その清楚系、パチカスにつき。 作:継続率3000倍
遡ること一〇年前――北山が大学二年生だったときのこと。
大学入学を機に本格化した同人活動。小説を書けば書くほど創作意欲が湧いてきて、物語を考えれば考えるほど書かずにはいられずにいた。北山の代表作『グロテスク・マギア』が生まれたのもこの時期だ。
しかし北山は、夏コミを一ヶ月後に控えた七月半ばに、ある大きな壁に直面する。
「恋愛って、実際どうなんだろう」
恋愛の描写だ。
いままで創作物やノンフィクション、周囲の人間の体験談を基に、自分の想像を補強材にして恋愛シーンを書いてきた北山だが、しかしあるとき考えるようになった。
自分が書いている恋愛に、リアリティはあるのだろうか。いままで一度も恋をしたことがない自分が書いた恋愛に、果たして説得力は生まれるだろうか。
そう――知識として知っている恋愛を、北山は体感したことがなかったのだ。
リアルとリアリティは似て非なるもの。別に実体験がなくても、リアリティのある文章は書けてしまう。恋愛にうつつを抜かすより、一文字でも多く書くのが執筆スキル向上への明確な近道だ。
だが、そこで妥協したくなかった。せめて一回くらいは恋愛を経験して、よりリアリティのある物語を書きたいと思ってしまった。創作意欲の飽くなき探求心が、北山の心を突き動かしたのだ。
しかしここでまた問題が立ちはだかる。
「恋愛の『好き』って、どういう感情なんだろう」
北山は、どの感情が恋愛感情なのか知らなかった。
誰かを恋愛的な意味で好いたことがない、という次元の話ではない。そもそもどの気持ちが恋愛の感情なのか――リアルがこうとかリアリティがどうとか以前の問題で、そもそも北山は恋愛のスタート地点に立ってすらいなかったのである。
自身の創作において、恋愛描写に不足や説得力の欠如、言いようのない違和感を抱く理由は、まさに『何が恋愛感情かを知らない』の一点に集中していた。
広辞苑を引いて『恋愛』の項を読んでも、心に浮かぶどの感情がそれかなどと書かれているわけがない。これを解決するにはどうすればいいのだろう。
「『恋愛感情がどんな感情なのか』って……また難しい疑問を」
共子に相談したら、眉根を寄せて苦々しく返された。
大学生の姉に比べて経験が豊富な高校生の妹。いままでに付き合ってきた男はざっと六人。内五人は男からの告白によるもの。
洋子の問いに腕を組み、天井を見上げる。ひゅるるると口の端から息を吹き出し、たっぷり時間を使って答えを紡いだ。
「恋愛って理論じゃないだけれど、でも完全に感情ベースってわけでもないんだよね。理論と感情のハイブリッド。これこれこうでこうなったからこの人が好きだ、じゃなくて……好きっていう感情は自然と芽生えるもの。でもそうなったのならそれ相応の土壌が絶対に伴ってて……。初対面の人と付き合いたいって思ったことないでしょ? 恋愛云々抜きにしてさ。もちろんそうじゃない人もいるよ? 私みたいに『せっかく告白してきたのに断るのは申し訳ないから付き合ってみる』って人もいるし」
組んだ腕を解いて頭を搔く共子。
たしかに付き合いたいなどと思ったことは一度もない。少なくとも初対面に恋愛感情を抱いた経験はないということだ。
「でも人を本当に好きになった場合、ちゃんとその人との交友関係が下地にあるわけ」
語気が強まる。共子の力説が洋子の鼓膜を揺さぶる。
「その人と関わって、話して、遊んで、お互いの時間を共有して、知らないことを知っていって――そしたらどこかで『この人、いいなぁ』って、芽が出るの。それはもう前触れなんてなくて、ある日突然ピョコンッ! ……ってね。前触れとかないからね。突然だよ。駄弁ってるとき、助けられたとき、リードしてくれたとき……もういろいろだよ。私のいまの彼氏はこっちから告白したけれど……道に迷ってアタフタしてるところとか、不器用にアプローチかけてくる姿が無性に可愛くて、そのとき『この人のことが好きだ』って自覚した。本当に好きになったら、弱いところ全部愛おしく思えるの。強いところ弱いところ普通のところ全部愛おしい」
