中でもマイクロマシン技術は特に高度発展し、脳の神経ネットに素子を直接接続する電脳化技術や、義手・義足にロボット技術を付加した発展系であるサイボーグ技術が発展、普及。
その結果、多くの人間が電脳によってインターネットに直接アクセスできる時代が到来した。
これは、企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても国家や民族が消えてなくなる程情報化されていない近未来の話。
Connecting…
Welcome back, Motoko Kusanagi.
The briefing will begin in ten seconds.
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...3
...2
...1
……全員集まってるわね。
では、ブリーフィングを開始する。
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貴方達は「ふとある匂いを感じた瞬間、あたかも今起こっていることであるかのように過去の情景が鮮明に蘇ってきた」、みたいな経験はあるかしら?
あるフランス人作家の本の中で、主人公がマドレーヌの香りに触れ、幼少期を思い出した、という描写から「プルースト効果」なんて呼ばれてたりするのだけれど。
原理としては脳内での嗅覚の処理経路が関係していて、大脳辺縁系とか堅苦しい言葉が並ぶ……が、まあとり敢えず「あー分かる分かるアレね」くらいでお願いするわ。
今回はそういう「記憶」「匂い」の話。
数ヶ月前のインターセプター事件、覚えてる?
警視庁の視聴覚素子不正使用疑惑に関する記者会見から始まったアレよ。
あれ以降また「笑い男」の模倣犯が出るようになったのだけれど……これを確認して。
この一週間で73人もの行方不明者が東京近辺だけで発生している。
『2030年現在、日本の年間行方不明者数は毎年780人程度だ。電脳化時代によってその内の98%は1日以内に見つかってる。
『一週間の全国平均数は15人程度……と考えればやはり特定の地域でそれほどの量が突然発生するのは異常だと思うぜ?俺は。』
今回はトグサの言う通りよ、バトー。
密度や数の多さ的にも異常性が確認されているのは勿論、この電脳化社会において"一週間"経っても最初の行方不明者が見つかっていない事も含めてね。
それに行方不明者の特徴にも奇妙な類似点が発見された。
全員電脳化済…まあこれは今となっては
そして、この条件に該当しない
そして行方不明者は決まってこんな言葉を言っていたみたいね。
「懐かしい匂いがする。行かなければ。」と。
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『「匂い」…「行かなければ」…か。電脳化した人間はマイクロマシンのお陰で処理経路の混線も無く記憶分野と感覚分野は分けられて演算されるようになっているはず。』
『それに嗅覚素子が匂いを分子レベルで解析出来るのは今ではデフォルトみたいなものだしな。懐かしいなんていう感想が出る事自体が怪しいワケだ。』
『そして「行かなければ」という言葉……少佐、コイツは
…そうね。イシカワと私は同意見で一致している。
公安9課は当該事案をハッカーによるクラッキング犯罪と推定、捜査を開始する。
バトーとトグサ、サイトーとパズにアズマはリストアップされている行方不明者の住所に向かって。
イシカワとボーマはダイブルームで現地調査から上がってきた匂い分子の解析、他にも同じ条件で消えている行方不明者が居ないかどうかも確認してちょうだい。
『『『『『『『了解』』』』』』』
……では、ブリーフィングを終了する。
各員、貴方達の
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They will be temporarily stored in the electronic brain.
......Completed.
Have a good day, ma'am.
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視点:トグサ
長いトンネルを抜ける。
暗がりから明るい所へ抜けた事による瞳の明順応から視界がごく一時的に不能───になる事は無い。
瞳孔調整センサが機能し、リアルタイムで採光量を調節する為だ。
「旦那、今回の件…どう見ます?」
「どうって……俺達は少佐に言われた事をやるだけだろ。」
「そうじゃなくて!…『懐かしい』って所っすよ。「錦の御旗組」……彼等は皆若い頃に故郷を飛び出し、錦の御旗を飾るまでは帰らない……いや、
「ん〜〜〜……幼い頃の記憶とか、そういうやつじゃねえか?それなら俺もノスタルジアに駆られちゃうかもなぁ」
「……幼少期の記憶を想起させる匂い……ってコトか…」
首都高を降り、俺とバトーは最初に行方不明が確認された三好裕介の住居へと向かっていった。
黄色の規制線が貼られている扉を開き、三好の住居に侵入する。
紅に金を混ぜた強烈な色彩の光が三好の部屋を鮮やかに染めている。
7日間放置されていた本の上には埃が薄い膜のように積もっていて、軽く撫でてみると白い埃が指にくっついて来る。
橙色に染まった部屋は埃で空気が澱み、先行しているバトーの靴跡が薄く、だがハッキリと床に残っている。
自分達以外の人がこの一週間で侵入した形跡は無さそうだ。
「…………匂うな。」
「え?シャワーは浴びたハズなんだが」
「違うっつの!!……今日のおやっさん、小ボケが激しいぞ」
「わーってるって 冗談が通じない奴だなァ…が、匂うのは確かだ。これは……キンモクセイ…と、畳……あと微かにアルコールの匂いがあるな。三好祐介はコレにやられたのか?
