【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
去来する、いつか見た災厄の光景。
多くの人が死んだ。
殺された。もてあそばれ、食い物にされ、蹂躙された。
他ならぬ、彼女自身の手によって――!
「故郷に近い修道院が死徒の手に陥ちたと聞いて、シエルが何を思ったのかはアタシにもわからない。けれども、彼女がこの地にやってきた理由のひとつは、間違いなくそれでしょうね」
「―――」
そう、そうなのだろう。
はじめから、先輩本人の態度に抱えていた違和感の正体がそれだ。
話そうとしたのかもしれない。俺に、正直に。いや、きっと話そうとしただろう。この二日の間、何度も、何度も。それでも、彼女はそうできなかった。
言葉にすれば、意味が生じる。何を言っても嘘になる。寒くなる唇を噛みしめて、だから彼女は笑ったのだ。千の棘を、胸に呑んで。
じくじくと血を流し続ける、腐った傷跡。
故郷にまつわるすべては、いまだに彼女の手足を縛っている。
「先輩と――合流しないと」
できることはあるだろうか。
かける言葉は、あるだろうか。
ないかもしれない。俺はきっと無力だろう。
それでも、先輩の傍にいたかった。
「そうね、賛成。けれども、そう簡単には事は運ばなそうでね」
「どうして――!」
「ひとつは、キミのその身体。まともに立てもしないでしょ?」
激痛は先ほどから脳髄を刺激し続けている。しかし、それがなんだというのだろう。
こんな痛み、かゆみにも劣る。
彼女の胸を蝕む、自責の念に比べれば。
歯を食いしばって、四肢に力を込める。脂汗をたらしながら立ち上がって、ルオシーを正面から見つめ返す。
「上出来、って言ってあげたいところだけど、無意味よ。……死徒化しているキミのことだから、夜まで待っていれば、放っておいてもかなり回復するはず」
「なら――」
「そう、本当に問題なのは、こっちの方」
「え――?」
ルオシーが俺から視線を切る。振り返る。
枯木立の間を縫って、舞い上がる雪煙。ざくざくと、跡のない雪を踏む、軽い音。
そして、木々のカーテンを割って。
――死者の軍勢が現れた。
「ああ……なるほど。そういうことか」
激痛を訴える全身を無視して、ナイフを構える。眼鏡を外し、姿勢は低く、這うように。
「でも、おかしいな。まだ、真昼間だっていうのに」
「それはそうだけど、まあいいわ。まずは、生き残ることを考えましょう」
グローブを嵌めながら、ルオシーが言う。声音ほどには、その表情には余裕がない。
難しい戦いになるだろうことは、それで知れた。
「しっ――!」
白煙を舞い上げて。
さあ、殺し合いをはじめよう。
***
失敗した。
失敗した。失敗した。失敗した。
しとど流れ出す血液を無理に圧迫しながら、シエルはそれだけを考えていた。転がり込んだ、修道院の屋根裏である。
襲い掛かってきたのはせいぜいⅣ階梯、夜属だったはずだ。普段のシエルであれば鎧袖一触、叩き潰して一顧だにしない程度の雑魚に過ぎない。
不覚を取ったのは、その顔に見覚えがあったからだ。
「なんて――愚かな」
殺してやりたいほどの自己嫌悪が湧き上がる。あまりにも甘すぎた自分の、未来予想。
土の記憶を感じた時。
あの尖塔を作り上げた材料が何であるかを推測したとき。
いや、そもそも。
ここに来ると決めた時。
――すべては、覚悟していたはずだったのに。
それは、住人の貌だった。あの夜属がカタチを得たのは、見知った住人の貌だった。見覚えのある、ああそういえば、うちのお店の常連だったおじさん。最後はどうだったか。壁につぶされたのだったか、死者に喰われたのだったか。好きなものは、シナモンロールだった。アルルカンのシナモンロールは絶品だよ、といつも笑いかけてくれた。名前――名前は、■■■■。もう二度と、わたしなんかが発音してはいけない、彼の名前。
「ふ――ぐっ」
あふれかける涙をこらえる。泣いていいはずがない。彼らを悼む資格など、この身にはない。
血が出るほどに唇を噛んで、シエルは耐えた。襲ってくるあらゆる感情に、気づかぬふりをした。そうしなければならなかった。
――ああ、わたし、弱くなった。
二年前までの自分だったら、ここまで動揺しないで済んだだろうか。心を殺し、ただ死徒を狩るだけの機械となることを己に課していたころなら、傷つくココロもなかったはずだから。
でも、手に入れたこの弱さを、恨みには思わない。傷つくことができるというのは、それだけでひとつの価値なのだ。幼子が太陽に焦がれるほどの純粋さで、シエルは信じた。そのことを、信じた。
もうなにもかもが手遅れだとはわかっていた。いまさらここに来たところで、取り戻せるものは何もないと。
――じゃあ、どうして?
