史実はラノベよりも奇なり ~歴史短編集~   作:ロッシーニ

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その5 ~兵どもが夢の跡~

その7 兵どもが夢の跡

 

1185年5月。義経は鎌倉郊外の腰越にいた。檀ノ浦で平家を滅ぼした後、相手方大将の平宗盛を鎌倉まで護送していたのだが、頼朝は義経が鎌倉に入ることを許可しなかった。

原因は無断で後白河法皇から任官したこと、梶原景時から義経の驕慢と専横を訴える書状が届いたこと、頼朝が義経の強さと名声を怖れたから、など様々に言われるが本当のところは頼朝にしかわからない。

義経が一ノ谷や屋島で梶原景時に作戦を十分理解が得られるまで説明しなかったように、この兄弟はそれぞれの分野で類い稀な才能を持ちながら、人に考えを説明することを嫌うところがあった。その時代の常識から進みすぎた考えは人に理解されない事が多い。その為、2人は物事を言葉よりも結果で示すことを好んだ。この頼朝の、平家討伐の英雄である義経をあえて冷遇するという対応にも何らかの意味があるはずなのだが、その答えは頼朝の頭の中にしかない。

 

腰越から先に進めず、頼朝と直接合うことも許されない義経には、勿論頼朝の考えがわからない。何故このような事になるのか、という悲痛な手紙を頼朝に送っているが、それへの返事もなかった。

この時期、義経は生きる意味を無くしていた。元々は、天狗に習った武芸を平家打倒の為に役立てようと山から降りてきたのだ。敵を全て倒してしまった今、自分はどのように生きていけばいいのか。全てを達成したはずなのに、何かが足りない。義経は胸中、何かポッカリと穴が空いてしまったような感覚を覚えていた。兄であり、上司でもある頼朝に聞けば何かわかる気がしたが、彼に会うことは叶わない。ならば、せめて今まで生きてきた事の証として平氏討伐の功績くらいは認めて欲しかったが、頼朝はそれすらしない。

だから、腰越から京都に戻った際、後白河法皇が「そんなにヒドイ兄の言うことを聞く必要はない。」と頼朝追討の院宣を義経に出してきた時も黙ってそれを受け取ってしまった。後白河法皇が関東で独立しようとする頼朝を好ましく思っていないのはわかっていたし、手持ちの戦力では圧倒的な組織力を持つ関東武士団に敵わないのもわかっていた。それでも、義経は戦うことを選んだ。自分が戦いの中に身を置かないと生きていけない人間だということに気づき始めていたからだ。

 

義経と弁慶、伊勢義盛はじめその郎党たちは、頼朝追討への協力要請に反応があった豊後国の緒方氏を頼り九州へ航ろうとするが、途中で嵐に見舞われ舟は難破してしまった。その為、一行は離散して、それぞれ各地に潜伏することになった。その後、無事に合流できたのは弁慶、亀井重清、鈴木三郎重家、鷲尾三郎義久など十数名のみ。伊勢義盛や佐藤忠信は鎌倉方の追手に見つかって殺された。

こうなると、義経が頼れるのは鞍馬山を出てから数年間身を寄せた奥州藤原氏のみとなる。こうして、九州へ行こうとしていた義経一行は当時の日本の南端から北端への険しい旅路を進むことになったのである。

 

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頼朝は、義経からの所謂、腰越状を読んでため息をついた。義経の言うことに間違いはない。

だが、義経が自身の生きる道を見つけられなかったのと同じように、頼朝も彼を生かす道を見つけられずにいた。義経の戦闘の才能は本物だ。頼朝は伊豆での流罪中、膨大な量の史書を読み、様々な武将のことを学んできたが、その中にも義経に匹敵する才能の持ち主はほとんどいなかった。少なくとも、日本においてはここまでの歴史上最強と言っていい。もし、彼と比肩する者がいるとすれば、それは韓信や李靖と言った大陸の武将になるだろう。

