【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて 作:山口 遼
ツァオ・ルオシーは、珍しいタイプの代行者だった。
代行者の中では実力者とされるが、マスタークラスの中でも抜きんでて強いというわけではない。特に優れた家系に生まれたわけでも、忌避すべき呪いを引き受けているわけでもない。魔術系統こそいささか特殊だが、空前絶後というほどではない。
しかし極めて珍しいことに、彼女は平凡にして、幸福な人間だった。
代行者とはすなわち、教会にとっての不都合を力をもって解体し、無理に辻褄を合わせるための機構にすぎない。したがって、逆説的にではあるが、主への信仰の強さだけで志向できる職種ではあり得ない。
死ぬほど許容しがたいが、この世には例外がある。まずそのことを認める。その上で、主の代行として罰を執行するという大それた不遜を引き受ける。
それが代行者の正体だとすれば、まっとうな信仰心の持ち主には到底耐えられないことだろう。
したがって、ソレは成りたくて成る存在ではない。成らざるを得ない者、他に選択肢がない者、そうする以外に生きる赦しを得られなかったものが究極的に選択する末路であることがほとんどだ。
その中で、ルオシーは異端だった。
彼女は望んで代行者になった。
生い立ちに不幸があったわけでもなく、家柄に問題があったわけでもなく、吸血鬼被害にあったわけでもなく、聖痕を授かったわけでもなく、他の前途をことごとくつぶされたわけでもない。
彼女はただ、なんとなく、それまでの幸福をなげうって、信仰の闇に身を投じた。
理由は、いまもって本人にとっても明白ではない。ただ、彼女はその選択を後悔したことはなかった。
少なくとも、彼女たち二人の監視を拝命するまでは。
殷々と声が響く。それは耳を侵し、脳を侵し、存在に干渉する聖なる韻律。
「
声は低く、調べは貴く、枯木立の雪原に朗々と響き渡る。
「
永遠に存在するような名や富なんてものがあるなら、と千年以上の昔、詩仙と呼ばれた男は嗤うように詠った。その時は、川だって逆に流れるだろうよ、と。
自らの存在を根底から否定する、仙の韻。
詩は、確かな実在となって不死者たちにのしかかり、
「悔い改めなさい」
彼女の一言で、あらゆる不浄なるものをかき消した。
風に乗って、禍々しきものたちの残骸が流れていく。
謡手はツァオ・ルオシー。表意文字を操る民族の裔として、意味と音と文字に込められた呪を、借り物の詩歌によって再現する代行者である。
ルーンに代表されるように、そもそも旧い文字には魔術的な意匠が含まれる。カタチが意味を表すとすれば、音は在り方を規定する。そのいずれの効果をも最大化する美しい言葉の連なりによって、人の子の詩は仮初にでも神韻を帯びる。
それはもはや存在への声となって、命の在り方に干渉する。統一言語ほどの強制力はなくとも、あるべき世界への呼びかけという意味では、その紛い物と呼べるくらいには奇跡的な代物だ。
聖仙吟晶。中国は中原にルーツを持ち、数少ない家系にのみ伝わる、極めて特異な魔術系統である。
「――これで、半分」
大きく息を吸って、ルオシーは再び拳を構えた。長い詩を響かせるには、膨大な魔力を消費する。普段であれば一文字ずつ小出しにし、拳でスタンプすることで不浄を罰するのが彼女のスタイルだ。
しかし、それでは間に合わない。払っても払っても、悪鬼どもはその数を増すばかりだ。
「どんだけ資産を溜め込んでたのよ……」
悪態は続かない。背後では志貴がナイフを振るっているが、動きには精彩を欠いている。当然だ。常人であればとっくに意識を手放しているはずの重傷を負っているのだから。
拳を振るい、一体一体を灰に、塵に、土に還しながら、ルオシーは冷静に状況を分析する。
苦しい戦況だ。しかし、活路がまったくないというわけではない。
慎重に戦闘を続ければ、致命傷を避けたままで敵を一掃することも不可能ではない。隘路ではあるが、差す手を間違えなければ、必ずゴールにはたどり着ける。
弾む息を落ち着かせて、志貴を振り返る。この計算の精度をより高めるには、まず何よりも彼の残り体力を推定することが肝要だ。
志貴が振り向く。ひどい顔色だ。今にも倒れてしまいそう。やはりここは配分を考え直して――なんだ?
