【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
光が差す。
神々しいまでの東雲は、朱の前に藍をはらみ、空をいっとき、菫色に染めた。
一条、筋となって煌めく。峻厳な岸壁が赤く染まる。とてもささやかな、とてもそうとは言えないほどの、モルゲンロート。
「夜が、明けますね」
「はい」
──すなわち、突入の刻限である。
DAY 3
La Porte étroite / 狭き門
俺たちはすでに、修道院に続く稜線の上にいる。闇に守られた要塞は、いまだその全貌を見せない。シルエットばかりが不気味なほどに静まり返っている。
太陽がわずかに、わずかずつ、高度を上げていく。岩肌を朱に染めていた陽光が、やがて横差しの刃となって、魔城の貌を照らし出す。
「……あ?」
どくん、と。
心臓が跳ねた。
「なん、だ──アレ」
「──―」
先輩は答えない。ルオシーも何も言わない。ただ、憎むべき敵を睨むまなざしで、彼女たちは暴かれた異端の神殿を見つめている。
それは何の変哲もない石造りの建物だ。質素に、清潔に生きる女たちの家。
特徴的なものはただ一点。
母屋のすぐ横に寄り添うように建てられた、不釣り合いな尖塔。
尖塔。
──尖塔だって?
昨日の夕方、はじめてこれを見上げた時、世界はすでに薄暗かった。光の差し具合のこともあって、誤認していた。
あれは尖塔なんかではない。
宿で見た絵を思い出す。あの絵になくて、いま目の前にはあるもの。高く高く積み上げられた、土の塔。
それは、ただの棒だった。
建物ですらない。むき出しのまま、ただただ高く盛られただけの人工的な土の山。塔と言って、言えないこともないだろう。赤い土は、傲岸なほど無骨に、その乱暴に固められた外壁をさらしている。
どくん、と。
塔が鳴動する。
異様なのは、用途のまったく想像できないフォルムだけではない。暁光に暴かれ、真っ赤に染まるその色。美しい岩肌とは対照的に、それはひたすらに暗く、紅く、毒々しく──。
まるで血のように。
ならされていない外壁には、ごつごつとした凹凸がある。影になる部分が、明暗が刻々と移り変わる。それがあたかも、脈打つ人体のように禍々しい。
「ぐ──っ」
耐えられない、と思った。なんだ、この醜悪さは。皮膚を剥いだ人体を、そのまま見せつけられているような。
視線を切って、大きく息を吸う。冬の朝の大気は冷たいけれども清浄で、脳に新鮮な酸素を送ってくれる。十吸って、三止めて、十吐く。三度繰り返したら、猛烈な吐き気も収まった。
あれは、良くないモノだ。
詳しいことはわからずとも、それだけは本能が悟っていた。
「──ん、あれ?」
そらした視線の先に、気になるものがあった。
凝視する。距離はあるが、死徒化した俺の視力なら見えないこともない。
稜線を挟んで、上ってきたのとは反対側のふもと。川からずいぶん離れたところに、妙な空白地。この高さに上って見なければわからないような、不自然な間隙地。
かなりの大きさだ。ここから見ると、黒い穴のように見える。いや、実際そうなのだろう。クレーターのように、あたり一帯が陥没している。差し渡しもかなりある。街一つ分くらいの面積はあるだろう。なにかの実験の跡地なのか、それとも。
それにしてもあれだけの穴を掘れば、出てきた土は大量だったはずだ。
どうしたのだろう。
掘り返された土はいったい何のためにどこに使われて──。
「さて」
思考は、呟きで遮られた。すでに答えの出ているような問いを棚上げにして、先輩に視線を移す。朝の風をはらんで、短い髪がふわりと広がった。
カソックが翻る。編み上げブーツで岩を踏みしめ、先輩は絞り出すように言った。
「行きましょう」
「先輩……?」
その横顔に、俺は見覚えがなかった。見覚えのない感情の名残を、そこに見た。
──先輩。
何をそんなに、焦っているんですか?
湧き上がった疑問を口にする前に、弾かれたように先輩は駆けた。風のように岩肌を縫い、跳び、一直線に修道院へ。
「くっ……」
置いていかれるわけにはいかない。ナイフをくわえ、四肢を使って走り出す。平面ではなく、立体的な戦場では、こちらの姿勢の方が都合がいいのだ。犬のようだと思わなくもないが、見た目にこだわっていられる余裕はない。
ごーん。
ご──ん。
ご──────ん……。
どこでまた、鐘楼の音がした。
***
「はあああああ──!」
響く硬音。
石の護りに、黒い糸が縫い付けられる。
「えいっ!」
「うおおおっ!?」
どのように突入するのかと身構えていたら、修道院の壁面に突き立てた数本の黒鍵をてこにして、先輩は裂帛の気合とともに壁面の一部ごと覆してしまった。
「どんな力業だよ……」
壊すのにあえて東側の壁を選んだのは、朝日が十分に内部へ行き渡るようにだろう。
日輪の輝きが、暗黒の魔城へ吸い込まれる。ぞわぞわと、内部の暗がりで影が震える。慄く。戦慄く。
怒りに?
