その清楚系、パチカスにつき。 作:継続率3000倍
北山と眼鏡女の話が終わってから、十数分。葉巻をゆっくりふかし、紫煙を舌で転がし、吐き出して眉を顰め、ノンアルコールカクテルかチェイサーで不快な後味を流し込むという一連の流れを数回繰り返す間に、二人の間に会話はなかった。葉巻を吸うか、アイコスを吸うか。水を飲むか、酒を飲むか。吐き出す音、吹き出す音。飲み込む音、カウンターに置く音。ゆったり流れるジャズ、洗われるグラスから滑り落ちる水、後ろで落ち着きを見せている集団の談笑――あらゆる音がその場の雰囲気を作り上げた。入ると何となく「いい」と感じる、日常から切り離された空間。そこに身を委ねれば、否が応でもリラックスできる、癒しのひととき。
北山にとって、落ち着かない時間である。
「ありがとうございます。――はぁっ」
受け取った水を一気に流し込み、一息ついたように背もたれに身を預けている。視線の先にはウイスキーが整然と陳列されているが、視点は定まっていないように感じる。後輩のいまの姿からして、次に頼む酒を考えているようには思えない。否応なしに浴びせられる後輩の陽気な雰囲気の大部分が、ゴッソリと削り取られているのだ。
豊藤は酒を好む。北山は豊藤を蟒蛇とさえ思っている。そんな人が酒に興味を示さないほど、あの女との会話は疲弊するものだったのか。
「長かったね」
「まったくです」
北山が小声で問う。豊藤は一言と溜め息で返した。
「ハアァ……マジ怠い」
「……」
豊藤が、眼鏡女に“ネロ”と呼ばれた女と店を出てから戻ってくるまで、だいたい四半刻。その間、ずっと話し続けていたのだろうか。
店先でどんな会話をしていたのだろう。そもどういう関係なのか。気にならないと言えば嘘になる。むしろ気になる。対人スキルないしコミュニケーション能力の高い豊藤をこうも疲れさせる相手だ。只者でないのは確かだ。
コリンズグラスの外側に生える水の粒が結合して、グラスを伝って滑り落ちる。周りの水滴を巻き込んで大きくなり、コースターに当たって音もなく消えていった。
葉巻はまだ十分吸える。煙草と違って、一本につぎ込む時間が長い。一時間以上楽しめるものもあり、北山の葉巻もその類のものだ。
灰皿に葉巻を置く。今日も今日とて毒の摂取を十二分に堪能した。これで当分吸わなくていい。本質的に、自傷行為で心が安らぐことはないのだから。
「もういいんですか?」
眼鏡女が聞いてくる。その手には丸みを帯びた直方体の機械が握られている。手元の灰皿には、白いスティックが三本ばかり。
首肯する。自分の金ではないから、こういう贅沢ができるというものだ。社長ならきっと許してくれるはずだ。もったいないと言うのであれば、そうやって言ってきた奴の口に火が消えたこの高級嗜好品を突っ込んでやろう。
「ああそうだそうだ。テキさん」
「はいはいテキさんですよ」
さもいま思い出したというような口振りで、豊藤は眼鏡女に視線を寄こす。
ああ、そういえばこの二人は元々同じVTuber事務所所属だったな、と今更ながら思い至る。豊藤はそこを見限って契約を解除し、既に離反している。
「伝言です。ネロさんから」
「伝言? あれ、そういえばあの子――」
間に挟まった北山は上半身を前に倒すか後ろに仰け反らせるかで悩んだが、両脇とも後ろに仰け反らせて会話しているため、北山はこのまま何もしないことにした。そしてここで初めて北山も、あの女は戻ってきていないことを知った。店の出入口や店内を見回しても、たしかにそれらしき姿は一つも認められない。
しかし、気怠さを隠さないその口調に、後輩の律義さを垣間見る。たとえ面倒臭くても、やるべきことはやる。なすべきことをなす。
「『先に帰ってる』……だそうで」
「また病んだ。あほくさ」
食い気味の返答は断定だった。やれやれ、と肩をすくめている。
眼鏡女――豊藤から“テキさん”と呼ばれた女は、アイコスからスティックを引き抜いて灰皿に放ると、席を立つ。
「すいません、今日のところは私も失礼します。話に付き合ってくれてありがとうございます」
「いいえ、こちらこそありがとうございました」
「はい。シーちゃんも、ネロが迷惑かけてごめんね。またばったり会うようなことがあっても、こんな状況にしないように言い聞かせておくから」
「それはどうも。あと、その渾名は無効ですよ。私はもう辞めた身なので」
「あっそうか。どう呼べばいいか……」
眼鏡女は五秒ほど考えたあと、「ま、いいか」と言ってポケットティッシュ専用収納ケースと見紛うほど小さい肩掛けバッグに、アイコスをしまう。生地が黒いため、ちらりと見えた中に、アイコス以外が入っていたかどうかの判別はできなかった。もしかしたら本体以外にはカートリッジが入った箱ぐらいは入っているかもしれない。
ハイブランドは往々にして実用性皆無の商品を世に送り出しているが、一体なぜなのだろう。今回の場合、北山的には小さすぎるように見えた。大きすぎても困りものだが、そのほうが入らないよりかはマシではないか。それを使うのがいまのファッションであるのは理解できるが、それにしたって財布と家の鍵を入れただけでいっぱいになってしまいそうなバッグを使おうとは思えない。そもそも使おうと思う思考がない。
