【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
カフェの片隅で、グラスを磨く夢を見る。
毎日は慌ただしく、時間はいつだって飛ぶように過ぎていく。
きっと、ただの繰り返し。明日も明後日も、こんな日々。
けれど、そういう日々に、立ち上がってくる記憶があるの。
――それは、幸せでも不幸でもなかったころのこと。
あなたとワタシの、何でもなかった毎日のこと。
そんな未来を、ワタシはずっと、夢見ていたの。
欲しかったのはただ、そんなありふれた、どうでもいいような
DAY 7
Les Amants d'un Jour / いつかのふたり――エピローグ
「うわあ……」
「大きい!」
雲を衝くほどのモミの木が、無数の電飾で雄大な我が身を飾っている。住人も観光客も、どんな混雑の中でも足を止め、夜空を押し上げるこのシンボルに一瞬、崇敬のまなざしを送る。
ストラスブール、クレベール広場である。欧州でも指折りの巨大なクリスマスツリーが、影を消し去るようにそびえていた。
通り過ぎていく楽し気な喧噪。あちらこちらでイルミネーションが輝き、デコレーションがひしめき、漂うのは甘いお菓子とホットワインの馨しい香り。誰もが微笑みを浮かべ、足早に、陽気に、この夜の訪れを祝っている。
「噂以上ですね……」
「本当に。すごい熱気だ」
修道院を後にして一日を休息にあてると、翌日の夜が聖夜だった。となれば、やるべきことは決まっている。
そうして足を運んだ先が、世界に名高い、ここストラスブールのマルシェ・ド・ノエル――クリスマスマーケットである。
クリスマスマーケットといえばもちろん発祥の地であるドイツのものが有名だが、国境のこの街はフランスおける「
「遠野くん、オペラ座の方へ行きましょう。ブログリー広場にはおいしいヴァンショーやクレープやワッフルのお店がいっぱいだそうです」
「あ、ちょっと先輩、行きます、行きますから引っ張らないで」
混雑を抜けて、夜を歩く。アルコールの気配を身にまとった観光客と挨拶をかわし、聖夜を祝い、来年の幸せを願いあう。街だけでなく、そこを訪れたすべての人が魔法にかけられたように、不思議と心地よい多幸感に包まれる。
「ロマンチックですねえ」
「当然だけど、恋人も多いみたいですね。俺たちもそうなんだけど」
「そっ、そうですね。ええ、わたしたちも恋人ですからね」
……いつまでたっても、この程度のことでちょっと照れてくれる愛しい先輩なのである。
ブラッデルクッキーやアルザスマカロンをつまみながら、ワインを片手に混雑の街を練り歩く。月の輝きも星の煌めきも、この地上には届かない。色とりどりの、無数の電飾たちが地上の星となって、人類の幸福を歌い上げている。
先輩は楽しそうに笑っている。
楽しそうに。
「――先輩」
「はい、なんでしょう遠野くん?」
「いや。ごめん、なんでもなかった」
先輩は首を傾げ、それから少しだけ酔った頬を緩ませて、ふにゃっと笑った。
「せっかくのクリスマスデートなのに、変な遠野くんです」
「そうだね。せっかくの、クリスマスだ」
カテドラルの方までデコレーションは続いている。ヴォージュの山から切り出した赤色砂岩で築かれた、威厳あふれる
長い夜を越えるためには、人工の光が必要だった。
「あれ、そういえばルオシーは?」
「今日は面倒だからもう監視はやめるって言ってましたよ。どうせクビなんだから真面目になんてやってられないって、宿の部屋にワインとつまみを大量に運び込んでましたけど」
「そんなのアリか」
「アリでしょう。なんといっても、聖夜ですから!」
先輩が同意を求めるように笑顔を浮かべる。うん、と何とか返事をして、人込みをかき分ける。
目当てのワインとクレープを買って、少しだけ落ち着いた一画へ移動する。おいしいですね、とクレープをほおばる先輩の姿は、本当にかわいかった。カレー以外のものをこんなに嬉しそうにほおばる先輩を、俺ははじめて見た。
ああ、だからこそ。
その偽りに、気づいてしまったのだ。
「――ねえ先輩。ここだけの話をしたいんだけど」