分子を採取してイシカワ達に送り付けるぞ。」
「あいよっ……と、コレは…煙草か?」
橙と白のパッケージに太極図と煙龍という字が印字された煙草の箱と使用済のサイボーグ用電子タバコが放置されたままの灰皿の上に置かれていた。
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視点:イシカワ
「……お。来たきた。トグサ達から匂い分子の構造式が送られてきたぞ。コイツを分析してくれ。」
「了解しました。」
ゴーグルを上げてインターネットとの接続を中断し、送られてきた分子の分析を茶髪をポニーテールにまとめているガイノイド型オペレーターに開始させる。
(サイトー達から送られてきた分子も一緒だった……となると被害者が嗅いだ匂いってのはほぼコレで確定だな。)
(人間の嗅覚イメージ能力と嗅覚の同定能力には一定の相関関係が認められている……それに匂いへの主観的な気づきや嗅覚イメージ能力と主観的幸福感には一定の相関関係が認められることも明らかになっている。コレがそういった幸福感のような曖昧なモノを使用したゴーストハック犯罪なら……)
バチン!と分析を任せたオペレーターのうなじの部分から火花が散り、イシカワの意識を強制的に表層へ引っ張りあげる。
「少佐!」
『どうした?』
「ちょっと来てくれ!匂い分子を解析していたオペレーターのQ.R.S.端末がやられた!分子の構成情報か分子そのものに何かしらの攻性情報が埋め込まれている可能性が高い!」
『今向かう!トグサとサイトー達にも同じ報告をしておけ!』
「了解!」
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『タチコマを使用した
この防壁迷路は
また、端子を焼き切られたオペレーターのログをサルベージしたが、ノイズが激し過ぎて断片的な情報しか拾い上げられなかった。その情報はこんな感じだ。』
イシカワの指が持っていたタブレットの上を踊り、ロビーに集まった9課の面々の視野にノイズ混じりの映像を投影させた。
青空に白い入道雲、青々とした山を初めとした夏の景色に田舎や神社、夕暮れの色に染まっていく田んぼと畑道、ひぐらしの鳴き声が響き渡る森の中……
そういった誰が見ても「懐かしい」という感情を想起させるような映像が流れていく。
『あー……コイツは確かにノスタルジアを刺激されそうな映像だな。なんつーか…
『ゴーストに囁きかける防壁迷路…ってワケか。』
『オペレーターはゴーストを持たないロボットな為、この防壁迷路によって感情を想起させられる事はなかったが、データの取捨選択を行う前に過剰量を送り込まれオーバーフローした、というのが俺と鑑識の結論だ。』
『報告ご苦労。
私はこの防壁迷路を突破してみる。恐らくその先に今回の事件の犯人に繋がる手がかりがあるはず。』
『お、少佐のゴーストがそう囁いてんのかい?』
『まあ……そんなとこね。イシカワ!ボーマ!いざって時のバックアップはお願いするわ。』
『任せておけ。ダイブルームに必要設備を準備させておく。』
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『行くわよタチコマ!ちゃんと付いてきなさい!』
『『『はーーーーーいっ!』』』
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電脳空間に自らの意識を
件の防壁迷路は電脳空間の中でも僻地の僻地のような場所に設置されていた。
『イシカワ!私の位置情報は確認出来ているか?』
『ばっちり良好だ。やられたオペレーターのログから推測するに防壁迷路の第3段階を超えた位から情報ノイズが激しくなっている。そこから先は未知だと思って進んでくれ。』
『了解した。そこまでの道案内は任せたわよ。』
『ああ、大丈夫だとは分かっちゃいるが……気をつけてくれよ。』
防壁迷路の扉を開きながらイシカワに答える。
『大丈夫よ。私、ノスタルジアに浸るほど現実に期待も絶望もしていないから。』
第一段階と第二段階はイシカワ達の道案内とタチコマの活躍のお陰もあり、第一段階を2分、第2段階を3分で突破した。
風景は偵察で確認された景色であったが、解像度の荒いホログラムで投影されたようなリアリティに欠けるモノでしかなかった。
第三段階への扉の前で立ち止まり、イシカワ達に定期報告を行う。
『……今のところ、
『となると…俺たち……も
『イシカワ?ノイズが走ってるぞ。』
