その清楚系、パチカスにつき。   作:継続率3000倍

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マゾヒズム

 カウンターの脇に置かれたヒュミドール。三台あるそれらの中に茶褐色の円筒がずらりと並べられている。バーテンダーがその中の一台、北山から見て一番奥にあるものを解錠して開き、一本の葉巻を手に取る。長さ一七〇ミリ、直径二二ミリといったところか。シガーリングの金色が橙の灯りを受けてギラリと煌めいた。手元の葉巻用灰皿に葉巻を置き、ヒュミドールを施錠。

 そのコイーバの葉巻は、二十八歳の女が享受するには不釣り合いなほどの風格を放っている。一目見て価値を判断できるほど造詣は深くないが、しかしその扱い方からして店の中でも上等な逸品であるものだとは容易に想像できた。

 

「『コイーバ ベイーケ56』でございます」

 

 北山の目の先にいる、茶髪をシニヨンヘアにしたバーテンダー(名札がないので名前はわからない)は、恭しく葉巻と灰皿をカウンターに置く。

 

「現在当店でご用意しておりますコイーバの中でも最高峰のものでして、特別な一品となるのですが……」

 

 そこで話を区切る。彼女は、北山の後ろ――ソファー席を陣取る佐久間の仲間たちに目線を一瞬向けた。

 

「いかがいたしましょうか? 皆様で楽しまれるお席ですから、一度お連れ様とご相談されてはいかがかと……」

 

 ああ、なるほど。北山が目の前の女性の言動に納得した。女子大生らしきこの人は、店に入ったばかりの北山らの会話を聞き取っていたようだ。

 振り向くと、チェイサーの水をグラスに注ぐ佐久間の後ろ姿が見えた。

 

「社長」

「ん?」

 

 北山に目線を寄こした佐久間に、摑んだ葉巻を見せる。

 

「一本頂きます。結構高いやつ」

「ああ。いいよ」

 

 二つ返事である。躊躇いを見せることなく、価格も聞かずに了承した佐久間。会社ではあまり見せない威厳をここぞとばかりに見せつけてるな、と偉そうな感想を抱く。

 

「今日の飲食代はいまの男が全部持ってくれるみたいなので。貴方からはお気持ちだけ受け取っておきます」

 

 この、借りを作らないスタンス――ランドセルを背負う頃にはもうこの考えを胸に抱いていた。可愛くないガキだったと北山自身も思っている。自分にとって魅力的な提案であっても、場合によっては断る。どうしようもない北山の性分だ。

 せっかくの申し出ではあった。北山は単に拒否しただけだが、しかしその言葉の節々に注目してみると、拒絶とも受け取られかねない強い物言いでもあった。

 

「そうですか、わかりました」

 

 だが眼鏡女は北山の拒否を、普通に受け入れた。食い下がらず、残念そうにするわけでもない。返ってきた答えが、最初からわかっていたかのように受け止めていた。

 

「……」

 

 姿勢を戻すと、微妙な困惑を表情に浮かばせるバーテンダーが目に映る。佐久間からの許可は下りたが、具体的な価格は口にしていないし、されていない。目の前の女の脳内は、本当にいいのかという戸惑いでいっぱいなのだろう。

 

「ちなみに、おいくらですか?」

 

 一応聞いておこうかと思い尋ねると、彼女は口の横に手を立てて、控えめな声の大きさで答えた。

 

「一本十二万円です」

「おおっ」

「すげぇ……」

 

 驚きが思わず口に出た。隣の高砂も反応を見せているが、込められた感情は驚きよりも呆れが大きいように聞こえた。

 まあでも、それぐらいなら許してくれるだろう。投資で結構儲けてるってこの前言ってたし。

 問題ないと伝えると、バーテンダーは頷く。葉巻を渡すと、彼女はいよいよ着火を始めた。

 ――葉巻の着火は主に、葉巻用マッチによる方法、シダー片による方法、ライターによる方法の三種類がある。品書きによると着火方法を指定できるようだが、北山はとくに指定しなかったため、ライターによる方法がとられるようだ。

 あどけなさの残る顔立ちには不釣り合いなほど、その指先は落ち着いている。漆黒の地、そして金文字が輝くリングが、ベイーケ56の威厳を静かに主張していた。銀のシガーカッターを手にすると、迷いのない動きでヘッドを挟み、サクッと小気味よい音と共に先端を切り落として吸い口を仕上げた。

 ライターはターボライターのようだ。通常のライターと違い、バーナーのように鋭く勢いのある青い火が出る。その先端をフットに当て、均一に炭化させてゆく。

 葉巻の一番外側の葉はラッパーと呼ばれていて、味と香りを決める大きな要因となる部分だ。美味な葉巻を味わうには、着火時にそこを必要以上に焦がさないようにしなくてはならない。どんなに品質が高くても、火の点け方次第では最初の一吸いが台無しになってしまう。

