【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて   作:山口 遼

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DAY 3:La Porte étroite / 狭き門②

 去来する、いつか見た災厄の光景。

 多くの人が死んだ。

 殺された。もてあそばれ、食い物にされ、蹂躙された。

 他ならぬ、彼女自身の手によって――!

「故郷に近い修道院が死徒の手に陥ちたと聞いて、シエルが何を思ったのかはアタシにもわからない。けれども、彼女がこの地にやってきた理由のひとつは、間違いなくそれでしょうね」

「―――」

 そう、そうなのだろう。

 はじめから、先輩本人の態度に抱えていた違和感の正体がそれだ。

 話そうとしたのかもしれない。俺に、正直に。いや、きっと話そうとしただろう。この二日の間、何度も、何度も。それでも、彼女はそうできなかった。

 言葉にすれば、意味が生じる。何を言っても嘘になる。寒くなる唇を噛みしめて、だから彼女は笑ったのだ。千の棘を、胸に呑んで。

 じくじくと血を流し続ける、腐った傷跡。

 故郷にまつわるすべては、いまだに彼女の手足を縛っている。

「先輩と――合流しないと」

 できることはあるだろうか。

 かける言葉は、あるだろうか。

 ないかもしれない。俺はきっと無力だろう。

 それでも、先輩の傍にいたかった。

「そうね、賛成。けれども、そう簡単には事は運ばなそうでね」

「どうして――!」

「ひとつは、キミのその身体。まともに立てもしないでしょ?」

 激痛は先ほどから脳髄を刺激し続けている。しかし、それがなんだというのだろう。

 こんな痛み、かゆみにも劣る。

 彼女の胸を蝕む、自責の念に比べれば。

 歯を食いしばって、四肢に力を込める。脂汗をたらしながら立ち上がって、ルオシーを正面から見つめ返す。

「上出来、って言ってあげたいところだけど、無意味よ。……死徒化しているキミのことだから、夜まで待っていれば、放っておいてもかなり回復するはず」

「なら――」

「そう、本当に問題なのは、こっちの方」

「え――?」

 ルオシーが俺から視線を切る。振り返る。

 枯木立の間を縫って、舞い上がる雪煙。ざくざくと、跡のない雪を踏む、軽い音。

 そして、木々のカーテンを割って。

 ――死者の軍勢が現れた。

「ああ……なるほど。そういうことか」

 激痛を訴える全身を無視して、ナイフを構える。眼鏡を外し、姿勢は低く、這うように。

「でも、おかしいな。まだ、真昼間だっていうのに」

「それはそうだけど、まあいいわ。まずは、生き残ることを考えましょう」

 グローブを嵌めながら、ルオシーが言う。声音ほどには、その表情には余裕がない。

 難しい戦いになるだろうことは、それで知れた。

「しっ――!」

 白煙を舞い上げて。

 さあ、殺し合いをはじめよう。

 

***

 

 失敗した。

 失敗した。失敗した。失敗した。

 しとど流れ出す血液を無理に圧迫しながら、シエルはそれだけを考えていた。転がり込んだ、修道院の屋根裏である。

 襲い掛かってきたのはせいぜいⅣ階梯、夜属だったはずだ。普段のシエルであれば鎧袖一触、叩き潰して一顧だにしない程度の雑魚に過ぎない。

 不覚を取ったのは、その顔に見覚えがあったからだ。

「なんて――愚かな」

 殺してやりたいほどの自己嫌悪が湧き上がる。あまりにも甘すぎた自分の、未来予想。

 土の記憶を感じた時。

 あの尖塔を作り上げた材料が何であるかを推測したとき。

 いや、そもそも。

 ここに来ると決めた時。

 ――すべては、覚悟していたはずだったのに。

 それは、住人の貌だった。あの夜属がカタチを得たのは、見知った住人の貌だった。見覚えのある、ああそういえば、うちのお店の常連だったおじさん。最後はどうだったか。壁につぶされたのだったか、死者に喰われたのだったか。好きなものは、シナモンロールだった。アルルカンのシナモンロールは絶品だよ、といつも笑いかけてくれた。名前――名前は、■■■■。もう二度と、わたしなんかが発音してはいけない、彼の名前。

