フォークボールが投げられない   作:恥谷きゆう

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評価などありがとうございます!


その意味が分かってるか?

 夏の夜の公園は人の気配がすっかり遠ざかり、辺りには俺とひかるのグラブから響く乾いた革の音だけが響いていた。俺たちの夜の公園のキャッチボールは、野球部の練習が終わった後、不定期に行われていた。しかし、ひかるが俺を座らせることは決してなかったし、俺も決して座ってミットを構えることはなかった。

 

「おっと、あぶないなあ」

「悪い、ひっかかった」

 

 頭上を超えそうになったボールを、軽く跳んで掴む。ひかるの口調は、キャッチボールの時だけは昔の男のような喋り方に戻っていた。それを嬉しく感じて、俺はひかるとキャッチボールすることを拒めずにいた。

 

「疲れてきたんじゃないか?」

「そうだな、今日はもうやめるか」

 

 ひかるは疲れてくると右ひじがだんだん下がってくる。その癖が出ているので止めるように訴えると、案外あっさりとひかるは頷いた。

 今日の球数はせいぜい50球程度。100以上投げることもあった先発完投型のかつてのひかるとは比べるまでもなく体力がなくなっていた。

 数度ボールを投げ合って、ひかるがグラブにそれを収めると、二人して帰る準備を始める。グローブをしまってくるりと振り返ったひかるは、もう既に後輩然としたにこやかな表情を浮かべていた。

 

「はやく帰りましょう、先輩」

「……ああ」

 

 それを残念に思う俺と、嬉しく思う俺がいた。すっかり暗くなった街路を、二人隣り合って歩く。家までのわずかな距離だったが、ひかるの口は休まることはなかった。

 

「先輩、今度勉強見てくれませんか?」

「ああ、中間テストか。ひかるは馬鹿だからなあ」

「本人に馬鹿って言う必要なくないですか?」

 

 ひかるの柔らかそうな頬がぷくっと膨らむ。高校生にはあざとすぎるような仕草も、ひかるのような美少女がすると絵になる。

 すっかり変わったひかるの顔を見ていると、気づいた。勉強を見てやるのは初めてじゃない。しかし──

 

「それで……どこでやるんだ?」

「決まってるじゃないですか!先輩の、部屋です!」

 

 ……やっぱりか。以前ならなんとも思わなかったが、この美少女然としたひかるを部屋に入れるとなると、少し話が変わってくる。

 

「その……ひかる的には抵抗ないのか?」

 

 おずおずと聞くと、ひかるがにんまりと笑った。まずい。

 

「あれあれー?先輩、まさか後輩女子を部屋に上げることに動揺してるんですかー?別に私を部屋に上げるのは初めてじゃないのにー?何をそんな緊張してるんですか?」

 

 とても嬉しそうに、彼女は俺をからかいだした。俺がとっさに言葉を返せずにいると、ひかるが顔をグッと近づけてきた。きめ細やかな肌が視界いっぱいに映る。

 

「もしかして──期待、してるんですか?」

 

 耳に息がかかるほどの至近距離で囁かれたその台詞は、あまりにも蠱惑的だった。顔が赤くなるのが自分でも分かる。その様子を見て、ひかるがクスクスと笑いだした。忍び笑いは、徐々に耐えきれなくなったらしく大笑いへと変わっていった。

 

「フフフッ、動揺しすぎだろ。あはははははは!」

 

 大口を開けて笑うその姿には、色気なんて微塵もなかった。

 しかしそこまで言われると、流石に親友といえど腹も立つというもの。──少しくらい逆襲してもいいだろう。俺は意図的に声を低くして、彼女に話しかける。

 

「ひかる」

「な、なんだよ」

 

 同時に小さな手をしっかり掴む。ひかるが目に見えて狼狽するのが分かった。

 

「あんまりからかうと、冗談じゃなくなるぞ?」

「な、なんだよそれ。放せよ」

「ひかる、かなり力が落ちたよな。今も俺の手も振りほどけないでいる。……その意味が分かってるか?」

「ひゃ……で、でも私は元々男で……」

「それが何か関係あるか?」

「へっ?」

 

 それ以上は喋らず、ぐっと顔を近づけてひかるの表情を観察する。白かった頬は熟れた林檎のように真っ赤で、視線は所在無さげに宙を彷徨っている。時折こちらを上目遣いに伺っては、またすぐに逸れていく。……思ったより良いリアクションされると、こちらも困るのだが。

 

「せ、せんぱ──」

「ハハハハハ!騙されたなひかる!なんだ、俺よりもずっと顔真っ赤じゃないのか?アッハハハハ!」

 