んふーと熱っぽく語り、頰を両手で挟む共子。いまの彼氏に余程お熱らしい。
「……。その理論だと、いわゆる『一目惚れ』というものが全否定されることになるけれど」
「ないよそんなの。あれって面食いなのを聞こえのいい言葉に言い換えただけだからね。ぶっちゃけそこに恋も愛もないから。性欲成分多めだから。男の側はとくにね」
だらしない顔をしたかと思うと、今度はキッと目を鋭くして吐き捨てる。鼻息を荒くして、ここ一番のしかめっ面をかましている。過去に何かあったのだろう。表情がコロコロ変わって飽きない奴だ。
「まあ、そうか」
「とにかく人を好きになったのなら、必ずその人との関わりが根っこにある。で、その人と関わっている中で何の前触れもなく愛おしいって思ったら、それが恋愛感情なんじゃないかなぁ」
だからさ、と共子は身を乗り出し、ニマニマと憎たらしい笑みを浮かべた。
「サークルに男の人が三人いるんでしょ? もしかしたらどこかで誰かを好きになるかもしれないんじゃない?」
「……はは」
無理な話だと思った。
主宰とはそれなりの付き合いだが、後輩二人とは関わり始めて半年も満たない。三人とも友人だと思っているが、共子の言う『土壌』や『下地』を、彼らとの間に築けているとは思えない。
なので北山は、それ以外の要素で可能性を模索してみた。
まず大熊を除外する。彼は以前、恋愛に興味がなければ結婚願望もなく、一生独り身でいい、と語っていた。表現活動の邪魔になるとも話していた。だからここでは後輩二人だけを考える。
趣味は、長宗我部は小説執筆で、岡崎はバーで飲酒すること。長宗我部の趣味は北山と共通しているが、岡崎のは避け嫌いの北山としては受け入れがたかった。
見た目は些細な問題だ。自分が悪いと思ったら、自分から手を加えてしまえばいい。現状、北山は二人にそうしたいと思ったことはないが。
では性格はどうだろうか。長宗我部も岡崎も、良いとは言えないが、悪くもない。長宗我部は女性不信で岡崎は人の不幸を喜ぶような人間だが、少なくとも口に出して人を莫迦にしないし、むやみやたらに自己を卑下しない。彼らは自分自身の悪いところを自覚し、内側だけで済ませられるのだ。
人間関係は、彼らのサークル以外の友人の話を耳にしたことはない。
家庭環境は、全くわからない。
――無理だよ、常識的に考えて。
いい奴らとは思わないが、悪い奴らとも思わない。良くも悪くもサークルの仲間。北山の二人への印象は、それだけだった。
しかし、転機が訪れる。恋愛感情を知ろうとしてから二ヶ月、冬コミと翌年の夏コミに頒布する創作物をぼんやりと考えていたときのことだった。
「こんちはー」
サークルの活動拠点である空き教室に岡崎がやってきた。安物だといういつものリュックサックを背負い、いつものように人の好さそうな笑みを浮かべている。
プロットが書かれたメモ帳を映し出すノートパソコンから目を離す。
「読了しましたよ、先輩の最新作」
よく見ると、先の夏コミに頒布した北山もとい山電氏の新刊を持っていた。このご時世、あまり同人誌を裸で持ち歩いてほしくないものだが、まあこの大学の環境を考えると街中で熟読されるよりはマシか、と溜息を吐いた。
正面に座った岡崎に、感想を求める。
「どうだった?」
「面白かったですよ。いま流行りの魔法少女モノへの斬新なアプローチには目を見張りました」
「そう」
「ただ……」
「ただ?」
「恋愛描写、捻りすぎです」
岡崎は顎に手を当て、遠慮を感じさせないハッキリとした口調で言葉にした。