惜しいな。頼朝はそう思った。もし仮に、頼朝が日本を治めた後、大陸へ渡り世界制覇を狙うとでも言えば、義経はそこで大活躍をしてくれただろう。でも、慎重な頼朝はそのようなことを考えない。朝廷の後白河法皇や貴族たちだって武家勢力に奪われた実権を取り返そうと虎視眈々と狙っているのだ。戦争の次は、政争が待っている。他のことに手を出している場合ではないのだ。要するに、外国へ派兵したりできる程、日本の中央集権化はまだ進んでいない。もっと言えば、社会の成熟度が義経という才能を受け入れられるまでに達していない。

自身もまた、政治という分野での天才である頼朝は言葉で言えずとも、感覚的にそのことをわかっていた。そして、そんなチートな才能を手ぶらで遊ばせておく危険性も承知していた。おそらく、後白河法皇などは既に義経を利用することを思いついている。自分が使えないなら、殺すしかない。

1185年秋。頼朝は全国に守護と地頭を設置。義経を捕まえる為、全国に包囲網を張ったのだった。

 

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1189年の初め、頼朝のもとに義経が奥州藤原氏の庇護下に入ったという知らせが届いた。今すぐに何か策を講じなくてはならない。頼朝は焦った。それは頼朝が一番怖れていたことであったからだ。

義経を利用して鎌倉幕府に対抗しようとする勢力がいるとすれば、それは朝廷か奥州藤原氏である。しかし、朝廷に対しては既に楔は打ち込んである。朝廷という組織は、院宣や勅令を出して全国の武士に決起を促すことはできるが、自分たちが直接動かせる武力はほとんど持っていない。だから命令された側にやる気がなければ「今、事情があって出兵できない」と断られたり、士気が低くカタチだけの出兵になったりすることもある。それを前提とした上で、今、朝廷が頼朝追討の院宣を出したら武士たちは、それに従うだろうか。全国の武家の利益を代表する存在である頼朝は朝廷と武力衝突ということになれば、武士達は朝廷よりも幕府に味方する。負けはしないと読んでいた。

問題は、日本の武家の中で唯一頼朝のコントロールが効かない奥州藤原氏だ。

振り返ってみると、彼らは義経がいなかった場合の頼朝そのものだ。頼朝も、当初はこんなに早く平家を打倒できるとは思っていなかった。それが可能だったのは偏に義経がいたからであって、それがなければ、西国を平氏、関東甲信越を源氏、東北を奥州藤原氏が治める割拠の時代がしばらく続くと予想していた。

奥州藤原氏は源氏と平氏が戦う間、戦いには関わらず、地盤固めに専念し、頼朝が義仲追討の前に関東で着いていたような、その地方をまとめる棟梁の地位を確固たるものにしている。そこに義経が加わってしまうとしたら、今の頼朝と奥州藤原氏のパワーバランスが逆転してもおかしくはない。頼朝は大きな危機感を覚えていた。

ただ、つけ入る隙があるとすれば、ここ数年で藤原秀衡が死に、奥州藤原氏の棟梁が交代していることだろう。頼朝はそう思った。三代目当主の藤原秀衡は義経が源平合戦で武功を立てる前から彼のことをいたく買っていたようで、過去には養子に迎えて後継ぎにしたいと言ったこともあるそうだが、その息子・泰衡は彼をどう思っているだろうか。秀衡からそうした発言が出るということは、反対に泰衡を始め、実の子ども達のことはあまり評価していなかったということだ。泰

衡の立場から見て義経はどのように見えるのか。義経と奥州藤原氏の仲を裂くとすれば、その辺りに隙がある。

そこで頼朝は朝廷を介して藤原泰衡に義経を追討するように圧力をかけることにした。

 

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藤原秀衡には6人の男児があった。長男が国衡、次男が泰衡。以下、忠衡、高衡、通衡、頼衡と続く。