屈辱に。
岩の下に隠れていた虫のようだ。もはや人間ではなくなった肉塊は、全身を灼かれながらもこちらへ襲い掛かってきた。その脆弱な肉体に、またも容赦なく突き立てられる黒い釘、釘、釘。
ごう、と燃える。灰になる。朝日に照らされてきらきらと、せめて滅びの際くらいは美しく散った。
無言のまま豪快に踏み込んで、先輩は天蓋へ向けて黒鍵を放った。今度は屋根の一部を吹き飛ばしてしまおうということなのだろう。選択された戦法が、かえって先輩の警戒心の強さを俺に教えてくれた。
標的以外に目もくれず、一目散に仕留める姿を、これまで何度か見た。正面突破。敵がいかなる罠、術数を駆使して来ようが関係ない、という自信が彼女をしてそうさせていた。
しかし今回は違う。
まずは環境を崩す。自らに有利な条件を構築する。そうするだけの用心が働いている。そうしなければ危ないと、先輩は判断した。
そのことが、なによりも俺の全身をこわばらせる。
「──―!」
果たして、天井を吹き飛ばすために放たれた黒鍵は、狙い通りには着弾しなかった。弾かれた刃が煌めきも残さずに落下する。
視線を上げると。
蜘蛛のように壁面にへばりつく異形があった。
「──っ」
醜悪なカタチだ。手足は、合わせて二十本ほどもあろうか。
城主ではない。しかし、雑魚でもない。血縁はわからないが、有象無象とは格が違う。階梯はいくつだ。Ⅲか、Ⅳか。
危険だと判断したのは、無論俺だけではなかった。
「この距離では仕留め切れませんね。上がります。ルオシー、遠野くんをお願いします」
つぶやきとともに、先輩の身体が一瞬、収縮する。ぎりぎりと、筋肉の軋みが聞こえてくるようだ。
そして、弾ける。
極限まで引き絞られた文字通りの弓矢のように、先輩は跳んだ。
一個の弾丸となって空を駆ける代行者。壁にへばりついた異形は、その一撃を避けることなく全身で受け。
「なっ……!?」
砕かれるように、五つの生命体に分裂した。
もとより、五つの死者の魂が結合していたものか。身体の中心を貫く先輩の刃は、吸血鬼の魂には届かない。衝撃を受けて分離した異形たちが、気味の悪い笑い声をあげて散り散りになる。
うち、俺をめがけて降ってきた一体を直視する。口は頬まで裂け、四肢は躯のように細い。しかし、目だけが炯々と、爛熟した輝きを湛え──。
「寄るな、気持ち悪い」
眼鏡を外し、ナイフを一閃する。体中を走る線を両断し、生ぬるい体液を浴びる前に、距離を取る。群がってきた死者たちをさらに難なく解体する。横で、グローブを装着したルオシーが、やはり充満する死者を屠り続けている。
不気味は募るばかりだが、少なくとも踏み込んだこの広場にいる異端たちは敵ではない。この調子であれば、すべて杞憂で終われるかと楽観を抱いた瞬間。
そのあまりに浅はかな油断の代償を耳にした。
「がっ──は!」
何かが砕ける音がする。何か。それはとても固いものだ。人体でもっとも固いモノ。それが、圧倒的な力の前に粉砕されるとき、ああいう音がする。ぼきぼきぼきと鈍くおぞましい音が。
ついで、液体が降ってきた。びちゃびちゃと奇妙に粘る赤黒い水滴。その赤さの意味を脳が正しく把握する前に、俺は視線を上げた。
「──―」
先輩だった。
見慣れた、触り慣れた先輩の身体に、醜怪な異形の腕が突き立てられている。左腕は無惨なほどに打ち砕かれ、その口から大量の血が滴っている。腹に一撃された衝撃は、あるいは内臓を破ったか。
「あ……」
わからない。
思考が沸騰する。
視界が暗転する。
目の前で起こっていることの意味を理解する前に、
「先輩!」
叫びともに、壁に駆けだしていた。
先輩ほどの跳躍力がなくとも、壁を跳んでいけばあの高度までたどり着ける。そう、それが最速、最短距離。先輩のもとに駆けつけるための。
瞬時の判断は微塵も間違ってはいなかった。
──ここが、敵の根城でなかったならば。
一斉に、俺めがけて殺到する吸血鬼たちの牙、爪、雄たけび。腹を抉られ、足を裂かれる。ルオシーが何かを叫んでいる。視界の隅で彼女の端正な表情の歪みが大きくなっていく。叫びは聞こえない。ナイフを振るう音、肉塊が解体される音、なにより俺自身の怒りの咆哮が、すべての音をかき消している。
なのに。
「──だ、め」
頭上遠くから落ちてきた、先輩の声だけが、鮮明に聞こえた。
