【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
ねえウィラ、とノエルは言った。酒が回っているのか、まぶたは重そうだった。声も湿っていた。不思議な響きだと思った。母が
なあに、と答えた自分の声も甘かった。ウィラもまた、飲みすぎていた。アルコールを過ごすことは珍しくはない。ノエルとふたりで夜を迎えれば、素面でいることの方が難しい。だから、その夜もいつもと同じだった。よくある、決して記憶には残らないような、ありふれた、平凡な、秋の夜のことだった。
つらかったわよねえ、とノエルは目を細めている。何を思い出しているのだろうと考える間もなく、言葉は続けられた。代行者になるための訓練ってさ、どうしてあんなに厳しかったのかしら? だってどう考えても、代行者としてやっていくよりも、あの訓練の方が厳しかったじゃない?
そりゃあ、代行者になってから使い物になりませんでしたじゃあ困るからに決まってるでしょ、とウィラは答えた。あれで壊れるくらいなら、代行者になんてならなきゃいいっていうね。優しさ、じゃないな。あれはただの合理性でしょ。先にふるいにかけておこうってわけ。
うーん、と眠たいような声を出して、ノエルは再びワインを口に含んだ。開け放たれた扉の向こうから、虫の声がする。どうしてか、酒場の客入りは上々だったのに、その細い声がやけに耳についた。
不思議よね、と問われたので、
何が、と受けた。
たしかに、あの頃の方が厳しかった。苦しかったのかもしれない。でも私、あの頃の方が楽だったのよ。つらいのは、どっちかって言うと、今の方。
そう?
うん。なんかね、つらいの。信じていたものが折れかかってるっていうか。あれ、私、なんでこんなところに来ちゃったんだろうって、そんなことを考えちゃう。今も。
――ノエル?
苛烈な訓練を思い出して、ウィラは首を傾げた。生死がかかるという意味では今も同じだろう。しかし、実践と訓練は違うものだ。最悪を想定した訓練の方が、実際の地獄よりもかえって耐えがたいことはよくある。少なくともウィラは、任務で死ぬことは受け入れられても、あの訓練生時代に戻ることだけは承服できない。
それはノエルだって同じだろうと思った。けれども、違うという。目はとろみを帯びて、こちらを見るようで見ていない。どこを見ているのだろう。ノエルは、膜の張ったその瞳で、何を。
耐えられたのはね、とノエルは言った。独り言のように、静かな声で。私が耐えられたのは、ただ憎かったからなのよ。
そう。よく言ってたわね。
うん。憎かった。ううん。今でも憎い。憎い憎い憎いって唱えながら、私は耐えた。頑張ったでしょ。頑張ったわよね、私たち。よくあんなクソみたいな地獄に耐えてきたわよね。それで代行者になって気づいたの。ああ、なあんだって。耐えられたのは身体だけだったんだなあって。結局――
ノエル、と呼んだ。その声は、かすれた。
バカみたいよね、と笑って、彼女はまたグラスを干した。よろよろと歩いて、カウンターに追加の注文を伝えに行く。へらへら笑っている。笑顔はたまらなくかわいかった。酒場中の男たちが、ノエルを狙っていた。適度に緩そうで、適度にかわいらしく、適度に色気があり、やっぱりとても美しかった。
自慢の友達だった。
ワインを片手に帰ってきて、数分前とまったく同じ姿勢を取って、まったく同じように口をつける。くう、と息を漏らして、本当においしそうに唇をなめる。それから、ノエルは言った。
痛めつけるみたいにね、生きてるの。
なにが?