 ひかるは哄笑する俺をしばらく呆然と眺めていた。そして意味が飲み込めたらしく、これ以上赤くなることはないと思っていた顔がもっと赤くなった。

 

「ばっ馬鹿!」

 

 悲鳴と共に、ひかるの右腕が唸った。オーバーハンドから放たれるのは、教材一式の入った大きなバッグ。それは狙い通り低い音を立てて俺の顔面に直撃した。

 

「ゴフッ」

 

 あまりにも予想外の動きに反応できず、受け身の姿勢も取れなかった。ひかるの球を受け損ねるとは……不覚……。

 

「明日そのバッグを私の家まで持ってきてくださいね!拒否権なんてありませんから!」

「ちょっ、明日土曜……」

「勉強見てくれるんですよね?場所は私の部屋で決定です!」

 

 

 ◇

 

 

 自分の部屋を見渡して最終確認する。汚らしい部屋など、女子的にはアウトだ。勉強机、片づけた。本棚、整理した。床、綺麗。ベッドの上、綺麗。完璧だ。後は亨を待つだけだと考えて、ふと昨日の彼との会話を思い出した。

 

『ひかる、かなり力が落ちたよな。今も俺の手も振りほどけないでいる。……その意味が分かってるか?』

 

 グッと近づいた彼の顔と、自分の姿が写るほど近づいてきた大きな瞳。そしていくら力を籠めてもビクともしない手。

 

「ッ!」

 

 思い出しただけで顔が赤くなってしまうのが、自分で分かる。……こんなんで今日亨に会えるのだろうか。亨を動揺させるために無理やり私の部屋に来させることにしたが、このままでは私が動揺してまともに受け答えできそうになかった。

 

 昨日彼に掴まれた右手をそっと撫でる。今の私の小さな手くらいすっかり覆ってしまうような、大きな手。私が失ったもの。しかし今の私には、嫉妬よりも不思議な動揺の方がずっと強かった。

 

 あの日から続く胸の熱にも似た、焦がれるような心の動き。この感情に身を任せれば私はもう醜い感情に囚われることはないのだろうという確信と、諦めたくないという気持ちが葛藤していた。それはきっと、私が男だったがゆえの葛藤で、きっと誰にも理解されないものなのだろう。少し寂しくなって、亨の顔が見たくなる。

 

 折よく、家のインターホンが鳴った。胸の高まりを沈めるようにゆっくりと玄関に向かい、私は扉を開けた。

 

「よう、昨日ぶり」

 

 憎らしいほどに昨日のことを気にしていなそうな顔で、亨はそこに立っていた。彼の持っている私のバッグが手元にあったら、もう一度ぶつけているところだった。

 

「いらっしゃい先輩。さあ、上がってください」

「おばさんはいるか?久しぶりに挨拶したいんだけど」

「母は留守ですよ。……二人っきり、ですね」

 

 昨日の仕返しのように軽くジャブを打つと、わずかに彼が視線を逸らした。……いいぞ。やはり私はからかわれるのではなく、からかう側でなければ。

 私の部屋まで、亨は迷わずついてきた。何度も来たことがあるのだから、当然か。しかし、今の私は女。前とは違う状況だ。

 

「どうぞ、入ってください」

「お邪魔します……あれ、なんか綺麗だな」

「フフン、当然です。女子の部屋は綺麗と相場が決まっていますから」

「本当か……?」

 

 少なくとも、亨の描く理想の女子とはそういうものだろう。男の頃の感性から、それくらい推測できる。きょろきょろと部屋を観察していた亨は、私に恐る恐る、聞いてきた。

 

「……そういえば、中学の頃のトロフィーとメダルは?」

「ありますよ、ここに」

 

 私は小さなカーテンで覆われた棚の中を見せた。野球用品が集められたその棚は、部屋の隅にひっそりと存在している。亨が確認したので、カーテンをそっと閉じる。棚の中身は見えなくなった。

 トロフィーもメダルも、今の私にとってなんの価値もないものだ。見るだけで不快だったから、最初は本気で捨てようと思っていた。しかし捨てようとすると亨の顔がちらついて、どうしても捨てる気になれなかった。

 

「そんなことどうでもいいじゃないですか。勉強、教えてくれるんでしょう?」

「……そうだな。でも、ひかるがあれを捨てないでくれていて、嬉しいよ」

 

 にこりと笑う亨の顔は、心底安心しているようで、それを不快に思う自分と嬉しいと思う自分がいた。

 


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