【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて   作:山口 遼

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DAY 4:Le Rouge et le Noir / 赤と黒②

 ――ああ、つかれたなあ。

 そう、つぶやいて。

 こごえそうなひとみで、きれそうなといきをみている。

 

 あるいている。

 わたしは、あるいている。

 まっしろいじめんのうえを、からっぽのからだをひきずって、ずっとずっとあるいている。

 あたまのなかに、かねのねがひびいている。とおくからきこえてくる、おもたくておおきなおと。

 このみちには、きっとおわりはない。えいえんにつづいていく、へびのみち。

 それでも、あるくしかないから。

 わたしは、いっぽいっぽ、あるくしかないから。

 このさきに、なにもなくても。

 このあしは、どこにもたどりつけなくても。

 いのちあるかぎり、あるきつづけることだけはできるから。

 そのことを、わたしはだれよりしっているから――。

 

 そらがあけていく。

 よるが、さっていく。

 しろいつきは、かなたにしずみ。

 すべてをあらいながすたいようがのぼって。

 そらは、ああ。

 みたことがないくらい、あおくあおく、かがやいて――。

 

 ――そうして、目が覚めた。

 冬枯れの木々の根で丸まって眠る自分を、彼女は発見した。

「あ――わたし」

 カソックを汚していた血は真っ黒に染まり、もう洗い落とせないほどにこびりついている。自分のものか、それとも彼らのものか。混ざってしまえば、区別することに意味はない。

 どちらにしても、同じことだ。

 吐く息は白い。手足は冷え切って、末端がすっかりしびれてしまっている。けれども、体は動く。どれほどこうしていたのだろう。左腕は相変わらず使い物にはならないけれど、腹の傷はずいぶんマシになっている。

 これなら、また、歩き出せる。

「――なら、行かないと」

 しびれの残る手足を動かして、立ち上がる。

「……あ」

 失敗して、顔から地面に倒れ込んでしまう。痛みはない。口に入ってしまった雪を吐き出して、もう一度、震える手足で立ち上がる。また転ぶ。大丈夫。もう一度手をついて、ゆっくりと。膝をついてもいい。何度転んでもいい。どれだけ無様でも構わない。

 ただもう一度、立ち上がらないと。

「――んっ」

 ほら、できた。

 木に手をついて、震える足に芯を通す。何度転んでも、幾度砕けても、この足は歩ける。そのことを、彼女は知っている。この祈りが胸にある限り、戦い続けると誓ったから。

 朝焼けは、たなびく雲をきれぎれに染めて、彼女の影を背後に曳いた。重苦しい影を引きずるようにして、彼女は歩き出した。

 目的地は――どこだっただろう。

 自分は、なにを守りに来たのだったか。

「ああ、そうだ、思い出した」

 その抜け殻を、守ろうと思ったのだ。

 せめて、何かを守りたいと思ったのだ。

 いまさら、なんてあさましい利己心だろうと、彼女は嗤った。唇はいびつに歪み、真っ赤な鼻からは透明な水が流れ出した。それを舌でなめとって、塩辛いなあと、彼女はつぶやいた。

 足は動く。足跡は続いている。どこに行けばいいかわからない。どうすれば守れるのかもわからない。だから、ただ東へ。いまはただ、光の差す方へ。

「――ノエル」

 禁じられた名前を呼ぶ。その先に、言葉は続かない。もう二度と、謝らないと決めたから。

 知っていたのだ。本当は。彼女が、修道院のことなど、何とも思っていなかったこと。ここを守ることになど、なんの意味もないこと。

 笑ってしまう。贖罪ですらない。なんて醜い自己満足。

 なんてくだらない――自己弁護。

「……それでも、わたし、あなたに、なにも返してあげられなかったから」

 一歩、一歩。

 雪に、足跡を刻む。どっちが前かもわからない。それでも、立ち止まることだけは許されないことを、彼女は知っていた。

「わたし、なにひとつ、あなたに、償えなかったから」

 彼女の、思い出という思い出を、それを証明するよすがを、すべて焼き払ってしまったのは自分だから。

 何も返せなかったし、なにも償えなかったけれども。

 せめて。

 ――まだ守れるものがあるなら、守りたかった。

 鼻をすする。足を引きずって、影を背負って、彼女は歩く。戦うべきものがある限り、彼女は歩く。

「わたしには、まだ、やるべきことがある」

 言葉にしてしまうと、それはすんなりと胸に落ちた。

 瞳に活力が戻る。この夜を越えるために、長い長い道を旅してきた。全身に血が巡る。歯を食いしばって、嗚咽をかみ殺す。だって、まだ何も終わっていない。

 この地を巡る戦いは、まだはじまったばかりだ。

「わたし、あきらめだけは悪いんですよね」

 初戦は敗けた。敵にではなく、自分に負けた。それは仕方のないことだと思う。だって、彼女自身の悪心は、おそらく地球上の何よりも強く、醜怪だ。

 でも、それだけのこと。

 生きているなら、リターンマッチを仕掛けないと。

 改めて、深く呼吸をする。思考が瞭らかになる。肉体の輪郭を思い出す。ついでに痛覚まで呼び戻してしまって、彼女は眉を寄せた。

 振り返れば、稜線をずいぶん歩いてきたようだ。修道院からはそれなりの距離を取り、どうやら街の方へ向かっている。そうだ、それでいい。

「遠野くん」

 知らず、言葉が漏れた。会いたいな、と思う。いつだってそうだ。二日、一日、いや、半時間だって離れていたら、この心は彼を呼ぶ。この身体が彼を求める。会いたいと魂が叫ぶ。

