【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
ここに来たのは、ウィラの方が早かった。一般的に修道院に入るのは初潮の訪れの前が望ましいとされているから、14歳を過ぎて寄こされたノエルは、それだけで珍しかった。
年齢はこちらが一つ下。形ばかりの案内役に指名されたことに、意味はなかっただろう。もう何のために生きているかも理解できなくなっていたころだ。汚染物の相手をするなら、先行き短い者に押し付けたほうが合理的だと考えたのかもしれない。だとすれば実に教会的な判断だった。
祖に触れた者である、とは事前に聞かされた。地獄から抜け出してきた娘だと教わった。それはすなわち、特級の汚染物として扱え、ということだ。ここに収容されたが最後、死ぬまで監視されつつ、軟禁される。とびっきりの不幸を宿命づけられた少女の来歴を聞いてもなお、ウィラの心は動かなかった。
だって、それがどうしたというのだろう。
死ぬまで閉じ込められるのはこちらとて変わらない。地獄を見たのであれば死ねばよかったのだ。そうまでして生きようとする心根が、どうしてかウィラには苛立たしかった。
考えてみれば滑稽なことだ。いかにも悟ったようなことを考えながら、ウィラもまた、生き延びてはいたのだから。
そして、出会いの日。ノエルは、生まれたばかりの朝日を背負って、修道院の扉の前に立った。逆光で表情は見分けられなかったはずなのに、なぜだか美しい娘だと思ったことを覚えている。
そるほどに胸を張っていた。そのことが意外だった。
ノエルは一歩近づき、珍しいものを見るようにウィラの瞳をのぞき込んで、
「おはよう」
と笑った。
短く切りそろえられた赤毛の頭をちょこんと下げて、
「これからよろしくね」
と片目をつぶった。
返答は遅れた。なんと返したのかも覚えていない。不意打ちに殴られたような気分だった。
あれ、おかしいな、と思ったのだった。だって、彼女は極めて平凡だった。明るくて、どこかずるそうで、愛想の良い少女だった。あまりに毒気のない挨拶にこちらが戸惑っていると、ノエルは当たり前のようにウィラの前に立って歩き出した。
「実家はカフェをやってたの。私ってば看板娘だったのよ。笑顔の挨拶はお手の物ってわけ」
発言の真意は今もってわからない。どうしてそんな無意味なことをわざわざ告げる必要があったのか。
ただ、この女にはかなわないな、と思ったことを覚えている。不幸な境遇を引き比べて何事かを語るほど愚かなことはないと知っていたが、ノエルはあまりにも健やかだった。心の中は汚濁にまみれ、呪詛が渦巻いていたのだとしても、彼女の笑顔はひとまず上々の完成度だった。
演技ではあるまい。彼女が致命的に壊れていたのだとすれば、まさにあの笑顔こそが何よりの証左だった。
「それが、私たちの出会い」
石造りの地下聖堂に、夢見るような声が響いている。ウィラはもう、シエルに聞かせるつもりもなさそうだった。ただ自分の中の思い出を、言葉にして虚空に放っているだけだ。
もちろん、鵜呑みにはできない、とシエルは思った。あの地獄を体験したノエルが、たとえいくらかの治療期間を経たとしても、本当の意味で健やかな笑みなどを浮かべることができたとは到底思えない。
しかし、そうしようと努力をしたのだろう、とは思った。たしかに、あの地獄を生き延びた後になお生きようとするなら、振る舞いの選択肢はそう多くなかったはずだ。
その中からノエルは、笑うことと恨むことを選択した。そういうことだ。それはたしかに、特別なことだっただろう。あんなものを見てまだ生きて笑えるなら、それはもうとっくに普通ではない。
シエルは奇妙なほど冷静な頭でそう考えながら、ハルバードを提げて一歩一歩こちらに近づいてくるウィラを、風を追うように見つめていた。
「わかるでしょ? やっぱりノエルは平凡ではなかったの。だから、あの時からノエルは私にとっての特別になった。彼女は本当に醜くて、卑怯で、どうしようもないくらい人間だったけど、結局のところ、ああやって生きていたのだから」
