その清楚系、パチカスにつき。   作:継続率3000倍

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北欧

From:北山 洋子(ペンネーム:山電氏)

To:ファビュラス・エレクトロニクス株式会社 システム運用部 山田利樹様

 

件名:年末のご挨拶と来年に向けて

 

ファビュラス・エレクトロニクス株式会社

システム運用部

山田さん

 

いつもお疲れ様です、北山です。

 

本日で弊社は仕事納めとなります。

二〇二〇年は、制作体制の変更や新作制作開始など激動の一年でしたが、

山田さんをはじめとする運用チームの皆様が、

二十四時間体制で滅魔士RPG・RPGXを守ってくださったおかげで、

最後まで走り抜けることができました。本当にありがとうございました。

 

私が九時からシナリオを書き始める裏で、深夜の不具合対応や、

サーバー監視をしてくださっている皆様には、頭が下がる思いです。

 

年末年始、皆様が少しでも美味しいものを食べて、

穏やかに過ごせる時間があることを切に願っております。

(とはいえ、元旦からのイベント更新でお忙しいとは思いますが)

 

来年のEveは上述の通り、いまだかつてないボリュームの新作をお届けする予定です。

以前話した通り、ソシャゲ化も視野に入っています。

例のCAFEエンジンの演出などで無理難題を申し上げるかもしれませんが、

最高の作品を一緒に作り上げていければ幸いです。

 

それでは、良いお年をお迎えください。

また年明けに、元気な姿でお会いしましょう。

 

 

追伸:年末年始のフィンランド外遊につき冬コミ不参加です。残念!

 

 

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株式会社Eve

シナリオ制作部 メインシナリオライター

 

北山 洋子(ペンネーム:山電氏)

 

〒101-0021

東京都千代田区外神田X丁目XX-X

Tel:03-8192-XXXX / Mobile:090-8787-XXXX

Mail:[email protected]

 

 

 

 二〇二〇年十二月二十八日。月曜日。

 株式会社Eveは他の多くの企業がそうであるように、本日を仕事納めとした。

 

「先日のエンジン暴走プロセスの件について、例によってまとめて設定資料集に加筆しました。一二六ページです。各自で確認お願いします」

 

 九時半。社内チャット、ライターのグループにメッセージを飛ばした。

 北山が製作した、新作巨編のシナリオ執筆用設定資料集だが、難解な理論について小難しく書かれている部分が随所に見られた。他のライターにそれを指摘されたら、要点を短くまとめて更新。これをこれまで度々行っていた。

 何せその設定資料集自体急ごしらえで、北山は自分の頭で考えた自分が理解できる文章をそのまま記していた。ゆえに自分以外への配慮が欠けてしまっていたのだ。北山的にはそこまで難しく書いているつもりはなかったが、わかりづらかったのであればそれは北山の落ち度である。

 

「例の新作は、ご承知の通りボリュームに対して人員配置と予算の折り合いを付けるのに少々時間を要し、一時期はスケジュールに遅れが出ていました。現時点では、共通章については目標としていた分の執筆をほぼ終えていまして、遅れは取り戻せておりますのでご安心を。年始から、各ヒロインの分岐シナリオ、およびグランドルートの本格的な執筆に入ります。ライター各位は進捗管理を厳にお願いします。大幅に遅れそうであればすぐに相談してください。また、先日お話しした声優オーディションの日程ですが、一月五日から順次実施できるよう各事務所と調整が完了しました。もう確認された方もいるかと思いますが、裏名義を含めたキャスティング案とタイムスケジュール、会場の詳細についてまとめた資料をメールに添付しておきましたので、関係者は会議後に必ず目を通しておいてください。あと、オーディションがある週ですが、私は有給でその場にいませんのでその点はあらかじめご了承ください。続いて――」

 

 十時。本年最後の全体会議。

 新作の進捗と今後の予定を報告。Eveでは初となるSFタイトルだが、北山の悪い癖が出て壮大なストーリーとなったため、これまで現場は例年と比べて大忙しだった。年末に差し掛かってやっと落ち着き、今年の仕事納めの日をストレスなく過ごせている。

 

「相変わらず美味いなサイゼは……」

 

 十二時半。ライター組で昼食。

 豊藤含む部下のライター三人と急遽雇っていたフリーライター二人を引き連れて近場のサイゼリヤへ。食事代は北山の奢りだ。

 北山はフレッシュチーズとトマトのサラダのダブルサイズとミラノ風ドリアを平らげた。お供の飲み物はジンジャーエール二杯。安くて美味しい、まさに庶民の味方の存在だが、北山的にはドリンクバーのラインアップにペプシがないのが玉に瑕だった。

 

「あれ、スマホ置いてきちゃったか」

 

 十四時。オフィスの大掃除。

 自分の持ち場近く、プログラマーのエリアで駿河屋(Eveの古参プログラマー。持ち場にフィギュアを大量に持ち込んでいるためそう呼ばれている。既婚者)のフィギュアたちが雪崩を起こして騒いでいる。大型連休前の恒例行事だ。それを笑いつつ自分の席を掃除し、整理整頓する。年明けに気持ちよく仕事できるように準備しておく。

 地面に落ちた成人向けフィギュアの数々を横目に花を摘みに行った北山は、個室に入ったところでスマホが衣服のどのポケットにも入っていないことに気づく。そういえばカレンダーを開いてこれからのスケジュールを確認したあとに机に置いて、そのままだったような気がする。自分としたことが――あまりにも不用心だ。出すもん出してさっさと出なくては。

 用を足し終え持ち場に戻ってくると、北山の考えた通り自分のスマホは自分の席に置かれていた。しかもロック画面が解除されている。そして、その側に豊藤が立っている。

 

「先輩、置きっぱなしですよ」

 

 豊藤の呆れ声にごめんごめんと軽く返し、画面を消して尻ポケットに突っ込んだ。

 

「ホーム画面の壁紙面白いですね。『いますぐやれ とにかくやれ』って」

「SNS眺めて時間ドブに捨ててる暇あったら文章を一文字でも多く書けって話よ」

「時間泥棒みたいですね」

「クリエイターはとくに時間を銀行に預けたほうがいいよ。家で作業する層は尚更。まぁー現代人に必要なのはもしかしたら時間泥棒じゃなくてモモのほうかもしれないけど」

「でもそうやって時間を浪費してる人って、時間を倹約するっていう思考がないからSNS見てるんじゃないですか?」

「ああ、それは確かにね――」

 

 もっとも、北山は時間貯蓄銀行に時間を預けたいと思ったことは微塵もないのだが。

 

 

 

 十八時。退勤時間だ。

 このあと、Eve恒例の会社に贈られたお歳暮争奪イベントがあるのだが、今回北山は参加せず退勤となる。

 

「ぃよいしょっと」

 