「逃げ、て……」
頭上の怪異が先輩を担ぎ上げたまま、腕を振りかぶる。振るわれる剛腕。それは空間を裂くほどの威力をもって、俺たちがへばりつく床面に振り下ろされ──。
「シキ君……!」
頭蓋を揺らす衝撃とともに、爆音が俺の意識を刈り取っていった。
***
夢を見ている。
幸せではなかったけれども、不幸でもなかったころの夢。
葡萄酒をこしらえる。パンを練り、祈りを捧げる。そうして畑を耕す日々。もうとっくに失われたはずの、生活というものの残骸。惨いほどに続く日々。
そこに充足はなく、充実感など欠片も得られない。いたわりとともに投げかけられる言葉は悲しいほどにむなしい。
なぜか、まだ在る。
ワタシはまだ存在する。
みんなみんな。
ほかのひとたちはしんだのに。
その肉体の実在性にひたすら苛まれる。もう二度と手に入らないはずのものを見せ続けられるだけの地獄。ここは石造りの牢獄だ。いつだっていつだって、逃げ出すことばかりを考えていた。
ああ、それは。
死ぬほどの恥辱の果てに、たしかにまだ、生きていたころ。
疎ましいほどに鼓動する心臓。あさましいほどに代謝する身体。
腐っているのは精神だけ。ココロだけが、正しく壊れることができていたころ。
それでもそこに。
救いのようなものは、あったはずなのに。
──それは夢。
自分ではない誰かの夢。悲しいほどむなしく、つらく、烈しい感情に覆われた──。
ああ違う。でも違う。
これは夢ではなくて、きっと──。
***
「──痛っ」
後頭部に走った激痛で目が覚めた。両目が焦点を結ばない。無意識のうちに、胸元をまさぐり眼鏡をかける。あたりを見回す。
どうやら野外、枯木立と白い雪だけの地にいる、ということだけが辛うじて理解された。
「気が付いた?」
「ルオ、シー?」
「上等。錯乱はしていないみたいね。でも、動かない方がいいわ」
木立の中の広場。手ごろな石の上に寝かされていたらしい。起き上がろうとすると、眼球の奥が痛んだ。さらに腹、首、右大腿部に激痛が走る。筋肉が破れているようだ。血止めはしてあるが、気休め程度だろう。
「俺は……いや、先輩は!」
意識が輪郭を結ぶにつれて、何があったのかを思い出した。ここが修道院でないのなら、撤退したのだろう。そしてこの身がこうして生きているということは、少なくとも離脱は成功している。
しかし、気配がない。先輩の気配が。
ルオシーは数秒ほども黙って俺の瞳を見つめたうえで、無言のまま首を振った。
「シエルは置いてきた。シキ君に加えて彼女を回収する余裕がアタシにはなかったし、彼女が君を危険に晒すことを望むとも思えなかった。なにより、あの程度のことで彼女がくたばるとも思えなかったから」
「──そうか」
ぎりっと奥歯を鳴らす。
正しい。正しいのだろう。ルオシーの言っていることは。
しかし、瞼の裏に明滅するものがある。赤い血を滴らせながら、苦しそうに息をする先輩の姿。ひしゃげてしまった左腕の輪郭。
だん、と地面を打った。雪の冷たさが少しは脳髄のほてりを収めてくれるかと思ったが、儚い希望だったようだ。
怒りは、消えない。
ふがいない、自分自身への憤怒の念は。
「いや、その前に」
「なに?」
ルオシーに向き直って、頭を下げる。
「ごめん、お礼を言うのが遅くなった。助けてくれてありがとう」
それから、迷惑をかけてごめん。そう言って、ふた呼吸ほど頭を下げ続けた。
実際、先輩のあの姿を見た瞬間、目の前に真っ赤になった。我を忘れた。あそこで冷静な判断ができていたら、ルオシーにかかる負担はもっと少なくて済んだだろう。
これは、俺の未熟が招いた結果だった。
「まったく、シキ君にはいつも驚かされる」
ルオシーは苦笑して、手を振った。いいよ、気にすることじゃない。
「──先輩はまだ、修道院に?」
「それはわからない。アタシも距離をとることに必死だったから、振り返って確認したりはしていないもの。もっとも、シエルのことだから、隙を見て単独で脱出している可能性だってあるね」
そう信じたい。しかし、気絶する前に見たあの光景が悪い夢でないのなら、先輩が負っているダメージは深刻だ。
なにより。
「先輩に、あれだけの傷を与えるなんて……」
