その清楚系、パチカスにつき。   作:継続率3000倍

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悲劇

 株式会社Eveの勤務時間はコアタイムありのフレックス制だ。

 コアタイムは十一時から十六時、昼休憩は一時間半。休憩時間については、会社創業メンバーの一人である里見がメインシナリオライターを勤めていたころ、当時から社長だった佐久間に「休憩一時間って少ないと思わんか?」と長年ダル絡みを続けた結果だそうだ。北山が入社した時点ではもうこの休憩時間となっていたため、里見の執念と佐久間の苦労を肌で感じたことはない。一時間半という余裕のある昼休憩に、ただただ感謝するばかりだ。

 

「お先でーす」

「お先に失礼します」

 

 二〇二〇年も残すところ二ヶ月。十一月初週の金曜日、二人は十八時に退勤した。

 ――オフィスに出勤する場合、北山は基本的に八時半には持ち場につくようにしている。コアタイムが始まるまでにメールやチャット、その日のタスクを確認し、十一時までに自分の判断だけで書き進められるものを書き進めるためだ。北山は、一日二万文字を目標にしている。何らかの緊急の対応を迫られていなければ、三分の一以上――平均して七〇〇〇文字を二時間強で書き上げる。ライター組の中で一番の速筆の北山だからこそできる芸当だ

 会社の風土もあるが、フレックスタイムという制度が働いて、九時の時点で会社にいるのは北山以外には片手で数えられるほど少ない。北山の次に出社した者は、入室してまず最初に打鍵音を聞くことになる。時折微かに聞こえる北山の独り言とともに途切れることなく響くそれは、この会社のある種の風物詩だ。

 で、退勤時間が十八時。佐久間がいつもこの時間に退勤しているため、社員の大半がそれにならっている。北山も平時はこの時間に退勤していて、本日もこの例に漏れない。

 もっともここ最近は繁忙期に突入していて、このルーティンは崩れかかっているのだが。

 

「太陽ちゃん、もう着いてるって」

「早っ。軍資金スらなければいいですけれどね」

 

 ビルから出て秋葉原駅へ。金曜日の帰宅時間帯は、外国人よりもスーツ姿が割合多く見受けられた。徒歩一分もかからないような移動の間に、何人のサラリーマンとすれ違っただろうか。先日木枯らし一号が到来し、東京の中心部にも冬の兆しが訪れた。マフラーを巻く人も目立ち、人によってはコートも着ている。

 『滅魔士RPG 滅ッチャ好評配信中!』などと書かれた自社IPの広告を横目に改札を通り、山手線内回りのホームへ。十八時十三分の電車に乗れそうだ。

 観光客と会社員が行き交う中、2番線の列に並ぶ。前に白人の男二人が並んでいて「本当にネットで見た通りだったな。観光客で溢れかえってた」「ああ、俺たちみたいにな。日本人を探すのがウォルドーを探すときぐらい難しい」「俺らが日本人と思った奴らはもしかしたら全員中国人か韓国人なんじゃないか」などと話している。たしかにここ最近のアキバにオタクの街って雰囲気は感じないね……と会話を盗み聞きしてぼんやり考えていると、後ろに女子高生四人組がキャイキャイ騒ぎながら並んできた。四人の手には、第三次ブームと称され一昨年から昨年にかけて流行した、タピオカミルクティー。二〇二〇年十一月現在、その勢いは随分衰え――後先考えずオープンしたであろう専門店は続々と閉店の一途を辿っている。

 第二次は私が高二のときか。あの時代のアキバが一番楽しかったのは確かだ。

 スピーカーから電車の接近メロディが鳴り響く。銀と黄緑の電車が、そろそろ視界に入ってくるはずだ。

 

「何打つ予定?」

「空いてたら源さんにしようかなと。出玉速度速いので、釘次第でいまからでも勝負できるかと」

「あぁーなるほど、いい選択。私はノーマル機の後ヅモ狙いかな。ノーマルなら何もできずに負けることはそんなにないだろうし」

「いやーわかりませんよ。合算もボナ比率もよくても全然当たり引けないときありますからね」

「それはね、そうね。たしかに。だから消極的な勝負になるかな。勝っても負けても振れ幅は小さい」

 

 2番線に十一両編成の長い列車が入着する。愛知ではどんなに長くても八両編成までだった。ドアは四つあり、一車両あたりの長さも名鉄を凌ぐ。この車両だけで、東京都心の人口密度の高さを如実に物語っていた。

 

「この前、家の近くのパチ屋で三〇〇〇回転も回ってる源さん見ましたよ」

「わあ……よくそこまで回したよね。よく回ったのかな」

「ステージも風車も道もヘソもかなり良い調整だったので、思っているよりマイナスにはなってないかもしれませんね」

「でもどこかで気づくべきだよね。『あっこれ無理だな』って」

「よく回るこの台を離れたくないっていう心と、自分が離れたあとすぐ当たったら嫌だっていう心が投資に拍車をかけたのでしょう」

「よくないよくない」

 

 などと言いながら車両に乗り込む。席は空いていないので、真ん中のほうに進んで吊り革を摑む。

 降りる駅は豊藤の自宅の最寄りである大塚。秋葉原から山手線内回りで九駅先、時間にして一七分。北山と豊藤は、これから豊藤の親友である綿貫で合流し、駅近くのホールに向かう。

 立冬を明日に控えた、曇天の金曜日――絶好のノリ打ち日和だ。

 

 

 

 『ノリ打ち』とは何か、説明しておく必要があるだろう。これは二人以上で遊技するときに用いられるルールの一つだ。

 基本的には『遊技を終えたあと全員の回収額から投資額を差し引き、最終的な収支を人数で割って均等に分配する』というものである。ローカルルールとして、負けは自己責任で勝ったときの浮いた利益だけを分配する方式などがあるが――属するコミュニティ・グループによってルールは様々だ。

 これをするにあたって、投資上限や精算のタイミング、投資上限に到達した際の対応などをあらかじめ決めておく必要がある。トラブルを未然に防ぐためであり、これが杜撰だとその場で即座に人間関係の破綻を招いたり、禍根を残す破目になるのだ。

 ともあれノリ打ちとは、勝ったときは均等に嬉しさを、負けたときは均等に痛みを共有するという遊び方なのだ。

 ――十八時三十分、大塚駅に到着。

 待ち合わせ場所でもあり、目的地でもある店は、北口を出て一〇〇メートルもしないところにある。

 

「あっいた」

 

 店に面する路地の先、入り口から少し離れた場所に立って文庫本を読んでいる女がいた。

 スロット島でよく見るカエルが描かれた缶バッジを付けた黒いキャップを深く被っている。下に流れる黒髪ロングは艶やかで美しい。前髪は目元ギリギリで切り揃えられた、いわゆる姫カット。色白の肌に映える、少し跳ね上げたキャットラインのアイメイクが印象的だ。

 ハートのピアス、同じくハートの装飾があしらわれたチョーカー、『V』のワッペンが胸元に刺繡された白黒のスタジャン、レザーのロングパンツ、厚底のコンバットブーツ――おまけに両手はどこぞの小説家よろしく指抜きグローブをはめている。

 パンクなストリートファッションといった装いで、この季節でもファッションセンスに綻びは見当たらず、一貫していた。

 ほかでもない、綿貫太陽その人だ。

 

「お待たせー」

「こんばんわ」

「おっ来た来た」

 

 呼びかけに気づき、綿貫は本を閉じる。閉じられたスタジャンのファスナーを開き、内ポケットに差し込んだ。

 

「優子も洋子さんもお疲れ様です! お待ちしておりましたよ」

 

 豊藤の親友、綿貫太陽――豊藤をパチンコの世界に誘った張本人だ。二人は大学時代に知り合ってすぐに意気投合し、いまや互いの自宅の合鍵を渡し合うほど深い間柄となっている。豊藤がSevenSYとして活動していたとき、友人として度々配信にゲスト出演していて、ファンから“盟友”などと呼ばれ親しまれた過去を持つ。

 現在は東京のラジオ局・芸文放送のラジオパーソナリティ“DJ ふーる”として活動中。軽妙洒脱なトークと話題に深く切り込む姿勢が人気を博し、二年目にして帯番組のパーソナリティに大抜擢。早朝五時から八時の報道番組『芸文モーニングコール』の月曜から水曜日を担当し、通勤・通学中のリスナーに声を届けている。