『薄すぎ』ならわかるが、『捻りすぎ』とは――考えすぎて書いたということだろうか、と北山は自身が書いた原稿を思い返す。
「主人公の恋愛描写ですけれど……リアリティはありましたね。現実にある考え方に則った恋愛というのは、フィクションではつまらない。これは先輩も存じていると思います。先輩はリアルとリアリティの狭間……現実にありそうでない、絶妙なラインを見事に表現されていました」
「なら、捻りすぎっていうのは」
「失礼なことをお聞きしますが、先輩に恋愛の経験は?」
「ないよ」
「そこです。経験がないからこそ、先輩は恋愛という不確かなものを理屈で構築しようとしすぎているんですよ」
岡崎の表情は至って真剣だ。普段の摑みどころのない男はどこへやら、敏腕編集者よろしく鋭い視線を北山に向けていた。
「創作における恋愛の成立条件、心理的な動線、そして結末に至るまでのプロセス。どれもパズルのピースみたいに綺麗にハマりすぎているんです。だからリアリティ
「……」
「現実の恋愛ってもっと理不尽で不条理、脈絡がない。頭悪い衝動に突き動かされるものなんですよ。先輩の書く恋愛には、そのどうしようもない馬鹿馬鹿しさとか理屈の通らない感情みたいなものが一切合切抜け落ちているんです。言うなれば人工知能と人工知能が恋愛しているようなものです」
パラパラと新刊のページを捲りながら、岡崎は淡々と指摘を重ねていった。
「感情そのものを実感として理解できないから、思考で補おうとする。結果として、登場人物たちが異常に理屈っぽい。ジュラル星人もかくやといった感じで回りくどくなってしまっている。僕が捻りすぎと言ったのはそういう意味です。読んでいて頭では納得できるんですが、共感しづらいんですよ」
図星だった。北山は反論の言葉を見つけられず、ただ黙ってパソコンのキーボードに視線を落とした。
共子の言葉が脳裏をよぎる。
『これこれこうでこうなったからこの人が好きだ、じゃなくて……好きっていう感情は自然と芽生えるもの』
岡崎の指摘は、まさにその欠落を正確に突いていた。北山は「これこれこうでこうなったから」という理論の土台を作り上げることでしか、恋愛を表現できなかった。なぜなら、その先に自然と芽生えるはずの「好き」という感情を、ただの一度も実感したことがないからだ。
「……耳が痛い」
「読者としての率直な意見ですよ」
岡崎は悪びれる様子もなく、むしろ人の痛いところを的確に抉れたことに僅かな満足感すら滲ませて笑っていた。
一介の物書きとしては、こういう忌憚なき指摘はありがたい。自分の足らない部分を知ることは今後の糧となり、確実に先へ繫がる。
だが、そうなると今度こそ、恋愛を知らない自分はどうしたらいいのかわからない。溜息を吐き、パソコンを閉じる。
「参ったなぁ……欠点はわかったけれど、経験がないのは事実だし」
項垂れ、頭を抱える。人差し指でうなじの辺りを搔いた。
この件は、今後の創作における喫緊の課題だ。人に読ませる文章を書くにあたり、読者に意図しない違和感を抱かせるようなものは極力排除しなくてはならない。
恋愛感情を実感するのが一番の近道だ。しかし北山にとって、その近道こそ一番不可能に近い手段なのである。
「いきなり誰かを好きになれって言われても、土台無理な話だよ」
北山は、自分と身内以外の人を意識的にも無意識的に敵と思っているような人間だ。言い寄ってきた男や芸能事務所のスカウトを追い払うのは当然として、純粋な善意で行動したであろう人の
性別の垣根を超えて考えてみるが、しかし駄目だ。これは性別がどっちだから云々という簡単な話ではない。
男に対する感情を嫌悪、女に対する感情は警戒。
ほかでもない過去の経験が北山をそうさせてしまっている。これは心の奥深くを染めてしまっていて、自分ではどうすることもできないのである。
「僕も先輩が誰かに現を抜かしている姿なんて想像もつきませんよ」