 オフィスの壁際に置いておいたスーツケースのハンドルを伸ばし、自席に引いていく。

 リブ加工をあしらったアルミニウム合金の堅牢な外殻が特徴的なこれは、ドイツ発の老舗ブランド『リモワ』のスーツケース。値段にして二十九万円弱という高級品だ。

 これは北山自前のものではない。星田の私物だ。

 海外渡航の際、スーツケースを現地空港職員に乱暴に扱われて破損する事例があとを絶たない。基本的に他人の荷物を粗末に扱うことはない日本人として、そも粗末に扱っている自覚すら持たない人間に任せることはできない。家にあるものは素材や構造を考えると、海外のお供にすることはできなかったのだ。

 数日前にそんな話を、北山と同じく繁忙期の星田にしていた。すると「よかったら私のを使いなよ。かなり頑丈だよ」と言ってくれて、私物の高級品を無償で貸してくれたのだ。スーツケースに三〇万? とその価値を上手く理解できなかった北山だが、メーカーを知り、実物を確かめると――なるほどこれは頑丈だ。白銀のそれは、ブランド料も相応に加算されているのだろうが、三〇万近い価格に説得力を持たせる屈強な代物だった。

 自費で買ったのか尋ねると「自費だよ? だいぶ頑張っちゃった」と当然のように返された。価値観の違いを感じさせる問答であった。

 これには着替え――極寒地を生き抜くためのアウターやスノーブーツといった重装備が入っている。いまだかつて経験したことのない寒さを誇る国に向かうための、最低限の装備である。ほか、洗面用品、スキンケアアイテム、コスメ類が入っている。

 ――実は星田から借りたものはスーツケース以外にもあるのだが、それは後述する。

 

「マット加工で高級感溢れますねぇ」

「実際高いからね。頑丈でもあるし……ゆりに感謝だわ」

 

 持ってきたスーツケースのハンドルに、キャリーオンバッグよろしく差し込んだネイビーのバックパック。容量は三〇リットル。背負ったり、肩にかけたり、手持ちにもできる3WAY仕様。機内持ち込み荷物の規定サイズに対応していて、かつ容量も十分の優れものだ。

 これは前日、自前のリュックサックにちょうどいいものがないため共子から借りたものだ(合鍵で入って、爆睡している持ち主を尻目に持ってきたのを『借りた』と表現するのは少々無理があるが)。

 この中には仕事道具のサーフェスのほか、ロストバゲージを想定した予備の衣服や機内用リラックスウェア、トラベルサイズのスキンケア用品などが入っている。就寝中に髪を守るためのシルクキャップももちろん中にある。

 

「上に乗っているのはパタゴニアで、ショルダーバッグはミステリーランチ……アウトドアですね」

「どっちも共子のだよ。やつは外遊びが好きだからね」

 

 機内に持ち込む荷物はもう一つあり、共子宅から持ってきたショルダーバッグだ。財布やパスポートといった貴重品のほか、モバイルバッテリーや暇潰しの文庫本など、頻繁に取り出すものをこの小回りの利くバッグにまとめてある。

 アウトドアブランドのものは、それが使われる環境を想定して丈夫な生地・素材で作られている。今回の長旅でも、その強さを遺憾なく発揮してくれることだろう。

 

「保険は入ってますね? 海外で怪我したら高くつきますよ」

「もちろん。ゴールドカードの分だけだと不安だから掛け捨てのやつに加入してある。――さてと、私はもう行こうかな」

 

 一度背伸びして、本日分の凝りを引き伸ばす。固まった部分の力が抜けて、その分の疲れがほどよく全身に回る感覚を覚えた。

 椅子の背もたれにかけた黒色の上着を手に取る。この旅のミドルレイヤーを担う、非常に品質の高いフリースジャケットだ。フードが付いていて、寒冷地ではこれで頭部を保護できる。

 髪はフードに干渉しないよう、デフトバンでシニヨンにしてある。大掃除が始まる前に、豊藤に結ってもらっていたのだ。

 フリースを着て、ジップを閉める。スリムフィットのそれは、メリハリのある北山の曲線美を忠実に描く。オーバーサイズやメンズのものでは着膨れを避けられず、余計な空間も作ってしまうため、見栄え的にも機能的にも自分の身体に合ったサイズを着るしかない。しかしそうすると今度は胸元が若干圧迫される。北山のバストについては基本想定されていない。これについては仕方のないことであると妥協するしかなかった。

 視線が気にならないと言えば嘘になるが、しかしここにいる人間は弁えているし、劣情については我々が手掛ける制作物に注いでいるのを知っているため、不快感はない。他者の視線をそこまで気にしないという生来の性質も相まって、これを着るのに抵抗感を抱くことはなかったのだ。

 それに、北山は知っている。たわわに実った果実を目の前にして、男がどう思うのかを。

 

「大熊さんにちょっと聞きたいことがあるんですが」

 

 それは学生時代の記憶であり、思い出であった。

 サークルの主宰であり、のちにアダルトビデオ制作を担うことになる男・大熊兼雄に、長年の疑問をついにぶつけたのだ。

 まともな女性経験がないこの男に、真面目な態度、真剣な表情で、

 

「男の人って、胸の大きい女を見て、正直どう思うんですか」

 

 と、その場の空気感に相応しくないことを問うた。

 大熊はレポート製作の手を止め、腕を組んだ。そこからたっぷり三〇秒考え、答えを紡いだ。

 

「『エロい!』じゃないんだ。『え、え、うっわすげぇ……! デケェ……!』っていう驚愕と興奮でいっぱいなんだ。渋谷でデカいカブトムシ見つけたときの感情とほぼ同じなんだ。底にある感情はどっちも『漢の憧れ』なんだ……わかってくれ洋子」

 

 彼の過去にはいったい何があったというのか。そこにAV監督という職を選んだ所以はあるのだろうか。

 悲壮感を撒き散らしながら懺悔するように口にする大熊。北山には彼の背中が、どういうわけか自分のよりも小さく見えていた。

 

「……不安だなぁ」

「大丈夫だよ。遊ぶにしても犬ぞりとかそれぐらいだし。基本街歩きがメイン」

「――……」

 

 北山の言葉に、豊藤は何も返さなかった。

 

「じゃあ行ってくるわ。年明けにまたここで会おう。あ、あと企業ブース頼んだよ」

「……はい、行ってらっしゃいませ。楽しんでくださいね」

「うん。じゃ、よいお年を!」

 

 ショルダーバッグを肩に提げ、スーツケースを引いていく。リモワ謹製の車輪がEve本社のカーペットをしっかり捉え、もたつくことのない快適な移動を北山に与える。

 

「よいお年を」

「おー、お土産買ってきてー」

「気が向いたら買ってきますね」

「お疲れー。いいなー海外旅行。子供生まれてから一度も行ってねえや」

「私はこれが初めてですよ。緊張しますね」

「オーロラ撮ってきてオーロラ」

「スマホでよければ」

「本場のサウナのレポートをまとめてきてくれ」

「あんた自分で行ってくださいよ」

 