湧き上がってきた自問に、自嘲で答える。口にするまでもない偽善だった。口にすることさえ憚られるほどの利己心だった。
「ふぅ――」
思考を切断し、目を閉じる。
いまはひとまず、傷の縫合と体力の回復に専念する。左腕は応急処置程度では使い物にならないが、腹の傷は何とかなる。最低限の戦闘力を取り戻したら、まずはここを脱出しなければならない。
不死の呪いを失っていなかったら、この程度の傷は瞬時に癒えたはずだろう。死にたくないと思えたからこそ、死に接近した。これは皮肉なことだろうか。わからない。
壁に切られた小さな窓から、外が見えた。視界の端に、塔が映る。血の色をした土で築かれた、禍々しい呪いの塔。
もはや明白だった。あの塔は、あの街の土で作られている。
――わたしの故郷の土で作られている。
ただでさえ、争いの多かったアルザスの土である。良くないものを呼び込みやすい。この肉体の特殊性だけでなく、第六の儀式の舞台に選ばれたのには、ひょっとするとそんな理由もあったのかもしれない。
15年前の"フランス事変"で、あの土はさらに多くの血を吸った。恨み、憎み、苦しみ、死んでいった者たちの断末魔。魂の通貨である血液を通して、土は蓄えた。ありとあらゆる、黒い祈りたちを。
それを現象に換えることができる死徒がいたのなら、土はその超抜能力の、恰好の養分になったに違いない。
あるいは、時機を待ったのだろうか。事件直後の教会の警戒は過敏だった。月日がたち、無害が確認され、ただ土だけが残される日を待った。そして死徒は動き出した。彼女の故郷に根付く、色とりどりの怨嗟を飲み干すために。
そうして死徒は、街の記憶を手に入れた。記録ではなく、記憶。恐怖と憎しみで何倍にも何十倍にも増幅された、マイナスの感情。それを外装として、死者たちに与えているのだろう。
拳を握る。その卑劣さに、怒る権利は自分にはない。何もかも、引き起こしたのはこの身体なのだ。
「いえ、でも……」
疑問は残った。土の記憶を引き出すのは、簡単なことではないはずだ。不特定多数のおぼろな声として呼び出すならば可能だろう。しかし、生前の顔を仮面の貌として利用するには、少なくとも因果の縁が必要だろう。
そう、たとえば。
あの日、あの時、あの場所に。
居合わせていた縁が――。
「寒い……」
歯の根が合わない。シエルは無意識のうちに、右腕で自らの身体を抱いていた。
まだ昼だ。気温はさほど下がっていない。でも、全身が震える。がたがた、がたがたと。
「寒い――です」
ああ、寒い。
こんなに寒いと死んでしまう。
いますぐ誰かに。
誰かに温めてもらわないと、泣いてしまいそうなほどに――。
――がたん、と。
音がした。
膝に埋めてしまいそうになっていた顔を上げる。歯を食いしばる。力を入れると、まだ腹部はひどく痛んだ。
がたんがたん、と音がする。屋根裏に潜む獲物の匂いを嗅ぎつけて、血に飢えた死者たちがやってきた。血を吐くほどの激痛に耐えて、シエルは剣をとる。
弱音はここまでだ。幸いなことに敵がやってきてくれた。このまま己の弱さに押しつぶされそうになるよりは、死を賭した戦いの方がよっぽどマシだった。
