フォークボールが投げられない   作:恥谷きゆう

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決め球はフォークボール

 本気で甲子園を目指していた。相棒と二人でバッテリーを組めば、地区優勝も夢じゃないと本気で思っていた。

 

 実際、俺は優れたピッチャーだったと思う。140キロを超えるストレートに、決め球の落差の大きいフォークボール。

 俺の球をまともにミートできる選手はほとんどいなくて、地元では敵なしだった。中学では何度もトロフィーを搔っ攫い、エース投手として賞賛を浴びた。高校でも二年生で既にエースの座を奪い取り、これから活躍する、はずだった。

 

 相棒である(とおる)もまた、優れた選手だ。強肩強打の名捕手として俺と共に中学時代から活躍していた。

さらに、家が隣だった俺たちは、幼い頃からずっとキャッチボールをしていた仲だ。そのため彼は俺の球をよく理解していて、決して後逸はしなかった。

 理解しているのは俺の放るボールだけではなかった。俺の心理状態をよく理解して、苦しい思いをしている時は、いつも最高のタイミングでマウンドまで駆け寄ってきてくれた。

 

 

 ――しかし、俺たちの夢はあっけなく散った。後天性の性転換病。原因不明の難病が、突然俺を襲った。

 女の体になるということは、劇的な変化だった。縮む体と小さくなった手のひら。必死に鍛えた上半身も、頑張って走りこんだ下半身もすっかり筋肉を失っていて、もう野球部でやっていくことは不可能だった。

 

 まさしく、絶望した。俺にとって野球は、ピッチャーは俺のすべてだった。勉強の時間を捧げ、交友の時間を捧げ、女性と付き合うことすらしなかった。それを失って、いっそ死んでしまおうかと、本気で思った。

 そんなときに、あいつが声をかけてくれた。それは例えるなら、サヨナラのピンチのマウンドに颯爽と駆け付けてくれたような、俺の欲しいものを、言葉を、欲しい時にくれる、あいつにしか言えない言葉だった。

 お前はいつも、俺に必要な言葉を必要な時にかけてくれる。でも俺は、もうお前の信頼に応えることはできない。ストレートはお前のミットに一直線に届くことはもうないし、得意だったフォークボールは投げることすら叶わない。

 だから俺は、私は、今度はお前が欲しいと言っていた、理想のマネージャー像を捧げることにした。

 

 

 ユニフォームではなくジャージで、スパイクではなく運動靴を履いて、ホームベースの近くまで駆け寄る。

 

「はい、先輩!タオルですっ!」

「ああ、さんきゅ……でもわざわざひかるがグラウンドまで駆けてこなくても……」

「はい、スポーツドリンクですっ!少し薄めて、糖分は少な目になってますよ」

 

 渡した水筒の中身は、スポーツドリンクのパウダーを少し過剰に薄めたものだ。彼の飲んでいるものくらい良く知っている。水筒を受け取った亨に、少しはにかむ。できるだけ魅力的に映るように鏡の前で練習した、とっておきだ。

 

「ああ、ありがとう。いや、ありがたいんだけどさ――その口調は、なんだ!?」

「ええー、急にどうしたんですか先輩。ほら、佐々木先輩がマウンドで待ってますよ。早く行ってあげてくださいよ」

 

 渋々といった様子で、亨が定位置に戻っていく。

 ふふふ、うまく隠したつもりだろうが、私には見えていたぞ。はにかみかけた時の、暑さとは異なる微妙な照れから生まれた顔の赤らみ。間違いなく、効いている。私のマネージャーロールは、刺さっている。当然だ。私は彼の好みを彼本人から聞いているのだ。

 

 男同士の猥談とは、もっとも本音の出る瞬間だ、と私は思う。女性の理想像について、彼はこのように語っていた。

 

「やっぱり野球をやってる身からすれば、可愛くて健気な後輩マネージャーって憧れるよな。甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれるとか、もう最高だろ」

 

 覚えている。何なら私の「亨の好みノート」にメモしてある。あいつは私の癖を良く熟知していたが、それは私も同じだ。アイツの癖、というか性癖、はよく知っている。さながら相手の四番を徹底マークするように、私は常にあいつに優位な球を投げることができるのだ。

 ふふ、待っていろ亨。幼馴染が突然自分好みの後輩マネージャーになってドギマギするお前の姿、余さず観察して楽しんでやるからな!