ルオシーは目を細める。志貴が真っ青な顔を歪ませて、何か必死に叫んでいる。なにか、とても短い叫びを――。
「――避けろ!」
咄嗟に動けたのは、彼への無意識の信頼によるものだった。ルオシーはなりふり構わず身を伏せ、同時に跳んだ。
その背を、斬撃が襲う。
ぱっと血の華が咲いた。雪原に、まだらに落ちる紅。痛覚を遮断して、身をひるがえす。追撃をかわすべく数秒ほども転がって、体勢を立て直す。
顔を上げる。目を見開く。目の前の光景が受け入れがたく、口から軽口がこぼれ出た。
「あら――最悪ね」
見た目でわかる、Ⅳ階梯の夜属。それが二匹も立っていた。
このクラスの吸血鬼であれば、日光は十分に毒となる。灰になるまで焼かれこそしないものの、昼日中の行動には苦痛が生じるはずだ。しかし、それを押してこの二体はここに来た。
おそらく、帰還は期待されていない。千人に一人の資源を特攻に出すなど、正気の沙汰じゃない。ここの城主はよほど財産の運用が下手と見える。
「さっさと破産すればいいのよ、三流め」
苛立ち交じりに吐き捨てても、状況は決して好転しない。もはややけくその心境だった。
夜属二体が相手に加わるとなると、もはや状況は絶望的だ。ルオシーとて歴戦の代行者、彼我の戦力差が分からないわけがない。
仮にいくつかの幸運に恵まれ、どれほど死力を尽くしたところで、ぎりぎりで敵に軍配があがる。
「うーん――もっと最悪」
こちらに警戒の声を上げてくれた志貴は、もはやブリキのロボットのようなぎこちない動きでナイフを振るっている。Ⅳ階梯の吸血鬼を相手する余力は到底なさそうだ。
吸血鬼は肌を焼かれながら、じりじりと距離を詰めてくる。瞳は赤い。しかし、その様子は明らかに知能を持った人間だ。その唇を割って、言葉が滑り出た。
「――誅殺する。鏖殺しよう。あの娘に肩入れする、すべての者を、引き裂いて」
男性のカタチをした吸血鬼は、そう言った。ルオシーは合点する。意識が混濁しているのだろう。もともとの人格に、土の記憶の人格が混ざり、一つの肉体に二つの記憶が押し込まれている。
こんな無茶をすれば自我の崩壊を招くはずだが、それでも一日くらいは耐えるだろう。今日を限りと決めた特攻兵には、それで問題ないということか。
反吐が出る。万死に値する愚行だが、その罰を下せるだけの力がない。
生存を第一に考えるなら、とルオシーは冷え切った頭で考える。志貴を囮にして、全性能を逃亡に割り振るべきだ。そうすれば、生存確率は三割にまで上昇する。
それは十分に選択肢として考えられる成算だった。ここで抗ったとしても、二人まとめて殺されるだけ。後々の被害を防ぐ意味でも、自分だけでも窮地を脱し、この状況を教会に報告するべきだろう。
そこまでわかっていて、しかしルオシーの足は動かない。
「おおそうか、迷うか。惑うか。悩むのか! ははは、滑稽だな、代行者。どのみち、ここで果ててもらうことに、なんの変わりもないというのに!」
吸血鬼が嗤う。にたりと、涎が糸を引く。背筋を走る冷たい汗を感じながら、ルオシーは必死に生き延びる算段を探していた。
しかし。
「ぐ――っ」
どさっと、何かが倒れる音がする。振り返ると、志貴が大地にひれ伏していた。最後の力で、彼の周囲に群がっていた死者たちは一掃したようだ。そこで限界が来たのだろう。ここまでよくもったと褒めるべきところだが、タイミングが悪すぎる。
見捨てるか。
一瞬、本気の迷いが脳をよぎった。そうしても、誰も彼女を責めることはすまい。
ただ一人、ルオシー自身を除いては。
「惨めだ、惨めすぎる。腹がよじれるぞ。愚かすぎて、まったく理解に苦しむじゃないか!」
夜属は楽しそうに目を細めている。下卑た性格をしている。こんなものでもⅣ階梯に登れるのかと、うんざりする気持ちだった。
「お前たちは、まったく死に鈍感だ。今日まで生き延びてきたという思い上がりが、生物としての本能を摩耗させたのか? ここまで歴然とした死が目の前にあって、なぜ最善を選択できんのだ?」