岡崎が教室のカーテンを閉めながら言った。レースカーテンで輪郭がぼやけた夏の日差しが完全に遮られ、室内に残るのは冷房の涼しさだけになる。
「ならどうすればいいと思う?」
きっと、自分の意思だけではどうすることもできないだろう。これはどんな課題も独りで解決してきた北山にとって、いままでの人生で特に大きな問題だ。
半ば思考の沼に沈みかけながら漏らした呻き声のようなに言葉、岡崎はわざとらしく顎を撫でた。
「いっそその『捻くれた理屈っぽさ』を極めて、そういう作風として押し通すか、或いは――」
そこで一度言葉を切り、岡崎は随分意地の悪い目を北山に向けた。
「手っ取り早く、身近な人間と疑似恋愛でもしてみては」
ピタリと体を止める。息が止まりかけたがどうにか整えて、おもむろに顔を上げる。
いまの北山の眉間には、きっと深い皺が刻まれているはずだ。
「それは私の交友関係と、私がどういう奴なのかを踏まえた上での提案?」
「えぇ……いやだって、先輩に男友達と呼ばれる人間が僕含めて三人しかいないって、過去にご自身で語られていたじゃないですか。女友達については一人しかいないとも仰っていましたよね」
「改めて言葉にされるとツラいな」
「本当にそう思ってます?」
「さぁね」
「まあでも交友関係については僕も人のこと言えないですけどね。そもそも異性の友人が一人でもいる時点で誇れることかと。それでまあ、話を戻しますけれど」
岡崎は降ろしたリュックサックから取り出したスポーツドリンクを口に含む。残り少ないそれを一気に飲み干して、呆れたように言葉を飛ばす。
「ぶっちゃけそれしかないですよ。先輩の場合」
「……やっぱりそうなる?」
「まずナンパ男は先輩の視界から完全に除外されます。必修やゼミ、学園祭の実行委員会で一緒になった人はそれだけの関係で終わりですね。ほかの大学のインカレサークルには入っておらず、名の知らぬ同級生からの合コンの誘いを一切断っています。それにたしか、バ先に同世代の人がいないですよね。あとmixiすらやってない人が出会い系なんてやりませんよね。凄い、大学生が友人を増やし得る状況からまるで反対の位置にいますよ先輩」
「自覚はある」
「だからもう荒療治しかないんですよ。身近な人に頼んで、恋仲の男女がしてそうなことを疑似的に行って、地道に探っていくしかないと思います」
「そうか――……」
北山も心のどこかでは理解していた。自分が恋愛感情を本当の意味で理解するには、疑似的にでも恋愛をして実感を得るしかないのだと。
しかしそうなると新たな問題が浮上する。
疑似恋愛に応じてくれる身近な男は、果たして誰になる。
少々考えれば出てくる容易い問題だ。いち足すいちを計算するより簡単な思考回路で導き出せる。
まず長宗我部は絶対に引き受けないだろう。筋金入りの女性不信である彼は、たとえ疑似であっても断固拒否するはず。この上ない美貌を誇る北山であってもだ。お願いしたとて、長宗我部が脳内に思い浮かべるのは『罰ゲーム』もしくは『美人局』、またはその両方だろう。そんな人にお願いするのは北山としても憚れる。
大熊も応じないだろう。自身の活動の妨げになるような要素は排除したいはずだ。恋愛なんて最たる例である。何より北山自身も、大熊と疑似恋愛しても恋愛感情を感じる想像がつかない。
よって、該当者は唯一人。
「岡崎かぁ」
この目の前の男しか、それを引き受けてはくれないだろう。まあそうなりますよね、と岡崎は他人事のようにケラケラ笑う。
「えぇー……岡崎かぁ……」
「言語化不能な表情してますよ」
「だって、いままでそういう関係じゃなかったのに急に恋人っぽく接しろって言われても」
