その清楚系、パチカスにつき。 作:継続率3000倍
豊藤がVythonを卒業し、VTuberすらも引退したのは、いまから二ヶ月前のことだった。
二〇一九年の暮れ、豊藤の持つVythonへの不信感が、とうとう拭いきれない領域に達した。
内通者の存在は運営も認知していたようだが、結局目立った動きを見せなかった。
かつて豊藤と同じ事務所に所属し、豊藤よりも早く引退していったCarol。そのタイミングで暴露系配信者たるVTuber、嘯木悦春の活動は不自然にも落ち着いた。Carolが内通者だったのでは――という出処不明の根も葉もない噂が界隈を騒がせているなか、Vython運営はしかし、所属タレントらに誠意ある行動を取れなかった。
それは、何かしようとして失敗したのではない、何もしなかったのだ。平穏を脅かす敵を明確に認知しているのにもかかわらず。
たとえば。情報の取り扱いに係わるコンプライアンス研修を用意することもできたはずだ。所属タレントの中にはまともに社会経験を積んでいない人物もいたことだし、情報社会を生き、インターネット上で活動する人間として、脅威に晒される中での正しい行動を改めて教え込む絶好の機会なのだ。
現況の十分な説明、これから講じる対策、タレントたちのこれからの立ち振る舞い――いますぐにでもやれることはある、と豊藤はマネージャーを経由して、運営に伝えた。何度も伝えた。
だが、豊藤の声は届かなかった。
理由はわからない。上に直接聞いても曖昧な返答で誤魔化される始末。
誤魔化されるたびに不信感は積もり、積もった不信感はやがて失望へと変貌した。
ここは駄目だ。VTuberたちが安心して活動できる場所は、もうどこにも残されていない。
一丁前に行われた、大晦日と元日を跨ぐ大規模な公式生配信。盛り上げるべく奮闘した豊藤はその日、ついにVythonを抜ける決意を固め、自身のマネージャーに告げたのだ。
一月一日、深夜三時のことだった。
十五時を回ったころに自宅に着いた。リビングの壁際にリュックを置き、プロテクター入りの重いライダースジャケットをリビングに脱ぎ捨てる。
五月にしては日差しが強かった。上半身を中心に汗がじんわり滲んでいる。とくに胸の谷間と下が蒸れて不快感が強い。下半身はとくに内股が強く蒸れていて、これはエンジンの熱を長い時間受けていたからだろう。
脱衣所で服も下着もすべて脱ぎ捨て、棚のフックにかけられたヘアバンドを取って風呂場に入る。
ヘアバンドで髪が顔にかからないよう固定したら、いつも使っているクレンジングオイルを顔に塗り、指の腹を当ててクルクル円を描くようにして汗とメイクと皮脂を溶かす。手についたものを洗い流したら、今度は指についた水で顔のメイクと皮脂と汗が溶けたオイルを乳化させる。こうすることで毛穴汚れの除去の効果が高まるほか、メイク落ちの向上や、オイルが残りづらくなり肌への負担軽減に繫がる。
ぬるま湯で顔を丁寧に洗い流したら、シャンプーとコンデショナーを手早く済ませる。柔らかいナイロンタオルで体を洗い、洗顔してさっさと風呂から上がる。
髪を軽くタオルドライしたら、首から下をちゃちゃっと拭き、顔をバスタオルではなくフェイシャルペーパーで拭く。タオルに比べて摩擦が抑えられるからだ。
保湿化粧水スプレーを顔にかけて軽く保湿したのち、リビングに戻る。クローゼットを開き、引き出しから下着を選定する。
「この、黒のは」
下はとくに違和感なくはけている。しかし、問題は上だった。
まだ胸が成長しつづけている。
この再成長がいつから始まったのか北山ははっきり覚えていないが、始まる前のサイズがEだったのは間違いない。
昨年始まったこれは、いまも止まらず続いている。勢いは落ちたが、しかし確かに大きくなりつづけている。