「なに?」
「今日まで生きてきた。だから明日も生きていられる。命あるものは、その予断を捨てきれない。そういう話だよ、生者たち。お前たちは死を甘く見ている。でなければ単騎で、あの城に突入することなどなかっただろう」
すっとルオシーの目が細められた。
怒りにではなく、蔑みに。
その意図を測りかねたのか、吸血鬼は言葉を重ねる。
「残り数分足らずの話だが、命あったことを後悔するがいい。貴様らもあの娘も、ここで我らが望みの贄となれ」
「――我いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」
「なに?」
ルオシーは膝に手をついて、ふうっと息を吐いた。白く濁る。なんだ、道理で寒いと思ったんだ。
「お国の偉い人の言葉でね、あんまり好きじゃなかったんだけど、最近になって見直していたところなの。結局、生も死も、アタシ程度の肩には重すぎるんだなって」
吸血鬼たちが口を閉じる。構えて、腰を落とす。代行者のまとう空気が変わっていることに、今になって気づいたのだ。
しかし遅い。
熾火は、すでに業火となった。
ルオシーは笑った。獰猛な、獣のような笑みになった。
逃げるべきだと、と理性は言った。志貴を置いて立ち去るべきだ。今ならばまだ望みがある。それが自分のためでも、教会のためでも、未来のためである。これ以上の犠牲を増やさないために必要なのは、蛮勇ではなく撤退なのだ、と。
その叫びをルオシーは、鼻で笑うことで黙殺した。
拳を掲げる。刻まれるのは、玉の一文字。
「死を語ったな、吸血鬼。よりにもよって、あの二人を材にして」
「――ほざけ」
敵の爪が伸びる。紙一重でかわし、蹴りを繰り出す。差し替えた「賤」の字を刻み、不可視の引力をもってその体躯を吹っ飛ばす。
ついで向かってきたもう一体の斬撃を黒鍵で受け、威力を殺す。しかし、殺しきれずに今度はこちらが吹き飛ばされた。黒鍵術はあまり得意ではない。こんなことなら習っておけばよかったか、とルオシーは苦笑する。頼めば、きっと喜んで手ほどきしてくれたことだろう。殺人的なスパルタと引き換えに。
口元がゆがむ。絶体絶命の窮地だというのに、ルオシーの身体には気力が横溢していた。
「今までさ、一度だって気にかけたことなんてなかったの。だって、どうでもいいでしょう? 道端の、名前も知らない草花の成長なんて」
つぶやきは漏れた。自然に、そうと考えないまま、思考が口から垂れていく。
その間にも異形たちの猛攻は続く。そのすべてに対応し、わずかずつダメージを蓄積させながら、しかしルオシーの笑みは崩れない。
「季節の鳥のことも、川の匂いのことも、アタシは気に留めたことがなかった」
――でも、ふたりは違った。
日々の移ろいに目を配って、お互いの変化を喜び合って、何でもない日々を、かけがえのないもののように生きていた。
ある朝、今日は紅茶が上手に淹れられたんです、と彼女は笑った。
夏の日、川の音が涼やかに聞こえるようになったね、と彼はほほ笑んだ。
冬が近くなってきたから夕日が綺麗に見えるよと、ふたりで窓から眺めていた。
生垣の椿が大きな花を咲かせていたからと、いそいそと手をつないで繰り出していった。
額を合わせ、目を細め、髪に触れ、笑っていた。
心の底から、幸せそうに。
お茶の味に喜んで、つぼみの膨らみに喜んで、天気の変化に喜んで、街の影絵に喜んで。
昨日とさして変わらない今日を、今日の延長でしかない明日を、本当にこまやかに、優しく、ふたりは生きていた。
「あの子たちは、丁寧に暮らしていたわ。命あることに感謝しながら、ともに在る、この一秒すら慈しむように」
だからそれが、これ以上ないくらいに頭にきたのだ。
そんなものは貴重でも何でもない。愛しく思う価値すらない。この地球上のどこにでも転がっている、きわめて当たり前の光景だ。
誰にだって与えられている日々。日常。ふつうの生活。ありふれた、幸福でさえないただの無為。
それが。
そんなものが。