 また、深夜の冠番組も隔週で放送中。番組名は『DJ ふーるとバカになれ!』――サブカルチャー系の番組だ。様々なジャンルのアーティストを招き、持ち前のトーク力でゲストの魅力を引き出している。芸文放送の新しい番組の中ではとくに人気らしく、このままの調子で続けていけば毎週放送も夢ではないそうだ。

 ほかにも、YouTubeチャンネル『DJ ふーるの裏番組』にて、単身での配信活動も行っている。チャンネル登録者数は三十万人弱――本人曰く『ほとんどは優子のファンですよ。私の配信でSevenSYが出てくるかもしれないって思ってるんじゃないですか』とのこと。なお現在に至るまで豊藤のゲスト出演は一切なく、配信もVTuberやVライバーのようにアバターを使った方式ではなく、寄せられたファンアートがスライドショーで流れる画面から声だけが流れるというストロングスタイルだ。ラジオパーソナリティの配信としては模範的なのかもしれない。

 

「寒かったでしょ。さっさと入ろうか」

 

 北山の視線の先に、綿貫の指先がある。指抜きグローブから出ている部分だが、そのいずれもほんのり赤く染まっている。冷え性の典型的な症状だ。

 我慢せず普通の手袋で覆えばいいものを、自分の好きなファッションを優先するあまり自分の身を犠牲にしてしまっている。その姿勢に矛盾を感じずにはいられない。だが指摘するのが野暮であることぐらい言われなくてもわかっている。

 ともかく、割と長い時間を外で待っていてくれた綿貫に、北山は感謝した。

 

「じゃ、このままシームレスにノリ打ち始めちゃいますか」

 

 綿貫がそう言うと、早速ホールに入っていく。二人もそれに続く。少々暖かすぎるような店内の淀んだ空気が、鼻腔と肺を満たした。

 店内は遊技客で満ちている。このホール――北山は初めての訪問だが、イベント日と見紛うほど活気づいている。金曜日の帰宅時間帯ということもあるだろうが、この時間から真剣勝負に挑む戦士たちの熱気を肌で感じ取れる。

 

「グルで言った通り、投資額は一万円までです。今回のルールは分配に投資額を考慮しないため、全員できる限り一万円まで頑張って使い果たすようにしましょう」

「死ぬときは一緒だね」

「この込み合う時間帯でいかに勝ちに繫げられるか……」

 

 ちなみに、と綿貫は振り返って口にする。

 

「二人が来る前に店内をざっと見回ったんですが、パチンコはメイン機種はボーダーギリギリ下回るような釘具合みたいですね。それ以外ほとんどマイナス調整だと思っておいてください。月曜に入った禁書目録(インデックス)(藤商事《Pとある魔術の禁書目録》のこと)は唯一ボーダーちょいプラス調整っぽいですけど空くことはないでしょう。スロはいい台はどれも空いてないし空かない、という状況です。凱旋は来週月曜日が最後なのでどんなに挙動の悪い台でも空かないかなと」

「あー……」

 

 思わず口から声が漏れ出る。

 現状この店は回収モードなのだろう。釘が店側に有利な調整になっている台(言い換えると、理論上客が有利になる抽選回数を受けられない釘調整の台)に座るのは進んで死に向かうようなものであり、この時間帯に空いているスロットに座るのもまた自殺行為であり――なるほど、幸先は悪そうだ。

 

 

 

 ノリ打ちに誘ってきたのは豊藤で、北山は豊藤と綿貫がいつもしているというルールのノリ打ちをすることになった。

 念頭に置いてほしいのは、本日の主目的はこれではないということ。あくまで寄り道して遊んでいる感覚だ。というのも、これが終わったら北山は豊藤の家に行き、そのまま夜を明かす。豊藤、綿貫とともにお泊り会をするのだ。

 これは以前から豊藤が望んでいたイベントだったそうだ。北山は豊藤の家に何度か遊びに行ったことはあったが、先の星田宅での催しのように一泊したことはなかった。豊藤曰く、こちらから何の脈絡もなく貴方の部屋に泊まりたいなどと頼み込むのはいかがなものか、あまりにも不審だ、と思っていたそうだ。なるほど、言わんとすることはわかる。――だから豊藤から「今度お泊り会しません?」と誘われたとき、北山は豊藤のことが愛らしくて仕方なかった。

 お泊り会に参加する理由の一つはもちろん、豊藤から誘ってきたこと。それほど私は信頼されているのだな、と関係が強固なものであると実感した。そして、それとは別の理由が一つあるのだが――それはいずれわかる。

 とにかく、ノリ打ちが終わったら晩飯を食べに行って、それからお泊り会だ。年長者として二人の気持ちを落とすわけにはいかない。台選びは慎重に慎重を重ねなくては。

 ――パチンコを見て回る。綿貫の報告通り、パチンコの釘調整は平均的に厳しいものとなっている。客付もこの店のメイン機種であろう《P大工の源さん 超韋駄天》や《CR真・北斗無双》以外いまいちだ。ボーダーを下回るであろう台に挑むほど無謀で。どんなに好きなコンテンツのパチンコでも、スルーに限る。

 スロットは、パチンコと比べると賑わいを見せている。5号機と6号機が混在して設置されている現在、やはり遊技客が打っている台はほとんどが5号機だ。払い出し二四〇〇枚上限の6号機をあえて打とうとする者は、今日のこの時間帯にはいなさそうだった。

 綿貫の話の通り、現在スロットのエリアはほかと比べて人の往来が多い。とくに《ミリオンゴッド-神々の凱旋-》の一帯は、時期を考えると致し方ないだろう。凱旋はスロットの世界では言わずと知れた伝説の機種で、どんなパチンコホールでもスロットのメイン機種にこれを据えているはずだ。そんな代物が、本年の十一月九日――三日後に設置期限を迎える。いよいよ伝説が終わりを迎えるのだ。現金を投資しての遊技ができなくなるため、この台に思い入れのある者らが()()()()のために集まってきているのである。

 

「一万で回ってないAT機は打てないし、やっぱノーマル機かな……」

 

 とはいえ今日このタイミングで打つような機種ではない。凱旋の性質上、たった一万円で勝負するのは無茶を通り越して無謀だ。碌に出玉を増やせずに諭吉一人が消失する未来が明瞭に見える。仮に空き台に座ったとして、そこに座って当てるまで時間がかかるのはもちろんのこと、万が一ATが何回も継続してしまったら、閉店までにすべて取り切れるだろうか。ゆえに、北山はこのエリアを通り抜けて、ノーマルタイプのほうへと向かった。

 《押忍!番長3》《SLOT魔法少女まどか☆マギカ2》という、凱旋の穴を埋めて今後のホールの看板機種になるだろう二つに隣接したノーマルタイプエリア。AT機に疲れた人はもちろん、こっちが好きと言って憚らない生粋のノーマル好きたちが今日も出目に齧りついている。

 アクロス系は満員御礼。どの台も非常にいい挙動を見せている。それに対してハナハナはあまり客が付いていず、本日のハナハナは期待しないほうがいいのかもしれない。

 ではジャグラーはどうだろうか。ジャグラー島を覗くと、アクロス系ほどではないものの、少なくともハナハナよりずっと客がいる。なるほど、今日のスロットはアクロス系とジャグラーにそこそこ設定が入っているのだろう。

 

「これは……」

 

 歩いていて目についたのは、全体の配色が紫のジャグラー《スーパーミラクルジャグラー》だ。このジャグラーは他のジャグラーに比べてプレミア演出が多彩なところが特徴の一つだろう。そのスーミラのデータランプに注目していると、その台で遊技していた作業着姿の中年の男がサンドから会員カードを抜き取り、椅子の下の荷物をすべて持って立ち上がった。身を避けて男が通れるスペースを作り、男はそのスペースからその場をあとにした。

 一時離席を示す札は置かれていない。つまり遊技を終えたのだ。

 

「えっマジか」

 

 ここで前から通路を早歩きで通ってきた大学生らしき金髪の男が、北山が見ていたものと同じデータランプを凝視。

 いかん取られる!!

