フォークボールが投げられない   作:恥谷きゆう

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もっとタグとか付けたほうがいいのかなあと思いながら、この話を形容する言葉が思い浮かばない今日この頃です


俺と彼女の日常

「先輩!遅いですよ!」

 

 プクっと可愛らしく頬を膨らませるひかるが、少しも怒っていなそうに俺を諌める。今日も綺麗な黒髪はツインテールに纏められていて、少し幼い印象を受ける。くりっとした丸い瞳は柔らかく微笑んでいた。

 同級生に先輩と呼ばれるのは違和感しかないが、実際今のひかるは後輩だった。

 

 ひかるが後天性の性転換病で倒れたのは、昨年の春だ。そこから半年ほど、ひかるは入院生活を余儀なくされていた。それだけ、体が男のものから女のものに変わるのは大変な事なのだ。骨が軋み、新しい器官が無理やり生成される。その痛みは出産にも匹敵するらしい。場合によってはその過程で死に至ることすらあるという、難病だ。

 ひかるが復学できたのは、学期の都合上今年の春。一年遅れて二年生になることになったのだ。

 

「先輩、早くしないと朝練遅れますよ?チームの四番がそんなんじゃダメですよ」

「ああ、悪い。……ひかるは別に行かなくてもいいんだぞ?」

「何言ってるんですか!私は、亨先輩のお世話をするためにマネージャーになったんですから!あなたのいる所に私あり、です」

 

 えへん、と胸を張ると、少し揺れた。きっと計算づくの動きなのだろう。顔を背けた俺を見て、にししと笑うのが見える。

 

 肩を並べて、通学路を歩く。隣にあるのは小さくて華奢な体。その体は二度と元には戻らず、彼女の人生の選択肢を大きく狭めた。もうあの、綺麗な回転をした140キロのストレートは見られない。もうあの芸術的なまでの落差をしたフォークボールは見られない。

 それでも、ひかるは生きてここにいてくれる。それだけで十分じゃないか。自分にそう言い聞かせて、俺の今の生活に満足することにした。

 

 

 

 

 朝のグラウンドには、野球部員たちの元気な掛け声が絶え間なく響いていた。春の朝方はやや寒かったが、彼らの熱気はそれを全く感じさせなかった。

 グラウンドの端、身長大のネットのすぐ近くに立って、バットを構える。右打ちで構える俺のすぐ近く、右前方には、ボールを下に構えたジャージ姿のひかる。

 朝練も中盤になり、俺はティーバッティングの時間だ。投げ手のひかるが下手で軽く投げたボールを、ネットに向けて打つ。

 この練習は投げ手の上げるトスと上手く呼吸が合わないと、練習にならない。その点、ひかると俺の相性はばっちりだ。俺の打ちたいタイミングに合わせて、ひかるがトスを上げる。俺が打ちたいボールをひかるは常に投げてくれる。しばらく、ボールをミートする気持ちの良い金属音だけが朝のグラウンドの一角に響いていた。

 

「調子よさそうですね、亨先輩」

「ああ、ひかるのおかげだ」

 

 形は違えど、それは在りし日のバッテリーを組んでいた俺たちのようで、心地よかった。投げるひかると、それを受け取る俺。しかしあの時とは逆に、ひかるが俺のペースに合わせて投げる。

 

「相変わらず鋭いスイングしてますねえ。今年もホームラン量産できそうですね」

 

 ひかるの、後輩然とした賞賛の中に、仄かな嫉妬を感じた。言葉を返せず、ただ無言でバットを構えた。ボールが緩やかに飛んできて、ミートする。ボールはネットの前でワンバウンドした。

 

「あれあれ?可愛い後輩に褒められて動揺しちゃいましたか?いやあ、すいません」

 

 いたずらっぽく、ひかるが笑う。その顔は相変わらず、怖いくらい俺の理想のマネージャ像だった。男の心をよく理解しているゆえの魅力の作り方。あの日、冗談でも理想のマネージャー像なんて語るんじゃなかった。取るに足らない猥談を後悔する日が来るとは思わなかった。

 

 ひかるの手元の籠が空になり、二人で転がるボールを拾い集める。俺の視線の先には、ジャージ姿で屈むひかるがいた。ジャージに包まれた臀部が突き出され、やや大きな尻の形が分かってしまう。思わず目を逸らした俺を、またもやひかるがいたずらっぽく見ているのが分かった。

 

「あれ?何見てるんですか先輩」

 

 にししと笑うひかる。

 

「……喋ってないで、早く拾うぞ」

「ええー?」

 

 揶揄いながらも、その手は素早く白球を拾い集めていた。練習に対する真剣な態度は変わらない。小さな手が、大きなボールを握る。しかしそれは、ひかるが上達するためではなく、俺のためだ。

 かわいらしい少女が自分のために尽くしてくれるその態度は、たしかにグッとくるものがある。しかしそれがあのひかるの姿だと思うと、素直に喜べない自分がいた。

 

「「あっ」」

 