そんな程度の毎日が。
――彼らが、死ぬほどに焦がれたものだった。
「それはない。それはないだろうって思ったわ。そんな話があるのかって、アタシは柄にもなく本当に頭にきたよ」
その程度のことが、どれだけ貴重だったのか。それを思うと、泣きたいくらいに腹が立った。
だって、ルオシーにはわからなかった。あんな平凡な毎日なんて、彼女には生まれつき与えられていたものだったから。持っていて当然の、何の価値もないと思っていた毎日というものを、彼らはまるでかけがえのない赤ん坊のように慈しんで、育んでいた。
涙が出た。何度も何度も、ふたりのささやかな生活を見守りながら、あさましく泣いた。
だってルオシーにはわからなかった。
どんな地獄を見れば、あの程度のことを、あれほどに喜べるのか。
どんな心を持てば、そんな地獄を潜り抜けた後で、あんなに愛おしそうな微笑みを、誰かに向けることができるのか。
彼らの来し方を思い、彼らの幸せを願い、彼らの未来を祈る。そして、彼らの
そのようにして、この二年を過ごしてきたのだ。
「一度死にぞこなった程度でふんぞり返るなよ吸血鬼。アタシもお前たちも、所詮なにも知らないんだから。死も生も、命の価値も」
拳を合わせる。韻を結ぶ。大地に広げる。
「あいつらはきっと、誰より死と命を知ってるよ」
殺到する悪鬼。今度こそ命を狩ろうと振りかぶられた、鎌のような爪。
「そのふたりを軽んじた不遜、今度こそ死をもって悔い改めろ」
怖じることなくその軌跡を目にとどめ、ルオシーは謡う。
「
切り裂かれる腹。しかし痛みはどうでもいい。灼けつく肌よりも、謡う喉の方が激しく痛む。
「
永遠でないからこそ、彼らは美しいものを見た。そんなことはわかっていた。もう千年以上前、詩聖は言った。崩れ去った宮殿を前にして。
「
絶え間なく進む人生のうち、永遠の生を保ち得るものなどないのだと。
億にひとつの例外もなく。
誰もがこうして――すべてがこうして。
跡形もなく、影もなく。
「詩聖、五言、『玉華宮』――!」
時の内に、美しく滅び去るべきなのだと――!
叫びとともに、世界は束の間、幻影の淵に流れ落ちる。揺るがされたのは在り方そのもの。永遠の否定は質量を伴って異端を襲い、その足元を覆す。
文字列が怒涛となって膝を浸す。白々と輝く雪が韻律に乗って踊り出す。
ざあ、と光が降った。
それを境にして。
音もなく、死者は滅びる。
日が陰り、照り、世界は輪郭を取り戻す。しかし、なお寂として声もない。耳鳴りがするほどの、完全な静謐。
残ったのは、膝をついて血をまき散らす代行者と。
誓言を生き残った、傷だらけの夜属一体のみだった。
「ああ」
ルオシーは息をつく。末期の息のつもりだった。夜属は息も絶え絶えといった様子で、しかし一歩一歩、こちらへ歩み寄ってくる。
今度こそ、殺されるだろう。
「二体まとめては、やっぱり無理だったかあ」
我ながら冴えない遺言だと思いつつ、ルオシーは目を閉じた。
その首を、狂猛な爪が狩りに来る。
風の音が聞こえた。
痛みとともに、やがて死が――。
***
それから、どれくらいの時間がたったのか。
血と灰と瓦礫と後悔にまみれ、ただひとり、青い代行者は歩いていた。
「は――あ」
自分が何をしたのかわからない。たしかなのはひとつだけ。
この身体は生きている。
修道院からは抜け出せていた。死者たちを残らず焼き払ったあと、結界を破って外に出た。死んでしまいそうな寒さと疲労の中、ゆっくり、一歩ずつ歩いている。
目的地はない。どこを目指せばいいのかもわからない。それでも、彼女の足は止まらない。導かれるように、前へ前へ。
「……あ」
気づけば、夜。目の前の白い雪のほのかな明かりが、彼女の意識のすべてだった。
「……ああ」
見上げれば、月。いまだ満ちない、欠陥品の。
「―――っ」
きれぎれの雲を照らし、ぼんやりと浮かぶ碧い月。
――凍えるような白い月。
そのまぼろしのような輝きを見上げながら、彼女はいまだ、贖罪の涙を流せない。