 このジャグラー台を確保するべく滑りこむように着席した。隣の人に脚が当たってしまったが、この際気にしない。軽く会釈してから財布を取り出す。

 

「危なかったぁ。ここ通るのが一秒でも遅かったらあの金髪に座られてたね」

 

 ホクホク顔で財布から諭吉を引き抜き、サンドに突っ込む。貸出ボタンを押すと、四六枚のメダルが下皿に流れてくる。摑んで揃え、スロットに投入。回胴を回し始める。

 

「これは凄い……打たない根拠がまるで見当たらない」

 

 ボソボソと独り言をつぶやく。それも無理はない。何せこのスーミラのこれまでの挙動が、あからさまに高い設定を示しているからだ。

 『総回転数五〇〇四(ゲーム)、現在回転数二八〇G、ビッグボーナス二六回の1/192.4、レギュラーボーナス一四回の1/357.4、ボーナス合算約1/125.1、ジャグ連率(一〇〇G以内の当選)47.5%』――これが北山が確保したスーパーミラクルジャグラーの、これまでのデータだ。

 ボーナス合算確率が設定6の公称値1/136.2を、そしてビッグ確率1/230.8を大きく上回っているが、これだけで判断してはいけない。ジャグラーシリーズというのは、設定が高ければ高いほどレギュラーの確率がビッグに近づいていくものだ。

 例えばボーナス回数が多かったとしても、ビッグの回数にレギュラーの回数が追いついていなければ、ビッグの引きが強いだけの低設定、という推測が立てられる。逆にレギュラーの回数がビッグを上回ると、ビッグの引きが弱い高設定と考えることができる。基本的にジャグラーは、そういう考え方で構わない。

 しかし例外がある。このスーパーミラクルジャグラー、設定4から6のレギュラー確率に特異な差がある。

 設定4の確率は1/341.3に対して、設定6は1/332.7。これだけを見ると順当な設定差だと感じるだろう。問題なのは、設定5の確率――1/304.8。何と設定5のレギュラーは、6のそれを大きく上回っているのだ。

 何が言いたいのかというと、レギュラーがビッグを上回るジャグラーは()()()()()()()()()()の可能性を強く感じさせるが、スーミラに限っては最高設定ではない設定5の可能性を強いものにしてしまう、ということだ。

 ここで北山の台に注目してほしい。ビッグとレギュラーの回数の差はどうなっているだろうか。

 

「これは6ツモったでしょ……っ」

 

 そう、ボーナス合算が設定6の確率以上のものを叩き出している状況で、レギュラーがビッグの回数を下回っている――すなわち、設定5の可能性を下げているのだ。

 もちろん設定5は高設定で、出玉の面では大きく期待できる。だがノリ打ちという状況下での後ヅモ狙いとなると、データランプが映す履歴からできる限り高設定と推測できるものに着席したい。この台は総回転数が五〇〇〇を超えているため、北山の推測には高い信憑性がある。

 つまりこのスーパーミラクルジャグラーは、設定6に強く期待できるのをあからさまに示す、夢と希望に満ちた台なのである。

 いやーマジで座れてよかったぁー! まだ勝ったわけじゃないけれど!

 こういう台は、北山と同じく後ヅモ狙い(過去に他人が遊技していた台の設定狙いのこと)の連中や、ハイエナ(期待値の高い台が空くのを待って店内を徘徊し、空いたら着席して打つ行為。または、それをする人)の輩にとって恰好の獲物だ。あの金髪に先を越されなくてよかった、と北山は酷く安堵した。

 

「さあ――私を楽しませてくれ」

 

 そしてニッコニコの北山は、意気揚々とレバーを叩いた。

 

 

 

 現在の時刻は十九時二十分。

 北山のスーミラ――現在回転数六一二G。

 ノリ打ちの投資上限一万円を全て注ぎ込んだ先に得られたのは、三三二Gの回転数だけであった。

 

「……?」

 

 何で??????

 根拠はあった。いまから打つのに十分な根拠だった。とてもとても期待していた。

 しかし現実は非情である。一万円はサンドに消え、メダルは筐体に消え、自信は過信となって心の深淵に消えていった。

 わたしの……わたしのおーあたりは……どこ?

 「そこになければないですね」と心の中に返してきたのは深淵から顔を覗かせたイマジナリー共子だった。お前マジぶっ殺すぞ。

 

「ハアアアアァァ……」

 

 背もたれに身を預け、ここ一番の深い溜息を天井に向けて吐き出す。

 『競馬に絶対はない』という格言があるが、これはスロットにも言えることだろう。

 スロットに絶対はない。目の前の情報を過信すると足をすくわれかねない――この女のように。

 さて、ここで今回のノリ打ちのルールについて整理しておきたい。

 豊藤と綿貫がいつもするノリ打ち――『投資上限一万円を、できる限り使う。遊技後、投資は考慮せず利益だけを分配。投資上限以降の遊技で万が一利益が発生した場合、その利益は分配の対象にはならないが、ノリ打ちに貢献できなかった罰としてジュースを一本奢る』。

 もう一万円を全て投資しているため、これ以降の遊技はノリ打ちではなくなる。仮に収支がプラスで終わった場合、その分全てが自分の懐に入ってくる状態だ。

 

「うぅん……」

 

 ビッグ、レギュラーともに引き当てられなかったが、しかし現在までの履歴を考慮するとあまり離れたくない。北山はこれまでに引いてきた小役を全て覚えているからわかることだが――明らかにベルとチェリーを多く引いていた。たった一万円、三〇〇ゲームと少しばかりの実践なのだが、いままでのジャグラーの実践経験による感覚も含めて、低設定とは格段の差だった。

 この台は確実に設定6だ。そう断じた。

 これなら、この台ならば、もう一万円入れてしまえば今度こそ当てられるのではないか。

 

「……いや駄目だ。来週の記念日のために取っておかなきゃ」

 

 北山はひと月の投資は四万円までと定めていて、どんなに()()()であってもこの原則を遵守している(ただし例外もある)。

 近々北山の自宅近くのマイホールが開店から三〇周年という節目を迎えるのだが、今年のその日は奇しくも旧イベント日(広告規制が厳しくなる以前、ホール側がイベントと称して大々的に告知していた特定の日。『射幸心を煽る』という理由から現在はそのような示唆が大変難しくなっているが、その日付はいまでも『旧イベント日』『旧イベ』『特定日』と呼ばれ、店選びの指標の一つとなっている)と被っていた。あの店長のことだ、必ず様々な台に設定を入れてくれるはずだ。軍資金は少しでも残しておきたい。

 こんな状況でも、己を律して欲望に打ち勝つ。これがもしかしたら、ストットとの正しい付き合い方なのかもしれない。

 そういうわけで北山は、データランプが映す履歴情報を写真に収め、

 

「誰かこのスーミラを救ってくれない?」

 

 誰か一人でも手が空いていたら、この台を引き継いでノリ打ちに貢献してほしい。その思いを込めて、グループに写真とメッセージを飛ばしてみた。

 

「ディスクがいい感じなのでパスで!」

「超韋駄天打ってます! あんまり回んないです!」

「あれ、おかしいな。さっき釘全然よくないって言ったはずなんだけど」

 

 救いはなかった。

 

 

 

 その後の北山はというと、休憩スペースで漫画を読んだり1パチで遊んだりしながら時間を潰していた。「パチンコ打つときぐらい何も考えたくない」とは北山の言で――スロットを打つときはいろいろ考える必要があるが、パチンコは釘さえ読めればあとは何も考えずハンドルを捻っていればいいだけだから楽だった。

 二十一時半を回り、店内はぼちぼちまばらな稼働状況となっていった。北山が大学座学中にバイトしていたホールもそんな感じで、変な懐かしさを覚えた。

 店の外に出て外壁の側でしゃがみ、膝を抱えつつ器用に黒酢ドリンクを飲む北山。ツンとくる酸味とシャープな甘みが苦しみの味が残る口の中を洗い流してくれる。ズゴゴゴとストローを鳴らしていたら、視界の脇に女が入る。謎の古物商で特殊景品を交換してきた綿貫だった。

 

「お疲れ様でーす! いっぱい出してきましたよー!!」

 