秀衡の後の当主となった泰衡は次男だが、長男・国衡の母親が蝦夷の女で身分が極端に低かった為、奥州藤原氏の棟梁の座におさまった。長男の国衡は武勇に優れた人物で周囲からも人望があった。泰衡も決して愚鈍な人物ではなかったが、立場上、兄と比べられてしまうことが多く、父の秀衡も泰衡には厳しくあたった。おそらく、心の底では秀衡も国衡を後継ぎにしたかったのではないか、と泰衡は思う。だが、秀衡にそれは出来ない。奥州藤原氏は藤原摂関家の末裔を自称しているが、実際のところ、かなり怪しい。もし、自称している家系図が本当だとしても傍流が東北に流れてきて、それが蝦夷の末裔である現地豪族の血と混じりあって現在に至っている訳だ。だから都にいる本流の藤原家からすれば自分たちを同族だなんて思っていないに違いない。秀衡はそんな自分の出自にコンプレックスを持っている。だから、京都の血にこだわり、藤原北家の本流に近い藤原基成の娘に生ませた泰衡に跡を継がせようとしているのだ。もしかすると、継がせようとしている、という言い方よりも継がせなくてはならない、という強迫観念に駆られていると言った方が近いのかもしれない。泰衡は一度、国衡よりも武芸の出来が悪かったのを罵られ「何故、後継ぎのお前がこの程度なのだ!」と嘆く父に「では血の事など気にせず、兄上を後継ぎにされたらいかがでしょう。それでお家の安定が図れるなら些細な問題ではありませんか」と言った事がある。泰衡も、兄の方が明らかに優れているのにこれ以上期待をかけるのはやめて欲しいと思っていた。当てつけなどではなく、真面目な発言だったのだが、それを聞いた父からは、次の瞬間から酷い折檻を受けた。要するに、秀衡は後継問題に関してそれくらい拗れた感情を抱いている。

秀衡は世継ぎになれない国衡の代わりとなる後継者には、ただ優秀なだけでなく、何か特別な才能を期待しているらしい。泰衡にはそう見えた。

 

そんな藤原家の人々の前に現れたのが、源義経という男だった。

秀衡の舅、泰衡の母方の祖父にあたる藤原基成の遠縁に一条長成という人物がいて、彼の娶った常磐御前という女の連れ子らしい。この男が普通でなかったのは、その常磐御前の前の夫が平治の乱で敗れた源義朝でその九男であるということだった。平治の乱の後、鞍馬寺に入れられて僧になる予定だったが、父の敵討ちの為に抜け出してきて、何人かの郎党と共に奥州へ身を寄せたのだという。義理の縁まで辿っていけばいちおう親戚にはあたるが、そこまで行けば他人、要は単なる居候である。本来であれば、他人である彼は屋敷の隅っこに部屋でも借りて、一族の者の邪魔にならないよう慎ましやかに過ごすはずだったが、たまたま年齢が泰衡ら兄弟と近く同世代であったので、一緒に武芸や学問をすることになった。

そして、兄弟たちも、教育を担当する一門の者も、皆が度肝を抜かれた。義経は武芸をさせれば異様に達者で曲芸のような動きを見せるし、兵学においても一門の誰が考えても思いつかない魔法のような策をいくつも編みだし提案していた。正に天才である。弟たちは皆、彼を慕い、兄の国衡も一目置いているようだった。

そして、父・秀衝は義経を少し異様なくらい気に入っていた。何とか養子に迎えて跡取りに出来ないか。泰

衡は父が義経に関してそう家臣たちに話しているのを見たことがある。「また、ご冗談を」家臣たちは笑っていたが、たぶん父は本気だろう。何故なら、その時の秀衡の目は以前、「国衡を後継ぎにしたらいい」と言った泰衝を折檻した時と全く同じだったからだ。あの時と違い、口元は笑っていたが、何かに執着するような血走った目であった。

気持ちが悪い。泰衡は心底そう思った。父が後継ぎに何か特別なものを求め執着しているのはわかっているが、義経など、直接血のつながりがない他人ではないか。それとも、そんなに都の人間がいいのか。おそらく父は己の血を残す事よりも、一族に流れる蝦夷の血を絶やす事に執着している。蝦夷で何が悪いのか。蝦夷なら蝦夷で仕方がないではないか。泰衡はそう思う。仮に都でどう言われていようが、自分たちが蝦夷であるなら、そう生きるしかない。何か自分たちとは違ったものになってしまうのなら、もうそれは一族が絶えてしまったのと同じではないか。

 