 すれ違いざまに社員らと年末の挨拶と言葉を交わす北山。その心は、すでにここにはなかった。口元に愛想のいい笑みを浮かべたまま、足を止めることなくオフィスの出口へと歩を進める。

 心の中に渦巻くどこか浮ついた感情を、豊藤が冷ややかに見透かしていることを、北山は全く気づかなかった。

 

 

 

 帰宅ラッシュの時間帯に海外旅行の大荷物はあまりにも相性が悪い。空港までの移動手段にタクシーを使うのは必然だった。

 ビルの前でつかまえたタクシーは、気前のいい白髪の初老が運転していた。普通の、セダンタイプのタクシーだ。清掃の行き届いた後部座席は、消臭スプレーのミントの匂いがふわっと漂っている。

 師走の慌ただしさに包まれる東京。年末に入ってもなお、大都会は休まない。年末年始を楽しめる人がいれば、その逆の人もいる。誰かが休んでいる裏で、誰かが働いている。誰かの休暇は、名の知らぬ誰かの仕事によって支えられているのだ。

 この事実、構造を、前者の人間である北山が車窓からぼんやりと眺めていた。

 千代田区から中央区を下道で走り、途中で首都高に入って南下する。羽田まで三〇分ばかりの道程だ。

 

「フィンランドだと、やっぱりサウナですかねぇ」

「国の名前言うと返ってくる言葉が一にサウナ、二にサンタクロースなんですよね。もう少しほかの印象あってもいいと思うんですけれど」

「オーロラとか」

「見れますかね」

「そればっかりは運でしょうよ」

 

 運転手と会話しながらも、北山の視線は車窓へと向いていた。

 中央区を抜けて港区へ。視界に入るタワーマンションや高層ビルは、先ほどまでより明らかに多い。

 星田が住むマンションは、ここからではどうあっても見つけることはできないだろう。

 

「……」

 

 ――星田には世話になった。フィンランドにはどんな装いで行けばいいか尋ねた際、北山が知りたいと思った全てを教えてくれたのだ。

 極寒地で滞在するための衣服とアイテムをリストアップし、どの店でどれを買えばいいか、売り切れていた場合は何を買うといいかなどを具体的にまとめて提案。しかも、星田宅からどのように店を辿れば効率的に買い揃えられるかも指示してくれた。さすがはマーチャンダイザー、市場調査に抜かりはない。どの店舗にどの商品が取り扱われているか、日々アップデートしているのだろう。

 彼女の献身はそれで終わらなかった。星田は自身所有の高価なスーツケースと、極寒に耐えられるハイブランドのアウターを貸してくれたのだ。

 

「フィンランド北部だとこれかな、トリリウムパーカ。エクスペディションだとちょっと嵩張るだろうし、北極に行くわけじゃないならこれで十分だよ。前の世代と違ってファーがついてないから風はちょっと入ってくるけれど、そこはミドルレイヤーのフードとバラクラバでカバーしてね。不安ならその上からネックウォーマーで保護するのもありだよ。マフラーだと首元が動かしにくくなるからね。白色だから吹雪の中だと視認性悪くなるけれど、洋子ちゃんの黒髪がバッチリ映えていいと思うんだ」

 

 そこまでしなくても、と北山は遠慮したが「ちゃんとクリーニングしてあるから」と言って押し切られてしまった。嬉しそうに貸し与えてくれるものだから、その厚意を無下にするのは無粋だと判断したのだった。

 

「お土産、何がいいと思います?」

 

 日が沈んだ東京の道を行くタクシーの中で、運転士に聞いてみる。少し考えた素振りを見せてから、車線変更のための目視確認しつつ口を開いた。

 

「酒飲みなら酒が一番じゃありません? たしか、ジンが世界的に評価されているみたいで」

 

 

 

 羽田空港第3ターミナルに到着したのは、十八時五十分手前だった。

 見上げるほど高い天井の下、広大な出発ロビーは夜のフライトを控えた特有の活気に包まれている。硬い床の上を無数のスーツケースが転がる低い音と多言語のアナウンスが、絶え間なく北山の鼓膜を揺らしている。

 巨大な電光掲示板に目をやると、搭乗予定の便名がオレンジ色の光を放っている。国際線カウンターが開くのは出発の三時間前。それまで五分少々の待ち時間がある。チェックインを待つ列はすでに幾重にも蛇行し始めており、パスポートを手にした旅行者たちが、どこか浮き立った様子で談笑していた。

 

「リモワの中は……大丈夫。リュックの中は……これも大丈夫。こっちも……大丈夫だね。よし」

 

 周囲の喧騒の中、北山は昨晩リビングでやったパッキングを思い返す。不足しているものはない。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。

 フィンランド航空――フィンエアーの、今回のフライト。まず羽田からヘルシンキ・ヴァンター空港まで飛び、そこから国内線を乗り継いでロヴァニエミ空港へ向かう。

 スマートフォンに表示された電子チケットを、北山は見つめる。今日の座席クラスには、はっきりと『ビジネス』の文字が印字されている。

 そう、今日北山が登場する飛行機の座席は、ビジネスクラスだ。それも、自分の金で買ったのではない。他者から提供されたビジネスクラスだ。ビジネスクラスが設定されている、羽田からヘルシンキまでをビジネスクラスで飛んでいくのだ。

 しかもビジネスクラスなのは行きだけではない。ご丁寧に往復でビジネスクラスなのだ。

 総額およそ九〇万円。国内線しか利用したことのない北山にとって、それは想像の範疇を超える金額だった。このような桁違いの席をポンと用意し、何の躊躇いもなく提供できる相手には、もはや感謝を通り越して恐怖を覚えてしまう。

 

「大変お待たせいたしました。フィンエアーのご搭乗手続きを開始いたします。まずビジネスクラスご利用のお客様、どうぞこちらの専用カウンターへお進みください」

「おっ」

 

 カウンター内のグランドスタッフたちが一斉立ち上がって一礼した。どうやらJALのスタッフがフィンエアーの手続きを代行しているようだ。同じアライアンスに属する会社同士の結びつきなのだろう。

 ビジネスクラスは優先レーンでの対応となり、他の客よりも早く手続きを受けられる。エコノミークラスのカウンター前に伸び始めた長蛇の列を横目に、少人数で構成される列へと並ぶ。

 この謎の優越感は、あれだ。コミケで西の待機列に並ぶ一般参加者の横を、スーツケースをゴロゴロ言わせながら歩いて悠々と会場に向かうときの気持ちと似ている気がする。

 北山の番になり、カウンターへ進む。ハンドルからリュックサックを引き抜いてから、片手で持ち上げて計量器に乗せる。中身の入った、ずっしりと重いリモワのスーツケースだ。力仕事などいままで一度もしたことがない北山にとっては、一瞬であってもこれは重労働以外の何物でもなかった。思わず息が漏れる。