 ボールを拾う手が、重なる。そのすべすべした感覚に動揺する俺。また揶揄われるかと思ってひかるの方を見ると、その顔には何の表情も浮かんでいなかった。素早くボールを拾っていた手が止まっている。

 

「ひかる?」

「ああいえ、何でもないんです。ただ」

「ただ?」

「──大きな手だなあ、と」

 

 それだけ言うと、ひかるはまた静かにボールを拾い始めた。俺は何も言えずに、白球を拾い始めた。花冷えする四月の上旬の風は、まだ寒さを感じた。

 

 

 

 

 昼休みになると、ひかるはわざわざ俺の教室までやってくる。

 

「せーんぱい、お昼食べましょう」

 

 三年生の教室は、後輩である彼女の登場にあまり注目していない。もう慣れたらしい。ひかるのことを二年生の頃から知っているクラスメイトはともかく、その他の生徒は最初、下級生のひかるが教室にくるたびに物珍しそうにジロジロと見ていたものだ。しかし今ではそれもすっかりなくなった。

 むしろ見せつけるように、ひかるは堂々と俺の席に椅子をくっつけ自分の弁当を開いた。白米に色とりどりのおかず。女子の理想の弁当といった様子だ。

 俺も母に作ってもらっている弁当を開く。こちらは質素だ。

 

「先輩、今日のご飯も足りなそうですね。私のおかず何かあげますよ」

 

 弁当では足りずに購買でパンを買っていた俺を見かねたひかるは、よくこうしておかずをくれる。

 

「何がいいですか?ちなみに今日は卵焼きが上手くいったんですよ!見てください、この綺麗な黄色。どうです?食べさせてあげましょうか?」

「いやいや、自分で食べるよ。でも卵焼きはもらおうかな。ありがとう」

 

 礼を言うと、嬉しそうにはにかむ。いつもの怖いほど理想的で綺麗な笑みではなく、ふにゃふにゃとした愛らしい笑み。

 感謝を伝えると、ひかるはいつもひどく嬉しそうに笑う。いつもそうだ。それはきっと必要とされたから、なのだと思う。役に立っていることが分かる瞬間。野球という生きがいをなくしたひかるが、新しい人生の意味を見つけられる時だ。

 

「あまっ!いつもと味全然違くないか!?」

「えへへ。気づいてくれましたか。嬉しいです」

「気づくに決まってんだろ!?塩だと思って舐めたら砂糖だったのと同じくらい違うぞこれ!」

「なんですかー?可愛い後輩の手料理が食べられないんですかー?」

「いや、頂くけどさ……」

 

 いつも何を食べても美味しいひかるの料理だが、今日の卵焼きはとても甘く、俺の口内はしばらくそれを忘れられなかった。

 

 

 

 今日も厳しい練習を乗り越えて、夜の通学路を帰る。隣には、いつものように華奢なひかるの肩。立ち位置は男だった頃と変わらなかったが、その目線の高さはすっかり変わってしまった。

 

「いやー今日もコーチの指導は厳しかったですね。先輩大丈夫ですか?足プルプル震えてないですか?」

「いや、いつもやってることだしなあ。そういうひかるこそ、一日グラウンドにいて疲れたんじゃないか?」

 

 性別の変わったひかるは、お世辞にも運動神経がいいとは言えなかった。センスがないわけがないので、それはきっと身体構造の変化に戸惑っているだけなのだろうと思っていた。──そうならきっと、またあのボールを見れるかもしれないと思った。

 

「後輩女子を気遣って見せるその態度、嫌いじゃないですよ?でも、私以外にしないでくださいね」

「する相手もいないよ。ずっと野球のことばっか考えてたから女子との接点なんて全然なかったし」

「知ってますよー。生まれてこの方モテたことないですもんねー」

「……それは言いすぎだろ」

「ああ、そうですね。現在進行形で私という美少女を侍らせていますもんね」

 

 柔らかい表情をさらに柔らかくして、ひかるが魅力的に笑う。男の頃には見られなかった笑みに、惹かれる自分と、拒絶した自分がいた。──お前はそんな笑い方しなかっただろう。

 

 歩く二人の間には、たわいない世間話がダラダラと続けられていた。春の夜は少し寒かったが、ひかると話していれば全く気にならなかった。しかし、突然寒風が首元を撫で、背筋が震えた。

 

「……ああ、公園空いてますね」

「……寄るのか?」

 

 恐る恐る、確認する。昨日のことを思い出す。夜のキャッチボール。フォークボールを投げられなかった彼女の姿。うずくまり、静かに泣く彼女の姿。

 

「いや、今日はいいよ」

 

 男の頃のような口調で、ひかるは答えた。気のない返事をするその瞳は、夜の公園をじっと見つめていた。寒風が沈黙の下りた俺たちの間を吹き抜けた。

 

 公園から家までの僅かな距離を、二人して黙って歩く。視線は交わらず、歩く方向はどこまでも平行だ。夜のしじまは、昔と違って堪らなく居心地が悪かった。家の前まで着くと、短く別れの挨拶を交わして、別々の方向へ向かう。

 ずっと平行だった俺たちの足取りは、ある一点を境に全く別の方へと歩き出した。

 


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