義経はその後、兄の頼朝が挙兵した際に共に戦うと言って奥州を出ていったが、2年程前にまた奥州に帰って来ていた。戦功は立てたが、頼朝の不興を買い、またも追われる身となった為、再び奥州に身を寄せたのだ。不幸な境遇に誰もが同情したが、秀衡は大喜びであった。そして、その時に遺言を書きかえたようだ。

そこから一年弱で秀衡は死んだ。遺言の内容はこうだった。

一、奥州藤原氏は義経を大将軍として国務にあたらせる。国難には義経、国衡、泰衡の三人が同志となり迎え撃つこと。

一、国衡と泰衡は養子縁組し、国衡が親、泰衡が子となる。

一、国衡は未亡人となる我が正妻(泰衡らの母)を妻として娶る。」

泰衡は怒りと失望を覚えた。まず、前述した理由から義経が大将軍だなんてあり得ない。ハッキリとは書かれていないが、他人に実子と同じレベルの権限を持たせて、実質当主にしろということだ。そして残りの二つは長男・国衡の地位を強化するものだ。しかも泰衡の母を国衡の妻にするなどかなり強引な手法を使ってまで、それをしようとしている。おそらく、義経に大きな権限を持たせる内容の遺言を見れば後継者である泰衡が不満を抱くことを見越したのだろう。「当主・泰衡vs大将軍・義経」の構図にはせず、そこに同等の実力者として国衡を加える事で一族の中で三竦みの状態を作り、泰衡の暴発を防ごうとしているのだ。

死ぬ間際の事とはいえ、やっていることが普通ではない。泰衡にはそう見えた。こんなことをしてまで義経に権力を持たせたいのか。そんなに自分たちの血が穢らわしいと思うなら、こんな一族自ら滅びてしまえばいい。泰衡はそうとすら思うのだ。

 

そんな泰衡の元へ義経追討の院宣が届いた。泰衡は兄弟たちを集めて「義経を討つ」と宣言した。すると、義経を慕う三男・忠衡を始めとする弟たちは「それは父の遺言に背くことになりますから、出来ません」「義経殿と共に朝廷や源頼朝と戦いましょう!」と反発した。泰衡は「院の命令なのだ」の一点張りでそれらの意見を強硬に退けた後、最後は国衡に聞いた。「兄者…いや、養父上はどうだ? 院の命令に背いてまで他人の義経を守るかい?」国衡は天を仰いで言った。「私は、当主の意見に従おう」勝った。泰衡はそう確信した。泰衡は国衡の律儀な性格をよく知っている。だから、彼に意見を聞けばそう言うだろうとは思っていた。だが、実のところ、内心、ヒヤヒヤしていた。秀衡が家内に作った三竦みの内の一人、国衡が義経の味方をすると言えば泰衡は一気に窮地に陥るところであった。だが、これで義経を倒すことが出来る。泰衡は歓喜した。泰衡

は、義経の殺害に反対した三男・忠衡、五男・通衡、六男・頼衡をその日の内に幽閉。義経に情報が漏れない内に軍を出動させ、衣川の義経邸に向けて出撃した。

 

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「来たか…」「そのようですな」「泰衡殿の命令かな?」「聞いてみなければわかりませんが…おそらくそうでしょう」ある夜、迫りくる軍の足音を聞き、義経と弁慶は顔を見合せて、そう言った。義経はいつか泰衡から襲撃されるだろうと予感していた。