 

「オンラインチェック済みです。荷物を預けたいのですが」

「かしこまりました。パスポートとスマートフォンの搭乗券を拝見いたします」

 

 カウンター越しのスタッフは、洗練された柔らかな笑みを浮かべて丁寧に応じた。北山はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を明るくして真新しいパスポートとともに差し出す。

 スタッフは手元の端末を素早く操作し、淀みなく確認を進めていった。

 

「確認いたしました。本日はヘルシンキでお乗り継ぎ、最終目的地はロヴァニエミでございますね。お預けになるお荷物はこちらのスーツケース一点でしょうか?」

「これだけです――」

 

 そう答えてから、北山はスーツケースが借りものであることを考慮し、言葉を付け加える。

 

()()()のタグをお願いできますか」

「かしこまりました、お付けいたしますね。今回お荷物は最終目的地まで通しでお預かりいたしますので、ヘルシンキでの引き取りは不要です」

 

 スタッフがキーボードを叩くと、手元のプリンターからジージーと細長いシール状のタグが吐き出される。彼女はそれを手際よくリモワのハンドルに巻き付け、さらにひと目でわかる赤い『FRAGILE』の札を添えた。重かったスーツケースが、ゆっくりとベルトコンベアの奥へと吸い込まれてゆく。

 

「本日はスマートフォンでチェックイン済みではありますが、乗り継ぎもございますし、スマートフォンの充電切れに備えて念のため紙の搭乗券も発券しておきましょうか?」

「ああ、そうですね。お願いします」

 

 たしかに、自分の不注意で充電せずに到着する可能性は捨てきれない。モバイルバッテリーがあるとはいえ、不安要素は潰しておきたいものだ。不慣れな海外の空港でスマホの画面を出せずにまごつくのも避けたい。プロならではの先回りした提案だ。

 少しの操作のあと、厚手でチケットが二枚発券された。

 

「羽田からヘルシンキまで、ヘルシンキからロヴァニエミまでの搭乗券二枚です。お荷物の引換証は裏面にお貼りしております」

 

 両手で丁寧に差し出された紙の搭乗券を受け取る。そこには自分の名前と共に、やはり『BUSINESS』の文字が誇らしげに印字されていた。

 自分は果たしてビジネスクラスに相応しい風格を出せているだろうか。背伸びして母の服を着る小学生になってはいないだろうか。母の口紅で口周りを赤く染める幼児になってはいないだろうか。

 開けたショルダーバッグに二枚のチケットをしまう。せめてそれらしい旅客でいようと、いつもより胸を張って保安検査場に向かうのだった。

 

 

 

 チェックインカウンターと同じく優先レーンから保安検査場に入り、着用しているブラジャーがワイヤー入りのかなりしっかりしたものであるのを金属探知機に炙り出されつつ、無事に通過。一般レーンに並ぶ疲れ顔の人々を尻目に通過する検査場はとても気持ちのいいものであった。さすがは九〇万円、ビジネスクラスさまさまだ。

 検査場を通過した先、佇む税関は今回関係ないのでスルー。一〇〇万円なんて持ち歩かないし、高い腕時計なんて持っていない。

 ――空港にて出国するための最後の関門、出国審査場。

 初めて日本を出る北山にとっての『出国』といえば、ガラス張りのブースに座る審査官にパスポートを渡し、本人確認後に出国証印を重々しく押してもらう――そんな光景を想像していた。初めてのパスポートにスタンプが刻まれる瞬間を、実は少し楽しみにしていた。

 

「えっ」

 

 しかし眼前に広がるのは、駅の改札を一回り大きくしたような機械の横列。あまりにも無機質な光景だ。

 これらは顔認証ゲート。読んで字のごとく、パスポートの顔写真と自身の顔を照合し、認証させることで出国手続きが完了する機械だ。

 旅券リーダにパスポートの顔写真が載るページを伏せて置くと、埋め込まれたICを機械が読み取る。次に、ハーフミラー内蔵カメラで顔写真を撮影し、手続きしている人がパスポートの写真と同一人物かを確かめる。認証を終えるとゲートが開き、通過できる。

 人が行う出国審査と比べて、同時に審査できる人数が多く、時短にも繫がる。効率や合理性を考えた、出国審査の頼もしい味方なのだ。

 

「何か……味気ないな」

 

 これについて、北山のように思う人もいるだろう。この機械の導入により、出国証印を押印されなくなったからだ。

 てっきり押されるものだと思っていた。人の目を通すことなく判を押されることもなく、あっさりとゲートを通れてしまった。拍子抜けにもほどがあった。

 一応記念として証印を押してくれるところがあるようだが、わざわざ並んで押してもらうのも馬鹿らしくなったため、そのまま通過した。

 ともあれ、出発手続きはこれにて完了。あとは搭乗を待つのみだ。

 制限エリア――国内外の有名ブランドの免税店が軒を連ねる、日本のようでいて日本らしからぬ雰囲気を放つ異彩の空間。北山は、ゲートを抜けてすぐ前にある免税店に入る。

 煌びやかな化粧品や香水を尻目に、食品――酒のコーナーへ。

 

「あった。これこれ」

 

 手に取った酒瓶。山口県の旭酒造が誇る日本酒『獺祭』だった。日本からのお土産として、ひとまず()にはこれを渡せば無条件に喜ぶだろう。

 レジにて会計。店員は北山がお願いする前からSTEBs(ステブス)(不正開封防止袋。国際的なルールで定められた、液体物に対する不正干渉防止のための袋。免税店で購入した一〇〇ミリリットルを超える液体を、渡航先の税関で放棄することなく持ち込める)を用意し、獺祭を入れてくれた。支払い、受け取ったそれが何かの拍子で開かないように、丁重にリュックにしまう。

 店を出て、西側へ。制限エリアの一角にあるエレベーターで三階から四階に昇る。

 JALが運営・提供する、JALサクララウンジ。フィンエアーのビジネスクラスに乗る客は、このラウンジを無料で利用できる。

 北山がここに来た目的はただ一つ――シャワーを浴びることだ。

 和の趣を感じさせるエントランスを抜け、すぐ側のカウンターで受付スタッフに搭乗券を提示して中へ。

 室内は、階下の免税店の活気に溢れるエリアとは打って変わって、静謐に支配されていた。目に優しい落ち着いた照明、足音を吸い込む柔らかな絨毯、そして空間全体を包み込む上品なアロマの香り。声を張って話す人は、ここには誰一人としていない。

 

「さて、待ちは……」

 

 専用アプリから、シャワールームを予約。早い段階で来たからか、北山の前の予約者は二人と少なかった。この予約者数はいまの時間帯を考えると驚くほど少ない。これなら、それほど待たずに順番が回ってきそうだ。滑走路を一面に楽しめる席に移動し、ゆったりと腰を下ろして待つことにした。

