史実はラノベよりも奇なり ~歴史短編集~   作:ロッシーニ

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その4 ~真・義経無双~

三つ巴の内の一角、木曽が敗れて戦いは源氏と平氏の一騎討ちとなった。

頼朝と義仲が争う間、平家は少しずつ力を盛り返している。本拠地である屋島から出て、かつて清盛が築いた街、福原(神戸)を再建。更にその防衛拠点となる一ノ谷に城を構え、京都奪回へ動きだそうとしていた。

 

福原は京都に近い。これを直ちに叩くため、義経・範頼の両大将と梶原景時・和田義盛の両軍監を中心に関東勢有力者による軍義が開かれた。

 

福原は要害の地である。まず、南側は海、北側は山になっている。瀬戸内海の制海権が平氏にある為に南側からは攻められず、北側の斜面はほとんどが崖のように険しい。細い山路が一本あるだけなので大勢で通り抜けることはできない。よって大軍が出入りできるのは東西二方向しかないが、西側では一ノ谷の砦が侵入者の行く手を阻む。

 

本隊は範頼隊。5万を率いて福原を唯一地形的に攻めやすい東側から攻める。ここには平家も人数を割いてくるであろうから、関東軍も主力を投入することになった。

一方、義経は搦め手を担当。1万で北側の山路を回り込み、西側から一ノ谷を攻めることになった。

 

ここで、一つ論争が起きる。

義経が2日はかかる一ノ谷までの道のりを1日で行軍すると言い出したのだ。

 

「そんな無茶な行軍にはついていけない!」

 

梶原景時がそういったので、義経が

「あぁ。みんな、無理にやらなくてもいいよ。僕のスピードについて来れる体力のある人だけついてくればいいからさぁ」

と言うと、義経軍に入る予定だった者は皆、ついてくると言い出した。

 

ノロマ、体力がない、ヘタレ。そう思われることは武人としてのプライドが許さなかったのだ。

ただ、景時だけは頑として意見を曲げなかったので、景時は範頼の隊につき、代わりの軍監役を土肥実平が務めることになった。

 

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「天狗ならこの道は1日かからずに駆け抜けることができる! 天狗にできて、勇敢な関東武士団にそれができない訳がない、皆の者、行くぞ!」

 

その掛け声を合図に、義経の搦め手軍は猛スピードで行軍を開始した。辺りが暗くなってもその速さは衰えず、周りの民家を燃やして明かりにしながら進んだ。

 

義経のこの行動には周りの武将もドン引きしていたが、本人は

「ホントは天狗火を使うところなんだけど、僕、使えないんだ。霊術は教えてもらえなかったからさぁ…。だから仕方ないよね!」

と悪びれる様子がなかった。

 

夜が深まる頃には三草山というところについた。

ここには、回り込んで西側を攻める源氏を警戒して平資盛(重盛の次男)という武将が配置されていたが、全く予期しない夜襲だったので、まともに戦いもせずに撤退していった。

 

これを受けて義経は部隊を更に二つに分けた。

土肥実平に7000の兵を預け、明石を経由して西側から攻める隊とした。そして自身は残りを率いて山中に入っていこうとする。

 

「あの、本当にいいんですか?」

土肥実平が言った。

「何が?」

義経が不思議そうなので、実平は続けた

 

「普通、大将が兵の多い方を率います。もし伏兵を使いたいなら、私がそちらを受け持ちましょうか?」

「あぁ。いいの、いいの。僕は普通のことしないから。」

「え?」

「奇抜なことをして敵を欺く。それが天狗兵法の基本さ。」

 

義経の別動隊は弁慶の見つけてきた地元の子どもの案内で険しい山中を進んでいた。

そして夜が明ける頃、一行は一ノ谷をのぞく険しい坂道に差し掛かった。その地を鵯越という。

 

「ここから一ノ谷を攻めよう。」

義経がそういうと、軍の中から多田行綱という武将が出てきて

「いや、ムリでしょう」

と言い出した。

 

以前、鹿ヶ谷の陰謀事件の際、平氏にビビって計画を漏らした多田源氏の武将である。以仁王の令旨で各地の源氏が挙兵するのを見て、彼もまた平氏に反旗を翻していたのである。

 

義経は首をひねった。

 

「何で?」

「こんな急な崖は降れません」

「そうかな? 天狗なら行けるよ?」

「知りませんよ、そんなこと。」

「なんかさっき地元の人に聞いたら、鹿はここ降るらしいよ」

「で? オレたち乗ってんの馬だし。鹿じゃないじゃん」

「鹿が行けるなら、きっと馬も行けるよ。」

 