病院で診てもらっても異常なし。どの病院に行ってもたまにそういう人もいると言われるばかりで、北山は自分の体の変化にある種の怖れを抱いていた。
定期的に測るようになったバストサイズ。最後に測ったのはちょうど先月。その時点でのバストは約九九センチ。
「やっぱりキツくなってる」
ずぅん、と気持ちが重くなる。北山の胸を窮屈そうに支えている黒いブラジャーは、北山のお気に入りだった。成長する胸のことを見越して二ヶ月ほど前に大きめのものを海外から取り寄せていたのだが、それでももうキツイと感じてしまっている。
ブラを外した北山は、小さな引き出しを開けてメジャーを取る。これでいまのバストを測るのだ。
息を吐いた状態でアンダーバストを測り、少し前かがみになってトップを測る。
結果、アンダー六八センチ、トップ一〇〇センチ。差が三二センチとなり、晴れて日本人女性のほとんどが到達しえないJカップの仲間入りを果たしたのだ。
「どうせ店行ってもJ70のブラなんか置いてないだろうし……どうしよう」
このブラジャーは北山宅にある一番大きなサイズなものの一つだ。何着かあるそれらをローテーションで着ていたが、しかしこれすらキツイとなると、もう新たに買うしかない。
別にいまのいままで気づいていなかったのではない。気づかないふりをしていた。これ以上大きくならないでくれ、という切なる願いを胸に、あえて無視していたのだ。
日本人女性の胸は平均してそこまで大きくならない。学生時代の北山が読んだファッション誌のアンケートでは、Cが一番多いという結果が出ていたが、しかし決して平均が小さすぎるのではない。北山が大きすぎるのだ。
北山の活動圏内で買えるもののサイズは、あってもFかGまで。それ以上はネットで見つけるほかあるまい。
フィットした下着を求めて東京に繰り出すのはいいが、かといってノーブラで出歩くわけにもいかない。
「――もうこれでいいや」
結局黒のブラジャーを着ることにした。人生、諦めが肝心なのかもしれない。
ブラとセットのショーツをはき、顔が乾かないうちに普段着を着る。胸元の「GOGO!!」と描かれた刺々しい吹き出しのワンポイントが利いた白いシャツにタイトなデニムパンツ。シャツは緩いタイプだと着ぶくれを起こすため、シルエットを綺麗に見せるために、胸が大きい女性のためのブランドで買ったパネルライン入りのものを着ている(近くに店舗がないのでこれもネットで調達した。なお、ワンポイントの意匠に関する公式発表はいまのところない)。
脱衣所へ戻り、顔の肌を整える。化粧水、美容液、乳液、クリーム、化粧下地にもなる日焼け止めクリームを塗り、ファンデーションを塗ったり眉毛をちょっと描いたりまつ毛を整えたり――そんな感じでいろいろして、やっと最低限(港区に)外出できる準備が整った。千葉県内ならまだ軽い化粧でもよかったが、しかし星田の自宅は南青山にある。その道中、港区を闊歩する多種多様な人間どもに、「こんな人の周りにいる人もどうせこの程度だろう」と自分の周りの人も含めて哂われるわけにはいかない。自分が嘲笑されるのは別にいいが、身内が嘲笑されるのは北山といえどいい気分ではないのだ。
「よし、行こ」
着替えや化粧品、歯ブラシや充電器等必要なものを詰めたバッグは、今朝準備したものだ。バッグは、コミケ用に買った大きめのサイズ。
昨日LINEで、いつ来てもいいと星田は言っていた。配信は二十一時からの予定だが、いま行ってもとくに問題ないはずだ。
サマーカーディガンを羽織り、部屋を出る。十六時すぎのことだった。
その黄金の筐体がまだホールに設置されていたころ、遠目でもずいぶん輝いて見えた。その機種の島は異様な雰囲気に包まれていて、近寄りがたかったのを覚えている。
男たちが血眼になって投資しつづけるこのスロットには、いったいどんな力が秘められているのだろう。気になって、そのスロットを打つために軽い気持ちで着席したのが、北山とそのスロットの出会いである。
