タキオンの所で腕の治療を済ませたあと、私は自分の仕事部屋である通称トレーナールームへと歩いていた。
地方ではどういったシステムなのかは知らないのだが、ここ中央……特にトレセン学園ではトレーナーとして所属すると、チームごとに小さな部室のようなものと、個人用の部屋が用意される。もちろん部室に関してはウマ娘をスカウトして、さらに最低4人のメンバーを集められたらの話であるが。
トレーナールームは普段授業をしている生徒たちの教室より少し狭いぐらいの広さだろうか。机や椅子といった基本なものは揃えられているが、次第にその主によって私達の空間は染められていく。
現に私の部屋は半分以上があの子たち共有の物で溢れかえっているのだ。湯沸かし器やお茶菓子、クッションにゲーム機まで。最後に至ってはバレたら理事長に呼び出されるのは間違いない。
逆に私の私物と言えば、仕事用のパソコンと書類やトロフィーが飾ってある棚ぐらいであろうか。最初は何もなかったのに、今では両手で数える以上のトロフィーが飾られている。それだけあの子達が強く、そして誰よりも速いという証でもあり、彼女達のトレーナーとしてこれ以上ない喜びではある。
さて。そんなことを思っているうちに私の部屋の前まで来ていた。
しかし、私はすぐに入ることはしなかった。
「……はあ。今日は誰なんだ」
思わずため息をついてしまった。
もうこれで何度目いや、何百回目だろうか。気づけば私は、部屋に誰かがいることに気づてしまうぐらい気配に敏感になってしまったようなのだ。
さらにどういう訳か、帰宅する際にはちゃんと鍵をしめて戸締りをしているのに、何故か朝来るたびに鍵が開けられているのだ。
スペアキーか、それとも……。
ごくりと思わずつばを飲み込んでしまうぐらいには怖いことを想像してしまった。
だが、部屋に入らなければ私は仕事ができないし、あの子達の授業が終わるまでは基本的に暇なのだ。
だからといってこのままサボる訳にはいない。覚悟を決めて部屋に入ることにする。そして部屋に入れば、すぐにいたウマ娘の声が聞こえた。
「──あら、トレーナーさん。遅い出勤ですのね」
「今日”は”マックイーンか」
「あら。私に何か不満でもありますの?」
「いや、ないよ。おはよう、マックイーン」
「おはようございますわ。トレーナーさん」
一瞬暗い表情が見えたような気もしなくはないが、すぐにいつものように見惚れるような笑みを浮かべて挨拶を返してくれた。
彼女は名門メジロ家のお嬢様と聞こえはいいが、目の前にいるマックイーンを見ればそれを疑いたくなる光景であろう。
誰が持ってきたかは定かではない巨大なニンジンハンバーグの形をしたクッションに肘を付きながらよこになっている。その姿はさながら寝仏のようだ。
はしたない。そう口にしたくとも妙にその姿が妙に似合っていて、これを止めさせるのに一瞬躊躇してしまう。
なにより学園指定の制服とソックスの間から見える彼女の素肌に目が行ってしまう。彼女もそれを理解しているのか、ワザとらしく足を動かして、肌の面積を広く見せつけてくる。
私は鋼の精神を持ってその誘惑に耐えて、椅子に座って仕事を始めようとした。マックイーンはそんな私にこれと言った反応せずに普通に声をかけてきた。
「今日はいつもより遅かったですわね」
「ちょっと寄り道をしていてね。それよりHRはいいのかい」
「あら、トレーナーさんったら。もうHRは終わってますわ」
そんなバカなと思いながら壁に掛けてある時計を見れば、確かにHRの時間はとっくに過ぎていた。今は一限目といったところだろうか。
なのにマックイーンは何故ここのいるのだろうか。
「授業に出なくていいのか」
「別に問題ありませんわ。ただ今じゃ授業に出る気分ではありませんでしたので」
一体どういう気分なら授業に出てくれるのだろうか。私が学生時代など、どんな気分だろうと学校に行くのが当たり前みたいな認識だったというのに。
「ちゃんと欠席することを伝えてあるんだろうね? 何かあると私の所に先生からクレームが来るんだ」
「そこは抜かりはありませんわ。トレーナーさんに迷惑をかけるようなことはしませんもの」
「あ、そう……ならいいんだけど」
ここはもうガツンと言ってやるべき所なのだけれど、私は弱い人間なのでそこまで強く言えないのだ。そもそも抜かりはないと言っている時点で、もう何も言う気はない。
まあそれはマックイーンだけに限らないのだけど。
私はノートパソコンを起動して仕事を始める。ウマ娘に指導をしていない時間に済ませなければいけない仕事が多くあり、チームメンバーが多ければ多い程作業は増える。
特に面倒なのがレースに関係のある作業だ。誰が、いつ、どこのレース場へ出走させるか。それが決まればURAに提出する申請書類を用意し、レース場が近くならレンタカーなり電車で事足りるが、遠くへとなると新幹線や飛行機のチケットの予約などもトレーナーの仕事なのである。
他にはトレーニングメニューを一人一人考案したり、まあ色々とあるのだ。
「……」
少しだけモニターから目を離し、クッションの上で寛ぐマックイーンに目を向けた。彼女はジッと私を見ている。別にこれは驚きはしないのだが、何故か彼女を初め他の娘達も私が仕事をしている姿をただ黙って見ているのだ。
黙々と仕事をしている男の姿など何がいいのか。