そんなやりとりをしていると、義経の背後辺りで、武蔵坊弁慶と伊勢義盛が私語を始めた

 

「あれ、あれって多田行綱だよね」

「そうだな。」

「アイツって鹿ヶ谷の陰謀チクったヤツだよね」

「そうそう。重盛の軍にビビったらしい」

「崖降れないとか、もしかして、またビビってんのかな?」

「そうでしょ。だって見てみろよ、あの顔。チョービビり顔じゃん」

「やば…メッチャビビってんじゃん。」

「ぷっ…チョー臆病者じゃん」

 

多田行綱にもそれが聞こえてしまったらしい。行綱は段々涙目になってきた。

 

「ち、違うもん。ビビってないもん。」

「え? でも涙目だけど?」

「ち、違うもん…ぴえーん。」

 

行綱が泣いてしまったので、義経は仕方なく言った。

 

「ま、まぁ。こんなたくさんで崖を降るのは逆に危ないかもしれませんね。こちらは100騎ほどあれば十分ですから、行綱殿は残りを率いて夢野口を攻めて下さい。」

 

 

前述したが、福原には攻め口が3ヶ所あった。

まずは東側、範頼が攻めている生田口。ここがこの合戦、一番の激戦区だ。源氏も人員の大半を割いているが、平家側も平知盛、平重衝という名将が指揮をとっており一進一退となっている。

次に西側、塩屋口。こちらには義経と分かれた土肥実平の軍が向かったが、平家が築いた一ノ谷の砦があるため突破困難だ。

そして北の夢野口。こちらは細い山路で大軍の行軍には向かない。当初、源氏側としては使う予定がなかった入口だが、義経の指示によって多田行綱が攻めている。だが、地形上、如何せん一度に攻められる兵数が少なく、源氏は苦戦を強いられている。

 

どこも戦線が膠着している中で、義経隊の70騎程が北側にそびえ立つ崖を降って突如、福原市外に現れた。ちなみに、30騎ほどは崖を下りる際に途中で脱落している。

 

本来、現れることのない場所からの敵の出現に平家は混乱した。

まず、一番近くにいた夢野口の平通盛隊が潰走。続いて塩屋口を守る平忠度隊も大将が源氏方の岡部忠澄に首をハネられる程の総崩れとなった。残る生田口では平知盛、平重衝の両将が奮戦していたが夢野口、塩屋口での惨敗を聞いて退却を選択するしかなくなっていた。

この際、夢野口への援軍に向かおうとしていた関係で逃げ遅れた平重衝が源氏方の梶原景季に捕縛された。これにより、平家は名将をまた一人失ったのである。

 

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源氏の、文句のつけようがない大勝利だった。

彼らは攻め落とすのに数ヶ月はかかるのではないかと言われた要害の地・福原をほぼ1日で攻略してみせたのだ。

 

その立役者は見事、鵯越の逆落としを成功させた義経になる訳だが、鎌倉でその報を聞いた頼朝の感想は

「義経、アイツなにやってんの?」

であった。

 

頼朝からすれば、長期戦の準備は十分してきたつもりだった。

その為に飢饉を避けて西国への侵攻を3年も遅らせ、その間、関東の平定に専念し兵站補給地と背後の安全を確保した。

もし相手の守りが崩せなければ、ある程度、相手にダメージを与えて、負けないタイミングで撤退すればよかったのだ。勝ちきれなければ、また攻めればいいだけなのだから。

むしろ、そんなリスキーな奇襲を仕掛けて失敗していたら、この3年間の努力が無駄になってしまうところであった。

実際、義経は100騎程で崖を降り戦局を変えたというが、残りの9900騎は頼朝に許可もとらずに部下に任せて、悪く言えば放置している。もしかすると、源氏はここで義経隊一万の兵を丸々失う可能性もあったわけだ。

 

勝利に水を差して士気を下げる訳にはいかないので、その不満を口に出すことは出来なかったが、本当は義経を京都から呼び出して怒鳴り散らしたいくらいの気持ちであった。

 

義経が頼朝の不興をかった理由として、一つにはそうした戦略性の違いがあったが、もう一つに、頼朝が現地の様子を知る為の情報源にしていた媒体が梶原景時作成の報告書であったことが挙げられる。

 

梶原景時は報告書を作ることが、この時代の武士としては異様に得意であった。他の武将、例えば義経や範頼が合戦の報告として頼朝にあげるのは、せいぜい「どこで、誰が、勝ちました(負けました)」という程度の文だった。

あるいは褒美を得るために自分の手柄だけを延々と書き綴る者はいたが…。

 