 ふとスマホを見ると、LINEの不在着信を報せる通知が。共子からだった。着信時間はたった二分前。

 折り返すと、ワンコールもなり切らないうちに電話が繫がり、威勢のいい大声が飛んできて右耳を見事に劈いた。

 

「リュックとショルダーバッグの誘拐犯は貴方様かっ!?」

 

 どうやらいまになって気づいたらしい。悪びれることなく、軽い口調で返答を送る。

 

「へへ、さーせん」

「さーせんじゃないよー! 旅行の荷造りしようとしたら気に入ってたリュックが何の前触れもなく消えてなくなってたからさー! しかもリュックじゃないやつももう一つぐらいなくなってる気がするし、家出したかと思ったじゃんっ」

 

 勢いのある声だが、口調からして本気で怒っているわけではなさそうだ。とはいえ一応置き手紙なり、LINEで一言報告するなりしておくべきだったか、と今更になって思い直す。

 

「いやだってねぇ。気持ちよさそうに寝てたもんだから、起こすのが気が引けてさ」

「起こせ~起こせ~」

「ところでどこ行くの。冬コミ出ないとは聞いてたけれど」

「銀山」

「温泉目当てか」

「うん。年末にかけての商業と同人のダブルパンチで死にそうだから、回復させるためにひたすら温泉入る予定」

「あぁー……お疲れ」

「へい……」

 

 威勢のあった声は、話を続けるごとにしぼんでいった。電話越しでもはっきりとわかるほど深い疲労を伴っている。

 それから十五分ほど、他愛のない話をして通話を終える。すると、アプリの通知が北山の番が回ってきたのをタイミングよく知らせた。

 席を立ち、受付へ向かう、スタッフからルームキーを受け取り、シャワールームへ。

 

「よし……ちゃちゃっと洗ってさっさと出よ」

 

 シャワールームの数には限りがある。二〇人待ちもざらにあるこの場所で、自分のペースでダラダラとシャワーを浴びるわけにはいかない。混雑緩和のために『三〇分程度を目安にした利用』を何としても遵守しなくてはならないのだ。

 北山の髪は腰に及ぶロングヘアで、日頃のヘアケアに余念はない。毎日の入浴では髪に相応の時間を割いているが、この場に限ってはそうも言っていられない。人様の迷惑にならぬよう、適切かつ的確、丁寧かつ手早く終わらせる必要がある。

 いつものヘアケアルーティンをいま一度思い出す。髪を櫛で梳いておいて、クレンジングを済ませる。次に頭と髪を予洗いして、シャンプーを――うん、大丈夫。早急にやることやって、機内用に買った服に着替えてここから出よう。

 フリースジャケットのジップを下ろすと、それまで狭い空間に押し込まれていた規格外の双丘が、ニットのセーター越しに弾みをつけるように前へとせり出し、本来の暴力的な大きさを主張する。ずっしりと確かな重量感をもって衣服を押し上げるそのシルエットは、北山をもってしても持て余すボリュームだった。

 この巨大な二つの果実をコンパクトに収め続けた、ジャケットによる圧迫は少なくない。最適な保温力とほどよい通気性によってこれまでに蒸れを感じることはなかったが、少なくない圧迫感と、そして自分のものの下に溜まっていたような熱気を一気に逃がせたような気がして、心地良い解放感を得られた。

 まあ、重さに関しちゃどうしても逃れられないんだけれどね……困ったもんだ。本当に。

 それから着ていた衣服を全て脱ぎ捨て、かごに放り込む。さあ、ここからは時間との勝負だ。

 シャンプーなどが入ったトラベルボトル数本と櫛を持ち、小走りでシャワーブースに飛び込む。北山の入浴タイムアタックが、人知れず始まった。

 

 

 

 メイクを落とし、頭を洗ってトリートメントしている間に体と顔を洗い、泡とトリートメントを流したら、髪を親の仇のようにタオルドライして――髪を乾かしスキンケアを終え、着替えた北山は、いそいそとシャワールームを退出した。

 利用時間は、およそ三五分。目安を五分超えてしまった。

 

「つ、疲れた……」

 

 ラウンジ名物の特製ビーフカレーをよそった皿を、共子と通話したときと同じカウンター席に置き、座った北山は背もたれに全体重を乗せて天井を見上げる。

 北山の、日頃の入浴にかかる時間――服を脱いで風呂に入ってから、スキンケア終えて寝間着を着るまでの時間は、およそ五〇分。これはシャワーのみの場合で、湯船に浸かるとなるともう少し長くなる。この一連の動作を、今回は三五分で終えたのだ。

 風呂は本来リラックスできる場所だ。温かいお湯で汚れを落とし、一日分の疲れを洗い流して自分を労わる時間なのだ。

 しかしここでそんな悠長なことはしていられない。後ろで空きを待つ人のために素早く済ませて出なくてはならない。リラックスしている暇などないのだ。

 シャワー浴びて逆に疲れたのは初めてだな……時間帯を考えたら入れるだけでもありがたいのかもしれないけれど、これなら会社帰りの出発にしなきゃよかったかも。

 今更後悔する北山。息を吐き、前を見る。目の前に鎮座する、湯気の立つ熱々のビーフカレー。とても美味しいと利用者の間で評判らしく、このラウンジにおいて北山が最も楽しみにしていたものだ。

 手を合わせて食材に感謝し、ギラリと煌めくステンレスのスプーンすくい、口に運ぶ。

 

「――これは美味いな」

 

 この味は親しい人に教えなくてはならない。

 食いかけではあるが写真を撮り、LINEで後輩に送信する。

 

「これマジ美味い」

 

 すると、返信がものの数秒で返ってきた。

 

「そこのカレー本当に美味しいですよね」

 

 たった一行だけの返答に、北山は思わず笑みを浮かべてた。

 まるで遠距離恋愛中の恋人から送られた手紙を読んでいるかのようだった。

 

 

 

 二時間近く快適に過ごしたサクララウンジに別れを告げ、指定の出発ゲートへやって来た。

 二十一時二十五分。ゲート周辺には、北山と同じく北欧を目指す乗客たちが群れをなし、搭乗開始の案内を待ち構えていた。

 ユニクロで買ったリラックスウェアの上にフリースジャケットを着た、かなりラフな姿の北山。周りを見てみると、北山と同じぐらい軽装備の人間はそれなりにいる。国際線をいかに快適に過ごすかを最優先に考えている者が北山以外にも数多くいる証左だ。

 スタッフがマイクを手に取った。いよいよだ。

 

「ご搭乗のお客様にご案内いたします。これより、フィンエアー便の搭乗を開始いたします。まず、お手伝いが必要なお客様、小さなお子様をお連れのお客様を――」

 

