なんだっけ?」
その逡巡が命取りになった。ぞくりと背筋に走った悪寒。本能に従って床に転がって退避の姿勢を取った時にはもう手遅れだった。
「あ――がっ」
ごぽりと、口から血があふれる。見れば、腹の四半分がそがれている。慮外の力で強引にむしり取られた、という感じ。すっと手足の感覚が冷たくなる。ああ、そうか、とそれで理解した。これが、死という終わりの手触りか。
ただの死者よりも、はるかに手ごわいモノがやってきた。
痛覚はすでにない。戦意も持っていかれた。十分に暴れまわったし、ここら辺が限界だろうとは思っていた。ハルバードから手を離す。血をまき散らしながらせめてこの身を食らおうとする敵のカタチを視界に入れる。
「ああ――あなた」
これは幻影だろうか。敵は、見覚えのある顔をしていた。ウィラだけじゃない。代行者ならだれもが知っているその顔。
相手はこちらを知らないだろう。不思議そうに小首をかしげて、こちらを見ている。
青い髪に、蒼い瞳。死んだような無表情。
埋葬機関の第七位――空の弓。
ノエルが魂で憎み切った女のカタチを、それはしていた。
無論、本物ではあり得ないことは、大量の血を失って霞がかかったウィラの頭でも理解できる。何らかの魔術か、あるいはただの幻か、だ。
それなのに。
「へえ。あなた――私まで、殺すんだ!」
どろりとした殺意が、心臓のあたりからせりあがってきた。不思議なほどに力が湧いてくる。血を吐きながら、全身に力を込める。なくなっていたはずの戦意が猛る。もはや歓喜か怒りか憎しみか、区別もつかない。ただ激情としか言いようのないものが、ウィラの身体を奮い立たせた。
そうだ、思いだした。私は憎もうと誓ったのだ。何の爪痕も残せなかったとしても、最後まで憎み切って終わろうと思ったのだ。
だって、それがノエルの願いだったから。
無二の友はもういない。最悪の存在に身を堕として、誰にも憐れまずに逝ってしまった。だからこそ、彼女の憎しみを受け継ごうと思った。受け継がなければならないと思った。どうせ代行者も長くは続けられないのだから、生きる理由はそれだけでいいと思ったのだ。
もう、なにもかも遅いけれど。
まだ守れるものがあるなら守りたかった。
ハルバードを振り上げる。渾身の力を込めて咆哮を上げる。残った体力と魔力とプライドを体中からかき集める。なけなしの生命力をただの一撃に叩きこむ。そうして振り下ろされた断罪の鋼は。
「――あ」
つまらなそうに掲げられた左腕に、影も残らず粉砕された。
「――は。はは」
笑いが漏れる。敵は反応しない。先ほどまでの自分がそうしていたように、こちらの姿を見もせずに、無造作に腕を振り上げる。
「そうよね。あんたたちにとって私たちなんて、結局、見るにも値しない虫けらだものね!」
それが最後の言葉になった。
ぐちゃりと、自らの脳髄がつぶされる音と、飛び散る脳症の白さが、ウィラと呼ばれた女が記憶した最後の感触だった。
***
「ってのが、一年前の顛末でーす! どう? 結構楽しかった? 私の死にざま、志貴ちゃんにも見せたかったなあ。見ごたえあったと思うのよ? そこの女に、ぐっちゃぐちゃに引き裂かれる私の身体。見てみたかったと思わなーい?」
ケラケラケラケラケラと、壊れたようにウィラは笑う。実際、壊れているのだろう。正常な判断力はすでにない。彼女はただ、感情だけで動いている。
この死徒は、修道院を襲う時、先輩のカタチを使ったのだという。
それが誰に対する侮辱なのかもわからないまま、身体は怒りに沸いた。
「あれ、リアクションなし? せっかく教えてあげたって言うのに、無視はダメよ。マナーがなってないっていうか。そんなに態度悪いとぶっ殺しちゃうぞ? ……なーんて、うっそでーす! だって今から殺されるのは私の方だもんねー!」
肉体強度も精神強度も並みだった、とウィラは言った。俺でも覚えている。ノエルは総耶にたどり着いた時点ですでに壊れかけていた。不安定な精神を必死に保っていた。であれば、無二の友だったノエルを失くした後も一年間、代行者を続けたというウィラの精神など推して知るべしだ。