 ニッコニコホックホク顔の綿貫が、端玉のヤクルトが入ったコンビニ袋を提げて手を振って戻ってきた。二時間半ばかり前までは同じようなテンションでスロットを打っていたはずだが、自分はいったいどこで間違えたのだろう。

 綿貫の隣に豊藤はいない。店に出る直前に2スロで遊んでいるのを確認している。ただいまメッセージで豊藤を呼び出している。合流したら豊藤宅に向かう予定だ。

 

「優子は何やってます?」

「あの子は超韋駄天でノリ打ち代全部溶かしたあと、自費で2スロの《あの花》打ってる」

「ええ……また凄いチョイス。20スロでは絶対打てないですよ」

「『これだけにはなっちゃ駄目だよメンマ』とか言いながら黙々と打ってたからね。『セグに注目!』ってメンマに言われて至近距離でセグ凝視してたからね」

「不審者極まりない」

 

 言いつつ手元の空になった紙パックを折り畳んでいると、自動ドアが開き豊藤が出てきた。その表情、何だか晴れやかだ。

 

「おう、どうした優子」

 

 綿貫が問う。豊藤はビシッとサムズアップを決めると、

 

「相変わらずクソみたいなマイホだねッ!!」

 

 と威勢よく言い捨てた。マイホがクソなこととクソ台打って負けることに因果関係はあるのか、気になるばかりである。

 

 

 

 綿貫の大量出玉により、今回のノリ打ちは結果的に大勝利となった。

 根拠は十分だったが機嫌の悪いスロットに翻弄されてストレートに負けた北山と、親友の調査によってボーダーを下回ると推測されているにもかかわらず着席して全部スった豊藤。二人合わせてマイナス二〇〇〇〇円の痛い損失だ。そんな状況で、しかし綿貫は冷静だった。

 綿貫が打った台はサミーのスロット《ディスクアップ》。技術介入が売りのA+ART機で、ノーマルタイプの中でも人気のある機種だ。設定1でも完全攻略で機械割(投入した枚数に対して払い出されるメダルの期待値。『その台がどれだけメダルを戻してくれるか』という設計上の指標)一〇三%に達するという破格のスペック、出目と演出の絶妙なバランス、ノーマルビッグ中のビタ押しでARTゲーム数を上乗せしていく自力感溢れるゲーム性――「スロットの面白さ」という面では爆裂機にも勝るであろう。

 スロットの一つの完成形とも言えるのが、ディスクアップというスロットなのだ。

 

「いやぁー、凄まじく伸びましたよ」

「本当にね。あんなに右肩上がりなディスクって全然見たことないよ」

「源さんにはしてやられたけど、結果オーライだね」

「あんたはもうちょっと申し訳なさを出しなよ」

「うへへ」

 

 悪びれない後輩に、思わず溜息を吐く。

 綿貫の収支、プラス四八五〇枚。これを特殊景品に交換して、さらに特殊景品をTUCなどというたまたま近くにあった古物商で売却し、最終的な金額は八万七千円となった。この金額は、店がメダルを何枚貸しにしているか、その地域の交換率はいくらかによって異なり、例えばメダル一枚二〇円の等価交換だった場合はいまよりもっと高い額になっていた。こればっかりは遊技する側がどうこうできる問題ではないため、致し方ない。

 それはそうと、ディスクアップという大きく跳ね上がりにくいスペックのスロットで、こんなに大きな成果を挙げられるのは稀なことに注目してほしい。北山はこの機種でここまで出したことはなく、まんまと軍資金を奪われた二人にとっていまの綿貫は後光が眩しくて直視できない神様のような存在だ。正しくノリ打ちの太陽、スロットの天照大御神であった。

 

「分配は優子の家に行ってからやります?」

「そうだね。あまり外で大きな金を出したくないし」

「わかりました。じゃあ晩飯食ってから優子ンちに行きましょうか。おすすめのワンタン麺の店があるんですよ」

「いやぁーこの時間のラーメンは太るー」

「ワンタンいいねぇ……あれ、そういえば荷物はどうしたの」

「先に優子のとこに置いてから来ました。合鍵持ってるんで」

「ああそういうことね」

 

 かくしてノリ打ちは終了した。綿貫の活躍により、全員プラス収支で終えられた。これを僥倖と言わずして何と言えようか。

 綿貫が案内したラーメン屋は大塚駅の南、いましがた遊んでいたホールとは反対側の方向にあるワンタン麺のチェーン店だった。

 偶然にもこの店は――以前長宗我部に紹介された、美味しいワンタン麺の店だった。新宿の店舗で実食済みのため、この店の美味しさを知っている。

 この店は金曜日限定でワンタンを無料で増量してくれるため、北山的お気に入りラーメン屋の一つとなっていた。

 黒豚雲吞面と餃子を注文した北山。ワンタンをレンゲですくい、そこに鎮江香酢と千切り生姜を入れて食べる。

 豚とスープの旨み、酢の酸味、生姜の辛味、そこに一万円の損失と苦味が合わさって――この味は生涯忘れられない記憶となって残り続けるだろう。

 

 

 

 豊藤が最初に風呂に入り、ほか二人があとに回るのは必然だった。家主なのだから一番風呂に入るのは当たり前、という話ではない。

 三人の頭髪がそれぞれどんなものか、考えてみてほしい。

 

「オイル塗りましたかー?」

「抜かりなく。じゃ、お願いね」

「おまかせください!」

「ちゃちゃっとやっちゃいましょうや」

 

 豊藤はセミショートヘアで、洗うのも乾かすのも、比較的短時間で済む。現在紺色に染めているため、そのヘアカラーのためのケアを含めても、ほか二人に比べたらどうってことない。

 そう、ほか二人――北山と豊藤は、ロングヘアだ。誰がどこからどう見ても、黒髪ロングなのだ。両者とも腰まで届くほど長く伸ばしているのだ。しかも綿貫は、腰を超えて臀部にまで差しかかっている。

 髪が長いとどうなるかというと、その分ケアに要する時間が増すのだ。美しさを維持するにはそれ相応のコストを掛けなくてはならないが、そのコストの中には時間も含まれている。タイムパフォーマンスだ何だと騒がれているこの令和の時代、二人はその概念から真っ向から対立する髪型をしてるのだ。

 それゆえ、二人が豊藤のあとに風呂に入るのは至極当然のことであった。

 

「サラサラですねー」

 

 風呂場に入る前に、髪を櫛でといて絡まりを直して埃を落とす。風呂場に入ったらクレンジングでメイクを落し、それからシャワーで髪を濡らす。

 シャンプー前の予洗いは一般的には一分が推奨されているが、二人はもちろんそれよりも時間がかかる。ここで焦らずに、丹念に時間をかけて予洗いすれば、頭皮に溜まった皮脂汚れ、髪に絡まった埃や汚れを落とす。

 ここでやっとシャンプーだ。北山御用達美容院の専売品で、シャンプー単体で一万円近くする高級品。いままで使ってきたものの中で、これが一番自身の髪と相性がよかったから、北山はそのブランドを長年愛用している。

 トリートメントはシャンプーと同じブランドの高級品。頭皮に直接付けないよう気をつけながら毛先にかけて、塗り込むようにして使う。

 北山がこれら二つを使い始めたのは社会人になってからだ。使った瞬間からわかる違いに感動し、そしてそれまでとは一線を画する艶やかさを手に入れられた。この商品を紹介してくれたヘアサロンの店主にはいまでも心の中で感謝を続けている。

 風呂から出たらタオルドライして水分を極力吸い取る。この際、タオルでゴシゴシと拭き取ってはいけない。摩擦によって傷つけないようにするためだ。タオルを髪に押し当てるようにして、水を吸収するのだ。

 それからヘアミルクとヘアオイルをつける。タオルドライして毛先から水が滴り落ちない状態になったら、ヘアミルクを掌に乗せて広げ、手櫛するように塗っていく。毛量的に世間一般の平均以上の量をいつも使っているが、それについては文句を言っていられない。自分が好きでこの髪型にしているのだから、これは必要経費だ。

 塗ったら、次に同じぐらいの量のオイルを塗る。ヘアミルクとの違いは、主に作用する部分が内なのか外なのか、という点だ。内側の補修を担うのがミルクで、外側の補修・保護を担うのがオイルだ。就寝中や、日中の活動で摩擦や微粒な付着物による刺激を防止する効果がある。必要に応じて適宜使い分けたい。