わざわざ、好き好んでアイツはしんどい方に進むの。まるで、傷つくために生きてるみたい。罰されるために呼吸をして、泣くために笑うみたいに。
ノエルはそう言って、自分こそが泣くように笑った。
ウィラは口を閉ざした。ノエルが、誰のことを語り始めているのかがわかったから。そんなウィラのことなどお構いなしに、ノエルは続ける。目は、遠いところを見ている。きっと、失われたものを探している。
少なくとも、と声は続く。アイツは逃げてはいないんだなあって思っちゃったの。もう、本当に嫌になる。そんなこと、気づきたくもなかったのにさ。私がどれだけ罵倒しても、嫌味を返すだけで、アイツは一言だって反論しないのよ。否定しないの。まるで、そう決めているみたいに。……だから、私もなんだか、どうしたらいいかわからないっていうか。訓練時代がちょっとだけ、懐かしいの。何もかも打ち捨てて、ただ自分の憎しみだけを信じられていた、あの頃。
徐々に湿り気を帯びていくノエルの声に、ウィラはひそかに嘆息する。ああ、今夜もはじまってしまった、と。
ノエルはグラスの中の液体を回し、光に透かし、そこになにものも隠されていないことを発見し、落胆したように息を吐いた。
――アイツ、何度だって死にに行くの。
声は、低くなった。何かを思い出しているのだろう、とウィラは思った。構わず、ノエルは続けた。
何回かなあ。私が見ただけでも十や二十じゃないのよ。なんたってさ、なんかあればすぐに死んじゃうんだから! 準備していけば済む話なのにね、まるで自分の命が勘定に入ってないの。わたしが一度死ねば済む話ですから、なんて平然と言ってね、すぐに特攻しちゃう。そんで、ズタズタに引き裂かれて殺されて、化け物みたいに再生して、相手を殺すの。もう勘弁してよって思うわよね。地獄かっつーの。
ケラケラと笑うノエルの表情に、屈託はない。だからこそ、影が目に余った。それでだろう。言葉が、開くまいと決めていた唇を割ってしまった。
……今回も、そうだったの?
問われたことが意外だったのか、不思議そうに目を上げて、まるでたった今、そこにウィラがいることに気づいたように首をかしげて。
うん、と。
子供のように、ノエルはうなずいた。
嫌いなのよ。憎いの。ものすごく、心の底からアイツが嫌だ。何なら私、アイツが生きてるころから嫌いだったからね。ライバル視っていうのかなあ。あ、もちろん私の方が愛嬌があってかわいかったのよ。でも、客の一部はマニアックっていうかね、ああいうのが好きだったみたいで。東洋系の顔立ちってちょっとミステリアスでいいよね、なんていう男もいてさ。
そう、そうなんだ。
うん、そうなのよ。そうしたら、アレでしょ? もうホント、散々っていうか。どうしてやろうかって思ってたわよ。そんでバディになってね、寝首を掻いてやろうにも隙なんかどこにもないわけ。あれはもうマジ、ターミネーターよ。シュワちゃんみたい。ううん、どっちかっていうとランボーかな。ごっつい飛び道具、愛用してるしね。
うんうん、とうなずいて、ウィラは目を細めた。まったく、嘘ばっかりなんだから、と思いながら。寝首を掻こうとした? そんなこと、ノエル、あなたがするはずないじゃない。
強いのよ。けた外れに強いの。化け物。もう完全に化け物だって。死徒をぐっちゃぐっちゃに殺しつくして、顔色一つ変えない。命乞いとかマジで聞く耳持たないの。虫を踏み潰すみたいに殲滅する。容赦とか情けとか、そういう感情、アイツの中にはひとかけらだってないの。……何をそんなに、憎んでるんだろうね。
わかり切ったことを問うのはずるいよ。ウィラはそう言いかけた口を閉ざした。その返答もまた、わかりきったものだったから。
ワインを飲みほして、店を出た。雲が切れて、まぶしいくらいの月がのぞいていた。まだ夜は深くない。お互いの肩にもたれかかって、ノエルはほう、と息を吐いた。
口火を切ったのがどちらかはわからない。ウィラとノエルは連れだって、修道院に足を向けた。ひっそりこっそり侵入して、地下聖堂にたどり着いたときには、酔いはすこし冷めていた。
よくここで泣いたわよね、とノエルは言った。聖母像を見上げながら。
そうね、痛くて、つらくて、苦しくて、私たちはよく泣いた。
けれども、とウィラは思う。あの頃の泣き虫だったあなたよりも、今の方が脆く、儚く、崩れそうに見えるのはどうしてなの?