藤原秀衡が義経に注ぐ愛情は特別なものであった。彼が死んでしまえば、当然、当主も代わるが、その後、義経の扱いがどうなるかはわからない。秀衡は並外れた将である義経に軍を預けて鎌倉に対抗させる気であった。だが、泰衡はどうだろうか。彼の軍才の無さを共に兵学を学んだ経験のある義経はよくわかっている。義経に言わせれば、兵学という学問のそもそもの考え方自体が間違っているので、そんなモノを学んだところで天狗の兵法に敵うわけがないのだが、それを差し引いたとしても泰衡は弱かった。それに、奥州藤原氏は源平の戦の際にも中立を貫いたので、泰衡にはまともに軍を率いた経験もない。経験豊富な関東武士団の相手にはならないだろう。泰衡がその辺りを自覚していれば、鎌倉幕府との和解の道を探るはずだ。そして、友好あるいは服従の証として領内に匿っている義経の首を差し出すということは十分あり得る話だった。「軍才豊かな国衡殿と同盟し、泰衡を廃してしまいましょう。」義経は弁慶から一度、その提案を受けたことがある。確かに、国衡が当主になるなら鎌倉に対抗することもできる。だが、義経は気が乗らなかった。義経には陰湿な権謀術数や暗殺などを用いて政敵を葬り、それを良しとすることが理解できなかった。彼の考えでは、もし決着を着けなくてはならない相手がいるならば、兵を率いて戦場でぶつかるか、一対一で決闘でもするしかなかった。そして、泰衡ではその相手にはならない。だから、義経はこの新たな当主を敵として引きずり降ろすよりも、もっと自分を信頼して物事を任せてくれるよう嘆願することにした。その為に義経は足しげく彼のもとに通い、鎌倉方を仮想敵として「こう戦えば勝てます」という戦術論を説いた。軍才に自信のない当主に勝ち筋を見せて戦う気を起こしてもらおうという考えだ。だが、義経の不幸は、泰衡が自分に対して抱く感情をまるで理解していないことだった。義経の思考は相変わらず、戦が中心で泰衡を取り巻く複雑な後継ぎ問題や生育環境を考慮して彼が感じていることを理解できなかった。と、いうよりも、気持ちを理解できたとしても、その感情が政治的な判断に繋がるという因果関係が理解できていないと言った方が近いかもしれない。何にせよ、義経に連日、戦術論を説かれた泰衡は義経に反発を覚えた。自身がこれ以上ないほど劣等感を抱く相手が事あるごとに、ああしろ、こうしろと言ってくるのである。泰衡が義経に抱く憎しみは募っていくばかりであった。

 

義経はそれを理解していない。だから、泰衡がとうとう兵を差し向けて来た時、義経の胸には「しまったな」という後悔の念が浮かんだが、それは「しまった、泰衡殿にもっとたくさん戦術を教えてあげればわかってもらえたはずなのに…」という的外れな後悔だった。

弁慶は「迎え撃ちましょう」と言ったが、義経は首を横に振る。自害する、という意思表示だった。今まで追手が迫ってきても武勇と戦術を駆使して、それを撃退してきた義経一行であったが、いくら敵を倒しても、ここを追われれば、いよいよ行くあてがない。惨めに逃れて山中で行き倒れるよりは、ここで死のう。義経は決心したのであった。弁慶は涙を流しながら額を床に着けた。「承知いたしました。では、我々が時間を稼ぎましょう」「うん。任せた。」義経は弁慶に言った後、残った郎党10人に呼びかけた「みんな、最期の決闘だ。大暴れして来い!」「おう!」そうして、弁慶以下、亀井重清、鈴木三郎重家らは屋敷から出ていった。彼らは一人も逃げず、歴史に残る大立回りを演じた後、一人残らず討死した。

義経はその昔、鞍馬天狗・僧正坊に聞いた言葉を思い出していた。「人は強すぎる力に怖れを抱く」そういうことなのかもしれない。結局、自分の武術と兵法を全面的に理解して必要としてくれる人には出会えなかった。僧正坊はあの時、そう言って霊術を教えるのを断ったが、どうせこうなるなら、霊術も教えてもらえば良かった。使ってみたかったな、霊術…。義経はぼーっとそんなことを考えた後、館に火を放った。そして正妻と4歳の女児を殺害してから、自らも自害した。31歳であった。

 

この後、藤原泰衡は義経の粛清に反対した弟たちを誅殺し、源頼朝に義経の首を差し出したものの許されなかった。頼朝は泰衡が義経を殺すのを待っていたのだ。

これで、怖れるものはない。義経を巡る粛清劇で重要人物を多数亡くした奥州藤原氏は頼朝が自ら大将となった鎌倉幕府軍の前になす術もなく敗れた。

 

結局、頼朝も泰衝も義経を扱いきれなかった。義経という器を受け止めるには、この時代の日本という国は小さすぎた。

だが、義経の兵法は決して間違ってはいなかった。この後、義経と同じように機動力に特化した戦術でチンギス・ハーンのモンゴル帝国が世界を支配していくことになるのである。

 

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