 で、ここまでやったら一旦スキンケアを挟んで、それからドライヤー作業に移るのだが、今日は違う。

 信頼する後輩とその親友が、自分に代わって髪を乾かしてくれている。

 豊藤宅のドライヤーはReFaの高級品だ。もともと安物を使っていたそうだが、よくここの風呂を使うからと綿貫が家で使っているのと同じものを自費で買って、置いていったのだそうだ。本日に限ってはそれに加え、綿貫が自宅から持ってきたドライヤーを使った二台体制だ。一人でやるにはどうしても手間のかかる作業を、自分ではなく二人がやってくれる。北山はその間、何をするでもなくぼーっと呆けていながら、綿貫の手際の良さと豊藤のたどたどしさを夜更けのまどろみの中で楽しんでいた。

 嗚呼、何て贅沢なのだろう。もうずっと二人に髪を乾かしてもらいたい。

 

「ドライヤーっていつも何使ってます? 私は見ての通りReFaなんですけれど」

「レプロナイザーの一番高いやつ」

「レプロナイザーの!?」

「あれって十万以上しません?」

「まあね。高いの買っとけば間違いないだろって理論で買ったんだ。七月だったから財布の紐が緩んでた」

「あぁ……でも、この髪を守るためにはそれくらいのを使って当然な気もします」

 

 温風で九割ほど乾かしたら、仕上げに冷風を当ててキューティクルを閉める。これで夜のヘアケア完了だ。豊藤と綿貫の助けにより、いつもより大幅に短い時間で終えられた。

 ――時刻は二十三時を迎えてからもう二十数分経過している。北山にとってはそろそろ就寝の時間だ。

 キッチンのほうで、グラス同士が当たる高い音が聞こえた。それから、ガサガサと袋を漁る音も。

 

「とりあえず最初はポテチつまみにしてビール飲もうか」

 

 右手に三個のグラス、左手に大容量のポテトチップスを持った豊藤が、キッチンから戻ってきた。ポテチの味は黒胡椒味。ビールのお供には最適の肴の一つだろう。

 北山は酒が嫌いで、基本的にも応用的にも飲まない人間だ。そんな人間であると、後輩たる豊藤はもうわかりきっていた。

 

「先輩にはこちらでーす」

「おおっペプシ! ペプシじゃないかっ!!」

 

 用意周到とはまさにこのこと。豊藤が寝間着のポケットから取り出した缶ジュースは、北山が一番好きな飲み物であるジュース――ペプシコーラだった。

 家ではもちろん、繁忙期により秋葉原のオフィスに出社している北山は、仕事中によくペプシを飲んでいる。コーヒーではなく、紅茶でもない。ペプシだ。青い缶片手にモニターとにらめっこしている北山の姿を、豊藤は見ていたのだろう。

 それに、ペプシにはカフェインが入っている。睡魔を覆い隠すには最適だ。北山の睡眠事情を見越して準備していたのだろう。

 本当によくできた後輩だよ、優子は。私にはもったいないくらい。

 そうやって思う理由がジュースなのは不純な気もしてならないが、この際置いておく。

 

「何か観る?」

「『呪怨』」

「またホラー? この前散々見たのに」

「いいじゃんホラー」

「マジすか洋子さん」

「話がわかりますね先輩」

 

 豊藤の提案により、ジャパニーズホラーの代表作が選ばれた。六五インチのテレビに、目を剝いた女の姿が大きく映し出される。

 

「……私、何だかんだ映画館に行ったこと、あまりないなぁ」

「そうなんですか?」

「うん。少なくとも親に連れて行ってもらったことはない。自分で行くこともそこまで。二人は?」

「私は職業柄流行を追って話に乗れないといけないので、話題作はすぐに観に行きますね」

「あーそうか、たしかに。話を広げるには引き出し多いほうがいいもんね」

「ですです」

 

 プシュッ、と炭酸の抜ける音。豊藤が生ビールのプルタブを開けて、乾杯する前にもう口をつけてしまった。

 ロング缶を一気に呷る。弾ける泡を意に介さないその豪快な飲みっぷり、思わず生唾を飲む。

 缶から口を離した豊藤は、ふっーと鋭く息を吐くと、おもむろに口を開いた。

 

「私もあまり行ったことないですね。家族とは」

 

 

 

 上映中、自身の咀嚼音で他人の気を紛らわせてしまうことがある。それを防ぐためにはどうすればいいかというと、飲食物を持ち込まずに視聴するのが最適解だ。しかし、それでは随分と味気ない。

 映画館での映画鑑賞に、ジュースと一緒にポップコーンやフライドポテト、チキンナゲット、ホットドッグを買って持ち込むのは、スクリーンに入場する時間を迎えるまでのわくわくする感情をより高めるアクセントになり、上映中の自身の感情に花を添える名脇役となる。

 そしてそもそも映画とは、往々にして腹が減るものだ。一時間の映画ならまだマシかもしれない。でも二時間の映画は? 三時間は?

 物事に集中するために必要なエネルギーは、思っているよりも量を求められるものだ。例えば北山が仕事中にペプシを飲んでいるのは、集中して減っていくエネルギーを補うため、無意識にエネルギーを求めているからなのかもしれない。

 ともあれ、言うなれば集中を求められるコンテンツである映画に飲食物を携えるのは、実は理にかなっている行為なのだろう。

 ――と、北山はそう考えた。

 

「洋子さんってホラー映画だと何が好きです?」

 

 三本目のペプシを飲み干し、エンディングをボケっと眺めていると、不意に綿貫が聞いてきた。

 ホラー映画……か。

 記憶にある限りでは、メインジャンルがホラーの映画を観たことはそこまで多くない。それこそ、映画館で観たホラー映画は、片手の指で数えられるほどだ。

 そも北山が好きになるようなストーリーは、大抵胸糞悪くて鬱々しくて救いのないものばかり。これは厳密にはホラー映画ではないため、綿貫の質問の条件には当てはまらない。

 およそ十秒考えたら、自信をもって好きだと言える映画が思いついた。

 

「『ミスト』かな」

「ミスト! いいですねぇー! あのラストにはある意味で感動してしまいましたよ。ほかには?」

「えっ。……うぅん……ホラーからちょっと外れちゃうけどいい?」

「いいですよ」

「『子宮に沈める』」

 

 ビール缶が倒れて、カランッと音を立てた。豊藤が飲んだ何本かがドミノのように倒れて、一本がラグの上に転がり落ちる。それを豊藤が拾い上げ、テーブルに置いた。

 綿貫の顔が強張っている。たしかに現実の出来事を基にした救いのない物語ではあるけれど、そんな顔をするようなものだろうか。あくまでフィクションなのに。

 

「ああいや、すみません。結構キツいのが好きなんだなと思って……」

「そりゃねえ。天下の山電氏先生だもん。先輩が書く話知ってたら、そこまで驚かないよ」

「そうなんだ……でも胸糞映画で、よりによってそのタイトルを出すとは」

「ほら、ホラーってあからさまに怖がらせようとする場面あるじゃん。ああいうのじゃなくて、観るだけで胸が締め付けられる不快感を受けるようなのがいいんだよね」

「まあそうですね。私もジャンプスケアとかはホラーじゃないだろと思いますね」

「ほかには何が好きなんです?」

「そうだね――」

 

 そっち系統の映画なら、すぐにタイトルを出せた。こういうのは、やはり趣味が色濃く滲んで出てくるものだ。

 

「私を私たらしめる映画って意味で『隣の家の少女』」

「おお……」

「それと『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とか『ファニーゲーム』とか」

「お……」

 

 北山がタイトルを口にするたびに、綿貫のテンションが下がってゆく。それも仕方のないことだ。どれもこれも後味の悪いものばかりだ。

 

「あと青春映画で『リリイ・シュシュのすべて』」

「青春映画って言うんですか!? アレを!?」

「先輩も太陽もよく知ってますね」

 

 そんな二人のやり取りを見て、豊藤がけらけら笑った。

 真夜中の山手線沿線、あと十数分で二時を迎える。

 いい加減床に就く時間だ。

 

 

 