「おや、珍しい切り出しですね。ええ、なんでしょう遠野くん」
腰かけたレンガの低塀は冷たく、尻の方から冷気が上がってくる。せわしなく行き来する、人々の影法師。イルミネーションを背に受けて、霧のような笑い声が街中に充満している。
この幸せな空間において、おそらく本当にただ一人。
彼女だけが、悲しみの中にいる。
「実のところさ、俺は人でなしなんだよ」
「ほう? それは夜の話に限ったことではなく?」
はは、と苦笑する。笑う以外に何もできない。何しろ、心当たりがありすぎる。でも、言いたいのはそういうことじゃない。
「そう。昼も夜もない。遠野志貴はね、まっとうな人間なんかじゃないんだ」
「まっとうな人間、ですか。はて、わたしの遠野くんは、どこに出しても恥ずかしくない立派なひとですよ?」
「そうかな」
視線は、まっすぐ前に。こちらをのぞき込む先輩の目を、見返しはしない。夜空は、光に煙ってよく見えない。切れるほどの寒さの中で、ぬくもりを求めるように言葉を紡ぐ。
「生きていくうえで、何かを信じるための規範になる正義感とか。社会的に良しとされる、みんなに褒めてもらえるような道徳性とか。和を尊ぶ心、他の誰かを尊いと思って、みんなで仲良く生きていこうとする気持ちとか。そういうものは、人間にだけ与えられた特権だろ?」
「……ええ、そうかもしれません」
「俺の中に、そういうものは、なかったんだ」
つとめて口調は明るく、本音が声ににじまないように口にする。
本当は、そういうものが欲しくて仕方なかった。みんなが当たり前のように持っている、成長するにつれて育まれていく、美しい人の心。俺にだけ与えられなかった、人間の証明。
ずっとずっと、俺はそれが欲しかった。
「そんなことはないでしょう。遠野くんは、ちゃんと立派に生きています」
「そうじゃないんだ。そういうのは全部、先生に後からもらったもので、俺の中から生まれてきたものじゃない。そうするべきだったから、そうしないといけなかったから、そうでもしないと生きていくのが大変すぎたから、だから俺はずっと、人間のふりをしてきた」
うらやましかったんだ、と俺は言った。愚痴に聞こえないように、笑いにまぶして。うらやましかったなあ。そういう、物差しを持って生きている、周りのみんなが。
それが? と先輩は首をかしげる。先を促すように。
話の結論を、探り出すように。
……街には光があふれている。それがまぶしくって、目につらくって、俺は少しだけ眼鏡をズラす。
走る線。蟲のように這いまわり、この世界を侵す死の未来。決定された終わりが、喜びに水を差す。そうだ。これがずっと、俺の正体だった。
「だから、俺は根本的に人でなしだ。非人間だ。まっとうな価値観や道徳を、誠と思うことは難しい」
そう思ってた。ずっとずっと、あの日の前から、ずっと。
死に満ちたこの世界で、命なんてものを尊いとは思えない。それはあまりに弱く、もろく、崩れそうだった。今にも落ちてきそうな空の下で、どうしてこの世界の美しさを信じられただろう。人の世の道徳を信じられただろう。
俺は存在が向いていなかった。死神、と俺を呼んだヤツがいた。そうじゃない。そんなもんじゃない。俺は、死神なんて大層なものじゃない。
ただの、非人間だ。
でも。
「最近はそうでもないかなって思えるんです」
はい、と先輩はうなずく。なあんだ、と笑って。そんなこと知ってましたよ、というように。
「だって俺は、誰かの幸せを願える。誰かのために頑張れて、誰かのことを愛することができて、その愛のために戦うことができて、その愛のために生きることができる」
それが、人間らしい営みでなくてなんだろう。
それが、人間としての誇らしい生き方でなくてなんだというのか。
だから俺は、拳を握って胸を張る。
「ただ、あなたに幸せであってほしい。愛した人に笑顔でいてほしい。それはきっと、人の世に誇れる規範だ。誰にだって胸を張れる、道徳性であり、正義であり、人間性だ」
「……遠野くん」
「あなたに会えたから。あなたを愛することができたから。あなたという基準を得たことで、あなたの幸せという絶対をもらったことで、俺は人間になれたんです」