「ふ――ぐっ」

 あふれかける涙をこらえる。泣いていいはずがない。彼らを悼む資格など、この身にはない。

 血が出るほどに唇を噛んで、シエルは耐えた。襲ってくるあらゆる感情に、気づかぬふりをした。そうしなければならなかった。

 ――ああ、わたし、弱くなった。

 二年前までの自分だったら、ここまで動揺しないで済んだだろうか。心を殺し、ただ死徒を狩るだけの機械となることを己に課していたころなら、傷つくココロもなかったはずだから。

 でも、手に入れたこの弱さを、恨みには思わない。傷つくことができるというのは、それだけでひとつの価値なのだ。幼子が太陽に焦がれるほどの純粋さで、シエルは信じた。そのことを、信じた。

 もうなにもかもが手遅れだとはわかっていた。いまさらここに来たところで、取り戻せるものは何もないと。

 ――じゃあ、どうして?

 湧き上がってきた自問に、自嘲で答える。口にするまでもない偽善だった。口にすることさえ憚られるほどの利己心だった。

「ふぅ――」

 思考を切断し、目を閉じる。

 いまはひとまず、傷の縫合と体力の回復に専念する。左腕は応急処置程度では使い物にならないが、腹の傷は何とかなる。最低限の戦闘力を取り戻したら、まずはここを脱出しなければならない。

 不死の呪いを失っていなかったら、この程度の傷は瞬時に癒えたはずだろう。死にたくないと思えたからこそ、死に接近した。これは皮肉なことだろうか。わからない。

 壁に切られた小さな窓から、外が見えた。視界の端に、塔が映る。血の色をした土で築かれた、禍々しい呪いの塔。

 もはや明白だった。あの塔は、あの街の土で作られている。

 ――わたしの故郷の土で作られている。

 ただでさえ、争いの多かったアルザスの土である。良くないものを呼び込みやすい。この肉体の特殊性だけでなく、第六の儀式の舞台に選ばれたのには、ひょっとするとそんな理由もあったのかもしれない。

 15年前の"フランス事変"で、あの土はさらに多くの血を吸った。恨み、憎み、苦しみ、死んでいった者たちの断末魔。魂の通貨である血液を通して、土は蓄えた。ありとあらゆる、黒い祈りたちを。

 それを現象に換えることができる死徒がいたのなら、土はその超抜能力の、恰好の養分になったに違いない。

 あるいは、時機を待ったのだろうか。事件直後の教会の警戒は過敏だった。月日がたち、無害が確認され、ただ土だけが残される日を待った。そして死徒は動き出した。彼女の故郷に根付く、色とりどりの怨嗟を飲み干すために。

 そうして死徒は、街の記憶を手に入れた。記録ではなく、記憶。恐怖と憎しみで何倍にも何十倍にも増幅された、マイナスの感情。それを外装として、死者たちに与えているのだろう。

 拳を握る。その卑劣さに、怒る権利は自分にはない。何もかも、引き起こしたのはこの身体なのだ。

「いえ、でも……」

 疑問は残った。土の記憶を引き出すのは、簡単なことではないはずだ。不特定多数のおぼろな声として呼び出すならば可能だろう。しかし、生前の顔を仮面の貌として利用するには、少なくとも因果の縁が必要だろう。

 そう、たとえば。

 あの日、あの時、あの場所に。

 居合わせていた縁が――。

「寒い……」

 歯の根が合わない。シエルは無意識のうちに、右腕で自らの身体を抱いていた。

 まだ昼だ。気温はさほど下がっていない。でも、全身が震える。がたがた、がたがたと。

「寒い――です」

 ああ、寒い。

 こんなに寒いと死んでしまう。

 いますぐ誰かに。

 誰かに温めてもらわないと、泣いてしまいそうなほどに――。

 