だが景時は違った。

彼が作成する報告というのは、どの攻め口で何人と何人がぶつかり、双方どの程度の損害がありどちらが勝ったか。相手方の主だった武将は誰で誰が討ち取ったのか、あるいは、どこへ逃げたか。味方の諸将はそれぞれどのような振る舞いをしていたか…など戦場の様子を己の知る限り最大限事細かに記したものだった。

 

頼朝はこれをいたく喜び、頼りにするようになった。

御家人たちに戦場での働きによって適切な報奨や罰を与えて国家を運営していこうと考える頼朝にとって、現地の情報を細かく知ることは必要不可欠なことであった。

戦場で活躍することを大前提としつつ、頼朝が作る新しい世の中には、景時のように事務能力に優れ、キチンと上司に「報告・連絡・相談」をしてくれる人材が求められていた。

 

とはいえ、報告書というのは人が作るものなので、どうしても作成者の主観というフィルターがかかったものになってしまう。景時は事ある度に義経と戦術論で対立していた。意図的かどうかは別として、作成する書類の内容はどう考えても好意的にはならない。

 

そんな景時の報告書を見て万事を判断していくものだから、頼朝の義経への心証は自然、良いものにはならなかった。

 

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義経は干されていた。

 

一部例外として、小規模な反乱の鎮圧の任務はあったが、一ノ谷から一年。義経に平家討伐の為の出撃命令が下ることはなかった。大戦果を挙げた武将に対する扱いとしては異例である。

 

表向きの理由は義経が頼朝に無断で後白河法皇から官位を受けたことだとされた。

確かに、朝廷から独立し東国で武家政権を樹立することを目指す頼朝からすれば、それも面白いことではない。

だが、この時期に任官された武将は他にもいる。立場の違いはあれど、彼らが警告程度の処罰で済まされ、早々に戦線復帰していることを考えると、義経への罰だけが異様に厳しい。

義経が起用されなかったのは、頼朝が義経を敵以上に怖れていたからだ。

 

義経の戦い方は頼朝からすれば無鉄砲すぎた。宇治川、一ノ谷では上手く行ったが、今後も同様に上手くいくとは限らない。いつか取り返しのつかないくらい大きな失敗をするのではないか。頼朝にはどうしてもそう思えてならない。

 

義経が頼朝の政治的な戦略を理解出来なかったのと同じく、頼朝も義経の戦術的天才性を理解出来てはいなかった。

義経は、この時点での戦術的常識では異常なほど、自身の部隊に機動力と相手の虚をつく意外性を求めた。

それらを駆使して相手が守備を堅めきらない内に撃破しようというのが義経の言うところの天狗兵法の真髄だ。

 

ここまでの歴史上、そうした例が全くなかった訳ではない。

だがそれは、時たま現れる戦術的天才が己の判断のみでやることだった。

 

世界史的に言えば、この後、モンゴル帝国が似たやり方で世界を席巻していくが、平野が少なく騎馬の機動性を十分生かしづらい日本ではその発展が遅れた。

日本でそれが組織として行う戦術的なオプションの一つとして受け入れられるには戦国時代を待たなくてはならない。そう考えると、義経の考え方は日本史上、異様に進んでいた。正に世界史クラスの指揮官であったと言って差し支えない。

 

だが見方を変えれば、義経の発想はこの時代の日本においては早すぎた。自分達の体制が多少危うい状態でもとにかく速く攻めようとする義経の兵法は、何事にも準備を欠かさない性格の頼朝には、なお理解し難かったであろう。

だが、義経からすると、相手が防備を堅めきったところに攻めていく方が危険なのだ。

 

結局のところ、自分達が準備をすることをとるか、相手に準備をさせないことをとるか。

その二択の違いなのだが、双方共にそこが考え方の根っこになる部分であり、それが極端に行動に出ていたので、兄弟の溝は深まるばかりなのであった。

ホンの少しの違いが、血の繋がった二人の天才のすれ違いを生んだ。

もしも、天才的な政治家である頼朝が義経の戦術の才能に理解を示しその力が存分に発揮できるようサポートしていたなら。

もしも、天才的な戦術家である義経に頼朝の政治的判断の意図をもう少し深く考える力があったなら。

そして、双方がもう少しお互いの考えに関心を持てていたなら。

どれほど強い軍団が出来上がっていたのだろうか。

だが、それは後世に生きる我々の想像でしかない。

 

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平家を追うのは範頼軍だ。

以前、木曽義仲の軍が海戦の経験不足から、屋島にいる平家を追撃できなかったが、その点では頼朝の関東武士団もそこまで変わらない。

 