「久しいな、凱旋」
《ミリオンゴッド-神々の凱旋-》――5号機時代をけん引したAT機。それがいま、北山の目の前に佇んでいる。
その歴史は4号機《ミリオンゴッド》から始まった。詳細は割愛するが紆余曲折の末、前作《ミリオンゴッド-神々の系譜-》の正当後継機として、銘を新たに5号機として再び君臨者として頂に舞い降りた。撤去されるまでの間、ホールのメイン機種として数多のスロッターに夢と希望、時には現実と絶望を与えてきた伝説のスロットマシンだ。
北山も、何度もこのスロットに挑み、ことごとく負けてきた。ホールで設定6のこれを打ったことは、おそらく一度もない。GOD揃いも赤7もレアSINも引いてきたが、結局この台でのトータル収支がプラマイゼロに戻りはしなかった。
懐に巨大なダメージを与えるとともに、スロットの厳しさを存分に教えてくれたこれは、良くも悪くも鮮烈な思い出として記憶の深いところに刻まれている。
「これ、知れば知るほど金かけて打てないよね」
絨毯の上に胡坐をかいて座り、ゴッドを打つ北山。その左に座った女の声が、北山の鼓膜を揺さぶる。聞き馴染みのある、澄んだ声だ。
ただいま十七時四〇分。二人がいる場所――東京都は港区、南青山にあるヴィンテージマンション、その二階の角部屋だ。
表参道駅から徒歩三分という立地で、近くには商業施設が多数あり、何か用があればすぐに向かえる。すべての部屋が防音仕様になっていて、隣近所を気にせず音が出せるし、周りの音は入ってこない。エントランスホールはとても広く、コンシェルジュが常駐している。セキュリティ対策も万全だ。
ウォークインクローゼットがついた2LDKの部屋は南西側の角部屋で、日当たり良好。二五畳もあるリビング、コの字状のキッチン、五畳と九畳の洋室、腕を広げても壁に当たらないトイレ、清潔感漂うオシャレな脱衣所、北山が脚を伸ばせるぐらいの浴槽がある浴室、一人暮らしには必要ないサイズのウォークインクローゼット――一人で暮らすには余りある、この開放感。
星田に招かれて入ったはいいが、出だしからインパクトが強過ぎて、北山でさえついていくのに時間がかかった。
コンシェルジュって何だよ。うちにはそんなのいない。ていうかエントランス広いなおい。絶対こんなにいらないだろ。いや待て、そもそも「表参道駅から徒歩三分」って何。パワーワードが過ぎる。あーあ、なるほどわかったぞ。これが住む世界が違うというものか。
自分と同級生の違いを見せつけられた気分だった。別に羨ましいとも妬ましいとも思わないが、金があるのとないのとでは違うんだなぁ、という至極当然のことを改めて実感させられたのだ。
挙句、階段と反対側にある星田の部屋に向かっていると、途中の部屋から女性が出てきたのだが、その人は数年前からテレビでよく見るようになったアイドルグループのセンターだった。帽子はしていたがマスクはつける前で、その人を認識した北山は、ある種の悟りを開いた。
これからゆりのことをお嬢様と呼ぼう。
そして北山は、考えるのをやめた。
「これ6?」
「6」
「まあそうか。しかしこいつは尋常じゃないぐらい吸い込むからな。私の金はいったいどれだけこいつに消えていったのだろう」
「もうやめときなよ」
「大丈夫だよ。最近はノーマル機で堅実に取り戻してるから」
「本当かなぁ?」
隣からふわっと香るフローラルな匂いは、香水によるものだろう。自分が所持しているものより数段も上品な匂いに感じ、こいつらしくていいな、と北山は無意識に思っていた。
「ゆりはこいつにいくら使った?」
あるときから同級生のことを名前で呼ぶようになった北山は、隣にいるその同級生に問う。
「えー、いくらかな……二回打って、合計で十万も使ってないとは思う」