 

 

 

 

 私たちの丁越高校は、それなりの強豪校として知られている。甲子園出場経験こそないものの、地区大会では数多くの好成績を残している。そのため練習時間も長く、私たちが下校する頃には、春の空は暗くなっていた。

 

「お疲れ様でした~。さあ、帰りましょう、亨先輩!」

「……その謎口調はいつまで続くんだ?」

「ああ、グラウンド離れたらマネージャーじゃないからいいか。お疲れ、亨」

「マネージャー?」

「そうそう、どうだった?私のマネージャー姿。間違いなくお前のツボだったと思ったんだけど」

「…………ああ、なるほど」

 

 長い沈黙を経て、理解したと彼が呟いた。少ない情報だけで分かってしまうのは、私の理解度ゆえか。

 

「馬鹿なひかるの考えそうなことだな」

「な、なんだとー!?私のどこが馬鹿だ!」

「自覚がないのがもう馬鹿だよ。自分の思考が筒抜けなことくらい理解したらどうだ?」

「え?」

「男だったお前が俺にとって女として魅力的に映るなんて無いから、前みたいに普通に付き合ってくれよ」

 

 なんだかすごく酷いことを言われた気がする。でもきっと彼のことだから私がこれくらいで傷つかないことを分かって言っているのだろう。……ムカつく。

 

「えいっ」

「お、おい!路上で急に抱き着くなよ!」

「あれー?動揺してるんじゃないの?胸の感覚を楽しんでるんじゃないのー?」

「やかましい」

「ふぎゃっ」

 

 彼のゴツゴツとしたゲンコツが落ちてきて、私の頭を揺らした。いつもより痛いのは、きっとゲンコツの勢いが増したから、ではない。

 

「あんまそういうことすんなよ?今のお前、冗談抜きで襲われたら抵抗できないんだから」

「はいはーい」

 

 説教めいた言葉に少し腹が立ったので、適当に返事する。彼が少しムッとしたように眉を顰めたが、見ないふりをした。

 

 

「あ、公園開いてるじゃん。今日はできそうだな、キャッチボール」

「またやるのか?まあいいけど」

 

 俺たちの家の近く。かれこれ十年ほど使っている公園には今夜は人影がなかった。ここが開いている時は、私と亨はいつもキャッチボールをしてから帰っていた。

 彼がキャッチャーミットをバッグから取り出したのを見て、昔使っていたピッチャー用のグローブを取り出す。

 決して広くない公園はキャッチボールに適しているとは言い難い。距離を取れて精々20メートル程度か。目視でだいたい18メートルくらい距離を取って、少し地面を掘る。立ったままの彼との、頼りない街頭が頼りのキャッチボールが始まった。

 

「行くぞ。ストレート、外角低め」

 

 何度かボールが行き来して肩が温まった後。亨がその場に座り、ミットを真っ直ぐに私に構える。胸が高まる。ワインドアップから放たれた直球は、緩い弧を描いて彼の元に届いた。パス、という小さな音。

 

「ナイスボール」

 

 嘘つけ、と思いながら返球を受け取る。座ったまま投げた彼の球は、私の肩のあたりに真っ直ぐ飛んできた。

 

「次、カーブ」

 

 先ほどよりも大きな弧を描いたボールは、僅かに左に曲がり、彼のミットに届いた。

 

「ちょっと高いな」

 

 違う、それ以前の問題だ。あまり言葉を交わすことなく、ただミットとグローブがボールを受け止める音だけが夜の公園に響く。ストレートとカーブを交互に投げていた私は、返球を捕ると、逡巡の後、球種を告げた。

 

「次、フォークボール」

 

 一番自信のあった決め球。人差し指と中指で硬球を挟み込む。小さな手に対して、高校球児の使う白球はあまりにも大きかった。

 深呼吸。力を籠めてボールを挟み込み、全力で腕を振る。

 ボールは私と亨の間にポトリと落ち、コロコロと彼の元に転がっていった。

 

「――ッ」

 

 グローブを叩きつけたくなるのを必死に堪える。亨が無言で返球してくる。

 

「フォークボール!」

 

 叫ぶように告げた。黙って突き出されるキャッチャーミット。人差し指と中指の間から放たれた白球は、またしても地を這った。無言の返球。

 

「フォーク!」

 

 祈るような絶叫だった。痛いほど握られたボールはへろへろと宙を舞い、14メートルほどで地面に落ちた。

 

「ウウ……」

 

 もう、返球を待つために前を向くことすらできなかった。雫が地面に落ちて、公園に染みを作った。下を向く私に亨が近づいてくるのが、気配だけで分かった。

 

「帰ろう、ひかる」

「ごめん亨。変なことに付き合わせて」

「変じゃない。ひかるの気持ちは変じゃないよ」

「……ありがとう」

 

 ああ、やっぱり駄目だった。

 現実から目を逸らすために私は何か別のことを考えようとする。しかし野球のために生きてきた私にとって、野球以外のことだけを考えるのは難しかった。思考を巡らして、思い出す。

 そうだ、私は理想の後輩マネージャーになって、亨を誘惑するのだ。こんなに楽しそうなことを忘れていたなんて、どうかしてた。

 

「そうだね、じゃあ帰りましょうか、先輩」

 

 私は亨の方を向くと、できるだけ魅力的にほほ笑んだ。


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