その清楚系、パチカスにつき。   作:継続率3000倍

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窮地

「ハッ……ハッ……うぐ」

 

 立ち止まり、駅の改札前で浅い息を整えている女は、数分前から今現在にかけて自己管理の甘さを呪った。

 憧れの人の自宅に招かれ、その時点で気分が有頂天に達していた。招かれた先での予定外の来訪者も豊藤自身ファンだった人で、有頂天状態の心に喜びに加え驚きが上乗せされ、内心狂い喜び乱れ舞っていた。

 気が緩んだ。いまだかつてないほど緩んでいた。

 

「えっ――人身事故?」

 

 その結果がこれだ。豊藤は本日の大きな予定の一つをすっかり忘れてしまっていたのだ。

 スケジュール帳に予定の時間と場所を細かく記していた。リマインダーの通知も、スマホが確かに発していた。読み返すのを忘れ、通知のバイブレーションにも気が付かず、予定を忘れてしまったのは明らかに自身の失態だ。

 北山とその妹、二人と会話しているなかで脳内になにか()()()()があったのは確かだ。しかしそのちらつきがなんなのか、二人との会話を楽しむ豊藤にそれを解明しようとする余裕はなかったのだ。

 ――JR京葉線、稲毛海岸駅。天井から吊り下がる発車標には“人身事故”の赤い文字が右から流れていた。

 場所は新木場駅。京葉線は新木場駅を中心に一部区間で運転見合わせの状態にあった。

 

「嘘でしょ……」

 

 時刻は15時半を回っている。稲毛海岸駅から目的地の最寄り駅である新宿三丁目駅までは大体1時間15分で着く。15時42分の快速に乗ればギリギリ間に合ったのだが、このタイミングの人身事故は想定外にもほどがあり、痛すぎる。

 数年前まで風に弱く頻繁に速度を落として運行していたが、防風柵を立てるなど改善策を施行し、最近が原因で遅れることはかなり少なくなった京葉線――しかし事故はその努力に関係なくやって来るものだ。

 

「あっすみません」

「はい、どうされました?」

「あの、人身事故っていつ起こったんですか?」

「事故は、つい5分前です。ただいま運転を見合わせていますが、いつ再開するかは今の時点ではなんとも言えませんね」

「そう、ですか」

 

 駅員に訊ね、豊藤は顔に影を落とす。

 目的地の集合時間は17時。今いる駅の通常通り運航している列車に乗って間に合うか否かという瀬戸際だった。迂回ルートを使ったり、京成稲毛駅や総武本線の稲毛駅まで行って目的地に向かったところで、もはや遅刻は免れない。

 万事休す――豊藤の今を状況を表現するには最適だろう。

 ……取り敢えず、マネージャーに電話しよう。

 社会人たるもの、報連相は遵守すべき行為。シックなブランド物の鞄からスマホを取り出そうとし、

 

「もし」

 

 不意に一言、声をかけられた。

 その声には艶があった。魅惑的だった。妙にあでやかだった。聞く者の脳を揺らし、瞬く間に虜にしてしまう、魔性の声。

 豊藤はどこかで、この声を聞いたことがある気がした。

 妖艶な女声――真後ろから聞こえてきた、明確に豊藤に投げかけられたたった二文字の感動詞に、極度の焦りで余裕がない豊藤はビクッと体を震わせ、徐に後ろに振り向いた。

 

「……えっと」

 

 そこにいたのは、マスクと眼鏡姿の女だった。

 黒いウレタン製マスクと銀縁のクラシック眼鏡を着けた、黒く長い髪の女。160ピッタリの豊藤の身長より少しだけ高い身長の女は、半袖の黒いシアートップスとノースリーブニット、タイトなデニムというコーディネートは、艶美な声の割には随分と若々しい。

 

「貴女が、豊藤優子さん?」

 

 豊藤はこの女と面識はない。顔が見えないし声はどこかで聞いたことあるため、知り合いではないとは完全には言い切れないが、しかし蠱惑的な魅力をここまで声に乗せられるような知り合いは、豊藤にはいなかった。

 では、この目の前の女は何者か。豊藤のなんなのか。態度には出さないが、女に対する警戒心がぐっと上がったのを自覚する。

 

「……そうですけれど」

「あら、ビンゴね」

 

 ――その警戒心は、女の行動によって、一瞬で消し飛ぶことになる。

 言うと女は、左肩にかけるバッグをごそごそと漁り、最終的に一冊の本を取り出した。

 浅葱色の表紙。中央下寄り、セーラー服を着た金髪少女のイラスト。上部に大きく、一行二文字の縦書きで『存在証明魔法少女』と書かれたその本は――一般的に台本と呼ばれるもので。

 

「これ、貴女のものでしょう?」

「え……あっ」

 

 鞄を漁る。

 ない。あったはずのものが、綺麗さっぱりなくなっていた。

 そのとき豊藤は、ほぼ確定した遅刻に加え、気付かないうちにもう一つ重大な失態をやらかしていたと知った。

 

 

 思い出すのは十数分前――予定を思い出し、すぐさま向かわなければと急いで北山宅を出ようとし、豊藤は焦って自分の鞄を取り損ね、中身をフローリングに落としてしまった。

 財布、手帳、スマホ、メイク用品が入ったポーチ、ボールペン、その他諸々――そのなかに、今日使う台本も入っていた。神のいたずらか、台本はフローリングを滑り、棚とフローリングの間に隠れてしまった。豊藤は焦りで視界が狭くなっていて、北山と共子は滑った台本の存在を認めていなかった。

 隙間から背表紙の角がほんの少しはみ出ているのを、北山が発見しなければ、台本は届けられなかった。遅刻と忘れ物のダブルパンチで、罪悪感で豊藤は当分立ち直れなかっただろう。

 ともあれ台本は、豊藤の目の前の女によって届けられた。この台本を持っているということは、北山姉妹と関わりのある者に違いない。

 

「えっと、すみません、ありがとうございます」

 

 差し出された台本を受け取り、鞄にしまった豊藤は、今一度女の顔をじっと見つめる。

 眼鏡とマスクに隠された顔面から、感情はあまり感じ取れない。レンズ越しに見える眼は厳しくないが、しかしまっすぐ豊藤を捉えている。

 おずおずと、申し訳なさそうに、しかし多少の期待を孕んだ震え声で、女に訊ねた。

 

「あの、あなたはもしかして、北山さんの」

「ええ、その通り」

 

 訊かれた女は言うと周囲を警戒するように少し見回すと、眼鏡を外し、人差し指でマスクを下げた。

 

「えっ――」

 

 ようやっと女の面が露わになり、花も月も恥じらって隠れてしまう端整な顔立ちを認めた豊藤は、この女の声がどこかで聞いたことがある理由を瞬時に理解した。

 この人は、私が今からアフレコしに行くアニメの共演者で、声優としての大先輩で――、

 

「私は、佐山銀子――本名は北山銀子。初めまして、豊藤優子さん。外では、SevenSYさんって呼ぶほうがいいかしら」




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