そのことが、あまりにも意外すぎた。先輩の戦闘能力は、二年以上も任務に付き従ってきた俺でさえ、その底の一端も見えていない。あのアルクェイドを一時的にせよ圧倒したほどの手練れである。あそこに巣食っているモノ程度に後れを取るとは思えなかった。
なのに、先輩は敗れた。
「それ、アタシも気になってる。なにかに嵌められたとしか思えないわ」
「嵌められた?」
「たしかに雑魚じゃなかった。でも、シエルを圧倒できるほどの敵かと言ったら、答えはノーよ。アタシでも多少なら勝負になる程度の力しかなかった」
「じゃあ、どうして」
「戦いながら、アタシは監視が本務だから、あんたたちの様子を横目で見てたわ。あの時のシエルの動きは、明らかにおかしかった」
「動きが……って、それ、どういう──」
「止まったのよ」
「え?」
記憶を確認するように、ルオシーは遠くの空に視線を投げた。つられて見上げた空模様で、太陽がすでに南を回っていることを知った。思ったより長く、俺は気絶していたらしい。
「実力で言えばシエルが圧倒しているはずだった。けれども、あの異形が目の前に現れた瞬間、あの子、止まったわ」
──目を見開いて、唇を戦慄かせて。
「そんな、って言っているように見えた。悪夢に追いつかれたように脱力して、無防備なところに」
どん、と拳を打ち合わせる。眉間にはしわが寄った。ルオシーにとっても、信じがたい光景だったのだろう。
「どうして、そんなことが……」
わからない。先輩が死者や死徒を相手に、寸時だって油断するなんてありえない。
であれば、彼女は何を見た?
目の前にあることが信じがたいような、いったい何を──?
「いずれにしても、状況は教会が把握しているよりはるかに悪い。アタシから連絡を入れたいところだけど、あそこはあそこでお役所だからねえ」
自分たちの調査が甘かった、なんて事実をやすやすと受け入れるはずがないし、埋葬機関絡みだとただでさえ腰が引けるし、そもそも監視のために遣わされたルオシーからの報告なんて受け取ってさえもらえないかもしれない。そういう意味のことを、ため息交じりで彼女は言った。
「そうだ、ルオシーの言う通りだ。……そもそも、最初から状況はおかしかった。ヴァチカンの調査不足じゃないか。くそ、なんだってこんな任務を先輩に……!」
己の無力を棚に上げて言葉を絞り出したとき、ルオシーがはっきりと目を見開いた。ついで、え、という間抜けな声が漏れる。
「シキ君、いま、なんて言った?」
「え?」
「『こんな任務を先輩に』……? つまり、君はこの任務、教会がシエルに下したものだと思っているわけ?」
「……違うのか?」
しかし先輩は二日前、たしかに「拝命した」と言っていたはずで……。
動揺する俺をよそに、ルオシーは何事かに納得したように、大きな息を吐いた。そうか、なるほど。そりゃあ、言えないか。
「どういうことなんだ?」
「単純な嘘よ。これは教会から下った任務じゃない。シエルは、自ら進んでこの任務に立候補した。ヴァチカンで情報を得て、すぐにね」
「先輩が、自分から……?」
それこそ解せない。先輩が自分から積極的に動くのはロア絡みの時に限ると言っていた。そしてそのロアはもういない。
だったら、なぜ?
「推測だけど、理由は主に二つね。いずれにしても、この土地柄に関係のある話。シキ君、突入前に"大穴"は見た? 君の視力なら、あの薄暗さでも稜線から見えたと思うけど」
「"大穴"? それって、反対側のふもとの先にあった、大きな黒い……?」
「そう。あれはね、街の跡。とある事件があった街を、丸ごと焼き払った跡なの」
「街を──丸ごと?」
ルオシーが言うなら教会絡みの事件なのだろう。しかし、街を丸ごと焼き払うとは規模が大きい。
そんなのまるで。
吸血鬼に喰いつくされた廃都を処理するような──。
「まさか……」
「あまりにも惨くて悲しい事件だった。あれももう昔の話。15年になるわ」
「それ、つまり……」
記憶が軋む。
二年前、ロアと一体化しかけた時に流れ込んできた記憶。
15年前、とルオシーは言った。
それは、ちょうど──。
「"大穴"っていうのはただの俗称。教会が正式に付けた名前は──"エレイシアの奈落"」
何でもないような口調で、ルオシーは、聞きたくなかった事実を口にした。
「あの何もないクレーターこそ、彼女のふるさとの成れの果てよ」