直接、屋島を狙うのは難しい。

そう判断した頼朝は山陽道沿いを平定しながら長門国に入り、最終的に平家の拠点がある彦島を墜として屋島を瀬戸内海で孤立させようと目論んだ。

 

範頼は3万の軍勢を率いて山陽道を西へ進む。

当初の行軍は順調であったが、備中国・藤戸の戦いで平行盛率いる平家軍に苦戦すると、その後、瀬戸内海交通を握る平氏に兵站路を脅かされるようになった。

西に進むにつれて兵站が枯渇するようになり、範頼の軍の中では厭戦ムードが高まっていく。

 

しまいには軍団のNo.2、軍監の和田義盛まで

「鎌倉へ帰りたい」

などと口走るようになってしまった。

 

それでも中国地方を下関までおさえ、更に回り込んで北部九州を支配領域に組み込むまではしたものの、この状態で苦手な海戦に挑むことは不可能であると範頼は判断した。

 

そうして、範頼は頼朝に書状をしたためた。

 

「山陽道、北部九州はおさえ、平家を孤立させるという目的は果たしました。しかし、彦島の砦を攻略するには至らず、また、兵糧不足でこの包囲も長くは維持できません。願わくば、畿内の軍で屋島を攻撃し、包囲を継続できている間に平家と決着をつけて頂きたい。」

 

 

「なかなか無茶なことを言う」

範頼からの文を読んで頼朝はため息をついた。

 

屋島を直接叩くのが難しいから先に山陽道~九州までを範頼に平定させようとしたのだ。これでは結局、平家が弱りきる前に屋島を攻めなくてはならないことになる。

 

だが、こうなった以上、攻めるなら今なのも事実だ。

今なら、屋島さえ陥落すれば、平家の逃げ場はない。包囲が解けてしまった後で逃げ回られては二度手間、三度手間である。

 

頼朝はため息をついて呟いた。

「義経か…」

 

平家を潰す千載一遇の機会である。

不利な海戦で屋島を墜とせる指揮官が他にいるだろうか。頼朝がいくら考えても他の答えは浮かばなかった。

 

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「屋島の平家を追討せよ」

 

頼朝からその命が下ると義経は張り切って準備を始めた。

河内源氏にまともな水軍がないのは前述の通りなので、始めは畿内の水軍に協力を依頼することから始めた。

 

義経が直接交渉すると、割とすんなり渡辺党、熊野水軍といった地元水軍の協力を獲得できた。

本来、義経は口が達者な男ではない。それでも交渉で結果を残せたのは、一ノ谷での派手な奇襲のお陰で義経の名が知れ渡っていた為だ。

「コイツについていけば勝ち馬に乗れるだろう」

水軍の棟梁たちはそんなイメージを持った。

 

義経はそれら水軍の舟を現在の大阪市。渡辺党の本拠地でもある淀川河口の渡辺津に集めた。

ここで関東の武士団を舟に乗せ、四国へ向けて出発しようという手筈である。

 

その日は、波が高かった。

義経らは知る由もないが、西からやってくる暴風雨の影響である。

 

関東の武士達は三浦半島や房総半島で活動していた一部を除いて海に出たことがない。

「このまま海に出たら沈んでしまうのではないか。」

そんな事を言い出す者がいて、軍全体に不安が広がっていった。

 

「皆の者、動じるな! 舟に逆櫓をつければ良いのだ、そうすればいざと言う時は戻って来れる!」

梶原景時がそう言った。

 

「どういうことですか?」

「逆櫓というのは、舟の進退を自由にするためのモノですよ。舟の前方に取り付けるのです。」

 

景時は自慢気に答えたが、義経は逆櫓とは何かを聞きたかったのではない。それは知っている。どういう気持ちでそれをつけようと言っているのかを聞きたかったのだ。

 

「そんなものをつけて始めから退却することを考えていたら、皆、臆病風に吹かれてまともに戦えなくなりますよ。」

「これはいけません、義経殿。真に戦いに優れた武将というのは進む時には進み、退く時には退く者です。」

「では、仮に、逆櫓を舟に取りつけるとして…。全部の舟につけ終わるまでに、どれくらいの時間がかかるんでしょう?」

 

「どのぐらいかかるんだ?」

 

景時は舟戦をする上での一般常識として逆櫓の問題を言い出した訳だが、実際にどのようにするのか細かい作業の手順までは知らない。

近くにいた渡辺党の渡辺(つがう)に義経の質問をそのままぶつけた。

 