だから、ありがとう。
何度でも何度でも、これからずっと、俺は先輩に生かされていく。
絶望しかないと思っていた。なにもかもが死に絶えた月の荒野で、ただひとり、朽ちていくだけの人生なのだと思っていた。
そこに、あなたが。
「青い空を、見せてくれた」
決して落ちない、どこまでも続く、澄み渡った大いなる空を。
「――お礼を言うのは、こちらの方です」
「違うよ先輩。先輩は、お礼なんて言わなくてもいい。だから、もう少しだけ、俺の話を聞いてください」
「……え?」
そう。
俺がこうして人間になれたように。
ノエルが先輩との任務の中でそうなったように。
ウィラがノエルとの暮らしの中でそうなったように。
「生きていれば、命の形は変わっていくんだ。絶対に不変のものなんて、この世には何一つない。永遠に同じものに縛られ、囚われ続けることなんかできない」
「……遠野くん?」
この、幸せしかない夜、街、光の中で。
この人だけが、ずっと不幸だった。
「忘れなくてもいい。でも、俺たちは人間だから、変わっていける。これからもずっと、変わっていけるんだ」
聖夜は、どうしても彼女の傷を開く。15年前のこの日、彼女が演出した地獄を思い出させる。ノエルの14歳の誕生日、聖夜のお祭りに浮き足立つ街のすべてを台無しにしてしまったぬぐえない事実。その夜に降った血と臓物の匂いを、彼女は今でも覚えている。
嗤うように昏かった月の貌を、彼女は今でも夢に見る。
その罪の中で、自分だけがこうして在ることを咎める心が、先輩の中にいまだ巣食っている。自分だけが幸せであることを責める道徳が、彼女のすべてを縛っている。苦しみ、血を流す古傷をかばいながら、先輩は偽りの笑顔を振りまき続けた。
そのことを知りながら、俺はあえてここに来た。この夜だけは彼女の笑顔は嘘になるのだと知っていながら、光あふれるこの空間に、彼女の手を引いてやってきた。だって避けては通れない。乗り越えるには、向き合わなければならないのだから。
立ち上がる。光を背負って、塀に腰かけたままの先輩に向き直る。
「今はまだ無理かもしれない。でも約束だ先輩。いつか、その時が来たら、俺の言葉を思い出してほしい」
「約、束?」
「どうか――変わることを恐れないで。変化することを、拒まないで」
呆然と目を見開く先輩に、手を差し伸べる。手袋は外してある。すこしだけかじかんで、指先が赤い。寒い。冷たい。凍えそうだ。だから、俺は願う。すがる。祈るように。
どうか先輩。
俺の手を――取ってください。
「変わり続けることは、いつだって正しい。生きている限り、何があっても正しいんだ。足は重くて、道は険しいかもしれない。あなたの変化を拒む呪いがあるかもしれない。憎しみが、あなたの道行きを糾弾するかもしれない」
「……あ」
それでも、変わることは尊い。進むことは、一切の留保なくひたすらに美しいのだ。
ああ、だから先輩。これからも、ずっと。
「――前に進むことを、決して恥じないで」
声が漏れる。街の光に照らされて、蒼いほど白い先輩の顔が輝いている。瞼が震え、唇がゆがみ、形のいい鼻がひくりと動く。
そうして彼女は、いまにも溶けそうな雲に触れるように俺の手を握り。
「はい」
と、静かに小さくうなずいた。
――吐く息は白く。
散る花のように、夜の闇をまだらに染めた。
「よし!」
「きゃ!」
ぐいっと腕を引く。声を上げてバランスを崩す華奢な先輩の身体を、しっかりと抱き留める。全身の震えはどちらのものか。愛しい人のすべてをつぶれるくらいに抱きしめて、俺は今夜ようやく、安堵の息を吐いた。
いつになるかわからない。けれどこれで、俺たちはその日を目指して歩いて行ける。
いつか、彼女が彼女を赦せる時を。
――俺は、どこまでだって追っていく。
「よかった……先輩、よかった」
「と、遠野くん。苦しいです。それに、みんな見てますから!」
「構うもんか。見せつけてやればいいんだ」
じたばた暴れる先輩を押さえつけて、赤く染まった耳に口元を近づける。冬の空気を肺の奥まで吸い込んで、ようやくこの夜にふさわしい言葉を口にする。
