【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
あたりには、血の匂いが充満していた。ぼろきれのように転がったシエルを、ウィラは呆然と見つめている。どうしてか、追撃を繰り出そうという気にはなれなかった。どちらにせよ、勝敗など見え切っているからだろうか。
濃厚な、薔薇のような甘い血の香りに満ちている。少なくとも意識においては吸血鬼ではないから、喉は鳴らなかった。その代わり、妙な眩暈感が付きまとう。脳の中心のあたりからしびれが広がって、手足に血が集まっている。
酔っているのだ。
女の体臭のようなものだ。馨しいとさえ言える。目の前に霧がかかっている。決して防寒に優れているわけではないカソックが、やけに暑い。じっとりと汗が浮く。肌から、胸の奥から、今度は自分の女が匂ってくる。それが鼻につく。胸元に風を入れて、首を振る。
「――ふう」
ゆらり、と体をゆすって、シエルが起き上がった。その様子を、ウィラは無感動に見つめていた。
立ち上がったシエルが、自らの頭部に手をやる。出血を確認し、指先についた穢れを、ぺろりと舌で舐めとる。上下する喉が、くらくらするほど艶めかしい。唾を呑み下す音を聞きとがめられたか、蒼い瞳がウィラを射抜いた。
表情は、あえての仮面を取り戻していた。数秒の放心の末に、彼女はもう決めたのだろう。この闇を終わらせると。だから声は不必要なほどに明るい。不自然なほどに平然としている。
わざとらしいほどに悲しみを覆い隠して、シエルは問う。
「おや。あなた――酔っているんですか?」
「ええ、そう。そうかもしれない」
「ふうん」
シエルの目がわずかに見開かれる。喉の奥に引っかかっていた小骨が取れたような、ちょっとした爽快感が眉のあたりに漂った。
重ねて問われる。
「泳ぎは好きですか?」
「なに?」
「ですから、泳ぐのは好きですか?」
「好きよ」
問いの意図もわからずに答える。自分のことを自分の言葉で語ったのは、どれくらいぶりだろう。
特に冷たい水が好きだった。肌を冷水に包まれると、自らの穢れを自覚しないで済んだから。刺すような冷たさが、生きていることを何よりも教えてくれたから。
山間の、水の豊かな土地のことだ。流れの穏やかな川も、澄んだ湖も、探すのに苦労はない。泳ぐ場所には事欠かなかった。そういえば街で購った水着を試すために、ノエルとともに観光地のビーチに繰り出したこともあった。結果は散々だったけれども、思い出と言えば悪くない思い出になった。
その夜も、したたかに酔った。いつもそうだ。血を浴びていなければ、酒を飲んだ。いずれかに酔っていなければ、到底生きてはいけぬと思っていた。だからああして、追いつめられたように競い合って酒を流し込んだのだ。
胃の腑が焼けただれるほどに痛飲しなければ、朝が遠くて怖かった。
正気でいれば狂ってしまう世界など、すでに壊れ切っていたのだと。
そんな当然のことにも、気づけぬままに。
「――ああ、やはりそういうことですか」
シエルはひとりで合点している。先ほど、散々に古傷を抉ってやったというのに、どこ吹く風だ。心中まで凪いでいるわけではないだろう。しかし少なくとも、この女の心臓には痛覚がないとしか思えない鉄面皮だった。
「だから、スミレだったんですね」
「スミレ?」
「再構築された祖のことです。わたしの記憶にも、土の記憶にも、他の祖の印象もまた同じように濃かった。その上でなお、なぜスミレのカタチを採用したのか。偶然だと割り切るのが気持ち悪くて、ずっと引っかかってはいたんです」
でもいま、その謎が解けました。そう言って、シエルは大きく息を吐いた。まるで、何かに詫びるように。
ウィラを置いて、話を進めている。そのことが、異様なほどに不愉快だった。
「……その話が、私になんの関係があるの?」
「関係あるどころじゃありませんよ。だって、あなたが主役ですから。つまり、あなたが似ていたんです。スミレのパーソナリティに」
「――は?」
挑発にしてもひどい侮辱だった。こともあろうに代行者に向かって、祖に似ているはないものだ。切り刻んで思い知らせてやりたいところだったが、その実力がこちらにはない。