 暖色のLEDが激しく明滅したのは、脱衣所の鏡で自分の間抜けな面を見ながら歯磨きしているときだった。

 

「おょ」

 

 チカチカッチカッと、消灯して点灯して、光量が低下して上昇して――まさに怪奇現象。無駄に高価だった電動歯ブラシで舌をブラッシングする北山の頭上で起こるそれは、機械の故障と考えようにも規則性が見つからない。

 なるほど、これが聞いていたやつか。面白いじゃないの。

 泡を洗面台に吐き出して歯ブラシを洗っていると、脇で同じく歯を磨いている豊藤が歯ブラシを動きを止めて、ポケットからスマホを取り出した。何をしているのかなと思うと、天井に右腕を掲げて――その手が持つスマホが、人の絶叫を大音量で流し出した。

 

「ギャァアアアアアアアアアアアアァァアァァアアアァァァァッッ――」

「いっ嫌だ!! そんなの入れたら裂けちゃう!! 裂けちゃうから、ぐっう、いやァァァァァァァアッッ!!」

「やめてくれッ!! 脚は、そんな方向にはァッアアアアいたいいたいいたいいたいいたいいたい」

 

 絶叫、号叫、阿鼻叫喚。響き渡る悲鳴は北山の耳朶を打ち、鼓膜を揺さぶる。麗しい女性らの腹の底から出た号哭が、大塚の一室を満たし尽くす。

 あれ、この台詞……聞いたことあるっていうか、秋葉原で入力したことあるな……。

 三者三様の大叫喚が再生されて数秒、どういうわけかLEDの明滅現象はピタリと止まり、弱めに設定した元の暖かい光に戻った。豊藤は音を止め、スマホをしまい、何食わぬ顔で歯磨きを再開した。

 口をゆすぎ、タオルで口元を拭く。歯を磨いたあとはリップバームを塗って唇の乾燥を防がなくてはならない。

 洗面台を離れて、脱衣所から出る――前に豊藤の肩を摑む。

 

「どういうわけだよ」

 

 歯ブラシを口から抜いた豊藤が、泡を洗面台に吐き出す。口周りが髭のように白く覆われている。

 

「いや何か……いつも滅魔士の断末魔を聴かせたら直るので」

「えぇ……」

 

 豊藤が再生したのは、Eve制作のソーシャルゲーム『滅魔士RPG』のR指定バージョン『滅魔士RPGX』のストーリーの一幕だ。このシーンは、北山が二年前に手掛けたところだ。退勤前の時間に書いた覚えがある。

 その、キャラクターが憐れな目に遭うシーンで、この現象が鎮まると?

 まあこんなリョナ見せられたら幽霊もビビるのかな……。

 理屈もへったくれもない、理解しがたい除霊術がそこにはあった。

 

「殺された子にそれは駄目じゃないの。確実にトラウマスイッチ押してるよ」

「押してますかねこれ。フィクションのアバズレたちが凌辱されてるだけですよ」

「自社IPのキャラに何てことを」

 

 ――そろそろ北山が豊藤の部屋に泊まることになった、もう一つの理由を開示するべきだろう。

 豊藤の住む部屋のマンション『レジデンス・パノラマコート北大塚』は二〇〇五年十二月竣工。JR山手線沿いに建てられ、JR大塚駅から徒歩四分という好立地にあるマンションだ。

 一五階建で、南側にバルコニーがあり日当たり良好。一部屋当たりの専有面積が六〇平方メートルを超える2LDKで、一人暮らしでは少々持て余すような広さを誇る。

 このマンションの最大の売りは、高い防音性能だ。RC造に加えて、楽器演奏を可能とするための特殊な防音設計となっている。楽器演奏はもちろん、歌唱、配信活動ができる。防音室を設けずとも、音が漏れ出る心配がいらないのだ。

 そんなマンションの一部屋当たりの家賃は二四万三〇〇〇円と、大塚駅徒歩四分の2LDKとしては妥当な高級路線の価格だ。

 豊藤が住んでいる部屋も例に漏れず、その価格で貸し出されていた――数年前までは。

 

「でもそろそろウザったすぎるので、今度部屋と自分をお祓いしてもらおうかなと思うんですよね。ここに無念がこびりついているのだとしたら、さっさと剝がしてしまいたいので」

「ドライだな……何とも思っていないの?」

「可哀想だとは思いますよ。無念なのも納得の出来事ですので。でも結局は自分に関係のないことですし、いまの部屋の主は私ですので」

「まあ、まあ、そうか……うん、それもそうだわ」

 

 この部屋は、実は数年前に殺人事件が起きていた。それも、日本全土に知れ渡るほど凶悪な事件の現場で――つまりこの部屋は、心理的瑕疵のある事故物件なのだ。

 北山は、事故物件がどんな雰囲気か、不可解な現象は実際に起こるのか、この身をもって確かめたかったのだ。

 ――『大塚・奥多摩連続児童誘拐殺人事件』と呼ばれるその事件は、豊藤が大学進学を機に一人暮らしを始めるために入居する二年前、二〇一三年四月に発生した。

 犯人は当時二十六歳の男だった。対象の性別を選ばない小児性愛者で、中学二年生になった時期からその傾向が強くなっていったとされる。その男の、男児と女児への異常なまでの執着を示すWebサイトは、現在も有志のミラーサイト等で密かに閲覧可能だ。

 大卒で外資系金融業に就職した男は、逮捕されるまでこの部屋で暮らしていた。

 新年度の人事異動があり、新しい部署での人間関係構築に苦戦を強いられた男は、そのストレスによって理性が崩壊していき、自身の異常な欲求を抑えられなくなっていった。

 ある金曜日のこと。残業を終えて夜遅くに帰宅していた男は、マンション沿いの歩道の脇に一人で座っている男児を見つけた。ランドセルを横に置いて、携帯ゲーム機に興じていた当時小学三年生の児童だった。その男児はいわゆる放置子であり、日常的に大塚駅周辺を一人で徘徊しながらゲームをして暇を潰していたそうだ。

 男はその男児に声をかけた。たった一言「一緒に遊ばない?」と。男児はこれを拒否してその場から去ろうとした。男は男児に付き纏い、なおも誘い続けた。やがて男児が受け答えを止め、走って逃げようとした姿を見た男は――激しい怒りを覚えた。

 どうして自分を無視するんだ。こんなに頑張っている自分を無視するなんて、君はとても悪い子だ。俺は君たちのような可愛らしい子を見ると興奮してしまうが、君たちのためにそれを抑えつけていた。でももう無理だ。耐えられない。君のような小さな子を滅茶苦茶にしてしまいたい。

 そして男は凶行に走った。男児の顔を何度も殴り、反抗の意思がなくなったのを確認すると、口にハンカチを詰め込んで叫べないようにし、そのまま自室へ連れ去った。証拠になり得るランドセルも、男児と一緒に回収していた。

 人の出歩かない時間帯とはいえ堂々と行われたこの犯行は、不幸にも誰の目にも触れなかった。さらに放置子という性質上、親からの捜索願の提出が遅れたことが重なり、事件の発覚は遅れてしまったのだ。

 男は男児を拘束して監禁。筆舌に尽くしがたい性的暴行の末「言うことを聞かないから」という理由で首を絞めて殺害した。監禁してから僅か十数時間後の出来事だった。

 さらに日曜日にレンタカーで東京中を走り回った男は、奥多摩で小学三年生の女児を誘拐。夜中に自室に連れ込み、一人目と同じような性的暴行を加えた。

 警視庁が男を容疑者として特定したのは、翌月曜日の午後だった。日曜日の夜に女児の親から110番通報があり、特異行方不明者としての捜査が即座に始まっていた。防犯カメラ、ドライブレコーダー、Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)から不審なレンタカーが瞬く間に洗い出され、ナンバーから借主が『大塚在住の二十六歳男』であると判明したのだ。

 この事実は、その日の午前に捜索願が出された大塚の男児行方不明事件と、奇妙な符合を見せた。

 月曜日の夕刻には、男児の誘拐もこの男の犯行であるという見方が強まった。警視庁は男が無断欠勤しているという情報を勤務先から得ると、隣室や上下階の住民をあらかじめ退避させ、捜査一課特殊犯捜査係――通称SITを派遣。マンションと男の部屋を秘密裏に完全包囲した。部屋から大きな物音は聞こえず、この時点で誘拐された二人の安否は不明だった。