 黒一色のフット全体はやがて白く染まった。ライターの火が止まると、たちまち紫煙がゆらりと立ちのぼる。

 

「どうぞ」

 

 ラッパー周りの焦げは必要最低限だ。手つきからして慣れているのが見て取れたが、しかしこうして実物を見ると、所作の熟練度の高さを容易に感じ取れる。時々目にする共子による着火は、これに比べると少々お粗末だったようだ。白い煙の行先を見届けるのを止め、お礼を一言言って受け取る。

 

「葉巻とかよく吸えるよな。一発で肺がんになりそう」

「知らんのか高砂お前。葉巻の煙は肺に入れるものじゃなくて、口と鼻だけで楽しむもんなんだぜ」

「え、じゃあふかしてるだけ?」

「そう。口で吸って、舌を使って転がすように味わって、吐き出す。これを数十分、物によっては一時間以上繰り返す」

 

 そして、葉巻にフィルターはついていない。一応吸っているときに、フットから口元にかけての火がついていない部分がその代わりになって、幾分かマイルドになる。だが、普通の煙草に比べて紫煙に含まれる成分の量が強いことに変わりはない。葉巻の口腔喫煙は、単に楽しむためにそうするわけではないのである。

 

「へぇ、なるほどな。肺へのダメージはないんだ」

「肺にはねそこまでね。結局口の中の粘膜が吸収しちゃうから完全にゼロではない。それでも肺に入れるよりはダメージ少ないかもしれんけどね」

 

 そう言い、北山は葉巻をくわえ、ゆっくりと吸う。強く吸うと煙の中の雑味が多くなる。いつもしている呼吸をイメージして、落ち着いて口に溜める。

 コイーバらしい、どっしりと重厚感のある味わい。凝縮されたスパイスの香りが舌の上で踊り、蜂蜜のような濃厚な甘みが追いかけてくる。それは衝撃的だが、しかしどこまでも洗練された味わいだ。ゆっくりと吐き出すと、青みがかった煙が照明に照らされて複雑な影を作りつつ、ゆっくりと天井へと溶けていった。

 ぼけっと紫煙の行く末を見守ったあと、北山はぼそりと口にした。

 

「――私、葉巻を一度も美味しいと思ったことないんだよね」

「はあ?」

 

 高砂は眉間に皺を寄せた。当然だろう。焦ったようにバーテンダーのほうを見た。当然だろう。バーテンダーは表情を強張らせている。当然だろう。

 ここは会員制シガーバー。限られた者のみ入店を許される、世界から集めた極上の葉巻を極上の酒とともに楽しむ、至高の空間。そんな場所で、わざわざ高い葉巻を吸っておいて、そんなことを口にしてしまうのか、この女は――なんて、思ってんだろうな。高砂は。

 そう思っているのであれば、それは正しい。自分でも莫迦なことをしていると思う。

 三年前、北山は初めて葉巻を吸った。最近葉巻にハマっていると口にした共子は、自宅のキッチンに鎮座したヒュミドールから葉巻を二本取り出した。『ロミオ y ジュリエッタ ロメオ No.1』。一緒に吸わないか、と北山を誘ったのだ。

 

「……何で吸ってんの?」

「さあ……」

 

 最初は拒んだ。どうして寿命を縮める行為をしなくてはならないのか。癌のリスクは高まり、歯は黄色くなる。有害な物質が体を蝕み、やがて依存症を引き起こす。葉巻も煙草も百害あって一利なし。酒と同じだ。

 ではなぜ吸うのか。北山の性質を理解できれば、その問いは簡単に導き出せる。

 

「妹が、誘ってきたからかな」

 

 それだけではない。

 

「おーい高砂」

「はい何すか?」

 

 佐久間が高砂を呼んだ。手招きされたようで、席を離れていった。何だか後ろがとても盛り上がっている。

 二吸い目を始めたところで、磨き上げられたマホガニーのカウンターの上を滑るようにして、おまかせで注文した一杯が差し出された。

 黄金の水面に気泡が浮かび、シュワシュワと心地いい音を奏でている。コリンズグラスの縁には、カットライムが飾り付けられていた。

 

「お待たせしました、バージン・モスコミュールでございます」

 

 これはウォッカとジンジャーエール(本来のレシピではジンジャービア)とライムで作られる『モスコミュール』、そこからウォッカを抜いたノンアルコールカクテルだ。

 元のカクテルに入る酒がウォッカなだけに、それを抜いても味にはほとんど差がない。ウォッカは基本無味無臭で、入っていようがいなかろうが味に大きな影響を与えないのだ。

 ライム果汁によって爽快感の増したジンジャーエール、とでも思ってくれて構わない。

 サラトガ・クーラーとよく似たレシピだが、違いはシュガーシロップとウォッカの有無だ。前者はそもそもそういうモクテルとして作られたが、後者は言わば『ウォッカ抜きモスコミュール』であり、既存のカクテルの派生形だ。