 搭乗が始まった。まずは助けが必要な人のための事前搭乗。ベビーカーを利用する二つのグループの搭乗が速やかに終わり、ついに一般の乗客の搭乗だ。

 

「続いて、グループ1のお客様をご案内いたします。ビジネスクラスをご利用のお客様、及び――」

 

 エコノミーやプレミアムエコノミーの乗客たちの列を横目に、搭乗口にもある優先レーンへと足を踏み出す。

 フィンエアーの場合、ビジネスクラス利用であるならグループ1の客として機内に真っ先に迎え入れられる。ひしめき合う通路で荷物を上げる順番待ちをする必要はなく、誰よりも早くパーソナルスペースを確保し、落ち着ける。

 いの一番に歩き出した北山は、他の乗客らの視線を集めていた。視線の針が北山の全身に突き刺さる。

 ……マスクの一つでも買っておけばよかった。

 どうせ行きのフライトでしかここにいる大半と会わないのだし、別にいいか。同行者はここにはいないし――そんな思いから、自身のノーメイクの姿を気にしていなかったが、しかしここまで意味ありげな人の目を受けると、さすがに気まずさを感じる。それに人の視線を気にしない北山と言えど、服装も相まって恥ずかしさを抱かざるを得ない。

 そそくさとスキャナーに搭乗券のバーコードをかざす。ゲートが開き、スタッフの「行ってらっしゃいませ」と見送られながら、ボーディングブリッジに進む。東京の冷たい冷気がガラス越しに伝わる通路の先には、紺と白でスタイリッシュに塗装された機体が、大きく口を開けて待っていた。

 

「……時差ぼけってどうすればいいんだっけ」

 

 緊張感のない、そして旅慣れしていない人間特有の間抜けな発言は、ブロンドヘアを短くまとめた客室乗務員の歓迎の挨拶に搔き消された。

 ――搭乗する際、なぜか背中にべっとり張り付くような、粘り気のある視線が一つ混じっていた気がするのは、気のせいだろうか。

 

 

 

 羽田から中継地であるヘルシンキ・ヴァンター国際空港まで、約十三時間五分。日本との時差が七時間のため、到着は現地時刻で午前四時となる。

 何も考えずに眠ると、確実に時差ぼけする。例えば日本時刻にして午前零時に就寝するとする。アラームをかけず、体に起床の時間を委ねて、八時間たっぷり寝て起きると――フィンランドはまだ一時。未明に入ってたった一時間しか経っていない。

 そのため、少し夜更かしをして起床タイミングをずらす必要がある。朝食は到着の大体一~二時間前に出てくるという事前情報の下、現地時刻二時に起きる想定で、八時間睡眠を行った。日本時刻にして、深夜一時。本来この時間、とっくに就寝している。夜更かしをすることがあまりないため、強烈な睡魔が本を読んでいる北山を容赦なく襲った。このホセはどんなアルカディオでこのアウレリャノは何のバビロニアなのか……内容が頭に全く入ってこず、読書に集中できなかった。時差ぼけのことなど気にする余裕もなく、名著の実力が伊達ではなかったことを証明するように、フルフラットに変形したシートでマリメッコ柄の寝具に身を包みながら深い睡眠に突入してしまった。

 

「んぁ――」

 

 瞼の裏に柔らかな光を感じて目を覚ました北山。寝起きの乾いた口内を気持ち悪く感じつつ、流れるように枕元のスマホで時刻を確認する。事前に時計をフィンランドの時間に設定しておいたので、深く考えずに時刻を把握できる。

 北山愛用Google謹製スマートフォンのデジタル時計が示した時刻は――『02:12』。

 

「……どんだけ寝てたの私」

 

 離陸から就寝まで二時間強、そして現在到着まであと二時間弱。

 つまり北山は眠ってから一度も目を覚ますことなく、ざっと九時間近くぶっ通しで寝ていたことになる。

 時差ぼけ対策など睡魔の前に敗れ去り、新規プロジェクト進行による疲労を打ち消すため、ただ回復のための爆睡をかましただけではないか。時差ぼけだ何だと言って夜更かしをしようとする北山の意思に真っ向から背いた就寝――体は正直だったのだ。

 現在北山の体内には、やってしまったという強烈な後悔と、信じられないほど冴え渡った頭の軽さが同居している。質の高い睡眠の賜物だろう。

 

「まあ、いっか……」

 

 そろそろ朝食の時間だ。淹れたてのコーヒーとともに、ヨーロッパらしいブレックファーストに洒落込もうではないか。

 寝ころんだまま背伸びして、頭のシルクキャップを脱ぎ取った。

 

 

 

 午前四時。眼下に広がる雪に覆われた針葉樹林と湖の大地を飛び越え、飛行機は定刻通りに着陸した。

 十三時間に及ぶ長いフライトを終えたが、しかし北山の身体に凝りはなかった。ビジネスクラスの座席さまさまだった。

 ボーディングブリッジへと足を踏み出した瞬間、北山は思わず身をすくめた。壁越しであっても、千葉や東京の冬とは明らかに違う冷気がわかってしまった。ヘルシンキの空気は明らかに鋭利だ。これがスオミの洗礼か。名古屋の冷たさといい勝負をしている。

 とはいえヘルシンキ・ヴァンター国際空港の中は、暖房が効いていて快適そのものだった。ガラス張りの壁面と、フィンランド産トウヒをふんだんに使用した広大なターミナルが特徴的で、視覚情報からも温かな気持ちになる。日が昇れば、この空間は日光でいっぱいに満たされるだろう。開放感と同時に温かみを感じられる居心地のいい空間で、羽田空港から受ける無機質な印象とは正反対だ。

 だが、北山にとってここは通過点に過ぎない。

 フィンランドはシェンゲン協定加盟国だ。入国審査は最終的に降り立つ空港ではなく、最初に降り立った空港で行われる。

 パスポートを厳つい審査官に渡すと、いくつか質問を英語で投げかけられる。滞在目的、日数、宿泊先といったありきたりな内容だ。いずれにも英語で流暢に答えた。スタンプが押され、受け取る。無事に通過だ。

 保安検査ではリュックの中からSTEBsに入った獺祭もしっかり取り出して、X線検査のトレーに寝かせた。検査装置に通過したあと、検査官が獺祭を持ち上げた。表裏を鋭い視線で吟味したのち、コクリと頷いてトレーに置いた。日本からの土産も無事通過だ。

 荷物を回収し、北山は広いターミナルを歩いて指定の国内線搭乗口へと向かった。

 ――ヘルシンキで国内線を三時間待ち、そしてヘルシンキを発ってから約一時間半。

 羽田からかれこれ十七時間半。北山は北極圏の入り口――ロヴァニエミ空港に降り立った。

 

「――やっべ寒い!!」

 