「何もすぐにキスしろセックスしろって言ってるわけじゃないですからね。時間を合わせて二人で登校したり、二人で学食で昼飯食べるのでもいいです。普段一緒にいない時間を少しずつ共有してみて、居心地の悪さを感じなくなったらそこで初めて手を繫いでみる――とにかく少しずつやっていけばいいんですよ。誰かを友人から恋人に切り替えるのなんて、すぐにできなくて当然です」
「まあ、そうなんだけれどさ」
腕を組んで唸る。
疑似的とはいえ、目の前の後輩を恋人として見る。正直それだけでも現実感はあまりない。しかしそれは岡崎も理解していることではある。
だからこそ悩む。自分の問題に岡崎の可処分時間を奪ってしまうのではないか、本当の恋愛をする時間を潰してしまうのではないか。
「僕では不足がありますか?」
「いや別に、そういうわけじゃないけれど……岡崎の恋愛経験は」
「高二のときに一度付き合ったことがある程度ですね。性格の悪さがバレて一年で別れました」
「それでも一年は続いたんだ」
「意外と。でも先輩は僕の性格知って受け入れてくれているじゃないですか」
「その性格を私に向けていないから、現状どうでもよく思っているだけだよ」
「それならそれでいいんです。重要なのは先輩が僕から
「まあそれは、そうかもね」
「でしょう? さあ先輩も、僕と一緒に馬鹿が不幸になってる様子を見ましょう! 人の不幸で美味しいご飯を食べましょう! 東京全土を巡る醜態ウォッチングに出かけましょう!」
「いままさにウォッチングしとるわ」
道徳の欠片もない発言に、北山は思わずきゃらきゃらと笑ってしまった。
ひとしきり笑って、肩に入っていた力が少し抜けたような気がした。
北山が声を上げて笑うこと自体、このサークルでは珍しい。釣られたのか、岡崎も少し得意げに口角を上げている。
姿勢を正し、再びパソコンの画面に目線を落とした。そこには、先ほど岡崎に指摘されたばかり小説の続編、そのプロットが無機質な文字列となって並んでいる。
妥協してこのままの路線で本文を書き上げるのは難しいことではない。だが、自分自身が足りないと疑念を抱いたまま世に出した創作物に、果たしてどれほどの価値があるのだろうか。そんなものをわざわざ足を運んできてくれた人に読ませるのか。読者はそんな物語で本当に満足するのか。
――いいや、妥協したくない。本物の感情が通った物語を書きたい。
創作に対する強烈な意志が、北山の背中を非常に強く押したのだ。
「……じゃあ頼むよ」
言うと、岡崎は空になったペットボトルを弄りながら、さも当然といったふうに頷いた。
「お安い御用です。先輩がそれでより面白い作品を書いてくれるなら、後輩としても一読者としても本望です。それに僕自身もちょっと興味がありますしね。先輩が恋を知ったらどんな表情するのか気になります。恋を知って乙女チックに赤面させるところとか想像できないですけれど、だからこそ見たいっ! 恥じらう先輩をっ!! いやはや俄然やる気が出てきました!! 先輩の彼氏役をやれるなんて男冥利に尽きますわガハハ!!」
言いながら語気が強まっていき、ペットボトルをフェスのタオルのようにブンブン振り回している。理知的な言動がいつもの姿である岡崎であるから、少年のように調子に乗っている様子は珍しかった。
バックスペースキーを長押しして書いたプロットの文字列を消していく。次の話を一度、白紙に戻す。
次のプロットを書くのは、きっと疑似恋愛の目的が完遂されたときだ。
「じゃあそういうことで……まず、どうしようか」
「決まっていますよ」
北山が言うと、岡崎は即答した。
「名前で呼び合いましょう」
九月。互いを名前で呼び始めた。
十月。一緒に登下校するのも慣れてきた。
十一月。初めて異性と手を繫いだ。
十二月。クリスマスケーキで初めての『あーん』をしてもらった。
一月。炬燵で一緒に寝落ち、腕枕の感触を知った。
二月。岡崎の下宿先に自分の私物が増えてきた。
三月。ハグに慣れた自分を怖ろしく思いながら岡崎を抱きしめた。