 だから、彼は街にいるのだろう。この心身(わたし)が、彼の在処を間違えるはずがないのだから。

「ちょっと、かっこ悪いところを見せちゃいましたからね」

 一刻も早く合流して、挽回しなければいけない。でないと、もしかしたら愛想を尽かされてしまうかもしれない。そうなったら、とんでもないことだ。とても困る。死んでしまう。

「はあ――あ」

 ひとつの尾根を越える。頭の中の地図が確かなら、ここが街の対岸。この峰を越えれば、目の前に翠緑に輝くラインの川面がたゆたって――。

 

「――え?」

 

 一面の、ちのいろ。

 薔薇のように、真っ赤に染まって、ライン川。

「なに――あれ?」

 ねばつく川から、続々と岸辺に上がる悪鬼が見える。それはウイルスのように、秒を追って数を増す。増殖し、増長する。生命は水によって生まれた。だからといって、あんなモノまで生み出さなくてもいいではないか。あれはもう、この世に在っていいイノチではない。八本足を動かして、体液をまき散らしながら進む(カイ)

 あまりにも、醜悪すぎる。

 麻痺していた手足に、熱い血潮が流れ込む。頭よりも先に、体が理解していた。それは怒りだ。全身を、稲妻のような怒りが包んでいる。その衝動が、動け、走れと脳に指令を叩きこむ。

 彼女は走った。ほとんど落ちるようにして、岸壁を駆け降りる。風が頬を切る。眼球が乾く。痛いほどに、空気は澄んでいる。

 川から立ち上がる異形は、変種ではあるが吸血種であることに変わりはないはずだ。ならば、なおさら信じがたい。流水から生まれる異端なんて聞いたことがない。そもそも吸血鬼は、流れる水を嫌うはずだ。

 ――ああ、でも、たしか一人。

 流水を克服したと言われる祖が、いたのではなかったのか。

 ウォーター・ボトル。水魔。そして、命をもてあそぶ改造魔。そう呼ばれた祖が、あの日、あの場にも、いたのではなかったのか。彼女のすべてが終わってしまった儀式の日。聖夜の鐘が鳴らなかった、見捨てられたあの夜に。

 

 ――第二十一位、スミレ。

      ソレは蜘蛛のカタチに似て。

    ヒトのココロを食らう死徒。

 

 視線を上げると、赤い空。川の色を反射して泣きたいくらいに紅い空。

 雲を押しのけて、その枢軸に浮かぶ影。

 八本足の、蜘蛛の影。

「遠野くん……!」

 走る。走る走る走る。

「遠野くん遠野くん遠野くん……!」

 頭の中には、それしかなかった。

 ――遠野くん!

「お願い、無事でいて――!」

 体は傷だらけ。速度は出ない。どれほど急いだとしても、ふもとは遠い。それでも駆ける。駆けるしかない。

 その果てに、二度と見ることはないと思ったモノを、見ることになったとしても。

 

***

 

 ばしゃりと水がかかる。

 不快だが、避けている余裕はない。頭痛がする。ずきずきと痛む。死にたいくらいに締め付けられる。頭蓋の中から金槌を連打されるような激痛は、眩暈と吐き気を連れてくる。

「――っ」

 知ったことか。痛みくらいで止まれるならとうの昔に止まっている。断線していく痛覚。皮肉なくらいに視界は明るく、線はいよいよ浮き立つほどで。

 それが、良いことか悪いことかを判断することさえ、忘れてしまった。

 ナイフを振るうたびに、あっけなく蜘蛛どもは死んでいく。がしゃがしゃと動き回る足が、ぴたりと静止して崩れ落ちる様は滑稽で痛快だ。そのまま灰になるかと思ったら、水になって流れていった。

 足元は水浸しだ。殺すほどに、水の嵩は増えていく。しかし、敵の数は湧くようで、斬っても斬ってもキリがない。

「シキ君、無茶しないで!」

 ルオシーが叫んでいる。それこそ無茶だ。この局面で、無茶をしなければ数秒後には引き裂かれる。

「やだ、来ないで! もうやだー、なんなのよコレー! 死ぬー!」

 轟音を立てながら振り回されるハルバード。押しつぶすことを主目的としてカスタマイズされた斧が、容赦なく蜘蛛どもの頭を打ち砕く。口では泣き言ばかりのウィラだが、立派に戦力になってくれている。中の下、は謙遜だったか。中の上くらいの実力はありそうだった。

