【完結】Les Amants d'un Jour / 2016年12月、フランスにて   作:山口 遼

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DAY 4:Le Rouge et le Noir / 赤と黒③

 比喩ではなく、戦いには終わりがなかった。

 一進一退の攻防の中で、こちらが優勢になる瞬間もなくはなかった。しかし、それもつかの間、さらに湧き出てる大群によって、状況は再び押し戻される。

 蓄積する疲労よりも、酷使しすぎている眼の方が問題だ。割れるような頭痛は、もはや耐えがたいほどになっている。ルオシーやウィラを見れば、そこに見たくもない死の可能性を読み取ってしまう。それが嫌で、ひたすらに敵だけを見つめ続けた。

 しかし、限界は近い。酸欠か、筋肉の悲鳴か。ウィラの顔は青白い。ルオシーの眉間のしわは深くなっていくばかりだ。

 ――どうする?

 このままでは死を待つばかりだ。それはない。それだけは受け入れられない。なら、まだなけなしの体力が残っているうちに、決断をしなければ。

 退けば街は堕ちる。退かねば、あと数十分で全滅する。蜘蛛どもはまず動きの重くなったウィラを食い尽くし、バランスを失った俺とルオシーに牙を向けるだろう。そうなれば終わりだ。あとには骨も残らない。

 逡巡は、一瞬。とにかく、知れ切った終幕だけは避けようと、撤退を呼びかけようとした時。

 

「――――あ」

 

 もはやすべてが、手遅れになったことを、悟った。

 ソレは、今まさに川から陸へと至った。水面を滑るように、水圧の抵抗などないものとして移動する。まだ距離はある。しかし目が離せない。だって、一瞬でもアレから目を離せば、死ぬ。わからないことだらけだけど、それだけは間違いない。

 大きさは、目算で3メートル。樹皮のような、革のような、硬くしなやかな外皮。だらしなく肥大化した腹部。その腹部から伸びた六本の脚。右肩の瘤には大型の恐竜もかくやという爪と牙。蜘蛛に酷似した下半身。人間に類似した上半身。八つの単眼はやはり蜘蛛を思わせる。

「ぐっ――う」

 それを視界に収めた感想はひとつだけ。

 単純に、気持ちが悪いという拒絶だった。

 あまりにも醜い。脳が認識を否定する。胃がひっくり返るような不快感。堪えようのない嫌悪感が、全身を走り抜けていく。息が漏れる。致命的だ。文字通り、アレと遭遇した時点で、命はない。アレは、そういうものだ。

 決して、自然発生していいモノではない。人為的に作られたもの、人工的に混ぜ合わされた命。冒涜にもほどがある。ひと目見て、なぜかわかった。

 ――あれは、合成獣(キメラ)だ。

 

***

 

 ルオシーは、一瞬で動きを止めてしまった遠野志貴の様子を見て、異変を悟った。よせばよかったものを、その視線を追って、彼女もまた、ソレの姿を目にする。

「――なによ、あれ」

 いくら知識を検索しても、類似したモノさえヒットしない。理外の獣、あるいは虫。それは、歴戦の代行者であるツァオ・ルオシーをして、戦慄で涙させるほどのおぞましさをまとっていた。

 殺意でも敵意でもない、不可思議な意識を眼球に叩きつけられ、精神をハックされる。脳をぐちゃぐちゃにかき回されるような、生理的な拒否反応。この精神汚染は、創造主ですら計算していなかった、偶発的に表れたソレの天稟であった。

 遠野志貴は、これを見た瞬間に、合成獣であると結論した。彼自身に採点のすべはないが、これは正しい。ソレは紛れもない、合成生物である。

 元になったモノは、北海にまだなお生き続ける巨大古代種、ムールクラーケ。これに幾人もの死徒化した人間の意識を掛け合わせ、練り上げる。何度も何度も魂をすり合わせ、放り込み、悲鳴も懇願も煮詰めに煮詰め、カタチをこねた。非道、外道、外法の類ですらない。それは徹底した神の侮辱である。欠片でも命の尊さを信じていれば、決して手を染めようとさえ思わないほどおぞましい悪魔試験(デーモン・コア)

 その末に、ソレは生まれた。存在すべてを愚弄し、命すべてを嘲弄するイノチとして。

「あ――あ」

 不屈の代行者ツァオ・ルオシーは嘆息する。自然、脱力する。それから、涙し、失禁した。膝から力が抜け落ちて、その場に頽れる。だって、死ぬしかない。彼女の理性と本能は、秒をはるかに下回る認識の世界で、まったく同じ結論をはじき出した。

 アレに出会ったら、死ぬしかない。

 異形から、弾丸が飛ぶ。彼女には視認さえできないが、闇の一条となって飛来したものは牙であった。右肩におびただしく群生した牙の一本が、意志持つ槍のように、代行者の左腕を粉微塵に吹き飛ばした。