「そうですね…。難しい作業ではないですが、この大軍を運ぶ舟、全てに取りつけるとなると…。2、3日は時間を頂きたいですね。」

「遅いです。それでは、平氏も我々の行動に気づいて守りを堅めてしまう…。」

「と、言われましても…。これだけ人員がいたって結局作業ができるのは我々水軍衆だけですからね。それなりに時間は頂かないと…」

「だが、それでは、遅いんだ!」

 

梶原景時が言う

「何をそんなに奇襲にこだわっているのですか! 相手が守りを堅めるなら、こちらも堂々と名乗りをあげ一騎討ちを挑むまでのこと! それとも義経殿は我々関東武士の武勇を信用できないと申されるのか!」

 

義経からすれば、論点が全くズレている。その為、義経はそれを半ば無視した。

 

「まぁ、いいや。出発は明日にしましょう。逆櫓はそれまでにつけられる分だけということで。」

「ですから、それはあまりにも無鉄砲!」

 

「ま、今回もついて来られる人だけついてくればいいですから。絶対上手くいきますよ。」

 

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その夜、渡辺津にて、水軍衆による夜を徹しての作業が行われていた。

出立は明朝に決まった。それまでに一艘でも多くの舟に逆櫓を取りつけなければならない。

 

だが、作業をしている内に、段々と天候が悪化してきた。昼間から高かった波が更に高くなり、雨が降り、風も出てきた。

 

「これは、明日の出発はムリだな」

作業を進めながら、誰かが言った。

 

これだけ海が荒れれば、いくら何でも海に出ると言い出すヤツはいないだろう。海に慣れた水軍衆がそう思うのだから、関東の武士なら尚更なはずだ。

そして、水軍衆たちは少しホッとしていた。これで出発が1日遅れれば、その分、逆櫓を取りつける作業をする時間も1日稼げる。

 

雨が強くなってきて、灯りの松明の火が消えるのも時間の問題になってきた。作業も再び日が昇るまでは難しい。

皆、寝ていなかったので、チラホラと休憩をとりだした、そんな時だった。

 

義経と弁慶以下、義経直属の武士たちが武装して、この作業場に現れたのだ。

 

「義経様、いかがなされましたか? 出発の時間はまだですが…。」

渡辺党の渡辺番が寄っていって声をかけた。

 

「波と風の様子を見にきたんですよ」

「あぁ、見ての通り。ヒドいもんです」

「ん? すごくいい風ですよ」

「え?」

 

渡辺番は首を傾げた。

一番出陣を待ち望んでいるであろうこの人が、嵐を喜ぶとは何事か。この天候では舟は出せない。何か、大きな勘違いをしているのではなかろうか。心配になって、番は言った

 

「これでは、明日の出航はムリですね。中止ですか?」

「今から出ます」

「え?今って?」

「今の今。たった今です。」

「な、何をおっしゃっているのですか!? 今、舟を出すのは危険です!」

「確かに、安全ではないかもしれない。でも、この強い風…四国の方に向いて吹いている。今なら、物凄く速く向こうにつけますよね?」

 

悪天候で舟は出せないという前提があったので、考えてもみなかったが、確かにその通りではある。何も考えずに言っている訳ではないらしい。番は感心した。

 

「義経様は風をよめるのですね」

「まぁ。水軍のみんなには劣るだろうけど。自然の移り変わりを予測する術も、天狗兵法の中にあるからね」

「て、天狗…?」

「うん。天狗」

「 まぁ、では、何か考えがあっておっしゃっているのでしょうが、危険には変わりないですよ。逆櫓も結局まだ一部にしかつけられていません。」

 

「それは昼間も言った通りさ。僕は行く。ついて来られる人だけついてくれば十分さ。」

 

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義経についてくる者は少なかった。

 

一ノ谷の時の行軍もかなり無理があったが、あれは陸でのことだった。今度は、ほとんどの兵にとって不慣れな海だ。嵐の中出ていって舟が転覆でもしてしまえばお仕舞いだ。

宇治川、一ノ谷での義経の戦いぶりは知れ渡っており、源氏勢の中には彼の一種、魔術的な手腕に期待して従軍していた者も多かったが、いざそれをやるとなると腰の退ける者がほとんどだ。

 

当初、屋島へ一緒に侵攻するはずだった兵の数が2万人程度。ついてきたのが150騎。あまりに少ない。

それでも、義経は十分だと思っていた。寡兵でも、相手を混乱させ、隙を突けば勝てる。イヤなのは、味方の意思統一ができず、軍全体の行動に迷いが出ることだ。

今、いるのは自分の戦術を信頼し最後までついてくると心に決めた者たちだ。

 