極東に行くわ、と不意にノエルは言った。そこに、アイツの探している敵がいるらしいの。
……へえ。
もしかしたら、今度が最後になるかもしれない。最後にできるかもしれない。日本に行くって私に言った時、一瞬だけ、本当に少しだけだけど、アイツ、感情を見せたわ。これでやっと死ねるかもしれないっていう、そんな顔。……なんでかなあ、私その時、ものすごくムカついたのよね。
ノエルはもう、ウィラには語っていなかった。視線の先には聖母像。しかし、石は答えない。ウィラも答えない。
知らなきゃいいことばっかりだった。ノエルは諦めたように言って、うずくまってしまった。アイツが、どれほどあの街を愛していたのか。どれほど、街の人を愛していたのか。どれほどの後悔の中で生きているのか。その愛はもう、後悔と罪の意識に変わって、二度と愛には戻らない。
二度と再び。
誰かを愛することもせず。
汚濁の中で、彼女は息絶えていく。
嗚咽が響いた。誰のための涙か、ウィラにはわからない。自分では触れてあげられない傷を抱えて、彼女はその痛みに泣いている。
ただ、痛いのは良いことだ、とウィラは知っている。傷つけば痛い。それは、治ろうとするからだ。痛覚を失くしてしまえば、そんなのはもう死んでいるのと何も変わらない。
これまでのノエルはそうだった。
いまはじめて、ノエルはもう一度、命の実感を得ているのだろう。
――アルルカン。
え?
ふいにつぶやかれた言葉に、虚を突かれた。間抜けな声が出てしまう。ノエルは顔を上げて、涙にぬれた頬を隠しもせず、ごろりと寝転がってしまった。
あいつの両親がやってたお店の名前。変よね。パン屋につける名前じゃないだろうっつーの。道化師、アルルカン。お似合いだわ。あんな奴、ただのピエロよ。一生ひとりでから回っていればいいんだわ。本当にお似合い。笑われて、さげすまれて、いつかボールから落っこちて、死んでしまえばそれでよかったのに。
それから、ひとしきりの沈黙の後で、愛染、とノエルは言った。私、日本では愛染ノエルって名乗るわ。なかなかシャレてるでしょ。できれば年下の、いい男でも見つかればいいんだけどなあ。
うん、そうね。私たちも、そろそろ三十だものね。
あ、馬鹿、それは禁句でしょ!
激情は去っていた。ノエルは静かに聖母像に歩み寄り、手にしていた釘で何事かを刻み、笑って踵を返した。
そろそろ行きましょう、ウィラ。今回は長くなりそうだけど、帰ってきたら連絡するわ。そうしたら、また飲みに付き合ってよね。
ええもちろん。とびっきりの失敗談を期待してるわ。
あはは、とノエルは笑った。乾いた声で、陰のある微笑を浮かべて、悲しいくらいに美しく。
――そうして、連絡はなかった。
二度と。
***
「あの子の夢を知ってる? 笑っちゃうわよ。パリのシャンゼリゼでカフェを開くことだって。実家みたいなお店を持ちたかったんだって。ね、笑っちゃうわよね。フランス人がパリのシャンゼリゼでカフェを開きたいって、そんな間抜けな話がある? しかもノエルが。似合わないにもほどがあるわって、私は大口を開けて笑った。そんな私の頬を引っ張って、ノエルは言ったわ。なによ、もう名前だって決めてあるんだからねって」
喋り続けた。口を閉じればそのまま命が消えてしまうんじゃないかと思えて、急き立てられるようにウィラは言葉を紡いだ。
なにか、声は聞こえている。シエルと志貴が、この消えかけの影に向かって怒鳴っている。けれども、その返答がもう聞き取れない。この喉が、ちゃんと声を発しているかもわからない。
でもいいや。
信じよう、と思った。
きっと、ここに残す言葉には、未来に続く意味があると。
過去の記憶に過ぎない身で、ウィルヘルミナは、そんなことを思ったのだ。
「酔えば決まってあなたの話だった。そうしていつも、酔いつぶれる寸前、
――まったく、絶対にごめんだけど。
いつかこうして、最後の日には、アイツと酒を酌み交わすこともあるのかしら?