まったく。
無力とは、それだけで罪深い。
「記憶を外装にしてまとうと言っても、これほどの完成度を求めれば、成立要件は相当に厳しくなるはずです。無作為に抽出するのは骨が折れるでしょう。抽出元によほど精密な理解があるか、依り代との親和性が高いか、触媒となる複数の記憶の組み合わせがあるか、あるいは土地と分かちがたい因縁があるか。想起されるものは数々あれど、このうちのいくつかをまとめて満たさなければこの魔術は成立しない。違いますか」
答えようもなくて口を閉ざす。たとえその沈黙が、何よりも雄弁に肯定を意味してしまうとしても。
「酒、水、性別年齢、そして性質。あなたを構成するいくつかの要素が、たまたま彼女との類似性を示した。だから呼び出される祖は彼女になった。まあこれも、偶然と言えば偶然ですね。牽強付会に変わりありませんから」
「……それが? いまさらそんなことを暴き立てて、あんた何がしたいわけ?」
「スミレ本人のことはどうでもいいんです。本当に知りたかったのは、もっと別のことだったので」
聞いてやる義理はない。この苛立ちはもう限界だ。軽量化の秘蹟を用いて、ハルバードを掲げる。インパクトの瞬間だけ本来の質量を呼び戻すことで、対象を難なく破壊する物理攻撃。
基本的な戦闘方法だ。これを殺戮の域にまで高めるために、シエルからノエルが教わり、ノエルからウィラに伝えられた。熟練度は、その順に拠るだろう。
勝ち目などない。はじめからわかっていたことだ。記憶ごときでは、生身を喰らうことはできない。
それでも武器を掲げる。そうしなければならない理由が、ウィラにはある。だって。
「あんたが憎いわ、シエル」
「そうでしょうね。では、憎まれる者の責務として問いましょう。代行者ウィルヘルミナ。あなたの憎しみはどこから湧いてきたものですか?」
腐っても聖職者ということか。この女は、この期に及んでウィラの傷を切開しようとかかってくる。惨めな身の丈を思い知らせようとしてくる。氷のように冷たい、蒼い瞳。
だったら、好きなだけ解き明かせばいいだろう。この醜く歪んだ胸の裡。
自分だって覗くのが嫌になる、惨めで卑しい、女の心。
「――嫉妬よ」
告白に、返答はない。先を促す無言に急き立てられて、ウィラの唇が震えだす。そうだ。最初から、私はこんなにもあさましかった。
「私が理解者だったのに、私だけが友達だったのに、最後までノエルはあなたのことばかりだった」
憎しみも、執着も、その裏にあるあらゆる感情も、ノエルはシエルだけに向けていた。全身で彼女を憎み、全身で彼女を見つめていた。世界のすべてが、シエルに支配されてしまったように。
それが、耐えがたいくらいに、まぶしかった。
「横顔だけだった。どれほど寄り添っても、どれだけ歩み寄っても、ノエルは横顔しか、私に見せてくれなかった。飄々と、楽しむようにあなたの背中を追っては傷つき、いらだち、血まみれになって、それでいつも、任務の最後にはあなたに死地を救われた」
シエルは答えない。眉を寄せて、静かに首を振るだけで。
それは、哀れみではない。悲しみでもない。おそらくはただ、こらえがたい痛みだった。
「分不相応の任務を与えられて、いつだって彼女は死にかけて、いつだってパートナーのあなたに救われていた。そのことを、酔った口で語ったわ。すごくつまらなそうに、苛立ち交じりに、憎しみを込めて、あなたのことを」
気づいていたのだろうか。ノエルは。無邪気な言葉が、ウィラの心を傷つけ続けていたことに。
きっと、思いもしなかっただろう。だからこそ彼女は美しかったのだ。
「あなたが私を知らなかったことが何よりの証拠。私はこんなにもシエルのことを知っているのに、あなたはウィルヘルミナの存在さえ知らなかった。ただ一人の友人の存在さえ、彼女はあなたに伝えなかった」
――ああ、だったら。
彼女にとって、救いになっていたのは、どちらだったというのか。
「あなたのことで、彼女の器は満たされていた。私のことなど、彼女にとっては些事だった。そのことが最後まで私の、棘だった」