この場において至極どうでもいいことを長々と考えた結果、自分は実用性を重視するタイプ、という最初から知っている結論に行き着いた。時間の浪費であった。
「あ、そうだ!」
パンッ、と手を合わせる鈍い音は、眼鏡女の華奢な両手から響いた。
「今度うちの企画で、各ライバーが配信の最後に言うキーワードを集めて応募すると豪華賞品が当たるっていうイベントをやるんですけど」
「へえ。いつから?」
「九月に入ってからです。で、今日のお礼で、先輩さんにだけ特別に私のキーワードを教えちゃおうかと」
「は?」
「何言ってんの?」
思わず口を突き出た言葉に含まれる感情は、驚愕以外に何もない。他の感情を追い抜いてそればかりが飛び出してしまった。対して豊藤の言葉には、驚愕よりも強い怒気を孕んでいる。NDAが何たるかまるで理解していない、という社会人として清く正しい心構えに基づいた、正当な怒りだろう。
そう、口振りからして、まだ世間に情報公開されていない企画だ。つまりいまからこの女がやろうとしていることは守秘義務契約に抵触する。いまの時代、マネージメント契約においてそういった契約を結ばない組織なんていないはずだ。眼鏡女だってそういう契約を締結しているはずだ。
しかしこいつは、あろうことか部外者が何人もいる場で、そんなこと言い放った。「私はいまから契約違反を犯します」と、堂々と宣言したのだ。
これによってVythonが金銭的な損害を被ることはないかもしれない。だが「Vython所属タレントのコンプライアンス意識は杜撰、Vythonのコンプライアンス遵守の姿勢も杜撰」という評価はもちろん、眼鏡女自身の信用・信頼の損失は避けられない。契約違反は誰かに迷惑をかけるだけでなく、自分自身にも迷惑がかかるのだ。
「……」
北山を見る眼鏡女。絵に描いたような笑みを浮かべているが、しかしの顔には何か含みがあるように感じられて、薄ら寒いものを胸中に抱いた。
この女は、何を考えている。
「それではちょいと失礼しますね」
「ちょ、おい――」
北山が拒絶を明確に示す間もなく、耳に口を近づけてきた女。ぼそりと、眠った子供におやすみと囁くように優しく、短い言葉を口にした。
「――」
「……何?」
七文字の日本語だった。おそらく意味をなさない。アナグラムかと思って並び替えてみても、意味のある単語は出てこない。不可解な文字列だ。
「ではそういうことで。家帰ったらタイタニック観てボロボロ泣く予定があるので!」
耳元にへばりついていた熱気ごと身を引いた眼鏡女は、バーテンダーに「チェックで!」と言い、スマホでさっさと支払った。北山の返答など待つ気配もない。丸眼鏡の奥の瞳を一度もこちらに向けることなく、颯爽と出口へ向かっていった。ガラン、とドアベルの鈍い音がやけに響いて聞こえた。
灰皿に横たわるアイコスのスティックに、紅色の痕があった。北山はその色が、見慣れているもののように思えた。
「何なんだあれ」
「最初から最後まで変な奴だったな」
後ろから高砂が、空になったグラスを両手いっぱいに持って歩いてきた。テーブル席の連中のグラスをまとめて持ってきたのだろう。カウンターにそっと置いて、手についた水滴をハンカチで拭いている。
「聞いてた?」
「うん。社長連中のダル絡み相手にしつつ」
「お疲れさん。……で、事務所でもああいう具合だったの?」
これまでに味わったことのない、不愉快極まりない気分だ。あの女との短いやり取りの中で一番強く抱いた印象は、やはり胡散臭さだ。次点で、得体の知れなさ。初対面だというのに見透かされているような感覚だった。何の役にも立たない透明板の向こうから、貴方のことは最初からわかっていますよと言わんばかりの視線が、北山の身を何度も突き刺してきたのだ。これは他人への共有が難しく、北山本人しか本当の意味で理解できない面妖な感覚である。
「……そうですねぇ」
頰杖を突く豊藤。思考を張り巡らしている。およそ五秒考えたのち、口を開いた。
「私は基本的に周りと距離を置いて接してましたけれど、あっちは距離ではなく霧でしたね。濃霧です濃霧。本心、核心に触れさせないというより――そもそも見せないようにしている」
「他人が距離が近づけてくるのは許すけれど、本心には触れさせない、ってことか」
「そんな感じですね。それに気づいている人は、あのグループの中には私以外にいなかったと思います。あと、私が知っているあの人の数少ないプライベート情報に、本当の情報は微塵も含まれていないかと」
高砂が生唾を飲み込む音が聞こえた。なるほどね、あの女はそういうタイプか。
「虚言癖ってわけじゃないんだよな」
「それとはまた意味合いが異なるよ。虚言癖の人間ってのは、主に自分をよく見せようとしたり、矜持を維持するために嘘を吐く。承認欲求の末路みたいなもの。病的な物の場合はまた変わってくるかもしれないけれどね。でもあの女の場合は多分、嘘を吐いてでも自分の内側を見せないようにしている」
「拒絶心……?」
「いや……」
バージン・モスコミュールを一気に飲み干し、口と喉が炭酸に容赦なく痛めつけられるのを感じつつ、
「隠し事でもあるんじゃないの?」
水滴のついた右手を、シャツに乱暴に擦りつけた。
年内無理でした!!!!!!!!!!!! 怠惰!!!!!!!!!!!!!