息をのむ気配があった。シエルの、その瞬間の感情など想像することもできない。だからこそ、ああ、とウィラは嘆息する。ごめんね、ノエル。きっとあなたは、言ってほしくなかったものね。
でも言うわ。私は、伝えてあげたいと思うから。
「口にした後で、まるで吐き出した言葉をもう一度飲み込むように、ノエルはまたワインを呷った」
……その声を、その時のノエルの苦り切った顔を、ウィラはまだ覚えている。あらゆる思いが混ざり合い、どうしても言葉にせざるを得なかった未来予想図。そんな日は来ないのだとわかっていながら、夢想せざるを得なかった、細く輝くハッピーエンド。
そう、それだけが幸せな結末。たったひとつだけ、誰もが許されるはずのゴールだった。けれども宿業はそんな虫のいい話を聞き入れてはくれず、罪人たちはここに至った。至るしかなかった。
……いったい、何を恨めばよかったのだろう。
あの時のノエルの感情を表現するには、人類の言語はあまりにも貧弱だった。万の語彙を費やしたところで、到底拾いきれない様々な欠片たち。ノエルという存在を極限まで膨らませ、張りつめさせ、カタチを保たせていた彼女への想い。
荒野のようだ、とノエルは言っていた。あれはまるで、人間の形をした荒野そのものだ、と。不毛なのではなく、不毛でなければならないと断じ切った、暴風吹きすさぶ鋼の荒野。それが機械のように動いている。機械として在ろうと生きている。荒野は溜め込んだ激情をその内側に覆い隠し、この世の闇に断罪の刃を振るい続けるのだ、と。ただただ一方的な殺戮の加害者としての咎を負って。
そう告げるノエルの目が、どうして彼方をさまよっていたのか。
ああ、今ならわかる。
その荒野に芽吹くものを、きっとノエルは探していた。
――ねえウィラ。もしも、もしもよ。そんな日が来たら。あいつと私が並んでお酒なんか飲んじゃう日が来ちゃったら、その時、あいつはどんな顔するんだろう?
「私は、さあね、って答えた。だって仕方ないじゃない。他に答えようなんてなかったんだもの。そしたらね、ノエルは言った。とびっきり意地の悪そうな、楽しそうな、幸せそうな顔で」
――きっと、ひどい仏頂面でしょうね。その顔は本当に笑えるだろうから、そうしたら、言ってあげてもいいかな。
なにを、とウィラは聞いた。ノエルはかすれるほど小さな声で、恋する少女のように頬を染めて、言った。
――ありがとう、って言ってやるわ。
その顔を。
ウィルヘルミナは、人生の終わりの瞬間まで、輝くほどに覚えていた。
――いつもいつも、任務の時に助けてくれてありがとうって。何回も、命を救ってくれてありがとうって。私をバディにしてくれてありがとうって。もちろん、それ以外の意味なんてないのよ。ただの貸し借りの話。でも見ものだわ。不意打ちみたいにそんなことを言ってやったら、あいつ、どうなっちゃうんだろう。ショックで死ぬんじゃないかしら。うけるわー。思い浮かべるだけでおかしくて死にそう!