――置いて行かれたと思ったのだ。
並んで歩いているつもりだった。癒し、癒され、傷をなめ合う負け犬同士。この世に籍を持てぬ半端者同士、肩寄せ合って生きているのだと思っていた。だからこそ、私は私を赦してあげられたのに。無意味で無価値なこの命を、嫌いにならずに済んだのに。
けれど、ノエルは違った。
彼女は自分の足で立っていた。何に寄り掛かることもなく、彼女自身の魂で屹立していた。憎しみだけを背骨にして、偽りの社交性でその身を鎧い、たった一人で世界に挑んでいた。
取り残されたのは、ウィラだった。ノエルが死んで、そのことに気づいた。私は初めから、ただひたすらに空虚だった。彼女にとっての、何者にもなれなかった。
それが悲しい。それが悔しい。それが何より妬ましい。
ただそれだけが、ウィルヘルミナがここに残っている理由だった。
「――違います」
だから。
泣くような声でそう告げるシエルの顔を、ウィラはまともに見ることもできなかった。
「……え?」
シエルの顔がゆがむ。歪んでいく。端正な、美しい無表情にひび割れが走る。それこそがこの女の正体だなんて、そんなこと、知りたくもなかったのに。
「それは違います。ええ、たしかに彼女はあなたのことをわたしに告げなかった。でもそんなの当然じゃないですか」
「なん、で?」
痛切な、切れそうな硝子の声で、彼女は言う。憎しみですよ、と。
「だって彼女、わたしのことを憎んでました。この世で最も穢れた命だと信じていました。だから、あなたのことをわたしなんかに、告げるはずがなかったんです」
「……それ、は」
なにか、言葉が紡がれていく。とても大事な音が流れていく。聞き取れない。理解できない。油断すれば意味という意味を取り落としてしまいそうだ。
けど、抱き留めなければ。
しっかりと、受け止めなければいけない。
だって目の前のこの女は、こんな話をあんなにも辛そうに、泣きそうになって語っているのだから。
「あなたが大切だったから。わたしとつなげて、あなたのことを穢してしまわないように、過去と今をつなげてしまわないように、胸に秘めたんです。――そんなこと、あなたがいちばん、わかっているはずでしょう?」
「――私、が?」
「ええ。だって、友達だったんでしょう?」
「――ともだち」
友達。友達。そうだ、そんな響きだった。私と彼女をつなげる、たった一つの美しいコトバは。
思い出す。
私たち友達じゃん、と笑っていた、軽薄なノエルの顔。カクテルを呑み下して、頬をわずかに朱に染めて、歯をのぞかせて少しばかり照れくさそうに、ノエルはウィラに言ったのだった。
ああ、信じられる。信じている。あの時のあの表情に、嘘偽りなど微塵もなかったと。
私と彼女は、たしかにつながっていたのだと。
「どうしようもなく穢れ切った過去だったから、大切なものを教えたくなかった。たとえこの現在が、拭いがたいほどに過去でできていたのだとしても、過去に今を告げる必要はなかった。せめて、きれいな今を守りたかった。……わたしは彼女の過去で、あなたは彼女の今だったから」
――大切だったのは、あなたの方だった。
言って、シエルは歯を噛んだようだった。憤りは、ノエルに向けたものか。
何もかも、不器用だった彼女の生き方に。
「あなたたちは完全だった。それでよかった。ちゃんと、釣り合っていた。だって、最期の最期、あなただって、それを願って死んだのですから」
「――あ」
そうだ。
この修道院で殺された夜、死の間際に何を願ったのだったか。ウィラは覚えている。ウィラの記憶は覚えている。あの夜、あの瞬間、シエルのカタチをした死に捕らわれた時、最期に何を願ったのか。
何もできず、何も取り戻せなかったけど。
もう、何もかも遅すぎたけど。
せめて、守れるものがあるなら守りたかった。
――どんな意味もなかったとしても、欠片でも残っているのなら、彼女の思い出を守りたかった。
「あなたにとっても彼女は大切だった。彼女にとってもあなたは大切だった。それだけの話です。それだけで終わっていた話なんです。あなたはもっと胸を張ってよかった。自信を持ってよかった。あなただけが、ノエルの友達だった。だから――わたしが入り込む隙間なんて、本当になかったのに」