我が身を思わざるを得なかった、ということだろう。ノエルは訪れた瞬間にウィラに影響を与えないわけにはいかなかった。反省したのではない、とウィラは言った。あれは呆れなのだと。自分程度の不遇で前途に絶望していることが、あまりにもばかばかしくなったのだ、と。
「だってそうでしょ? ノエルだって、過去を真っ向から受け止めていたわけじゃない。彼女はどこかで、過去の出来事を戯画化してしまったのよ。自分を登場人物に貶めた。ある種のフィクションとして、自分という存在に接することにした。だからあの子はいつだって芝居がかっていたし、本音と演技の区別がつけられなくなってしまった。ねえ、そうでしょ?」
問われた。
問われたからには答えないと。
シエルは鈍い頭でそう思考する。
「ええ、そうですね。そういうところは、たしかにありました」
「でしょう? あの子は、本来であれば生きられないはずの穢れを抱えていたから、過剰にならないと生きていけなかった。かわいそうよね。だって生きるっていうのは、もっと平凡な行為でしょ。こんなこと、誰にだってできること。息をして、心臓が動いているだけ。一般人にだって、そうと意識しないうちにできること」
その当たり前を、うまくやれなかった。
ノエルという女の本質は、結局そこにあったのよ、とウィラは断定した。
そうなのかもしれない、とシエルは思う。そうじゃないのかもしれない。わたしには何もわからない。そのことが、ひどくあさましく感じられて、重たるい眠気を持て余している。
ウィラを何より驚かせたのは、ノエルが当然のように代行者になろうとしたことだ。もっとも、はじめからそう決めていたわけではあるまい。この修道院で日々を過ごすうちに、いつの間にか彼女の中でその展望は決定事項になっていたようだった。
「生きてはいけるわよ」
それがノエルの口癖だった。
「ここで生きるだけなら生きられるわ。パンをこねて、ワインを作って、たまに隠れて飲んだくれて、祈りを捧げてつつましやかに眠りにつくの。その間、四六時中、私は見張られている。汚染された魂がいつ反転するか、周囲すべてが私を警戒して、穢れたものとして扱う。ひっどい話よね。だって私、ただの被害者なのよ?」
人間社会の倫理にすればそうだろう。ノエルは笑えるほどに純粋な被害者だった。しかし、教会において、汚染されたものは被害者ではない。それは人間の世を害する可能性を持つ、有毒物質に他ならない。物語の中においては被害者以外の何物でもないはずのノエルはしかし、この世界観においてはやはりどこまでいっても汚染物に過ぎなかった。
「そういうのはね、魂の死。私はあの夜に殺された。殺されたのよ。こうして生きてるけれども、私の人生は何もかもアイツに奪われた。私という人生は、あそこでやっぱり死んだのよ。それなのに、この上どうして、教会にまで未来を殺されなきゃなんないわけ? マジで意味わかんない話でしょ?」
そうね、あなたの言う通りよ、とウィラは答えた。答えたのだと思う。満足そうにうなずく、ノエルの顔を覚えているから。
「だから、代行者になる」
付き合うわ、と返答したのだった。それまで、代行者になるなんてことを考えたことはなかった。けれども自然、思いは口を割っていた。ノエルがそう求めているように見えたし、ノエルという鏡を失くして生きていける自信がウィラにはなかったから。
一緒に頑張りましょう、なんてくだらないことを誓い合って、そうして手を取り合って、血反吐を吐くほどの修練に溺れていった。
笑えたのは、毎日のように後悔していたこと。それでも、望んで踏み込んだ道なのだと自分自身に強がり続けていたこと。他にどんな可能性もなかったことなど、誰よりも自分自身が知っていたはずなのに。
「才能なんてなかった。あ、それはあなたが誰よりも知ってるか」
不意に空気を斬り裂いて飛んできた平手打ちを、シエルはかわさなかった。甲高い音があたりに響く。遅れて、じんじんと肌の表面に熱が宿った。