「……あの子は、そう言ってたわ」
言葉を切ると、ため息の気配があった。目を閉じて、今にも消えてしまいそうなウィラには、それが何を意味するのかわからない。もう意識も記憶もあいまいだ。
それでも、伝えるべきことは、まだ残ってる。
「きっとね、誰もがそうして生きている。生きたいと願っている。誰かのために、誰かに捧げ、誰かとともに生きる日々を――誰かを心底、愛してあげたいと願いながら生きていたのよ」
でも、私はそれができなかった。あの子にもそれができなかった。
できなかったから、こうなるしかなかったの。
「わかっていた。なにがノエルを生かして、ノエルがどう変わっていったのか。だから、これもやっぱり嫉妬なの。私があなたに言わなきゃいけなかった言葉は、最初からこれだけだったのに」
手を伸ばす。何かが、誰かが、このまぼろしの手を握ってくれたような錯覚をした。
ああ、温かい。
「ありがとう。――あの子を、ノエルを救おうとしてくれてありがとう。私の友達を、助けようとしてくれてありがとう」
握られた手から、体温が伝わる。震えが伝わる。彼女の、どうしようもない無念が伝わってくる。
聞こえたように思えた声は、幻聴だろうか。いいえ、と女の声がする。あまりにも遅い。本当は、15年前のあの日に、あの子を助けてあげられれば良かったのに。
だから、どこまでいっても、これはわたしの罪なんです、と。
もう顔も見えない誰かは、そう言った。
「そうね。そうできたらよかった。救ってあげられれば本当に良かった。でもそうはならなかった。ならなかったのよ。だから、大切なのはその後のこと。罪のあとの罰のこと。ええ、たしかにあなたはノエルを殺した。失敗だった。散々だった。目も当てられないくらい最悪の結末だった。けれど、たとえそれが嘘でもまやかしでも、私の中に答えはある」
――結果は無残だったけれど。
救おうとしたことだけで、あの子はきっと救われた。
そのことに、この私もまた、ほんの少しだけ救われた。
「だから、ありがとう。嫌いだけど、認められないけど、死ぬほど妬ましいけれど、それでも」
――この世界に、あなたがいてくれて、良かった。
妬み、嫉み、苦しみ、終わりの瞬間まで友の幸福を願った女の意識の、それが最後の言葉になった。
***
消えていく。
朽ちて、崩れ、風に流れて散っていく。
握りしめていたはずの手はもうとっくに虚空に溶けているのに、先輩はいつまでもその手の形を崩さなかった。最後の最後、ウィラを象った死徒は、聖母像の真下を指さして息絶えた。
そこに、何かを託したのだと伝えるように。
なら、確かめないと。
「行こう、先輩」
声をかけても、先輩は動かない。顔をうつむけて、子供のように首を振っている。なんてことだろう、と思った。だって、こんな時でさえ、この人は涙を流せていないのだ。
だからこそ、そんな甘えを、許すわけにはいなかった。
「立って。立ち上がって、歩くんだ。歩かなきゃダメなんだ」
「――遠野くん」
声は切れ切れに、息も絶え絶えに、先輩が顔を上げる。真っ白なその顔に浮かんだかすかな懇願に、俺は気づかない振りをする。
「決めたんだろ。歩くんだって。命の価値を示すんだって。なら――こんなところで、止まるわけにはいかないはずだ」
「……あ」
ぐっと歯を食いしばる音が聞こえた。先輩は四肢に力を入れて、なんとか身体を起こす。傷は、ない。けれども、その肌は無数の刃に傷つけられているようだった。
ふうふうと息を吐いて、先輩は立ち上がる。それから、倒れそうになるのを必死にこらえて、歩き出した。たった数歩を、死ぬ思いで刻んでいく。吐き気をこらえて歩いていく。真っ暗な聖堂を横切って、命を見下ろす聖母像に向かって一歩一歩、距離を詰める。
その背中に、肩を貸してやることはできない。俺はただ、口を出して、見守ることしかできない。これは先輩の道だ。彼女が、自分の意志で、自分の足で、踏破しなければ意味がない道だ。
先輩の後を追う。近寄る。近づく。少しずつ、聖母像の輪郭が浮かび上がる。何が残されているのかはわからない。けれどもウィラはここを指し示した。ならばここには、受け取らなければならない何かがあるはずだ。
もう、手を伸ばせば触れる距離。台座のところに目を寄せて、先輩は小さく息を漏らした。
「――これ」
つられて、俺も顔を近づける。釘で、乱暴に彫られたフランス語。先輩がみずからの肩を抱く。震えがはじまり、やがてそれは甚だしくなり、吐く息が荒くなる。先輩は白い白い指を伸ばして、彫られた思い出に触れて、何度も触れて、指先が震えて文字を追えなくなるまでなぞり続けて、ついにその場に
「馬鹿なひと。こんなものを彫るなんて、なんて――なんて、罰当たりな」
それは、フランス語。子供でも読める、とても簡単で、とても単純な、彼女たちの母国の言葉。
ノエルが、ウィラに告げたという言葉がよみがえる。
――なによ、もう名前だって決めてあるんだからね。
CAFÉ de le Ciel Bleu.