 ボーディングブリッジなどという気の利いた設備はここにはない。タラップを降りて直接ターミナルへ歩くスタイルだ。北山はこのことをすっかり失念していた。

 北山の肌に直接伝わる、明らかにヘルシンキとは違う冷気。軽装の北山にはその違いがわかる。この寒さには東京や千葉は赤子の手を捻るように返り討ちに遭い、名古屋も伊吹おろしをもってしてもボコボコにされてしまうだろう。北海道は行ったことがないためわからない。いや何を考えているんだ、頭冷やし過ぎで逆に莫迦になったか。

 とにもかくにも、早く建物に入らなければ。このままでは凍死してしまう。一刻も早く冬装備に着替えなくてはならない。

 

「おーい中国人、走ったら危ないぜ」

「日本人だたわけボケカス死ねッッ!!」

 

 英語で笑ってきた黒人に相手が日本語話者である可能性を一切考慮しない汚い罵詈雑言を日本語で吐き捨て、スニーカーのまま空港へと走った。滑走路のため除雪はされていたから、転ぶのにさえ気を付ければいい。

 どうにかターミナルに飛び込んだ北山。乾燥した氷点下の空気を一杯に吸って凍り付きそうな肺にセントラルヒーティングの効いた空気を取り込んで温め、全身に付着した雪を払う。スタッフはギョッとした目で北山を見つめているが、もはやそんなことどうでもよかった。

 ヘルシンキ空港は巨大なハブ空港とは打って変わって、こぢんまりとしたローカル空港だ。前者が中部国際空港だとするなら、後者は小牧の県立名古屋空港だろう。『サンタクロース公式空港』と描かれた可愛らしい看板が、まだリラックスウェアのままの北山を歓迎する。

 ターミナルの窓から外を眺めると、日本人の感覚としては異様な光景が広がっていた。

 現在八時半。朝日が昇ってもいい時間帯のはずだが、しかし深い積雪に囲まれ厚い雲に覆われたロヴァニエミはいまだ黒に等しい色に沈んでいる。夜の帳を下ろしたままなのだ。

 

「これが極夜か……朝の底が白くなってる」

 

 そう、この時期フィンランドは極夜の影響下に入る。地軸の角度の関係で、太陽が地平線から顔を出す時間が極端に短くなるのだ。ロヴァニエミはまだ昼の時間帯があるが(それでも薄暗さは伴っている)、場所によっては太陽が完全に出てこない。

 今回の最終目的地が、まさにそういう土地にある。

 

「グルに送ろー」

 

 朝の暗闇の下で雪が降りしきる中、白い雪面が空港の白と橙の照明を乱反射するこの風景を写真に収め、良き友人たちと共有する。日本はいま十六時前。夜明けの来ない国で、逆に夕暮れとなる国に暗い朝の写真を送る。何だか不思議な気分だ。

 手荷物受取所で短いベルトコンベアに乗った鈍く輝いた銀色のスーツケースを引っ張り上げる。外観はとくに変わりなく、噂とは違い丁寧に扱われたのだろう。中身が傷つかないようにと快く貸してくれたスーツケースに不要な傷などついてほしくなかったため、この結果はありがたい。

 手続きを済ませ、トイレに向かう。着替えの時間だ。

 空いた個室にスーツケースと一緒に入る。スペースに余裕はないが致し方ない。蓋を閉じた便器にリュックを降ろし、ジャケットを脱いで壁のフックに引っかける。リュックを開いてインナーと靴下、スタッフバッグに小さく丸まったインナーダウンを引っ張り出す。

 メリノウールの厚い高性能インナーだ。インナーに諭吉を使う経験はなかったため、表参道で思わず声を上げてしまったものだが、これが極寒地を耐え抜くための温かさを保つ砦となる。

 フライトをともにしたリラックスウェアを脱ぎ、リュックに突っ込む。伸縮性の高いインナーに袖を通すと、たわわに実った果実を包み込むようにピッタリと張り付き、起伏をくっきりと浮かび上がらせた。インナーが巻き込んだ髪を、髪と首の間に両手を入れて外に引き出す。

 下半身も同様に、リラックスパンツから同じ銘柄の厚いタイツへ。靴下を脱いでタイツを、その上から同じくメリノウールの厚手靴下を履く。さらにその上から、ウールの中綿を封入した、防寒・防風はもちろん撥水機能もある極寒地の厳冬期用パンツを穿く。裏地が温かい起毛素材になっていて、防寒性を高めてくれている。しかし、狭い個室で片足立ちになり、壁に肩をぶつけながらの着替えは思った以上に重労働だった。

 ミドルレイヤーでフリースジャケットを着直し、スタッフバッグから取り出したインナーダウンを纏う。この時点でも、かなり温かい。トイレの中は空調が届きにくくひんやりしているため、トイレを出たらむしろ暑いくらいだろう。

 デフトバンで髪を結び、短くまとめる。これで重ね着の邪魔にならず、フードを被れば髪が凍ることもなくなる。

 バラクラバとネックウォーマーを被り、上半身のそれぞれのジップを顎下まで引き上げた。

 トイレでの着替えはこれで終わり。仕上げにアウターを着て、スノーブーツを履けば外に出るための準備が整う。

 フェイクのつもりで便器を流し、外に出る。ターミナル出入り口の側の壁際でスーツケースを広げ、まずスノーブーツを取り出す。

 ヌバックレザーのスノーブーツは、中の極厚フェルトが保温してくれる。マイナス四〇度の環境下でも足を温めてくれる優れものだ。おまけにアウトソールはしっかり滑り止めの機能が付いているため、足元の心配はこれにより大幅に軽減される。裾を中に入れ、靴紐をしっかり締めあげ、立ち上がって感触を確かめる。うむ、悪くない。シークレットブーツほどではないが、ソールによって身長が少し上がっている。一八〇センチを優に超えているだろう。

 そして最後に――星田が貸してくれたアウター、カナダグースのトリリウムパーカだ。

 北極圏で得た情報を基に作られた、極寒地の日常使いに適した保温性能を誇る逸品。マイナス一五度からマイナス二五度の体感気温から身を守るために作られた定価二四万円超の高級品に、恐る恐る腕を通す。庶民である北山にとってこのアウターは、凍てつく寒さから自分を守るための装甲であり、一般人の思考とかけ離れた金持ちの思考を身をもって体験するための実験道具でもある。星田が金をひけらかすような人間ではないとわかっているが、しかし金持ち御用達の高級アウターには少なくない興味を持っていたのだ。

 

「おぉう……あったけぇ」

 

 着心地も温かさも最高だったようだ。これなら寒さに大きく苦しむことなくフィンランドの外を歩けそうだ。

 もっとも、このあと北極圏の寒さすら超える冷たさと想定外の遭遇を果たしてしまうことを、北山は知らない。

 

 

 