そして生き残る。
何がどうなったとしても、わたしは彼のもとに帰るのだ。
すさまじい音を立てて、屋根裏の床が吹き飛ぶ。いかなる怪力のなせる業か。こじ開けられた孔から、次々と異形が現れる。
ここでは不利。
瞬時にそう判断したシエルは、自らの直下に穴をあけて広場に降りる。狭いよりは、立体的に動き回れる場所の方が、スタイルには合っていた。
できれば野外に出てしまいたいところだったが、結界が張られている。志貴やルオシーが無事に脱出できたらしいところを見ると、「シエルだけを出さない」という類の結界のようだった。
志貴のことはルオシーに託した。卓越した代行者であることも、その心根が清浄であることも、もう二年になる付き合いで十分に理解している。いまは信じるしかない。
ぞろぞろと集まってくる死者たち。まずは目の前の敵を蹴散らし、結界に穴をあけて脱出する。やるべきことを冷静に頭の中で整理し、
『――エレイシア』
その声に、すべてをかき消されてしまった。
「……え?」
『エレイシア』『エレイシア』『エレイシア』
音のもとは死者たちの喉だ。金属的なひび割れた声。聞き違いではない。彼らは全身で、彼女の名前を呼んでいる。
死者たちが合唱する。もはや地上に痕跡の残っていないはずのその名前。捨てたはずの名前。仮面。
『すべておまえのせいなのに』
「あ……」
頭が沸騰する。めまいがする。違う。彼らはみな、かつての住人の顔をしている。これは幻だ。幻影だ。わかっている。わかっているのに、全身から力が抜けていく。
だって、あの日、あの時、わたしが殺してしまった。わたしが彼らを殺してしまった。何の罪もないのに。ただそこにいたというだけの理由で。無垢な命を辱め、苦しめ、奪い取った。
それをもう一度、この手で殺すことなんて――。
「あ、あああ……」
頭を抱える。眼前が真っ赤に染まる。記憶が戻ってくる。目の前には死者、死者、死者。どれもこれも、見覚えのある顔をしていて。
歪む。歪む歪む歪む。音も色も景色も自分でさえも、いびつにひしゃげて曲がっていく。
『おまえのせいで』『おまえのせいで』『おまえのせいで』『エレイシア』『おまえの』『エレイシア』『おまえのせいで』『おまえのせいで』『エレイシア』『エレイシア』『エレイシア』『おまえの』『エレイシア』『おまえのせいで』『おまえのせいで』――!
「消えて消えて消えて、消えてぇ!」
無我夢中で黒鍵を振るった。燃え上がる炎。見覚えのある顔の一つが灰になる。それでほっとする。息をつく。逃げ出したくなる。
とにかく目の前のすべてを否定したくて、焼き尽くしたくて、シエルは持てる力を総動員する。内臓がたわんで、血が噴きだす。口からも漏れる。知ったことか。とにかく、とにかく今は。
『エレイシア』『ああ、エレイシア』
ああ、なのに。
どうして、よりにもよって、その貌を――。
『おまえは本当に、早起きが苦手だね』
涙は出ない。手足は死んでしまいそうに冷たい。それでも、機械のように腕を掲げ。
「あ、ああああああああああああ!」
そこにあるものすべてを、動くものすべてを、彼女を苛むものすべてを葬るために。
代行者は、虐殺を決意した。