『ザザ……っと、すまねえな少佐。その扉付近からもう情報ノイズが激しくなっているみたいだ。ここからは連絡が取りにくくなるかもしれん。気をつけてくれ。』
『了解、先に進むわ。定期報告終わり。』
通信を終了し、第三段階の扉を開く。
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「………………ッ!」
瞳孔調整センサが機能し、リアルタイムで採光量を調節───────しない。
暗がりから明るい所へ抜けた事による瞳が明順応によって視界がごく一時的に不能になる。
嗅覚素子では無く、鼻腔の奥に存在する嗅覚受容体、嗅細胞がむせ返るような土の匂いや穏やかでありながら爽やかな新緑の葉の香り、何処かから漂てくる線香の香りにプールの塩素剤の情報を脳に送り込む。
無限に思える程の情報を視覚・聴覚・嗅覚を始めとする五感全てが受信する。
「…………義体では無い…生身の感覚。何年振りかしら…。
ウィザード級ハッカーが噛ませる架空現実並の解像度。
……うちのアンドロイドがぶっ飛んだのもこれが原因ね。イシカワ達の推論は当たってたみたい。」
身体の状態を確認する。
身体年齢は……義体に則したものに合致している。
風景は第一段階と変わらないのに、得られる情報が桁違いだ。
変な感覚に襲われる。
五感は全てにおいて「この空間が現実である」と認識しているのに、何処か
まるでこれは────────
「…………夢?」
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明晰夢のような風景を歩く。
今まで電脳が自動的に処理していたノイズになる情報も全てが脳に流入している。
ある種の
情報酔い……というものだろうか?
少しふらつきながら、ひぐらしが鳴く森の中を進んでいく。
靴底を通り越して伝わる土、その下にある木の根っこの感覚。森の中を吹き抜ける風。
義体化する前の記憶。
消えていった彼等もこのどこかで幼い頃の記憶に浸って居るのだろう。
何と素晴らしい それはきっと素晴らしいのだろう きっとそれは歓喜に違いない
けれど───────
「懐かしい居心地の良い夢も、全部現実と戦う中で見るからこそ意味があるものなのよ!
現実から目を逸らして夢に浸り続けるのなら、それは死んでいるのと相違ないのだから……!」
情報酔いの感覚に抗いながら、歩き続けて悲鳴を上げている足を無理やり動かし、26歳の女性並でしかない腕力で必死にその取っ手を引っ張り───────
私は第四段階への扉を開いた。
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そこには手紙が1枚だけ置かれていた。
ノイズが一際大きな音を立て、通信が回復する。
『……少佐!!少佐!大丈夫なのか!?!少佐!!!』
『『『少佐〜〜!!!』』』
『大丈夫よ……タチコマ達にも心配かけたわね。第三段階を突破。この手紙型ファイルが防壁迷路が隠していた本丸のようね。帰還するわ。』
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少佐が手紙型ファイルを回収した直後、防壁迷路が自己矛盾のパラドックスを起こし崩壊。
忽然と消えていた行方不明者達もどこからともなく現れ、事態は急速に終息していった。
だが、論理的説明が難しい事象が複数確認されているのも事実である。
第一に、まだ9月にも関わらず消えていた行方不明者達全ての服装に雪が付着していた事。
また、これも行方不明者全てが濃いアルコールの匂いを纏わせていたこと。
そしてこの手紙型ファイルだけが公安9課がこの不思議な事件に関わっていた事を示す証拠になっている。
この事案以降、公安9課はこのファイルに書かれている組織名である「酩酊街」を要注意団体に指定。防壁迷路の形成過程を解析し、次に酩酊街が行動を起こした際に迅速な対応が可能となるように対策を講じることを決定した。
そして"酩酊街事件"と呼ばれたこの事件は一応の幕引きを見せることとなった。
〜公安9課現場指揮官、草薙素子が発見した手紙型ファイルの写し〜
「お元気ですか? わたしは元気です。
こっちは夜と雪しかないので、そちらがうらやましいです。
わたしはもう行かなくてはいけません。
けれど、あなたは連れていけないのです。
寂しいけれど それが一番よいことなのです。
どうしても、本当にどうしてもあなたを取り巻く辛い現実から逃げたくなったら、この煙草を使ってください。
酩酊街より 愛を込めて」