 反動で体が吹っ飛ぶ。大地に叩きつけられる。自らが漏らした小便が跳ねて顔にかかるが、振り払う気力もない。だって、すでに意識はない。半開きの口からは涎と血が垂れ、瞳はうつろに虚空だけを見つめていた。目じりから尾を引いて、涙が落ちる。

 血が、池を作っている。血止めをしなければ、じきに死ぬ。わかっていても、本能は運動を拒否している。

 異形は意識を持たない。もはや一撃した代行者の生死などに興味はない。

 それは動く。おぞましい多腕を伸縮させ、無造作に距離を詰める。警戒心など必要ない。上級死徒に匹敵する性能を持つ異形にすれば、目の前には脅威と認定するべき何物も存在しない。

 狙いはひとり。

 (いと)しいほど脆弱な、蒼い瞳の死神である。

 

***

 

 がちん、と。

 撃鉄の落ちる音。

 すでに身体は反応していた。射出されたミサイルのような牙が、俺の髪をかすめて行き過ぎる。背後で、塀が吹き飛ぶ音がした。

 ナイフは口にくわえている。遮蔽物の多いフィールドで助かった。四肢を使って、狙いを絞らせないように立体的に動きながら、四方から敵のフォルムを観察する。

 ひときわ目を引くのは、不釣り合いなほどに肥大した左腕だ。あれは、近づいてきたものすべてを容赦なく薙ぎ払うだろう。その衝撃は10トンか、20トンか。いずれにしても、人体などたやすく引きちぎる。

「……せめて、それが救いだな」

 それが設計ミスであることは、奴の動きを見れば明らかだ。あの巨体は、むしろ反動に耐えられるように作られている。適切な距離と取りつつ、牙を弾丸とし、伸縮自在な右腕で敵を仕留める。そもそも、接近戦を計算した戦闘機能は余分なはずだ。

「――っ!」

 動きを予測されたか、右腕がこちらに迫る。ナイフを右腕に持ち変える。目を見開いて、間一髪、線を切り裂く。切断、切断、切断。まき散らされる体液。腐臭を上げて、たしかに消滅する肉。

 しかし、動きは止まらない。

 痛覚はないのか。異形はこれだけの傷を負って、一声をも上げない。それどころか。

「――くそ、やっぱりか」

 たしかに殺したはずの腕が再生する。いや、俺の目で殺したモノが再生するはずはない。であれば、あれは新生だ。いくつの命をあの身体にため込んでいるのか。どれほどの命を殺せば、やつは倒れるのか。

 途方もない道のりを想像しかけたことが、致命的な隙になった。再び掃射される牙の雨。ナイフ一本では到底防ぎきれない。

「――ちっ」

 回避の姿勢を取りつつ、可能な限りの攻撃を迎撃し、撃墜する。それでも、風圧で皮膚が切り裂かれる。それはいい。出血程度なら良しとする。直撃を食らえば、衝撃で体勢を崩される。そうなれば、牙のあられでこんな肉体など飴細工のようにかみ砕かれるだろう。

「は――あ」

 きんきんきん、と音が鳴る。甲高い、精神を削り取る嫌な音。視界が赤く濁る。意識が混濁していく。限界を超えて腕が動いている。筋肉の悲鳴が聞こえる。筋が断裂する。肺が叫び、心臓がむせぶ。これ以上は無理だと全身が悲鳴を上げている。やめろ、今すぐ止まれ、限界を超えている。このままでは、敵の直撃を待つまでもなく、こんな身体は砕け散るぞ――!

「うる――せえ……!」

 アラートを上げ続ける理性を一喝して、さらにナイフを振るう。牙、牙、腕、腕、牙、腕、牙! 飛んでくる攻撃を区別する余裕もない。ただ線をなぞり続ける。攻撃がこの身に届くまでに、人体の限界を超えた運動で、一発残らず撃ち落とす。

 飛び散る血。大丈夫だ。奴の攻撃はかすってもいない。目は慣れている。だから、これはただの反動。可動域を越えた関節が悲鳴を上げ、熱を持って膨張した筋肉が皮膚を破っただけのこと。骨のきしむ音がする。ああ、痛い。頭痛がひどい。ひどく痛む。それでも、斬るべき命がそこにある。

 もっとだ、もっと速く。もっと(つよ)く。もっと的確に。もっと無駄なく。もっと確実に、奴の死を視ろ。斬り続けろ。しのぎ続けろ。この連撃にも終わりは来る。それまで耐えきれば、反撃の機会は――。

「あ……」

 ダメだ、と脳が言った。

 来ない。そんなチャンスは、永劫に来ない。踏み込んだ右足が、壊れた。膝か、腿か、足首か。痛覚はとっくに麻痺している。イカレた部位がどこであるかも特定できないまま、俺は地面に倒れ伏す。

 立て、と本能が言う。無理だ、と身体は答える。筋肉の炎症は無惨なほどだ。どこもかしこも酸素が足りてない。心臓はすっかりオーバーヒート。血を送ることもできず、手足は夜のように青い。

 それでも立て、と歯を食いしばる。だって、立たないと死ぬ。今すぐに立って体勢を立て直しナイフを振るえ。でなければ、あの異形は今度こそ俺の命を狩りにくる――!