いつか彼女が、パリのシャンゼリゼに開くはずだったカフェ。
「……は。ノエル先生、これはないよ」
なんてダサいのだろう、と吹き出してしまう。なんて似合わない、なんてふさわしくない、なんて不器用で、なんて美しい――いつか見た夢の名前。
叶わなかった、名残の夢。
最後の最後まで、あの空にかからなかった、夜の虹。
「――っ!」
先輩が胸を押さえる。こみあげるあらゆる激情に耐えて、必死に口を覆っている。息はもう声になるほどに荒く、身体の震えが床を鳴らす。
ああ、と息を吐く。そうだ。ウィラの言う通りだ。結果は無残だった。彼女は救えず、彼女は救われず、最後までその手は触れ合わないままに、恨みの中で終わってしまった。
それでも。
ここに、残るものがあった。
「先輩」
声をかける。肩に手を置く。反応はない。けれども、きっとこの声は届いている。彼女の心の、いちばん深いところまで。
「来てよかった。この修道院を、亡骸だけでも守れて良かった。――ノエルの最後の願いを、受け取れてよかった」
「――っ!」
ただの落書き。本当にくだらない、何の価値もない、彼女がここで息をしていたという、ただそれだけのことの、確かな証。そこに込められた意味も、意図も、今となっては藪の中。
だから、確かなことはひとつだけ。
ノエルは、自らの手で、ここに、それを彫ったのだ。
そのことを、その意味を抱きしめて、先輩は震える声で、もう一度だけ、願うように最愛の弟子の名前を呼んだ。
「――ノエル」
それから、滂沱の涙とともに、もう二度と口にしないと誓ったはずの。
「ごめん、なさい」
謝罪の言葉を口にした。
応えるものはない。この廃墟に、すでに命あるものは残っていない。
だから、残ったのは彼女の思い。後悔と、後悔と後悔と後悔と後悔と後悔と後悔と後悔と。
それを、ほんのわずかだけ上回る、誰かが遺した感謝の念。
「見たことか」
消え去っていった宿敵の声がよみがえる。言いたいだけ言って、勝ち逃げするように姿を消した憎むべき敵。なにか、誇るように適当なこと言いやがったあの馬鹿野郎。
――傍にいてやれ。望んだ瞬間など、永劫に訪れないとしてもな。
いいや、と俺は首を振った。ほざけ吸血鬼。お前は何もわかってない。だって、その日は来る。必ず来る。こうして傷つき、血を流し、涙を流し、それでも歩き続けることをやめなかったのなら。
どんな夜にも、いつか虹はかかるのだ。
だから、来る。
彼女に救われた多くのものの感謝が、いつか彼女を縛り続ける後悔の念を越える。
そんな明日が、きっと来る。
これは誓いだ。命をかけて、この身が朽ちるその時まで、俺を支え続ける誓いの槍。
その時が来るまで。
先輩。
――俺はいつまでも、あなたの傍にいる。