四月。二人っきりの花見で気分に乗り、三%の缶チューハイたった一本でへべれけになった。
五月。共子から「笑顔が増えたね」と嬉しそうに言われた。
六月。除湿器唸る六畳一間で、結局ガチガチに緊張してキスできなかった。
七月、八月、そして九月――この関係に期限を定めていなかったのに気がついたのは、岡崎から自分らの関係が一年続いたことを知らされたときのことだった。
思えば昨年は、この関係がこれほど長く続くとは思ってもみなかった。どうせどこかで限界になったり満足したりで、いままで通りの先輩後輩の関係に戻ると思っていた。
それが蓋を開けてみればどうだ。
悪くなかった。全然悪くなかった。むしろ居心地の良さすら覚えていた。限界の二文字は頭に浮かばず、満足どころか
もしかしたら疑似恋愛であることを忘れて、この関係を本物のものであると錯覚してしまっていたのかもしれない。そうでなければ納得できないほど、北山は岡崎との関係を楽しんでしまっていたのだ。
――視点を変える。岡崎が演じる彼氏役は、北山でさえ虜にしてしまった。北山の欲する物事を理解し、正解を示す。
人心掌握と表現しても過言ではないだろう。岡崎の言動は北山の彼氏役をシミュレーションするために最適化されていた。北山の心の深いところまでも摑んで
そして、この関係は北山の大学卒業と同時に、終わりを迎えた。
いつこの関係に終止符を打つか決めていなかったが、しかし何となく、卒業式当日が節目として相応しいだろうと、そんなことを思っていた。
北山が恋愛感情を何となく理解した旨を岡崎に告げると、岡崎は「ならよかったです。後輩冥利に尽きましたよ」と言った。この極めて短いやり取りだけで、これまでの関係が終わった。
二年と数ヶ月間の、決して短いとは言えない時間をともにした二人は、たった数秒の会話だけで、あっけなく終了したのである。
「それで、先輩はあの男の側にあの女がいると知って、まずどう思ったのですか」
――自分だけを想い、自分だけを見つめていてくれる。これを異性からされたのはもちろん初めてのことだ。
大学を卒業して、疑似恋愛を終えた。岡崎とは普通の先輩後輩の関係に戻った。恋愛感情を何となく理解した気でいた。
いいや、それだけではない。そんなもんじゃない。
何なのだ、この寂しさは。
何なのだ、この虚しさは。
何なのだ、この苦しさは。
去っていく岡崎の背中を見て、北山は自分の心の中にあるものを自覚した。認めざるを得なかった。
岡崎から向けられる仮初めの感情に邪念はなかった。「恋愛感情を知りたい」という北山の欲求に真摯に向き合っていた。北山にだけ向けたその感情は、まさに北山のためだけの特別な代物だ。
そして、北山に恋愛経験は一切なく、自身の恋愛を深く考えたこともない。ある意味で先入観がなかったから、その特別な感情は北山の心にスッと入り込み、無意識の中で
「――何で、私じゃないんだって、思った」
花。
そう、花だ。
北山の無意識には、一輪の大きな花が、咲いていた。
『その人と関わって、話して、遊んで、お互いの時間を共有して、知らないことを知っていって――そしたらどこかで『この人、いいなぁ』って、芽が出るの。それはもう前触れなんてなくて、ある日突然ピョコンッ! ……ってね』
芽、どころではなかった。
花が咲いていた。咲いてしまっていたのだ。
北山は、あくまで疑似恋愛だったそれに本気にさせられてしまったのである。
自分の心の中のそれにやっと気づいたとき、いよいよ崩れ落ちた。
恋愛感情を何となく理解した気でいた?
違う。これが、これこそが、恋愛感情なのだ。
『本当に好きになったら、弱いところ全部愛おしく思えるの。強いところ弱いところ普通のところ全部愛おしい』
『何の前触れもなく愛おしいって思ったら、それが恋愛感情なんじゃないかなぁ』
愛おしいのが恋愛感情?