「あ……」

 ――だから、ほら。

 言った通りになった。

 影が落ちる。あんな気持ちの悪いモノにも、意思らしきものはあったのか。それとも、罠を警戒する本能か。近寄ってきて、俺を見下ろしている。倒れ伏した俺の顔を覗くように、八つの単眼が光った。

 なんて、おぞましい。

 こみ上げたのは吐き気だけだ。あらゆる光を反射しない孔のような瞳は、こちらに反撃の余力が残っていないことを確信して、腕を振り上げる。

 それでおしまい。

 大地は割れ、この身は砕け、遠野志貴はつぶされる――。

 

「邪魔よ」

 

 しかし、覚悟していた一撃はなく。

 胡乱な頭には、それ以上の衝撃が与えられた。

「は?」

 ぼん、と音がした。見れば、異形の頭部が吹き飛んでいる。突然現れた何者かが拳を振るったのだ。どれほどのエネルギーが込められていたのか、肉片一つ残らず、喰われるように消滅している。

 しかし、異形は人間ではない。尋常の生物でもない。首から上を失えば動きは停止するという摂理に抗って、それは後退の構えを取った。正体不明の闖入者の戦闘力を測りかねている。瞬時に頭部を再生させ、新たなる敵に備えるつもりだろう。

 そんなことを。

 この暴虐の化身が、許すはずがなかった。

 ぼんぼんぼんぼん、と部位が吹き飛んでいく。残った部位が動揺する。再生は異常な速さでなされる。しかし、それですら間に合わない。苦悶の声も、断末魔もない。この世ならざる鉤爪によって、確実に消失していく異形の質量。

 そして、数分も経たず。

 俺を確実な死地にまで追いやった怪物は、この世から塵ひとつ残らず消え去った。

「あ――あ、あ」

 しかし、この脳を揺さぶるのは、知れ切った暴力の結末ではない。かろうじて命をつないだ安堵でもない。

 目の前にたたずむ白い影。

 あり得るはずのない、白昼の邂逅。

 まぼろしでしかありえないはずのそれは、相変わらず太陽の光をいっぱいに浴びて、輝くほどに美しい顔で、笑った。

「いえーい、圧勝!」

 

「アル、クェイド――?」

 

 そんなはずはない。こんな再会はあり得ない。でも彼女はここにいる。くそ、頭が働かない。これは夢か現実か妄想か。それとも俺はとっくの昔にくたばっていて、これは死に向かう意識が見せる幻影なのか?

 だってあり得ない。

 この女がこの場にいることはあり得ない。

 けれど、それ以上に。

 ――この俺が、この女を見間違えることだけはあり得ない。

 金の髪に光をまぶし、煽情的なほどに赤い目を細めて、彼女は笑う。

「ちょっと待っててね、志貴。残りも、一気にやっちゃうから」

「待っ、アルクェイド――!」

 制止の声も聞かずに、白い化身は駆けだした。音速を越えたスピードでまっしぐらに敵陣へ突入する。目で追えたのはそこまでだ。あとはただ、花火が上がるのを見るばかりになった。

 圧倒的という言葉さえ生ぬるい。先ほど、三人がかりであれほど苦戦した蜘蛛の群れを、箒で掃くように片付けていく。鼻歌まで聞こえてきそうな気配だ。舞い上がる血煙、散乱する肉片。その嵐の中心で、踊るように鮮やかな白い白い吸血姫――。

 ああ、間違いない。

 このデタラメさは、本物のアルクェイド以外にあり得ない。

 理性よりも先に本能が納得した。あるいは、ただそう信じたかっただけなのか。緊張がほどけていくと、激痛がそれに代わった。もはや眩暈も頭痛も耐えがたいほどだ。指一本動かせない。目を閉じて、深く呼吸する。

 戦う必要はなくなった。いまは回復に専念するべきだ。だって、彼女の前に、あらゆる敵対者は生存の道を見出し得ない。

 五分はかからなかっただろう。地上に揚がっていた蜘蛛たちを残らず掃討した後、アルクェイドはとどめとばかりに川へ向かった。

「せーのっ!」

 ふわりと跳び、大きく腕を振りかぶる。ボールでも投げるように、ひと薙ぎされる凶器。水面が割れるような破裂音とともに砕け散り、しぶきが猛烈な水柱となって立ち上がる。風を巻いて降りしきる川の雨。そこ混じった異物は、水中になおも潜んでいた異形たちだった肉塊ばかり。

 相変わらず、無茶苦茶だ。

 俺たちがあれだけ苦戦したものすべてを、この数分で根こそぎにしてしまった。

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