「それでも、歯が砕けるまで食いしばって、私たちは代行者になった。その時点で、余命は決まっていたようなものよね。案の定、あの子はへまをした」
そうですね、とシエルはつぶやいた。そこから先は自分も知っている。眺めていた物語の中に急に自分の影が出てきて、なぜかわからないまま驚いてる。
「あなたの弟子になることにした、と聞いたとき、私は思ったよりも驚かなかった。そういうこともあるんだなあ、なんて、のんきに受け止めたことを覚えているわ」
シエルの方はさすがに驚いた。ノエルが成長した姿でやってきて、助けてほしいのだと言った時には。
自嘲すら浮かばない。断るべきだったのかもしれない。でも、あの時のシエルに、ノエルの手を振りほどくことはできなかった。
「あの子、言い訳みたいに必死にしゃべってたわ。ストラスブールの酒場だったかしら。店に入るなりワインを飲み干して、ウイスキーに切り替えて、散々に喋り散らしてた。あれは、誰に対しての言い訳だったのかしらね。私か、あなたか、それともあの子自身か」
「――自明でしょう」
「そうね。必要のない問いだった。酔っぱらって、何度も何度も同じ話を繰り返していた。あの女に弟子入りした。だって他に選択肢がなかったんだもの。更迭されるわけにはいかなかったんだもの。ノエルはずっとそう言っていたわ」
「……ええ、そうでしょうね」
再び頬を張られた。ウィラは穢れたものに触れたように、手のひらをごしごしとカソックで拭っている。その様子がおかしくて、シエルはもう少しで笑いそうになってしまった。だって、そんなことをしたところで、汚れは落ちないのに。
ウィラはまた強引な笑顔を浮かべて、話を継いだ。
「ノエルはいろいろ言ってたわー。あの女、そうやって頼む私になんて言ったと思う、って聞かれてね、私は答えられなかった。そうしたらノエル、とっても嬉しそうにこう言ったのよ。ええ、わかりました、って言いやがったのよアイツ、別にそんなこと、なんの問題にもならないってくらいの無表情で!」
そうだったか。そんなふうに答えたのだったか。もう、記憶もおぼろだ。
「任務を終えるたびにこの辺の街で飲んだくれたわ。ノエルの話題の三割くらいがあなたのことだった。師匠としては意外と悪くないって言ってたわ。強いし、何より無口だし。ものすごく嫌味なしゃべり方をするけど、神経を逆なでしてるのはお互い様だからってね、笑ってそう言ってた」
ウィラが右足で踏み込んで、拳をシエルの腹に繰り出してきた。あくびが出るほどのろい動作だった。その拳を、シエルはあえて受けた。
特に腹に力もこめなかったので、皮膚をたわませて内臓にまで衝撃が届いた。自然、身体がくの字に折れ曲がる。喉から嫌な息が漏れていった。
「なのに、どうして」
ウィラは泣いていた。
「どうして、あの子を殺したの?」
ハルバードが振るわれる。全身で受けて、吹っ飛ばされる。石の床が冷たい。血が流れていく。それでも、身体に編み込んだ再生の加護は問題なく機能する。傷口は生じた瞬間にふさがり始める。この程度の攻撃で、シエルを殺すことはできない。
「どうして殺したの!」
詰問は、悲鳴に近かった。答えることはできなかった。ただ遠い夢を追うように、シエルは横たわったまま、ウィラの絶叫を聞いていた。
***
「迷いがあるな」
まるで楽しむように、ヤツはそう言った。渾身の力で振り下ろした刃は腕を切断するに留まり、命にまでは届かなかった。左腕の肘から先を失い、血を流しながら、しかし余裕の表情は揺るがない。
それはそうだろう。ダメージが深刻なのはこちらの方だ。今の一撃に至るために、雷霆そのものを切断してしまった。現象の線は鉱物よりも視えにくい。視えないものを無理に視ようとすれば、反動からは逃れられない。幼いころから叩きこまれている、この脳のルールだ。
「――ぐっ」
だからこれは、当然の代償。
神経ごと頭蓋を引き裂かれるような痛み。気絶さえできない。眼球の奥に針山を押し込まれたように、痛覚という痛覚がズタズタに引き裂かれている。目じりから垂れているのは涙ではなく血だ。口からも鼻からも、面白いように垂れてくる。