 日付が変わる直前。犯人がシャワーを浴びだした隙を突き、SITが突入。玄関とベランダからの電光石火の挟撃だった。激しい流水音でドアの破壊音に気付かなかった犯人は、浴室で全裸のまま取り押さえられ、逮捕に至った。その際、男は抵抗すらできなかったという。

 誘拐された二人は、ベランダ側から突入したSIT捜査員によって直ちに発見された。リビングの中央に横たわっていた二つの小さな身体は、血と排泄物、そして男の体液に塗れていた。

 犯人逮捕から一年。男の裁判員裁判に向けた公判前整理手続(こうはんまえせいりてつづき)が長期化する中、この部屋は「重大な心理的瑕疵あり」の告知事項を伴った賃貸物件として、都内の不動産代理店の手に渡る。

 

 

 【レジデンス・パノラマコート北大塚】

 

 『大塚駅徒歩圏内のハイグレード2LDKが驚愕のプライス! 室内フルリフォーム済みで新築同然です!』

 

 ・賃料:一二〇〇〇〇円

 ・管理費・共益費:一〇〇〇〇円

 ・敷金/礼金:―/―

 ・間取り:2LDK

 ・専有面積:六〇.五六㎡

 ・築年数:八年

 ・階:六階/一五階建

 ・設備:オートロック、宅配ボックス、カウンターキッチン、浴室乾燥機、ウォークインクローゼット、防音サッシ

 

 ※備考・特記事項

 ・告知事項あり 詳細は店頭にてご説明いたします。

 ・室内フローリング、壁紙、浴室設備、玄関ドア、窓ガラスを全面新品に交換済み(フルリフォーム)。

 ・内見即日可能、即入居可。 

 

 

 そして、犯人逮捕から約二年が経過した、二〇一四年の新年度前。数週間にわたって開廷された裁判員裁判、その判決に世間の注目が集まる中――とある都内の不動産代理店に、ある女が来店した。誰一人寄り付かなかった大塚の事故物件に住みたいと語った女は、冷やかしではなく本当に入居することが目的だった。

 その女こそ、大学入学を切っ掛けに一人暮らしを始める、豊藤優子であった――。

 

「私は安さに惹かれてここに入居しました。告知事項なんてわざわざ気にしませんよ。ていうか、気にしていたら住んでいられませんから」

 

 口をゆすいだ豊藤が、感情が乗っていない言葉を紡ぐ。彼女にとってここで起こった事件を本当にどうでもよく思っていて、気にしていないのだろう。

 自分のことではないから関係ない――たしかにその通りだ。でも、その事件のようなことが自分の身に起こり得ると、一度でも考えたことはあるのだろうか。

 話していて思ったけれど、優子って変なのところで無防備な面があるなぁ。

 北山も、事故物件に住もうと思えば住めると思っている。だが、ここまで淡泊になれるのは、何か理由があるのだろうか。

 

「まっこんな部屋の過去なんて置いておいて、さっさと寝ましょう。明日は三人でスロゲーセンに行くんですから!」

「……そうだね」

 

 気にしたら負け。そう言い聞かせて、この話題を終わらせることにした。

 

 

 

 ――リビングに入ると、敷かれた布団の上に立っていた綿貫が目に映った。画面の暗いスマホ片手に、目を真ん丸に見開いて口をパカンと開けてテレビを凝視している。『唖然』という言葉がしっくりくる佇まいだ。

 

「どうしたの太陽」

 

 豊藤が首を傾げた。すると綿貫は、二人を一瞥すると「これ……」とテレビを指差した。何か映っているのだろうか。

 テレビを見ると、映っていたのはVTuberの配信画面だった。青や水色といった寒色系の意匠が目立つ部屋を背景に、二つの2Dアバターが映っている。北山は、このアバターを使う二人を知っている。

 海神ネムロと霧笛シラベだ。チャット欄を中央に配置して、両隣の二人は笑顔を見せている。一時停止しているようで、アバターはその状態で静止している。雑談配信の最中だろうか。

 

「海神ネムロ側の配信なんだけど、左上にDiscordの通知が出てきて、内容が――」

 

 綿貫が指差す先、画面の左上。黒地のポップアップが表示されている。

 テレビに近づき、何が書かれているのか確かめる。

 

「お疲れ様です。先日の件ですが、頂いた情報を独自に調査しました結果……」

 

 末尾は三点リーダー二つ。メッセージの続きがあるもと思われるが、しかしいま重要なのはそこではなかった。

 メッセージ直上、アイコンの右上。書かれているユーザー名を見てみると――、

 

 

「――嘯木悦春(うそぶきえつはる)

 

 

 そこにあってはならない名前だった。企業Vを自称する者が、最も遠ざけなければならない禁忌だった。VTuber界の怨敵――そう形容される者の名が、吐き気を催すほど明瞭に記されていた。それは、海神ネムロが一線を越えてしまったことを無機質な告げていた。

 暴露系VTuber――嘯木悦春。触れてはならない存在の名が、そこにはあった。

 

「うわ、マジか」

「あらー……」

 

 その通知をマジマジと見つめ、北山は眉を顰め、豊藤は口に手を当てて力ない声を漏らした。

 海神ネムロの配信でこれが表示されたということは、海神が嘯木と連絡を取り合っていることであり、何らかの関係を築いていることを如実に示している。そして、外部に漏れてはならない情報を搔き集めて配信のネタにしている者に、内部情報を提供もとい漏洩していると読み取られてしまう。

 大炎上は必至。契約解除は当然。下手したら損害賠償ものだ。たった一つの通知が自身の所業を端的に晒し、自身の身分を貶め、自身の未来を閉塞させてしまったのである。

 

「優子が前に言ってた、この二人の事務所の中に二人いるっていう内通者だけれど……」

「うん、一人は推測通りみたいだね」

 

 「Vythonには内通者が二人いる」とは、豊藤の談だ。人の機微と人間関係を見抜くのに長けている豊藤の観察によると、二人の内通者がいるそうだ。

 豊藤が挙げた二人は、あくまで豊藤の推測であり、確定しているわけではなかった。しかし、この一件によって一人は確定した。

 海神ネムロが、内通者であると。

 

「これはまた……今日のSNSは大盛り上がりでしょうなぁ」

「ファンは一気に地獄に突き落とされた気分だろうね。まさか自分がファンの子が、この業界の癌細胞に与していたなんてってね」

「どうして自分のファンを悲しませるようなことを平気でできるんでしょう」

「金でも貰ってるんじゃないの」

「金かー! たしかに、一番可能性の高い理由ですね」

「この配信は現在進行形?」

「はい。目についた瞬間にもう一時停止押してました」

「てことは、この配信が終わったらこの海神は一旦何の投稿もしなくなって、早ければ明日明後日に謝罪文を掲載。次に公式から声明が発表されて、重大な契約違反によって契約解除を発表。最後の挨拶をする許可は下りず、卒業配信することもなく引退って流れかな」

「卒業配信なんて聞こえのいいことなんてさせてもらえないですよ。その契約解除は双方にとって不本意なものなんですから」

「たしかにね。これで『卒業配信させてください』なんてお願いしてたら腹抱えて笑うよ」

 

 海神のこれからについて綿貫と言葉を交わしていると、足元でぼふっと潰れる音がした。川の字に並べられた布団の中の、テレビ側の布団に綿貫が倒れ込んでいた。ペイズリー柄の渋い羽毛布団に顔を埋めている。

 顔を布団にぐいぐいと押しつけて、飽きたのかゴロンと仰向けになった。左半身が壁に当たって変な姿勢だ。

 

「……バーでいろいろ聞こうとしてきたのは、嘯木の差し金だったのかな」

 

 いつぞやの、夏の出来事を思い出す。あのとき豊藤は、眼鏡女から『ネロ』と呼ばれた女の腕を引っ摑み、出ていった。豊藤は女との会話の中で、Vythonでの話と一緒に自身の()()()()を根掘り葉掘り尋ねられたそうだ。豊藤はこれをのらりくらりと躱し、話の最後にその女に拒絶の意を示したという。

 

「まあでも――」

 