せめて、眠らせてやるのが礼儀だろう。
ナイフを構える。眼鏡を外す。地下聖堂には、光が希薄だ。これくらいの明るさの方が、線はかえって浮き上がって見える。
頭が、痛い。
「お、志貴ちゃん、やる気? 光栄だナー、私程度に本気を出してくれるなんて、お姉さんうれしくて泣いちゃいそう! でも、ダメなのよ」
「――なに?」
「志貴ちゃんの相手は、私じゃないの」
ウィラがにこりと笑って手を振る。それを合図にして、暗闇が蠕動する。どこに隠れていたのか、死徒の気配が濃くなる。
「本体は私だけど、保険のためにもう一体、それなりの強度のものを残しておいたのよねー。だから、志貴ちゃんの相手はそっち。……悪いんだけどさ、どうしても私と同じ目に遭って欲しくてね」
ウインクをして、ハルバードを振るう。石の床が割れて、粉塵が舞う。
その煙幕を割って。
この世でもっとも醜いモノが、姿を現した。
「じゃーん! せっかくシエルちゃんが来てくれたんですものー、せっかくだから、あの夜の記憶、使わせてもらうに越したことないっていうか?」
それは、慣れ親しんだ姿をしていた。髪も、瞳も、肌も、すべての色が狂いなく再現されている。だからこそ、それほどに醜いものを、俺は見たことがなかった。
「――貴様」
臓腑の底から声が出る。この世には、何があっても再現してはならないものがある。死徒の名においてその当然の摂理を踏みにじるのであれば、完膚なきまでに殺されたとしても文句は言うまい。
「そんなに睨まないでよぉ。殺したほど憎いのはお互い様でしょ。さっき言った通り、私だって、この姿のコレに殺されたんだからサ!」
それを、シエルと呼ぶことはできなかった。だから、呼ぶとするなら、この名だろう。
「そうか、
15年前、ここからわずかに離れた街で、ソレは顕現した。半年以上をかけて地獄を演出し、討たれた後もトラウマとなって彼女を縛った厄災の権化。
脳髄が白熱する。思考はすっかり焦げ付いて、名前の付けられない感情が全身に渦巻いている。たしかなこととして、この影を、俺は先輩だとは認識していない。いくらカタチが同一でも、これが違うものであることを理解している。
ああ、だとするなら、好都合だ。そうだ。他に何がある。
「そういえば俺は――お前を、この世で一番、殺したいんだった」
ニヤリと、それは唇を枉げた。呼応するように、ウィラが嬌声を上げる。
「きゃー! かっこいいー! どう、どうなの、あの志貴ちゃんを見てさ、自分の過去を殺すって言ってる志貴ちゃんを見てさ、あんたはどうなわけ、シエルちゃん!」
ふ、と凍えるような息。
先輩は、無言のまま黒鍵の刃を編み上げて、わずかに首を振った。
「――興味ありません」
「あ?」
その返答が、よほど意外だったのか、よほど気に食わなかったのか、ウィラの顔がどす黒く染まる。がりがりと爪を噛みながら、いらだちを隠しきれずに彼女は叫んだ。
「なんだそのスカした返事! あんただよ! あんたが、自分の街を大虐殺した自分の姿が目の前にあるんだよ! それでも何も感じないっての? へー、吸血鬼なんかよりよっぽど化け物じゃない!」
静かに。
本当に、呆れたようにため息を吐いて、先輩は言った。
「だって、あなたが言ったんでしょう?」
「――なに?」
「あれは、遠野くんの敵だって。だったら、わたしには関係ないじゃないですか」
俺の方を、一瞥もしない。まなじりを決し、火の出るような視線を、先輩はただウィラにだけ注いでいる。その言葉に、どれほどの決意と信頼が込められていたのか、俺にはわかる。俺にだけはわかる。だからこそ俺も、声をかけずに腰を落とした。
呼吸が改まる。先輩の息遣いが聞こえる。横顔は美しかった。なにもかもを受け入れ、決して嘆くことなく前を向くことだけを決めた心だけが持ち得る精悍さ。あらゆる愛想が剥がれ落ちて、この場にもっともふさわしい表情が現れる。顎に力が入り、眉が吊り上がり、唇の端から食いしばった歯が見える。
――戦うものの、面相だ。