止まらない。溢れて溢れて止まらない。鮮やかな、臭気を上げる、真っ赤な血。
汚物を見るように顔をしかめ、ヤツは舌打ちした。
「……無様だ。それほどの奇跡を有しておきながら、お前はあまりに脆弱だ。その上、お前はまだ、私を殺すことに迷いがある。――いや、違うな。どのような感情をもってこの身体に刃を向ければいいのか、そんなことに悩んでいる」
今度はこちらの舌打ちが漏れた。先輩の身体で、声で、顔で、わかったようなことを言いやがる。
それが正鵠を射ていることが、なおさら腹立たしかった。
「は――あ」
深く呼吸する。酸素が血液に乗っていることを意識する。肉体の実在を確かめることで、スイッチをこちら側に入れなおす。その俺の様子を、興味深そうにヤツは観察していた。
表情は違うものだ。俺の知っている先輩ではない。先輩はあんな、虫を見るような目で人を見ないし、静かな興奮を下卑た笑みで表現したりはしない。それでも、やはりそれは先輩の輪郭なのだ。
だから決して、憎むことはできない。そんなこと、最初からわかっていた。
「馬鹿げている。それこそが人間だ、と言ってやりたいところだが、それにしてもお前は壊れているよ」
「自覚してるよ、大きなお世話だ」
こいつさえいなければ、と何度思ったか。何度呪ったか。何度恨み、頭の中で何度殺して回ったか。
それでも、ここは、こいつがいた世界の上に成り立っているのだ。そのことを、俺は理解してしまっている。
こいつがいなければ、こんな悲劇はなかった。だからこそ、こいつがいなければ、今ここは存在しなかった。
何もかも、過去は現在の一部なのだ。都合のいいことだけをなかったことにはできない。どんな悲劇であっても、どれほどの犠牲があったとしても、その血肉を啜って時代は今日を築き上げた。過去を否定するなら、今をあきらめるしかない。
今を認めてやるためには、何一つ漏らさずに、過去を受け入れなければならない。どれほどの罪であったとしても、承認してやるしかない。何か一つ、わずかな事柄のズレであったとしても、それ失くして、今というこの瞬間にはたどり着かなかったのだから。
「不思議なものだ。人間の倫理では耐えられまい。そこまでして、この女が惜しいのか」
「あいにく、根元のところで人でなしなもんでね」
「驚いたな。お前、その自覚もあったのか?」
「当たり前だろ」
愛する人がいる。
彼女の、何もかもを愛している。
その事実は、俺だけではなく、彼女さえも傷つける刃なのだ。
彼女自身を苦しめた、多く命を踏みにじった彼女の過去が、それでも今の彼女を形作っていることを、誰も否定できない。あの虐殺がなければシエルはシエルにならなかった。
そして、俺は彼女に出会わなかった。
ああ、きっとそれは幸せだろう。15年前の悲劇が起こらなかったなら、彼女は今でも片田舎のパン屋で朝寝坊をしていたかもしれない。街の人に笑顔で挨拶をし、両親に愛され、ひょっとしたら子供のひとりやふたりも生んでいたかもしれない。太陽のような笑顔を浮かべて、母として美しい日常を生きていたかもしれない。
「――本当に、人でなしだ」
自分自身に、心底愛想が尽きる。誰一人、何一つ失われていない楽園を夢見て、彼女自身の苦しみの知ってなお、だって俺は今を否定できない。
先輩と、一緒にいられて幸せなんだと思ってしまっている。
本当に、反吐が出る。選べと言われれば、もちろんここではない未来を選ぶだろう。それでも、ここにいることの、先輩の傍にいられることの幸せを、俺は否定できない。
「だからロア。これは、憎しみじゃないんだ」
俺はお前を憎めない。お前を、なかったことにはできない。
「ほう? では、お前はいったい、なんの正義をもって私を断罪するのだ?」
ヤツが胸に手を当てている。そうだ。俺はそれでも、あの胸にこの刃を突き立てる。でもそれは、誰に誇れるような理由じゃない。