ああ、そうか。
だからシエルは、このシステムの理由にこだわったのだ。
問いは、ひとつ。
なぜノエルではなく、ウィラの外装を用いて、この幻影は現れたのか。
「感応、したのね」
声はかすれた。だって仕方がない。あんまり大きな声をだすと、それだけで倒れてしまいそうなくらい、目の前の女は頼りなさそうに立っていたから。
思い出す、最後の言葉。
――せめて、あの子の思い出を守ってあげたかった。
切なく響く無情の希み。それは、その感情は、その無念は――。
それは、誰の願いだったのか。
こんな僻地に、わざわざ志願してやってきたのは何のためだったのか。あえて修道院を破壊せず、土の塔だけに狙いを定めて吹き飛ばしたのはなぜだったのか。
――重なっていたのは。
誰と誰の思いだったのか。
「ああ……」
考えるまでもない。その、シエルの願いがウィラの願いと同じだったから、この影はウィルヘルミナという外装を演算した。シエルの願いを感じ取り、土地の記憶と合算し、再構築するにふさわしいものを選び取った。
ノエルではなく。
同じくらいに、ノエルを思っていたものとして。
ウィルヘルミナが選ばれたのだ。
「ああ、もう、嫌になる」
それは、反論の余地のない証明だった。シエルがノエルを思っていたことの。だって、そうでなければ辻褄が合わない。少なくとも、ウィラと同じ程度には、シエルの中にノエルはいたのだ。
認めたくはなかった。自分だけが世界で唯一のノエルの味方だったのだと、信じていたかった。シエルはノエルを虫けらのようにしか思っておらず、眼中にも収めていなかったと。
それが、他ならぬ彼女の尊厳を貶めることだったとしても、そうした残酷な世界をこそ、ウィラは望んだのだった。
けれど違った。あまりにも違った。誰より穢れ、強く、冷たかったこの女は、その柔らかい胸に、ずっとノエルの影を抱いていた。
「……苛立つわけよね」
だってウィラは知っていた。本当は知っていたのだ。シエルがそういう女であることを。夜な夜な聞かされたノエル自身の言葉を通して。
その欠片たちを、どうして私は、信じてあげられなかったのだろう。
「……結局、あなたも私も同じだったのね」
「それも違いますよ。あなたは彼女に寄り添い、わたしは彼女を突き放した。その違いは明確で、致命的です」
なにより、とシエルは笑った。どんな泣き顔よりも、悲しみを湛えて。
「――わたしは、彼女を殺しました」
それだけが偽れぬ罪だと告げるように。
「……そうね。私では届かなかった。もう限界だった彼女に、終わりを与えてあげることはできなかった。彼女に依存している私では、彼女を終わらせてあげることはできなかった」
両腕から力が抜けていく。軽量化の秘蹟が解かれる。鈍い音を立てて、鉄塊が落下する。ハルバードはもう役に立たない。この外装を保っているのも限界だ。
シエルが黒鍵を構える。身体にはもう魔力が残っていない。あの連撃を叩きこまれれば、それで速やかに終われるだろう。涙を流さないままに泣いて、だからシエルは唇を食いしばっているのだ。
「望むなら」
わたしがこの場で終わらせましょう、と彼女は言った。それがせめてもの責任だと考えたのだろう。そうして彼女はまたひとつ、命の重荷を背負い込む。往けば往くほど修羅の道だ。過去はなにひとつ清算できず、ただひたすらに罪を数えて歩いていく。増えるのは後悔ばかりで、彼女はきっとこれからも何一つ救われない。
馬鹿だ。
そんなのはつらすぎる。そんなのは虚しすぎる。そんな道は遠すぎる。結局、それでは倒れるしかない。人は誰しも、終わりのない道を歩き続けることはできないのだから。いつか腐敗し、足が砕け、大地に倒れ伏す時が来る。何一つ救われぬままに、何一つ取り戻せぬままに、何一つ成し遂げることができぬままに、シエルという女は蛇の道に倒れるだろう。
――だから。
「そのために、あなたがいるのね」
声は、シエルに向けたものではない。
聖堂に影が差す。