 ちなみにモスコミュールは、銅製マグカップで飲むのが定番だ。今回コリンズグラスだったのは、そのノンアルコール版だったためか。

 

「どうも」

 

 受け取り、葉巻を離して、口に含む。生姜のシャープな匂いが鼻を刺激し、その中でライムの華やかさが活きている。バーテンダーの手元に目をやると、緑色のビンが置かれている。なるほど、ウィルキンソンか。どうりで刺激が強いわけだ。ペプシの次に好きなジュースだ。

 グラスを置いて、葉巻に戻ろうとしたとき。

 

「私も吸っていいですか? アイコスなんですけれど」

 

 細長い箱型の機器を見せてくる。色は水色。加熱式の代表例だ。この眼鏡女はこの店の客らしく喫煙者らしい。もっとも手に持つ品は、葉巻とはかけ離れた代物だが。

 

「甘い臭いとか大丈夫ですか? こっちのほうが苦手って人もいるので」

「大丈夫ですよ」

「そうですか。ありがとうございます」

 

 眼鏡女は胸元のポケットから青みがかった緑色の薄い箱を取り出した。似たような箱が踏み潰された状態で落ちているのを街中でよく見かける。中から白く細いスティックを取り出し、本体に差し込んだ。

 少しして、突き出たスティックを口にくわえ、ゆっくり深く吸っていく。深呼吸するように、肺がいっぱいになるまで。

 限界まで吸ったら、充満した水蒸気を斜め上に向けて、一気に吐き出した。店の空調に乗って、出来損ないのキャラメルポップコーンを燻したような、甘く焦げた匂いが北山の鼻に届く。

 化学的な甘さを帯びた、湿った煙。下手な車の芳香剤のようだ、という感想は、心の中に留めておく。

 

「両親がヘビースモーカーでして、それを見て育ってきたので『煙草なんか絶対吸ってやるもんか』って思ってたんですけれどねぇ。血は争えないようです」

 

 聞いてもいない身内話が始める隣の女。興味はないが、誘ってきておいて話の主導権をこちらに託されても困るので、葉巻の肴に拝聴することにした。

 

「とはいえ誘いがなかったら、こんなもの吸ってなかったと思います」

「誘い」

「やっぱ彼氏ですかね」

 

 ああ、そういう。彼氏彼女に影響されていろいろ始める人っているよね。わかるわかる。別れれば別れるほど趣味が増えるやつ。

 偏見を考えている間にも、話は続く。

 

「先輩さんは、妹さんが誘ってきたからでしたね」

「うん。断ったらすごい残念そうにしてたから、しゃあねぇなって」

「そうですか。妹想いなんですね」

「まあそうだね」

「でも美味しくないと」

「うん。何で吸っているんだろうね」

 

 北山の言葉に、眼鏡女は一拍置いて、言葉を紡いだ。

 

「それはもしかしたら自傷行為かもしれませんね」

 

 ……。

 なるほど、たしかにこれは自傷行為かもしれない。好きでもないことを続ける。やる理由だけはあるから、好きではないけれどやり続ける。れっきとした自傷行為ではないか。

 そういえば自分はバイクに乗っている。夏にツーリングするとき、あのドゥカティは内腿にエンジンの熱気を容赦なく与え続ける。これに耐えた先が絶世の景色だろうが薄汚れた喫茶店のコーヒーだろうが関係ない。あの熱気こそこのバイクの醍醐味だと言って憚らない。これも見方によっては自傷行為でもあるか。

 ああ、サウナにも行っている。前の大晦日から元旦にかけて、同級生とサウナに洒落込んだ。交感神経と副交感神経をいじめるこんな行為、体に負荷をかけるだけでいいことないのではないか。でもあの『整い』の感覚は忘れられない。これも一種の自傷行為ではあるのかもしれない。

 でも、バイクやサウナは好きだから続けている。好きという感情が理由となっている。

 ならこれは? 葉巻は?

 

「結局私はマゾヒストか」

 

 違う。それは戯言だ。この女の前で自己を開示したくないがために口から突き出た虚言だ。

 

「そうですか」

 

 眼鏡女はそれ以上、聞いてこなかった。

 

「妹の悲しむ姿を見たくないからね。だから好きじゃなくても、吸い続けるさ」




 「港区飲み会」の冒頭で葉巻を一本五千円と書きましたが、やっぱもっといいの吸ってほしいので違うやつにしました。それにより冒頭は修正されています。

 おそらくあと4~5話くらいで終わるかと思います。できれば年内に終わらせたい。
 誤字がありましたら誤字報告願います。
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