「正義じゃない。正義なんかであるものか。俺はただ、お前が嫌なんだ。妬ましい。白状すればさ、ロア。これは、ただの嫉妬なんだよ」
呆然と目を見開いて、やがて奴は大口を開けて哄笑した。はははははははっははははああはあははと、声が聖堂に反響して空間を満たした。
「嫉妬、嫉妬だと! 醜い、あまりにも醜いぞ人間!」
「同感だ」
正しくなんてなれない。胸を張って宣言なんてできっこない。俺はコイツが極悪だから憎むのではない。こいつが吸血鬼だから殺すのではない。こいつの過去を裁くために怒るのではない。
恥ずかしくって死にそうだ。けれど、俺の中の真実は、たった一つしかなかった。
「先輩は――シエルは、俺の女だ」
俺以外の男が、俺の知らないシエルを語るのが許せない。俺よりも深くシエルを理解しているとほざくことを看過できない。いつまでも、過去風情が知った口をきいていることが我慢ならない。
渡さない。離さない。誰にだって、本人だって渡してやるものか。
だから、ロア。
「俺の女に、手を出すな」
叫んで、頭上に飛び上がる。俺の動きを目で追って、ヤツは口を頬まで裂いて相変わらずの笑い声を響かせる。
「良いぞ、実に無様で実に蒙昧だ。実に実に実に滑稽だ! 来たまえ遠野志貴。青い瞳の死神よ――!」
ゆらりと、床に影が落ちている。それは光源があるからだ。壁の一部を足がかりに、聖母像の上部にまでたどり着く。そこに設置されていた燭台を蹴り飛ばし、油ごと火をぶちまける。
「―――」
つまらなそうに火の粉を振り払い、ヤツが右腕を掲げる。網のように広がった雷の一撃を振り払い、さらに上空を跳ぶ。
今の俺のコンディションでは、先ほどの突進以上の速度を出すことは不可能だ。あれで仕留め切れていないのだから、やみくもに刃を振るってもヤツの命には届かない。ならば、戦法を変える。次々と燭台を蹴り落とし、炎の海を広げていく。しかし、異端を焼くには火力が足りない。
だから、これはたいまつだ。
万に一つもヤツの輪郭を見失わないように、光を地面に広げる。影は燃え上がり、俺に命の在処を教えてくれる。石造りの冷たい廟に、熱気が満ちる。油はそれほどの量ではない。やがて酸素とともに食らいつくされ、炎はその寿命を終えるだろう。
それでいい。どのみち、動き出したからには止まれない。これで仕留め切れなければ俺の敗け。いずれにしても、決着は数分後にはやってくる。
炎は赤い光で床から壁を染め上げる。対抗するように、暗く高い聖堂の天蓋からは、濃密な闇が降り落ちる。その拮抗点、光と闇の狭間に俺はいる。いずれにも属せぬ異物として。
すうっと息を吸う。この数日、ずいぶんと無理を強いた。脳の機能にはそろそろ障害が出てもおかしくない。だから、視てはいけないものを視るのは、これが最後だ。
十分に炎が広がったことを確認して、ナイフを抜く。狙いは、眼下の吸血鬼ではない。この聖堂を統べるようにたたずむ聖母像。目を見開いて、その石像を侵す線を視る。振るわれる刃は、音も立てない。瞬時に走る、複数の軌跡。やがて、慈愛を象った像は、多くの破片に解体された。その時点で、像は何物でもない。あらゆる意味を剥奪された石塊が、重力にあらがえずに轟音を立てて崩れ落ちる。
「はっ――なんと不敬な! 看過できぬ冒涜だぞ」
愉快気に笑うヤツの声が響く。もとより信心深い方ではない。神罰があるとすれば、それも覚悟も上だ。そんなことよりも、目の前の悪鬼を打ち滅ぼすことを優先する。
床に広がった炎は、揺らめきでかえって影の溜まり場を作る。その光の濃淡を利用して、俺は空中で身を翻す。散乱し、落ちていく聖母像の残骸たち。そのうちの一つ、ひときわ大きな瓦礫に身を隠し、ヤツからの目隠しとする。
「愚昧――!」
俺からはもうヤツの姿は視認できない。反響する声。見ずともわかる。俺の作戦など、当然お見通しだろう。ヤツはゆらりと右腕を掲げ、極限まで圧縮された詠唱を歌い上げる。複数の意味を一文字に凝縮し、奇跡を執行する数秘紋の魔術特性。多くの手順を必要とする魔術を瞬時に再現することに長けた、高速の魔術行使。