違うよ、絶対違う。
恋愛って、恋って――ずっとずっと、寂しいよ。
「先輩も女の子なんですね」
極夜の白い底を、奇しくも白いLEDの電灯が照らしている。フィンランドの典型的な民家の玄関先を、目を突き刺すような明るさが覆っている。
風と雪の勢いが増している。目元や瞼に当たる雪の一つ一つが北山の体力を確実に削ぐ。フードの意味がなくなってしまいそうだ。足元を隠す雪は、これからまたうず高く背を伸ばしていくのだろう。
「わざわざ日本からここまで飛んだ理由がわかりました。これ以上にない納得の理由です。私もここまで追ってきた甲斐がありました」
膝をつく北山の目の前。こんな環境でずっと尻餅をついて話を聞いていた豊藤が立ち上がり、背を伸ばす。
北山も立ち上がと、北山の目と豊藤の目が合う。ピッタリ合ったまま離れない。
一九センチの身長差が生み出す上目遣いに、あざとさなど微塵も感じられない。その瞳が映す純粋な想いは、全て自身の先輩のためのものなのだろう。
「では、一つ問います」
言葉を発するたびに、桃色の唇の間から白い息が漏れて揺らめき、暗闇の中に溶けてゆく。
「先輩はいま、どうしたいですか。彼女持ちの男がすぐ近くにいるこの状況で、何をしたいですか」
問われ、瞳を閉じる。
北山がわざわざここに来た目的。
自分ではない女を彼女にした理由を知りたいとか、そんなちゃちなものではない。
ちゃんとした彼女を作った事実は変えられない。いまの女と別れて自分と一緒にいてほしいなどと情けない頼みをするつもりもない。
北山の目的は、最初から決まっていた。
「――納得したい。この気持ちに決着をつけたい」
名古屋のサウナで自身の過去を話してくれた同級生が、とある漫画の受け売りを語ったことがある。
『納得』は全てに優先する。
北山は納得したいのだ。岡崎肇の彼女は穂積一華であり、北山洋子ではないことを。
「なら、やるべきことは一つです」
北山の気持ちを受けた豊藤は、真っ直ぐ、言葉を紡いだ。
「いまからフラれてください」
十二月二十九日――星田ゆりに休みはなかった。世間がさっさと仕事を納めて大型連休に洒落込んでいる中、朝っぱらから南青山のオフィスに出社して、チーフデザイナーとして、そしてマーチャンダイザーとして隙のない働きを見せていた。
「これでどうです……?」
「――うん。いいですね。さっきまでのモタつきが完全に消えました」
「よかった……さすがに今日この時間からドツボにハマったら、年明けに間に合わないって本気でヒヤヒヤしましたよ」
「いやぁ申し訳ない……」
もうすぐで二十二時に差しかかる。星田と同じく年の瀬に出社していたチーフパタンナーとのトワルチェックが終わった。
「ひとまず春物のファーストサンプルの指示はこれでどうにかなりますね。ありがとうございます」
「いえいえこちらこそ」
もちろんこの労働は不本意だ。年末年始ぐらい休ませてほしいのが本音だ。だがそうもいっていられないのが役職持ちの悲しいところ。昇進すればするほど金とともに仕事と責任が増える。会社とは、社会とはそういうものなのだ。
にしたって仕事多くないか、とは口にせずに心の中に留めておく。いま出社している人間は等しくそう思っているのだから。
二十三時。ようやく家路についた。
「はああああぁぁー……疲れた」
寝静まらない表参道を重い足取りで歩く。こんな時間だというのにすれ違う人の多さに辟易とする。
出社は今日までだが、明日からも仕事は何だかんだで続く。とくに元日になった瞬間、自社ECサイトやZOZOTOWNで初売りと福袋が始まり、星田はしばらく売上速報を注視しなくてはならない。
三が日は店舗の応援もといヘルプのために本社の社員も店頭に立たなくてはならない。星田も例に漏れず、今年は表参道の店舗を担当することになった。自宅から近いのはありがたい。もっとも星田の目的は単に店頭でスタッフの手伝いをするだけでなく、服がどの客層にどう売れていくかを最前線でリサーチするためだが。