強靭で、何があっても揺らがない、ひとつの影。
隣から聞こえてきていた戦闘音はすっかり収まり、勝者となった青年だけが、この聖堂に帰還した。
……無惨なものだ。血まみれで、あちこちの骨と筋肉が壊れている。頭部から落ちてきた血で、片目は完全にふさがっている。
それでも、遠野志貴はここに来た。
ただひとり、彼の愛した女を守るために。
「遠野くん……!」
悲鳴を上げて駆け寄ろうとするシエルを制して、志貴がこちらを見る。今にも崩れそうなウィラの仮面を、目をすがめて見つめている。息は荒い。肩が上下している。血を流しすぎて、意識もおぼろだろう。
それでも彼は何事かを読み取り、納得し、妙に深刻そうに、ひとつだけうなずいた。
「そうだ。だから俺はいる。だって、ひとりは寂しいだろ。――あんただって、そうだったんじゃないのか」
何もわかっていないくせに、まったく正しいことを口にする。その勘の良さを別のところで生かせればもっと明るい日々もあったろうに。そう思って、ウィラは苦笑する。
そうだ。そうだったかもしれない。ひとりでは潰されそうだった。ひとりでは歩み通せなかった。ひとりでは、決して生きていけなかった。そんな人生に、友達という光があったのだ。だから人は、人間は、歩けないはずの道でも歩けるのだ。
闇の中。
前も後ろも見えない中で。
翼ではなく。
私たちは、隣を往く、友の足音を願った。
結果は望んだものではなかったけれども、それは、それだけはきっと、誇ってもいいことだった。
だから、もう十分だ。
「終わらせましょう。志貴ちゃん」
「うん。さようなら、ウィルヘルミナ」
志貴がナイフを手に取る。動くことさえ苦痛だろう。それでも、これは彼の責務だ。駆け寄ってくるシエルに先駆けて、志貴のナイフがこの胸を貫きに来る。
「遠野君――!」
叫びは遠い。
「……っ」
かすれた声が出る。
見下ろせば。
――すでにナイフはこの命を貫いていた。
ゆっくりと、全身から力が抜けていく。漏れ出していく命の灯。その揺らめきの向こうに、泣きそうな顔でこちらを見つめる少年の姿があった。
「ノエルは、先輩がやった。だから、あんたは俺が背負う」
「うん。それがいいわ。……ごめんね、ありがとう」
それが、殺すものの責任だというように、彼は神妙にうなずいた。飛び込んできたシエルが、ひどい剣幕で怒鳴っている。彼に重荷を背負わせたことを悔いているのか。だとすればそれは本当に見当違いなことだ。
だって、彼はすでに、決めているのだから。
寄り添い歩んでいくのであれば、これは本当に、順当な結末だった。
「ああ、なんだか少し、疲れちゃったな」
膝から崩れ落ちる。横たわると、聖堂の天蓋は暗い。そこに、炎の揺らめきが影を投げている。すぐに訪れるだろうと思った死は、案外に遠い。視界の悪さのせいか、それとも彼の意図通りか、ナイフは死の点をわずかに外したようだ。その上、この死は個体の死ではない。何重にも覆われた、死徒という残骸そのものの死だ。だから、もう少しだけ、消え去るには時間がかかる。
猶予がある。
だからむかしを思い出す。彼女が極東に赴任するわずかに前のこと。ウィラとノエルは、最後の逢瀬をここでした。
その時の、ノエルの顔を思い出す。ノエルの言葉を思い出す。
「あの子、そういえば」
天井に、まぼろしが見えた。
「妙なファミリーネームを名乗ったのね」
愛染ノエル。
それが、日本にわたるにあたって、彼女が自らにつけた名前だった。
「……ウィラ?」
「意味を知ってる? 愛染の」
楽しそうに教えてくれたノエルの声を、この記憶はまだしっかりと再生できる。けれどもう目は見えない。光はない。彼らの返事も、あまりよく聞こえない。だから好き勝手に、思い出語りをしてしまおう。
「愛に染まると書いて愛染。アイゼンって読ませると、意味は愛着。――愛に、執着すること」
まったく、笑える。
それが、ノエルが最後に選んだ偽名だった。
「見くびってあげないで。きっと、愛してほしかったんじゃないわ」
愛染ノエル。
「あの子はただ、ひたすらに――誰かを、愛したかった」
失われたはずの愛を、最後まで求めた娘だった。