 寝そべりながら背伸びをする。力一杯伸ばして、一気に脱力する。フシュー……と息を吐き、

 

「どうせ転生する。Vなんだから」

 

 と、身も蓋もないことを口にした。

 

「転生ね。まあするよ。知名度はあるんだし、自分一人で稼げるんじゃない?」

「スパチャ額凄いからねこの人。海外人気もあるし、多分それだけで食っていけるよ」

「何かあったら転生して、また何かあったらリボーンして、またまた何かあったらリバースして……これの繰り返し」

「凄いな。転生って単語一つにそんなにもバリエーションがあるなんて、まるで何度も転生するVを示唆しているみたいだ」

「実際いるからね、そういう人」

 

 けらけら笑う綿貫と、憮然とした表情の豊藤。親友と認め合う仲でも、価値観が異なるのは珍しいことではない。この件に対する温度感は、二人の間で違うものとなっているのだろう。

 

「あ、ところでちょっと二人に聞きたいことがあって――」

 

 不意に綿貫が、話題を切り替えた。綿貫はリモコンを操作し、配信のシークバーを左に動かしている。

 再生ボタンを押すと、いままで固まっていた二つのアバターがゆらゆらと動き、声を出し始めた。

 

『さあそれでは、プレゼントキャンペーンのキーワードをいよいよ発表いたします!!』

 

 向かって右側、霧笛シラベの声だ。キャンペーン――あのバーで豊藤に『テキさん』と呼ばれた眼鏡女が言っていたことだろうか。

 

『おっ、いよいよですか。もう二時間も待ちましたよー! さあ何でしょうか~?』

『言いますよー? 耳の穴かっぽじってよく聞いておいてくださいねー!!』

 

 仰々しい前振りでもったいぶらせ、そして、

 

『――れらねりいいか』

 

 あの謎の七つの平仮名を紡いだのだ。

 配信を再度一時停止した綿貫が北山の顔を見る。

 

「これって前に洋子さんが聞いてきた単語ですよね」

「そうだね。どういう意味なのか、そもそも意味があるのか、よくわからないんだ」

「何かしらの暗号か、それとも本当にただただキーワードってだけなのか」

「暗号……」

 

 もしこの平仮名の羅列そのものに意味はなく、本当にただのキーワードであるなら、あの場で北山にだけ伝える意味はないはずだ。

 眼鏡女は七つの平仮名で、北山に何かを伝えようとしているのなら、その平仮名たちの意味をどうにかして解き明かす必要がある。

 そうだとしたら、どうすればいい。

 

「悩みの種植え付けやがって……」

「先輩、気を確かに」 

「しこりが……思考の隅にしこりが……お労しや」

 

 自分の頭の良さをそれなりに自負していたが、ここまで解けないとは癪である。腹が立って仕方がなかった。

 二人に促され、渋々布団に入った。完全に照明が消えた真っ暗闇のリビング。川の字の中央の北山が結局眠りに落ちたのは、それから一時間後のことだった。

 

 

 

 何かが聞こえた。この音は何だ。

 

「んっ……」

 

 瞼を開く。暗いリビングの中、バルコニーのシャッターの隙間から薄っすらと陽光が差し込んでいる。

 枕元のスマホを取って画面をつけると、ロック画面のアナログ時計の短針はそろそろ7を指し示そうとしていた。

 結局あまり寝付けなかった。あんな遅い時間の就寝でも規則正しい生活を心がけようとする体内時計には少し呆れてしまう。

 意識が覚醒して、最初に聞こえてきた音を何だろうか。それはいまこの瞬間も断続的に鳴り続けている。

 布団から出て立ち上がり、そちらのほうに歩いていく。この音は、キッチンのほうから聞こえている。

 

「……これか」

 

 キッチンの灯りを点け、シンクを覗く。ノズルから、水滴が一滴一滴規則的に落ちていたのだ。音の原因はこれがシンクに当たる音だった。

 水が飲みたくなり、蛇口を開けて両手に受ける。それを口に含み、飲み干す。

 ……水は名古屋のほうが美味いね。

 流れる水を止めて、ストッカーの取っ手にぶら下がるタオルで手を拭く。

 

「……」

 

 カツン、カツン、と台所に爪を当てて音を出す。北山を覚醒に誘った、あの水滴のように。

 カツン、カツン、カツン――。

 カツン、カツンカツンカツン――。

 

「……――」

 

 キッチンから出て、ベランダへ。窓とシャッターを開くと、朝の陽光が北山の全身を容赦なく覆い尽くした。手加減を知らないお天道様に目をすがめつつ、外に出る。

 深呼吸すると、朝の冷たい空気で鼻腔と肺が満たされる。陽光を浴び、深呼吸することで、セロトニンの分泌を促進する。

 太陽の光は、どうして人を幸せにする力があるのだろうか。人はどうして、太陽の光で安心するのだろう。どうしてこんなに暖かくて、温かい気持ちになるのだろう。

 ベランダの左手、東側を見下ろす。大塚駅から山手線の長い列車が、池袋に向かって走っていく。線路を通るリズミカルな音が、朝の喧騒に紛れて鼓膜を揺さぶる。

 軽バンが道を通る音、サラリーマン二人の会話、キジバトのさえずり、駅員の放送、響くクラクション、学生の笑い声――幸せを噛み締めて、余裕の中で生きていられるからこそ実感できる、誰かが生きている音。

 自分はいま、幸せだろうか。太陽の下で暮らしているから、幸せなのだろうか。

 この部屋で事件を起こした男は、自分の欲求に従って小学生二人をレイプして殺したとき、幸せを感じたのだろうか。

 幸せとは何だ。幸せの基準とは何だ。

 

「……、フゥー……」

 

 この答えは死ぬまで考えても、自分では解き明かせないのかもしれない。

 でも無理して解こうとする必要はないだろう。答えのない問題は、この世に数え切れないほど遍在しているのだから。

 大塚の街並みを堪能した北山は、一度振り向いて、室内を見た。

 日光で満たされたリビングだ。豊藤と綿貫が、仲良くスヤスヤと寝ている姿に微笑んだ。

 太陽のほうへと向き直り、そして、誰がいるわけでもない東京の空に向かって、

 

「さて、皆様」

 

 朗々たる声を張り上げた。

 

「突然ではありますがここで、皆様に挑戦いたします。

 あの女が私の耳元で囁き、その後の配信で世界中に伝達したあの七つの平仮名は何なのか? その平仮名は何を指し、どんな事実を示しているのか? それが今回の物語を終わらせるための、たった一つの問題であります。その答えを導くためにはどのようにすればいいか、道筋もぜひとも示していただきたい。

 手がかりは全て出揃っておりますが――作中には提示されていない事実があるようですので、私が作者に代わって少々補足しておきましょう。それはつまり、豊藤優子の推測は合っているけれど間違ってもいる、内通者の一人はVTuberではなく運営会社の社員である、ということであります。

 そも嘯木がグループの不和を呼び起こすほどの情報と接していることを考慮すれば、内通者が誰であるのか考えるまでもありません。ただマネジメント契約した身である一介のVTuberが保持できる機密情報などたかが知れています。嘯木は大胆にも『自分のための内通者がいる』と名前の通り嘯いておりますが、それを発信した途端に疑われるほど社会性の欠如した人物に、内通者などという役目を任せられるわけがありません。

 また、留意していただきたいことがあります。それは、たった一つの言葉に複数の意味が含まれている、ということ。いま一度、これまでに登場した人物の発言を精査してみてはいかがでしょうか。

 バーチャルという仮面の裏に隠された、あまりにも人間臭い悪意と執念。それらを論理の糸で繫ぎ合わせた時、深淵に沈んだ真実の輪郭が、くっきりと浮かび上がってくるはずです。皆様、安らかな眠りについている彼女たちが目を覚ましてしまう前に、この見えざる問題を解いてください。この問題を見事解き明かせたのなら、自ずと物語の真相に辿り着くでしょう――さしあたり開示する情報はここまでにしておきましょうか。どうか悪しからずご了承くださいませ」




 ジャグラーの解説部分を全て漢数字にすると著しく読みにくくなるため、この部分だけはただの数字を使わせていただきました。本にまとめる際は漢数字になるものと思われます。


 推定残り2話です。こんなに長くはならないと思います。きっと。
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