轟音が突き抜ける。砕かれていく瓦礫。なにが不敬だ。なにが冒涜だ。お前の方がよっぽど徹底的じゃねえか。
無数の槍となって降り注ぐ雷霆。端から順に貫かれる聖母像の成れの果て。その衝撃に耐え、歯を食いしばる。声を出してはならない。影に徹する。この身はいま、この瞬間だけの無機物だ。
「何――?」
人が身を隠せるほどの破片は多くない。そのうちの最後の一つを雷で貫き、ヤツは不審げな声を出した。すべてを貫いたはずなのに反応がない。だとすれば。
ヤツが振り返る。目には驚愕の色がある。それが正気を取り戻す前までが、生き死にの際。
「とったぞ、ロア――!」
「無防備なまま耐えたのか、私の雷霆に――!」
耐えたなんて格好のいいモノじゃない。ヤツと同じく、左腕は吹き飛ばされた。その痛みを、声に出さずに内に秘めた。たった一瞬、ヤツの虚を突くそのためだけに。
俺の身体全体が、落下する切片に見えていただろう。縮めていた身体を開き、全身をこわばりから解放する。収縮していた血管が開き、斬り裂かれた左腕から炎のように血がほとばしる。奔る雷に焼かれた血液が蒸発し、肺の奥にへばりつくような、赤い霧を産み落とす。
好都合だ。これもまた、目隠しになる。
「お――おおおおおおおおおお!」
重力に任せて落ちる身体。刃を振りかぶる。無限に分割されていくこの一秒。そのひとコマの差で、
「――あ」
間に合わないと、直観してしまった。
「悪くはなかったが――届かなかったな」
にやりと歪む笑み。俺の刃は間に合わない。この銀のひらめきが届くよりも、ヤツの方が早い。右腕が旋回し、音にもならない呪文が漏れる。そうして顕現した稲妻は、今度こそこの身を消し炭に変えるだろう。
聞き取れない高速の詠唱とともに放たれる死の雷撃。ばりばりと空気を燃焼させる音。網膜を痛めつける白い輝きが視界にいっぱいに広がって――。
「あ、あああああああああああああああああ!」
「な……!」
――炎を巻いて、爆風が立ち上がった。
上昇気流によって、身動きの取れない中空で、俺の態勢がわずかに変わる。それで十分。間一髪の、あり得ないはずの回避行動。
「馬鹿な――!」
炎が油を嘗め尽くし、最後の命を燃やし上げる瞬間、貪婪に酸素を啜った。そこに降り注いだ血が一瞬で膨張し気化することによって生じた、本当に一瞬、俺にとってだけ都合のいい物理現象。
偶然とは神の意味だと言った文学者がいた。ではこれは神の憐れみか。
違う。
これはたしかな愛によって引き寄せられた、人智の涯にある一瞬の光。
「譲渡――運命力か……!」
呻くように、それでも真実にたどり着いたのは、ヤツの魔術師たる慧眼のなせる業だった。しかし意味はない。もはやその身に、なんの手立ても残されてはいない。だから。
「これで、終わりだ」
その肌。
何度も触れ、抱き、慈しんだ白い肌に、俺はナイフを突き立てる。そうされることを待っていたように肉体は断罪の刃を飲み込み、受け入れ、そして命を手放した。
「――っ」
ナイフを握り続けることもできず、そのまま床に転がった。炎の名残が肌を焼くが、いまさら気にもならない。視線を上げると、棒立ちのまま死に隣接するヤツの、細い姿が揺らめいていた。
影のようにヤツは立つ。ごぽりと血が逆流している。その勢いも、もはや乏しい。命は、文字通り風前の灯火だった。
「必殺のタイミングのはずだったが……
「死にやすいのは、それでも俺の方だからって、先輩がな。余っているくらいだから、一部を俺にって譲ってくれたんだ」
「実行するのは馬鹿の極みだが、今回に限っては正着だったようだ。認めがたいことだが、現にこうして私は滅び、お前は生き延びる」
もっとも、それが良いことかはあやしいところだがね、と奴は笑った。朗らかな、奇妙なほどに影のない笑みだった。
その笑顔に、目を奪われた。
だからだろう。
次の瞬間に降ってきた声を、優しい響きだ、などと感じてしまったのは。
「遠野志貴。受け入れるのは、簡単なことではない。地獄を裸足で歩き通す覚悟はあるか?」