逆にこれを私が見る側として考えれば、仕事をしている女性に対して同じような目で眺めているかもしれない。そう思えば彼女達の考えも理解はできるように思えた。だが、飽きずにずっと見ていることなど、私にはできないことは明白である。
「ねえトレーナーさん」
「どうした」
私の視線に気づいたのか、はたまた別の理由なのかは分からないが、マックイーンは身体を起こしながら声をかけてきた。
「こちらに来ていただけませんか」
「……わかったよ」
作業をやめてマックイーンの所にいく。反論をしないのは、するだけ無駄だと理解しているからであり、したところで私には彼女達の頼みを断れないからである。
いざマックイーンの前まで行けば、彼女は私を見上げ、私は彼女を見下ろす形で向き合っている。一体これから何をされるのか。そう思った瞬間、マックイーンが私にシャツを掴み、無理やり自分の方に引き寄せた。
突然のことだったが何とか身体を踏ん張れたこともあり、奇跡的にマックイーンを押し倒す形にならずには済んだ。
だが、目と鼻の先には彼女の顔がある。マックイーンの瞳に私が映る。そして彼女はそっと私の顔に近づくと、スンスンと匂いを嗅いでいた。
「ま、マックイーン? 一体何を……」
「少し、そう……何か薬品のような匂いがありますけど、酷いぐらいあの子の臭いが付いていますわね」
あの子とは誰の事だろうと聞く暇など私になかった。マックイーンが私の匂いを嗅いだように、私も鼻で息を吸う度に彼女の匂いを嗅いでしまっていたからだ。
ウマ娘達は基本寮生活でお風呂も共同だと聞いている。だから各々自分に合ったボディソープやシャンプーにトリートメントなどを使用しているわけで。つまり何が言いたいかと言えば、彼女達も女の子なのでそこら辺は全くと言っていい程手を抜いていないから、すごくいい匂いがするのである。
特にマックイーンはお嬢様だから、きっと高い物を使っているに違いない。
そんな私の心情など知らずに、マックイーンは服や首筋辺りを丁寧に嗅いでいく。
「本当にあの子……テイオーにも困ったものですわね。トレーナーさんも嫌ならハッキリと断った方がいいですわよ。今日”も”あの子と一緒に歩いていましたし」
「べ、別に嫌ではないよ。それに向かう所は同じなんだし」
「そうやって甘やかすから、あの子も調子に乗るんです」
それはテイオーに限らず、みんなもそうだよ。
と、流石に口に出す勇気を私は持ち合わせていなかった。私が何を言うべきか言いあぐねていると、マックイーンは私の身体に腕を回すとその身を預けてきた。
「あ、あの、マックイーン……?」
「ただのハグですので、気にする必要はありませんわ」
気にするなと言われても、気にしない方が無理な話だ。
だが……。
これがあのスカーレットだったら、いかに私の強靭な精神も内に秘めた欲望にいとも簡単に負けていたことだろう。
そう思った瞬間、ぎゅっと締め付けられるような痛みが走った。
「イッ!?」
「いま、他の子のことを思いましたわね」
「お、思ってません」
「そうですか。なら、このままでも問題ありませんわね」
「そ、そうっすね……」
そうは言ってもマックイーンは優しいのか、最初の数分だけは力一杯抱きしめるだけで、それからは最初のように優しく抱きしめてくれていた。
正直に言って抱きしめられることには、まあ慣れてしまっている。いや、慣れるという言い方は怒りを買うかもしれないが、問題は時折こう押し付けてくるというか、犬や猫が匂いをこすり付けくることだろうか。
「あ、あの、マックイーンさん? 一体何をしていらっしゃるので?」
「ただの上書きです」
「う、上書きって。そんなゲームみたいに簡単に……」
その時、床が揺れたような気がした。感覚でいうと震度2か3はいかないぐらいだろうか。揺れた時間もほんの数秒だけ。地震速報も鳴らないのでそこまで大事ではないらしい。
……ただし、ここトレセン学園ではよくあることだから、きっと誰も気にしないだろう。
「いまさ、揺れたよね」
「揺れましたわね。ほんと、勘がいいんですから」
「アハハ」
笑うしかないあたり誰のことを指しているのか察して欲しい。
するとマックイーンは私ごとそのまま後ろにあるクッションの上に倒れた。抱きしめられているとはいえ、傍から見れば私が彼女を押し倒しているように見えてしまうことだろう。
「なんで倒れたの?」
「ちょっと疲れましたので」
「じゃあ離せばいいよね」
「あら。トレーナーさんは私に抱きしめられるのが嫌と、そう仰るのですか」
「嫌ではないよ……うん」
「なら構いませんわね」
「一応ダメだろうけど聞くね。いつまでこうするつもりなんだい?」
「そうですわね。一限目が終わるまで……でしょうか」
「……それまでずっとこの体制?」
「はい」
きっと辛くなってその内に解放されるだろう……そう思っていた時期がありました。
マックイーンはきっちりと一限目が終わるチャイムが鳴るまで私を抱きしめていたのだ。何度か体制を変えて私が下になることがあったが。
「ではトレーナーさん。またトレーニングで」
「あ、うん」
そしてマックイーンは何もなかったような顔をして私の部屋を出て行った。残された私は中断していた作業に戻りながら、ふとシャツの匂いを嗅いだ。
「……いい匂いだ」
私は服はどうやらマックイーンに上書きされてしまったらしい。そんな彼女の匂いに浸りながら、この先に起こるであろう出来事を簡単に予見してしまうのであった。