「収支は」
「マイナス」
「だよなぁ」
「上手く立ち回らないとプラスにするのは難しいよ――あれ、矢でリプレイじゃない。裏天?」
「うん。ハズレから準備に移って、右上がり黄7で刺したと思う」
この台のリールの図柄は、GOD図柄とデカミリ(この台のブランク図柄の通称)以外はすべて7図柄で構成されている。7図柄には黄7、青7、赤7の三種類があり、黄7はベル、青7はリプレイに相当する図柄だ。赤7はまた別の役割があるが、割愛する。
凱旋には画面左上あたりからアルテミスの矢が通過する演出がある。これは大抵の場合青7揃いなのだが、その演出で揃わないときがある。
これは裏モードの示唆で、演出が発生した時点で裏天国の可能性が急激に高まる。裏天国ではこの演出が約四五分の一、裏天国以外では約五七〇〇分の一で発生するからだ。
「かなり薄いところ引いたね」
「これをホールでできたらいいのに」
「まあこれやるぐらいならさっさとAT当てたほうが早い気はする」
「そりゃそうだよ」
凱旋は内部で表モードと裏モードの二つを同時に抽選している。どちらが優れているという話ではないが、裏モードの天国、いわゆる裏天国に移行した場合、AT「GOD GAME」とセットストックの抽選が始まる。下段黄7の二五%でATに当選し、当選するまで裏天国からモード転落は発生しない。同時に抽選されているセットストックは、上段青7の一五・六三%でストックし、ATが一セット終了するたびに一つずつ解放される。
また、裏天国は下段黄7のAT当選後、上段青7で転落抽選が行われ、確率は設定によって異なる。
つまり、ATの大量ストックに期待できるのだ。
「優子ちゃんって何時に来るんだっけ」
「グルに十八時ってあったよ」
豊藤は本日綿貫との先約があり、いまは東京のどこかで遊んでいるところだ。買い物をしているか、それとも二人でノリ打ちしているか。どちらもホールに遊びにいく趣味があるため、否定はできない。二十三歳の若い女が二人してパチンコを打つ光景は、店の性質上目立つこと間違いなし。とくに綿貫のほうは、店の性質以前にファッションの観点で目立つ。
綿貫の仕事の都合で十七時に別れ、一旦家に戻ってからこちらに向かってくるらしい。泊り用のアイテムを持ってくるのだろう。
「じゃあそれまでAT何連できるか勝負ね」
「勝負できるほどの時間あるか?」
「強気だね」
「いや、AT終了後にまたAT入れられるかっていう」
「ああそっち。大丈夫でしょ、六だし」
「設定六は『勝てますよ』じゃなくて『どの設定よりも勝ちやすいですよ』だから。勝てるとは言ってないから」
「GODを上手いこと引いて、こう……」
「GODの乱数がいくつあると思ってんだ」
パチンコ、スロットの乱数は六五五三六個ある。GOD揃いの確率は八一九二分の一――該当する乱数は八個。そして、豊藤が宣言した時間まで、あと二〇分もない。この間に、果たして引くことはできるか。
「それか基板差し替える?」
「3号機に逆戻りすんな」
「じゃあ昨日の優子ちゃんのSGGみたいに」
「あれこそ奇跡だろ」
そんなやり取りをしながら、豊藤が来るのを待っていた。
私は現役で凱旋を打ったことがないのですが、打っていたら私はいまごろ樹木と草花と蔦で鬱蒼とした深い森林で首を吊っていたと思います。来世にワンチャンかけて黄泉の国にダイナミックエントリー! やめましょう。
誤字がありましたら誤字報告願います。
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また、冬コミで豊藤優子篇までをまとめた本を頒布します。サークルの情報は下記URLでご確認ください。
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