 ――がたん、と。

 音がした。

 

 膝に埋めてしまいそうになっていた顔を上げる。歯を食いしばる。力を入れると、まだ腹部はひどく痛んだ。

 がたんがたん、と音がする。屋根裏に潜む獲物の匂いを嗅ぎつけて、血に飢えた死者たちがやってきた。血を吐くほどの激痛に耐えて、シエルは剣をとる。

 弱音はここまでだ。幸いなことに敵がやってきてくれた。このまま己の弱さに押しつぶされそうになるよりは、死を賭した戦いの方がよっぽどマシだった。

 そして生き残る。

 何がどうなったとしても、わたしは彼のもとに帰るのだ。

 すさまじい音を立てて、屋根裏の床が吹き飛ぶ。いかなる怪力のなせる業か。こじ開けられた孔から、次々と異形が現れる。

 ここでは不利。

 瞬時にそう判断したシエルは、自らの直下に穴をあけて広場に降りる。狭いよりは、立体的に動き回れる場所の方が、スタイルには合っていた。

 できれば野外に出てしまいたいところだったが、結界が張られている。志貴やルオシーが無事に脱出できたらしいところを見ると、「シエルだけを出さない」という類の結界のようだった。

 志貴のことはルオシーに託した。卓越した代行者であることも、その心根が清浄であることも、もう二年になる付き合いで十分に理解している。いまは信じるしかない。

 ぞろぞろと集まってくる死者たち。まずは目の前の敵を蹴散らし、結界に穴をあけて脱出する。やるべきことを冷静に頭の中で整理し、

 

『――エレイシア』

 

 その声に、すべてをかき消されてしまった。

「……え?」

『エレイシア』『エレイシア』『エレイシア』

 音のもとは死者たちの喉だ。金属的なひび割れた声。聞き違いではない。彼らは全身で、彼女の名前を呼んでいる。

 死者たちが合唱する。もはや地上に痕跡の残っていないはずのその名前。捨てたはずの名前。仮面。

『すべておまえのせいなのに』

「あ……」

 頭が沸騰する。めまいがする。違う。彼らはみな、かつての住人の顔をしている。これは幻だ。幻影だ。わかっている。わかっているのに、全身から力が抜けていく。

 だって、あの日、あの時、わたしが殺してしまった。わたしが彼らを殺してしまった。何の罪もないのに。ただそこにいたというだけの理由で。無垢な命を辱め、苦しめ、奪い取った。

 それをもう一度、この手で殺すことなんて――。

「あ、あああ……」

 頭を抱える。眼前が真っ赤に染まる。記憶が戻ってくる。目の前には死者、死者、死者。どれもこれも、見覚えのある顔をしていて。

 歪む。歪む歪む歪む。音も色も景色も自分でさえも、いびつにひしゃげて曲がっていく。

『おまえのせいで』『おまえのせいで』『おまえのせいで』『エレイシア』『おまえの』『エレイシア』『おまえのせいで』『おまえのせいで』『エレイシア』『エレイシア』『エレイシア』『おまえの』『エレイシア』『おまえのせいで』『おまえのせいで』――!

「消えて消えて消えて、消えてぇ!」

 無我夢中で黒鍵を振るった。燃え上がる炎。見覚えのある顔の一つが灰になる。それでほっとする。息をつく。逃げ出したくなる。

 とにかく目の前のすべてを否定したくて、焼き尽くしたくて、シエルは持てる力を総動員する。内臓がたわんで、血が噴きだす。口からも漏れる。知ったことか。とにかく、とにかく今は。

『エレイシア』『ああ、エレイシア』

 ああ、なのに。

 どうして、よりにもよって、その貌を――。

 

『おまえは本当に、早起きが苦手だね』

 

 涙は出ない。手足は死んでしまいそうに冷たい。それでも、機械のように腕を掲げ。

「あ、ああああああああああああ!」

 そこにあるものすべてを、動くものすべてを、彼女を苛むものすべてを葬るために。

 代行者は、虐殺を決意した。

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