 インナーグローブとミトン型手袋を装着し、フードを二重に被ってターミナルから外に出ると、風を伴う氷点下の暴力的な寒さが北山を包み込んだ。星田が考えてくれたレイヤリングによって身体の芯まで冷え込むことはない。だがバラクラバで覆えない目元とネックウォーマー越しに吸い込む空気は、研ぎ澄まされた日本刀のように鋭く、冷たかった。

 そこは一面銀世界であった。雪に覆われた大地と、暗闇の中で白と橙の照明に照らされたロヴァニエミ空港。積雪をさらに深いものにしてしまおうと降り続ける雪の影響もあり、遠くを見通すのが困難な状況だ。猛吹雪で数センチ前が見えない、というような極限状態ではないのだが、雪はここまで人間を邪魔してしまうものなのか、と深い衝撃を受ける。

 北山は名古屋に生まれ、中学卒業までを名古屋で過ごした。太平洋側である愛知県の立地的特性により、名古屋は雪が全くと言っていいほど降らないし、降ったとしても積もらない。だから積もった日には、子供たちは大はしゃぎし、大人たちは頭を抱える。愛知は車社会――ただでさえ運転に細心の注意を払わないといけない名古屋の車道は、備えなかった車がノーマルタイヤで茶屋ヶ坂の基幹バスレーンを吶喊し、大パニックに陥るのだ(北山の主観が過分に含まれるため、当てにしないように)。

 だから北山は有り体な話、雪への憧れが人一倍強かった。しかしこの景色を目の当たりにし、憧れは一瞬で吹き飛んだ。なるほど、たしかに憧れは理解から最も遠い感情なのだと、北欧の地にて北山は理解した。

 ロータリーを歩く。迎えはすでに来ている手筈だが、どこを歩いても一向にお目当ての車が見当たらない。どの車で来るかは覚えている。記憶違いの線は限りなく薄い。

 

「ういぃぃ……早く来てくれぇー」

 

 もういっそターミナルに戻ってやろうか。そう思い、ロータリーの端で踵を返したところで、正面の遠くから圧雪をゴリゴリバキバキと砕くタイヤの摩擦音と、野太く力強いエンジン音が勢いよく近づいてきた。

 雪の暗闇を切り裂く丸目のヘッドライト。雪煙を巻き上げてロータリーに入ってきたのは、ロヴァニエミの長閑な景色には少々不釣り合いだが、しかし雪と氷に閉ざされたこの土地にはうってつけの、無骨なシルエットのオフローダー――ジープ・ラングラー・アンリミテッド・ルビコンだった。

 高い車高に泥や雪を跳ね飛ばす大きなフェンダー。その巨体を支えるのは、鉄の鋲が規則的に並んだ極太のスパイクタイヤ。圧雪路面をものともしない四輪駆動の走破性は、悪路を何食わぬ顔でねじ伏せる。

 カラーリングは鮮やかなオレンジ。極夜の暗い雪道で、周囲に自身の存在を主張するための色なのだろう。

 総じて、極限状態のフィンランドにおいてこれほど頼もしい車はない。そんな代物だ。

 ……そうか、この国は右側通行だったな。だから左ハンドルなんだな。

 北山の身長を優に超える図体のそれが、立ち尽くす北山の脇でピタリと停まった。北山から見て奥側にある運転席が開いたと思うと、中から上質そうなベージュのセーター姿の女が降りてきた。アウターも何も羽織っていない。二の腕をさすりながら小走りで近づいてくる。

 女は北山を一目見ると、

 

「遅れて申し訳ありません! 北山さんですね!?」

 

 と大きな声で確認してくる。首肯すると、女はバックドアを開き「荷物入れちゃってください! 雑に入れちゃっていいんで!」と荷台を指差す。

 言われた通りにスーツケースを横に置き、その脇にリュックを下ろす。

 

「……本当にここに住んでるんだね」

「ええ、言った通りでしょう」

 

 バックドアを閉める女。朗らかに笑う女の特徴と言えば――そう、この眼鏡だ。

 あの夏の日、六本木のバーで邂逅した、あの眼鏡女がかけていた眼鏡だ。

 

「ファンは奴とこんなところで暮らしていると知ったらどう思うだろうね」

「いやー彼らには悪いと思ってるんですけどね」

 

 ハハハッ、と困ったように眉を顰める女。申し訳なさを、果たして本当に感じているのだろうか。

 ともあれ、こうして最終目的地までの車は到着した。あとはこれに乗り込んで出発するのみ。

 

「じゃあ、運転よろしくね。穂積ちゃん」

「お任せくださいっ! 途中で休憩を挟んで大体二時間半ぐらいの道程になりますので辛抱くださいね!」

 

 ビシッと敬礼して、眼鏡女――VTuber霧笛シラベを演じる女、穂積一華(ほづみいちか)は意気揚々と運転席へと向かう。

 じゃあ私は、後部座席でだらだらしていようかな、と大きな扉のドアレバーに手をかけた。

 

 

 

「あれー? 奇遇ですねぇ。どこに行くんですかぁー?」

 

 

 

 その短い言葉には、北山の背筋を人生で一番震え上がらせるには十分、ともすれば過剰なまでの冷たさが含まれていた。

 その愛らしい声は、北山の思考を人生で一番機能不全に陥らせるのに、最大限効果的である能天気な声色を選んでいた。

 何で、どうして、どうやって、君はここにいる。君は日本で年末を謳歌しているはずだ。私が任せた冬コミのEveブースはどうしたんだ。ここにいるのはおかしいはずなのだ。どうして私の後ろにいる。なぜ、どうして? 時間も何も言っていないはずなのに。ただ行先を言っただけなのに。どうしてここに私がいると知っている? なぜ? 何で?

 

「私も連れていってくださいよぉー」

 

 能天気で気の抜けた声を崩さず、ザフッザフッ、と積もった雪を踏み締めて、着実に北山の背後に近づいてくる。思考の渦に脳のリソースを完全に奪われた北山は、真後ろの気配に一切反応できずにいた。

 突如、極寒の風が肌を直接刺した。

 ――否、違う。

 いつの間にか真横に立っていた女に、フードとバラクラバを強引に引き下げられ、無防備な首筋に冷たい指を絡められたのだ。

 その事実にようやく思考が追いついた瞬間、呼吸が早くなる。呼吸が浅くなる。口と喉が急速に乾き、肺が凍ってしまいそうになる。想定外の事態に体が拒絶反応を示し、極度の恐怖と緊張の中で生存を渇望する。

 背筋が、頭が、思考が、何もかもが、凍る。

 

「いいでしょう? ――先輩」

 

 油が切れて凍り付いた機械のように、ゆっくりと、右を見た。

 高級ダウンの代名詞たるモンクレールのフードから覗く、北極圏の厳しい寒さすら置き去りにするほど冷たく鋭い双眸を、北山は知っている。

 

「優子……何で」

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