義経は舟を出す直前、直属の部下たちに

「他家の者には、ムリについて来なくていいと言った。みんなだって一緒だ。僕の郎党だからと言って、ついてくる必要はない。迷っているなら残れ。一緒に来なかったからと言って、そのことを責めたりするつもりはないから。」

と念を押した。

 

すると弁慶が

「某は、いつぞや五条の橋で手合わせした時からずっと義経様を天下無双の強者であると思っています。義経様が負けるはずがありません。我々はただ、お力添え致すまで。」

と言った。

 

他の郎党たちも

「そうだ、そうだ」

と口々に続く。

 

迷いながら、疑いながら進む2万の兵より、ただ一つの事を信じて突き進む150人の方が強い。

 

この戦、勝てる。

義経は確信した。

 

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出航する頃には凄まじい強風になっていた。だが、義経の読み通り風向きは悪くない。本来、渡辺津から屋島までは舟で3日ほどかかる予定であったが、義経たちは1日で四国までたどり着いた。

 

舟の数にすると5艘という寡兵であるため、屋島に直接上陸戦を仕掛けるのは、あまりに不利である。

平家側に気づかれないよう、屋島からはあえて距離をとり、阿波国・勝浦に上陸した。

 

義経ら150騎はまず、最も近い平家の拠点である桜庭良遠(田口成良の弟)の桜間館を襲って、これを打ち破った。

その後、屋島へ向けて急ぎ進軍。途中、丹生に至った際に、源義経は、自身が率いる軍が寡兵であることを悟られないようにするために軍を2つに分けた。

そして、屋島を挟み込む形で民家に火をかけて煙をあげ、巧妙に大軍に見せながら、それぞれが屋島に向かった。

 

平家は大慌てだ。

源氏はまだ渡辺津にいると思っているし、だいたい陸から攻めてくるとも思っていない。守りの体制が整わない平家は状況確認をしつつ、いつでも逃げられるよう舟に乗り込む訳だが、義経はそれを追撃はしない。彼の狙いは別のところにあった。

 

屋島はその通り、島ではあるが、どちらかといえば中洲に近い地形で陸と距離が近く、周囲も干潮時は馬でも渡れる程度の浅瀬だ。

その為、義経は平家一門が湊に向かった隙を突き、屋島に侵入。安徳天皇の内裏や平家の館、砦に火を放ち、屋島の拠点としての機能を奪ってしまった。

これで、平家はもう屋島にはいられない。

 

歴史上、あまりにも有名な屋島の戦いだが、勝負の趨勢はまともな武力衝突もない内に決してしまった。

平家側もしばらくすると、想定したより源氏の兵の数が少ないことには気づくのだが、手遅れである。

 

苦し紛れに舟に扇を立てて

「これを射落としてみろ」

などと挑発することしかできない。

 

これも源氏方の那須与一によって見事、打ち落とされた。

しかも、与一の妙技に「敵ながら天晴れ」ということで、平家の老兵が一人、船上で舞いを舞うのだが、義経は与一に命じてこの老兵を射殺させた。

 

義経はこの時代によく見られる戦の作法などには全く興味がなかった。だから、相手を讃える老人の心意気さえも挑発に使った。

これは現代的に例えれば、サッカーで怪我人が出た際にピッチの外に出したボールを相手に返さなかったり、野球で大幅にリードしているのに盗塁をしかけたりするようなものだ。

明確なルールではないが、スポーツマンシップには反していると言える。

 

怒った平氏の何名かが舟から降り、刀を抜いて向かってきたが、何ぶん、足場の悪い浅瀬から陸へ向かってくるのだ。源氏勢が弓を射て、陸に上がってくる前に全員射殺してしまった。

 

平家側は義経隊が待ち構える陸地には上がれず、また、上がったところで生活の場や防衛拠点は全て義経に焼き払われてしまっている。更にいえば、平氏側からすると、梶原景時が率いる源氏水軍の本体がいつ屋島に現れるかもわからない。

 

平家の軍事的指揮官である平知盛は苦々しく唇を噛みながらも決断した。

 

「屋島は放棄して、彦島へ向かう」

 

こうして、平家は最後の拠点となった彦島へ向かった。彦島に近い陸地である九州北部や下関は範頼隊が既に占拠しており、平氏にはもうこれ以上の逃げ場はない。

 

次が最後の戦いになる。

この戦に関わる誰もがそう理解していた。

 

 

義経が屋島で勝利してから丁度3日後、梶原景時が率いる源氏の本体が屋島にやってきた。

予定通り、嵐が過ぎるのをまってから渡辺津を出航してきたのだ。

 