 にしても。

「数が、多すぎる……!」

 これは本当に生命なのか。疑問が、頭の中で回転している。いや、こうして線が見えている以上、生物には違いない。しかし、ヒトではない。尋常の吸血鬼でもない。土は土に、灰は灰に、塵は塵に。それがルールだったはずだ。

 なのにこいつは水に還る。流れ流れてラインに注ぐ。まるで、そこでもう一度カタチを得て、再び襲い掛かってくるような錯覚をした。

「キリがない……!」

 こちらが優勢であろうとも、終わりがなければいずれ勢力差はひっくり返るだろう。三人の絶妙なバランスで維持されている均衡状態は、誰かひとりの疲労で簡単に崩れ去る。

 舌打ちが漏れる。敵はおそらく無限だが、決して無尽蔵ではない。百を一ずつ削っても百に戻るが、百をゼロにしてしまえば戻るもクソもない。

 すなわち、状況を覆すのは、一撃であたり一面の敵を薙ぎ払うような、大火力。

 それが、俺たちにはない。先輩か、それと同程度の魔力量でなければ――。

「ぎゃあああ、もうダメ、ほんとダメー! 死ぬ死ぬ犯されるぅー!」

「ああ、もう!」

 絶妙に気を抜いてくれる。どう考えてもこの異形が人間を犯すことはあるまいが、まともに取り合っても意味がなさすぎる。

 崩しやすいと見られたか、ウィラの周囲には明らかに敵が集中し始めていた。助けに入りたいが、距離がある。ルオシーも位置取りを工夫しようとしているが、蜘蛛にも知能があるのか、やすやすとは通らない。

 しかし、ここでウィラが落とされてしまえば、一気に天秤が傾く。ここは最前線にして、最後の防衛線だ。一枚たりとも渡せない。

 やむを得ない、という声がする。歯を噛んで、決意した。

「くそっ、これだけは使いたくなかったのに!」

 懐に手を入れる。じゅう、と皮膚が焼ける。肉の焦げる音がする。当然だ。いま、俺の手が触れたのは、真なる聖典。異端の身に落ちた肌で、触れていいものではない。

 だが、背に腹は代えられない。指先に走る電流のような痛みを無視して、俺はソレを掴み――。

「伏せろ、ウィラ!」

「え、あ、はいぃ!」

 頭上にハルバードを掲げて身を伏せる。上出来だ。あれでも代行者、神罰は、己の娘までを焼きはしないだろう。

 柄を掴んで、弾くように投げる。手から離れたソレは空中で輪郭を得て、剣となる。夜の闇を塗りこめたような黒い刃。教えに従わぬ不届き物を罰する、聖なる釘。

 そのきらめきを、聖堂教会の代行者は、黒鍵と呼ぶ。

「喰らえっ!」

 要求されるのは、ミリ単位の誤差も許されない肉体運営。筋肉の隅々にまで意識をいきわたらせ、指先の、爪の先まで神経の塊と化す。しくじるはずがない。誤るはずがない。だってなにしろ、俺はあの、地獄にも勝るスパルタを修了したのだから――!

 がんがんがん、と音が鳴る。次々に蜘蛛の背に着弾した黒い剣は、異常なほどの衝撃でその身体を吹き飛ばし、地に、空に、壁面に縫い付ける。この奇跡を成立させるのは、魔力ではない。純粋な、鍛え抜かれた肉体作用。

 だから、俺にもできる。聖なるモノに否定される側になり果てたとしても、肉体の神秘には精神のありようは関係がない。

「黒鍵――! すごいすごい、志貴ちゃん、鉄甲作用も使えるなんて!」

「優秀な師匠がいたからね! ――ウィラ、よそ見しないで前を。立て直すぞ!」

「オッケー、頑張っちゃうぞ!」

 この期に及んで緊張感がない。互いに距離を取っては不利と悟ってか、ルオシーが近寄ってくる。

「さすがに鉄甲作用はお手の物ね」

「よく言う。あんたは知ってるだろ。引き換えに、俺がどんな目に遭ったか」

 思い出したくもない。極限まで追い込まれてボロ雑巾のようになって地面に横たわる俺を無視して、黒鍵術の果てしないすばらしさを語るあの声など。

 寄ってくる蜘蛛を再び薙ぎ払いながら、軽口を叩く。

「ルオシーも、帰ったら教えてもらったらどうだ。黒鍵、得意じゃないんだろ?」

「遠慮するわ」

 聖字をまき散らして、ルオシーは眉を寄せる。心底、嫌な言葉を聞いたというように。

「あんな地獄のスパルタ、愛がないと耐えられないでしょ」

 違いない、と俺は笑った。

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