「忘れてた――メリークリスマス、先輩」
「あ――」
「今年もこうして、あなたといられて幸せだった」
言い切って、先輩を開放する。急に自由になった身を持て余したように先輩は身じろぎし、指先を絡め、もう、と眉を寄せた。
「遠野くんは、いつでも強引です」
でも、と言葉を続けて。
彼女は。
「メリークリスマス、志貴くん。これからもずっと、よろしくお願いします」
――輝く虹のように、笑った。
***
「そういえば遠野くん」
「はい、なんでしょう?」
広場から宿への帰り道、つないだ手からはお互いの体温が伝わってくる。あれー、さっきは名前で呼んでくれたのになーと思いながら、指摘するのはやめる。
まあ、焦らなくても。
いつかまた、そう呼んでもらえる日が来るだろうから。
「クイズです。ストラスブールの、街の鳥がなんだか知ってますか?」
「え、鳥?」
いや、もちろん知らない。知るわけがない。そもそも総耶の鳥だって知らないのに、異邦の地の縁もゆかりもない街の鳥なんて知識の中にあるものか。
「ヒントです。大聖堂にもその彫刻があります」
「いや、わかりませんって。降参です」
「おや、音を上げるのが早いですね」
「そりゃそうです、見当もつきませんから。で、正解はなんなんですか?」
と。
聞いた瞬間、寒気がした。
あ、なんだか、まずい気がする。よくわからないけど、予想はつかないけれども、俺は今、引き返せない何かを踏んだような。
先輩は街の真ん中で足を止めて、にんまりと、邪悪としか言いようのない笑みを浮かべている。それから、とびっきり面白いジョークを口にするように、
「コウノトリです」
と、言った。
「……え?」
「ですから、コウノトリです。さて遠野くん、こっちのクイズはヒントなしで答えられますよね。では問題です」
「え、え」
「コウノトリが運んでくると言われてるものは、なんでしょう?」
本当に、一部の隙もない、辞書に乗せてやりたいくらいの満面の笑みである。ああ、かわいい。くらりとする。
いや、知ってるさ。たしかに、そのクイズの答えを、俺は知っている。でも、夜の、宿への帰り道で、そんなに赤らめた頬で、そんなことを聞いてくるのは、いくら何でもずるくないですか?
心中の愚痴をことさら無視するように先輩はぐっと距離を詰めて、俺の腕に身体を押し付ける。もう一秒だって我慢できないというように、うるんだ瞳でこちらをのぞき込む。唾があふれる。のみ下す。腹の底から、甘い味が上がってくる。
それから、妖艶、としか言いようのない色香を漂わせて、先輩は。
「ぐっちゃぐちゃに、してくれるんでしょう?」
「――ばっ!」
思わずあたりを見回してしまう。ああ、言った。たしかに言った。そんなことを、俺は言ったような気がします。気がしますけど、なんというかですね、それは言葉のあやというかその場の勢いというかですね、という言い訳はもちろん声にならない。
ふふっと、赤い唇をなめて、先輩は本当に美しく笑っている。
「じゃあ、ホテルに戻りましょうか。ああ、どんなことをされてしまうか、今から怖いくらいです」
るん、と音を立てそうなくらい軽快な足取りである。その余裕の背中を見て、先ほどまでパニックになっていた頭が、急速に冷静さを取り戻す。いや、嘘だ。冷静ではない。冷静ではないが、考える能力を取り戻す。
だって、俺も男だ。
ここまで挑発されたまま黙っていたんじゃ、男が廃るというものだ。
ぐっと足腰に力を入れて歩き出す。ホテルまではもうあと数分。祭りの夜はこれでおしまい。あとは、俺たちふたりだけの時間。先をいく先輩に追いつき、腕を取り、身体を寄せる。
「明日の朝、後悔してください。目にもの見せてくれる」
「ほう、それはそれは楽しみです♪」
夜は深く、足音は高く、心は弾み。
輝く地上の星に包まれて。
この空の下で。
俺たちは今日もまた、幸せなのだった。
2016年12月、フランスにて
Les Amants d'un Jour
了
最後まで読んでいただいてありがとうございました。作者は最後までとても楽しく書かせていただきました。
あとがき的なものは、活動報告に書きたいなと思っています。