彼らが屋島に到着すると平家の姿はもうそこにはなく、焼き払われた拠点の跡があるのみだった。

梶原景時は、嵐の中出ていった義経がどこかで遭難し屋島に着いていないのではないかと疑っていたし、辿り着けたとしても、あの寡兵では平家軍と戦っても返り討ちに合うだけだろうと思っていた。

だから、景時は目の前に広がっている屋島の現状を見ても、一体何が起こったのか想像がつかない。

 

しばらくして、源氏本体が到着したという報せを聞いた義経が浜に出迎えにやってきた。景時は開口一番に言った。

 

「義経殿! 平氏の軍勢は一体どこへ行ったのですか!」

「あぁ。スミマセン…」

「『スミマセン』!? こ、今度は一体何をやらかしたのですか! 他の者たちはどうしたのです! 全員ヤられてしまったのですか!」

「スミマセン…。合戦には勝ったのですが、取り逃がしてしまって…平氏は彦島へ向かったと思います」

 

「勝った…?」

「いちおう勝ちました…でも…もしかしたら、こんなんじゃ勝った内に入らないかもしれませんね…。拠点は破壊出来ましたけど、打ち取れた数はそんなに多くなかったし…こちらも佐藤継信を失いました」

「か、勝った…あの人数で勝ったと言うのですか! 一体、一体どうやって!?」

 

梶原景時はあんぐりと口を開けている。

何だか会話が噛み合わない。

義経はそう思って頭をかいた

 

「あれ? また僕、なんかやっちゃいました?」

 

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義経は供養を捧げてから屋島を出た。

義経が奥州を出る際に藤原秀衝がつけてくれた郎党の佐藤兄弟の内、兄の継信が屋島にて戦死していたのだ。前述の通り、戦闘自体は呆気なく終わったのだが、平家が逃げる間際、弓の名手・平教経が義経を狙った際、彼は身を呈して主人を庇って死んだのだ。

義経はこれを一生の不覚とした。彼を弔いたい。そんな思いから、義経は次の合戦では自分が先陣を切ると源氏一同に宣言した。

例によって、梶原景時が、大将が先陣を務めるなど聞いたことがない。部下の中にも手柄を立てたい者がいるのだから、ここは譲ってやるべきと主張したのだが、義経は譲らなかった。

 

 

1185年3月。檀ノ浦の戦いが幕を開けた。

周防国から彦島に向かってくる義経の源氏水軍に対して、平氏は湊に籠らず迎え撃つ策をとった。

 

丁度、潮の流れが彦島側から向かってくる源氏の方へ流れ始める時間帯であった。平氏としては、その間に短期で決着をつけようというつもりである。

 

何度も書いているように、海戦は平氏の得意分野で源氏の苦手分野だ。この頃になると、瀬戸内海沿岸の海賊を味方につけて数の上では源氏の舟の方が多くなっていたが、操舵の熟練度に勝り、海流も味方につけた平氏は源氏をグイグイと圧していく。

 

先陣で突っ込んで行った為、義経の乗った舟も度々襲われた。それを強者揃いの郎党たちが次々切り伏せていく訳だが、ピンチには変わりがない。

 

潮の流れが変われば勝てる。

それが源氏軍の共通認識であったが、果たしてそれまで戦線をもたせる事ができるだろうか。

皆が不安に思い始めた頃、義経は言った。

 

「そうだ、舟の漕ぎ手を狙って攻撃しよう」

「いいんですか?」

義経郎党の弓の名手・伊勢義盛はギョっとして言った。

 

「え? ダメなの?」

「ダメではありませんが…普通、やりませんね…」

「なんで?」

 

何故だろう。

伊勢義盛は考えたが思いつかなかった。

 

この時代、「戦い」というのは、つまり剣を振るって相手と斬り合ったり、弓を射て相手を射殺すことをいっていた。

その考えでいくと、今、「戦い」をしているのは武装して舟に乗り込み斬り合い、射ち合いをしている武士だけで、舟を漕いでいる人は非戦闘員であるということになる。

だから、この時代の武士にとっては、例え戦場であっても舟の漕ぎ手を殺すことは、感覚として戦闘ではなく殺人に近い行為であった。

 

だが、義経の考えでは機動力は部隊の最も重要な戦闘能力だ。それは一ノ谷でも屋島でもそうだった。

そして、今、平家に圧されているのも彼らが潮の流れを味方につけて機動力を増しているからだ。

 

この時代の戦いは個人の武勇を中心に考えるのが一般的で、機動力で相手を撹乱したりといった考えはほとんどの武士が持っていなかった。

では何故、今、平氏がこのような戦い方を選択しているのか。

海戦ではそのようにするのが普通なのか、それとも今までの義経の戦いぶりを見て平家側の指揮官・知盛にも何か感じるところがあったのか。

義経には知る由もない。

 