ちなみに夜は各店舗から上がってくる売上報告の処理に追われるのが決まっている。これも上に立つ者の役目である。
ともあれ、明日明後日は家から出ずに済む。この二日間は休養に充てよう。手始めに家に帰ったらすぐに風呂に入って、すぐに惰眠を貪るんだ――そう思っていたのだが。
「えっ――」
道路沿い、表参道駅の出入口から姿を現した自分と同じぐらい長身の女を見て、星田の思考は一瞬止まった。
その女は本来、フィンランド旅行で日本にはいないはずなのだ。なのに、いま自分の目の前に出てきた。
どうして日本にいるのだろう。何か緊急的な用事ができて、急遽戻ってきたのだろうか。
でも、いまは正直、そんなことはどうだってよかった。
星田が女の姿を認めて、ここ一番の、いや人生で一番の衝撃を受けたこと。それは――、
「――ゆり。偶然だね」
「う、うん、偶然だね」
「タイミングピッタリだね。ほら、ゆりってこの時期も働きづめじゃん。だから起きてるかなって思って、スーツケース返しに来た」
「いやその、洋子ちゃん……髪が……」
「ああ、うん」
女――北山は、気恥ずかしそうに、自身の短い髪に触れた。
いやまさかそんな、あの洋子ちゃんが――?
北山は自身の長い髪を気に入っていた。イメチェン程度の軽い理由で、ハンサムショートぐらい短くするイメージが湧いてこない。
女が髪をバッサリ切る。その決断をさせる理由と言ったら、一つしか思い浮かばない。
「失恋したの」
その笑みは儚かった。
いままでの北山なら絶対に見せなかったであろう。何だか、北山がいまにも消えてしまいそうに思った。
「ほら、定番でしょ? フラれたら髪を短く切るのって」
言って、北山は自嘲するように笑った。
似合ってるよとか、綺麗だよとか、気の利いた言葉一つ、口に出せない。
「――ッ!」
耐えられなかった。自分の好きな人にそんな顔をしてほしくなかった。
どんなのにフラれたのか。どんな奴にフラれたのか。どんな野郎がこんな綺麗で真面目で格好良くて仕事ができて面白くて――最高の友達を泣かせたのだ。よくも、よくも、よくも泣かせた!
仕事の疲労など消し飛んだ。怒りとやるせなさに一瞬で支配された。
北山に駆け寄り、思いきり抱き締める。誰に対してもしたことがないハグを、いまここでやった。
「――……」
せめて、せめてその男が居座る記憶の領域を、自分で染めてやる。そうでもしないと、自分の心にあるこの憤怒が消え切らない。そう思った。
――それからしばらくして、星田は北山の手を引いて、自宅に招き入れた。
星田は北山の
話が終わってシャッターを開くと、外はやはり明るくなっていた。
「私って、私が思っているよりも弱いんだね」
北山らしくない弱音に、星田は首を横に振った。
貴方は強い。自分が知る誰よりも強い心を持っている。
この私が保証するから、前を向いていてほしい。
「……ありがとう、ゆり」
そして、睡魔に耐えられず、とうとう北山は眠ってしまった。
ベッドの上で語らっていたから、布団をかけるのは容易いことだ。
北山の横に寝そべって、顔を見る。
目元の赤い腫れが痛々しい。これはいつになったら引くのだろうか。
指先で触れようとして、やっぱりやめて、頭を撫でた。
「お礼を言うのは、こっちだよ」
北山の手をギュッと握って、星田もようやく眠りにつく。だが、その前に――。
ありがとう、洋子ちゃん。話してくれて、嬉しかったよ。大好きだよ。
囁いた言葉は、寝ている北山には届かないだろうが、もはやそんなこと、どうでもよかった。
誤字脱字あると思うので誤字報告願います。毎回チェック漏れあるんですよね……。
……今回の話、もう少しやりようがあった気がする……。