何を問われているか。親切ではなかったはずの言葉が、なぜか瞬時に理解できた。
「覚悟なら二年前に済ませてある。あとは信じて、歩き続けるだけだ」
「……割り切らずに、人間の倫理のまま受け入れるには、重すぎる荷物だろう」
「何度も言わせるな。俺は根本的に人でなしだ。それに、だからこそ足は二本あり、人間には腕が与えられた。……倒れそうなら抱きしめるさ。歩けないなら背負えばいい。それが、俺の望んだ在り方だ」
度し難いな、と奴は言った。何かをうらやむような、消え入りそうな声だった。満足して逝かれるのはなんだか癪で、思わず言わでもことを口にする。
「とにかく、お前はここで死んでいけ。……言っとくけどな、俺、アルクェイドの記憶を食い物にしたこと、まだ赦してないからな」
「よく言う。あれほど逢瀬を楽しんでおいて身勝手なことだ。その上、あの件について私に不満を言うのは筋が違うというものだ。私とて、あんな姫君を再現されたことについて、不満がないわけではない」
「そういえば、アルクェイドに一番こだわっていたのは、お前の方だったもんな」
くっと喉の奥で笑って、ロアは手を振った。残っていた右腕がそれで崩れ去る。灰になって空間に溶けていく。もはや風の音にしか聞こえないか細い声で、ヤツはそれでも語るのをやめない。
「……ああ、まったく奇妙な者たちだよ。誰もが欲しがる不老不死を手放して、それでも、お前たちは寄り添っていくのだな」
そうだな、と俺はうなずく。お前には納得できないだろう。それでも、答えは出ているんだ。
「ふたりで暮らし、ふたりで傷つき、ふたりでゆっくり老いていく。その果てに、死が待っている。それが光り輝く黄泉路なのか、血と泥濘の川なのか、考えることに意味はない。行けば、眼前にあるものだ。……わからないだろうな吸血鬼。俺たちにとって、こんなに幸せな終わりはないよ」
ロアは笑わない。眉を寄せて、わずかに首を振る。
「度し難い。まったく愚かだ。その思想に、その目はいらなかっただろう。天は配剤を誤った。お前には初めから、ただ一人、女さえいればよかったのだから」
「どうかな。けれどロア。納得はできなくとも、本当のところ、理解くらいはできるんだろ?」
「――なに?」
胸を突く思いがあった。
そのことを、俺はまだ、覚えている。焦がれるほどの情熱と、狂気に踏み入った信仰。そんなものに、縛られた人生もあったのだ。
たしかに、そこに。
「ただ一人の女を愛し、命を捧げ、人生をそのためだけに使い果たした。そういう風に生きたのは、そう在りたいと願ったのは、俺だけじゃなかったはずだ」
「―――」
ほんの一瞬。
夜空のような沈黙があった。
「……ああ」
それからヤツは、何かをあきらめたように目を閉じた。青い瞳は、もう何も映さない。未練も、過去も、今生の悔いさえも。
「……いや、いいや。私には理解しがたい。お前と私は分かり合えん。お前は狂っている。そんな道のりは狂気の沙汰だ」
だが、と言葉は続く。ロアの声は続けられる。強靭な、確かな信念を伴った、ある命の回答として。
彼は言った。
「狂ってはいけない、という法はない。不老不死よりも尊い望みを持つなど、心底あきれ果てた強欲だが、悪くはない。ああ、そうだ。それでこそ人間というものだろうよ」
その先に、完全無欠な幸福はないだろう、とロアはつぶやく。それを望むのならば、結末はもうすでに罪であり罰なのだ。
「だから遠野志貴。その道を往くならば、せめて……」
そうしてまるで。
骨の髄まで食い物にした体そのものに詫びるように。
ロアは、目を疑うほどに美しい笑みを、口元に刻んだ。
「――傍にいてやれ。望んだ瞬間など、永劫に訪れないとしてもな」
「お前――」
消えていく様は粉雪のよう。焔の匂いが満ちた聖堂に、遺言の響きだけが尾を引いた。
ふん、と鼻を鳴らす。まったく最後まで傲慢な奴だった。最後まで、あいつは――。
「どの立場で喋ってやがる」
言い残し、踵を返す。壁の大穴に向けて、足を引きずって進んでいく。入ってきたあの孔の向こうで、先輩はまだ戦っているだろうから。