何にせよ、この戦況では義経得意の機動戦に持ち込むのは困難であった。

ならば、相手の機動力を削ろう。

それが義経の考えだった。

 

やや戸惑いながらも忠臣である伊勢義盛は全軍にそれを伝達した。しかし、やはり、戸惑う者が多かったので、義経配下の義盛や弁慶が率先してやって見せると、やっと他の源氏の武士たちも従うようになった。

 

平家の軍が機動力を失うと、戦況は互角となり、長期戦になった。そうすると、やがて潮の流れは変わる。元々数で劣る平家が舟の漕ぎ手を失い、海流の有利も失えば、あとは最早壊滅するだけである。

平家の武士も、女たちも、そして安徳天皇も次々に海中へ姿を消した。

 

 

そんな中、平教経は奮戦していた。屋島で佐藤継信を射殺した弓の名手である。

 

教経は

「身投げはしない、死ぬなら戦って死ぬ」

と決めていた。

 

舟を本来戦闘員である部下に漕がせては源氏の舟に近づき乗り移って戦い、自分を倒せる程の猛者を探すのだが、腕っぷしでは平家一とも言われる教経だ。なかなか死に場が見つからない。

 

そんな中、教経は源氏の舟に相手の大将の姿を見つけた。

「源義経だな! 私は平教経だ! 尋常に勝負しろ!」

「えっ? イヤですよ」

 

義経は断った。

義経からすると、ここで教経と一対一で勝負することに意義を見いだせなかった。

義経も武術で勝負をするのは嫌いではない。

だが、己の最期を華々しく飾ろうとする教経とでは熱量が違った。

 

相手の事も自分の事も一廉の武士だと認めるなら、普通はその心意気を理解して勝負に応じる。そこに胸を熱くする、というのが、この時代の考え方だが、義経は違った。

義経は、樋口兼光の助命を嘆願したり、佐藤継信の弔いの為に先陣を志願したりと、必ずしも無感動な男ではない。だが、戦場においては人の感情よりも効率や損得を重視した。

 

だから、梶原景時が常識的に言えば無茶に思える義経の作戦に対して諫言をしても、自分の作戦の方が効率良く結果が出せると思えば、大した説明もなく相手の意見を退けてしまう。

そこに相手の面子やプライドに対する配慮はない。

政治の場と戦いの場で発揮する場所の違いはあるが、そこは兄の頼朝との共通点かもしれない。

そして、そんな義経だから、平教経の最期を飾る決闘の申しでも断ってしまうのだ。

 

義経からすると既に勝負はついている。源氏の勝ちだ。

平家の勝ち戦なら、手柄を得る為に最後まで少しでも多くの首を狙うというのはわかる。だが、負け戦なのだからたくさん相手を殺したところで罪が重くなることはあっても得になることはない。

教経も早く身を投げるか、大人しく捕縛されるか選べばいいのだ。

何故、ここで自分が命を賭けてまで相手をしてやらなければいいのか。義経にはわからなかった。

 

「あ、そう言えば佐藤某と言ったか…屋島で死んだ、イヤ、俺が殺してやったお前の郎党、弱かったなぁ! 死ぬ時も無様に痛がってたぞ! とても武人とは思えない弱虫だ! やーい!」

決闘を断られた教経は大きな声で叫んだ。

 

義経は、自らの為に命を落とした忠臣を罵られて腹が立った。

だが同時に、挑発だな、とも思った。

そして、ここでも効率的に考えるのである。

 

確かに腹は立つ。自ら殺してやりたい衝動にも駆られる。だが、相手は自分と勝負がしたくてあんな挑発をしているのだ。

では、今、平教経が一番悔しがる仕返しの方法はなんだろうか。

 

「よし、逃げてやる」

義経は浮かんでいる舟の上をピョンピョンと跳び移り、教経の前から姿を消した。

 

普通、この時代の重い甲冑をつけながら、そんな事ができる人間はいない。

 

平教経は追うのを諦めて

「畜生!」

と大きな声で叫んだ。

 

そしてしばらく呆然としていると、大将首を狙って源氏の雑兵が二人ほど教経に近づいて来た。

 

教経は

「雑魚がぁ! 貴様ら何ぞに俺の首はやらん!」

と叫び、その二人の首を両脇に抱えると、そのまま海へと飛び込んだ。

 

 

こうして、源氏と平氏の戦いは終わった。

同時に、武人と武人が互いに矛を合わせて武勇を競い、高め合う。そんな時代も終わろうとしていた。

 

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