ここで、この戦いにおける海洋都市国家・ジェノヴァの態度について説明しておきたい。
ここまでの記述と矛盾するようだが、ジェノヴァは中立国であった。
元来、ビザンツ帝国とジェノヴァの関係は非常に良好であった。
それは1204年にコンスタンティノープルが第4回十字軍に占領された際、ジェノヴァがビザンツの亡命政権ニカイア帝国と結んで都市の奪還に協力したことに始まり、その見返りとしてジェノヴァはコンスタンティノープルを経由した貿易に関してあらゆる優先権を持っていた。
何度も言うように、コンスタンティノープルは洋の東西を結ぶ分岐点であると共に、地中海から黒海に出る出口でもある。
古くから都が置かれたこの都市は国際的な交通の要衝だ。
ジェノヴァは他の地中海海洋国家にはないこの権利を生かして拡大していき、ライバルのヴェネツィアに対しても若干の優位を保った。
特に黒海航路の貿易利権を独占していたことは大きい。
富の源泉たるコンスタンティノープルがイスラム国家の手に落ちることはジェノヴァにとっても自国家の経営を揺るがす程のダメージだ。
本来であれば、ジェノヴァは全力でもってビザンツを支援しなければならないのだが、これに関してはジェノヴァ人の中でも意見が一致しなかった。
この頃になると、オスマン帝国の強大化もビザンツ帝国の弱体化も双方ともに抑えがたい状況になっていた。
例え、今回の防衛に成功したとして、ビザンツの滅亡は既に時間の問題だ。そして、それを成すのはオスマン帝国であろう。
それならば、既に風前の灯となった同盟国に協力するよりも、オスマン側について今後もコンスタンティノープルにおける貿易の優先権を保証してもらってはどうか。
ジェノヴァ人たちの中にはそんな意見を持つ者もいた。
とはいえ、本土がイタリア半島にあり、周囲をキリスト教国に囲まれたジェノヴァがそのように大胆な行動を起こすことは、やはり現実的ではない。
やれば、本国が周辺国から袋叩きにされる。
結局、自らもキリスト教徒であるジェノヴァの人々は中立を宣言しながらも通常の「商い」を名目とした物資補給などでビザンツに消極的な支援を行うことを決めた。
オスマン側もこの欺瞞を見破りながら、ジェノヴァの中立を承認した。陸ではともかく、海においてのジェノヴァは大変な脅威だ。積極的に攻撃してこないなら、それだけでありがたい。
先日、ジェノヴァの輸送艦隊とバルトグルの艦隊の間に争いがあったが、ジェノヴァ船が戦闘を一隻のビザンツ船にほぼ任せて逃げに徹していたのも、その中立の為であるし、バルトグルが150隻もの船団を持ちながら敵艦隊を取り逃がしてしまったのも、その関係維持の為、ジェノヴァ船を撃沈せず拿捕することにこだわっていたことが原因の一つであった。
さて、コンスタンティノープルから金角湾を挟んで反対側、湾の北岸にガラタ自治区と呼ばれる地域がある。湾を挟んでコンスタンティノープルに隣接するこの地域はコンスタンティノープルで貿易に従事するジェノヴァ人たちの居住区であった。
オスマン帝国が苦しめられている金角湾の封鎖はコンスタンティノープルの市内と、このガラタ自治区にある監視塔を太い鎖でつなぐことによって行われている。
守りの堅いコンスタンティノープルを攻略するにはやはり防衛上の弱点である金角湾からの上陸しかない。そして、それには湾を封鎖する鎖が邪魔だ。
鎖をつなぐ監視塔を陸上から襲い、鎖を取り外してしまおう。と、いう作戦は、戦線が膠着した後、何度かオスマン軍の陣中でも検討された。
だが、それはその度に断念された。
鎖をつなぐ二つの監視塔の内、コンスタンティノープル市内にある方は、当然破壊不可能だ。そうなると、必然的に攻撃目標はジェノヴァ人たちの住むガラタ自治区となる。
要するに、この作戦はジェノヴァとの協定を一方的に破棄して、まずガラタを攻め落とそうとするものだった。
これを実行する場合におけるオスマン側の懸念事項としては、正式に敵国となったジェノヴァ本国が大艦隊を差し向けてきて、今より更に都市の攻略が困難になるのではないか、ということがあった。
それ故、この作戦を提案する者はこぞって、監視塔を破壊したら間髪入れずに総攻撃を仕掛け、ジェノヴァ本国の艦隊が到着するより早く、一気にコンスタンティノープルを占領するということを言う訳だが、事はそう簡単ではない。
仮にその作戦でコンスタンティノープルの占領が成功しビザンツ帝国が滅び去ったとして、敵対したジェノヴァとの争いが終わるとは限らない。
そうなれば、せっかく手に入れたコンスタンティノープルからの航路はジェノヴァに脅かされ、貿易は妨害され続けることになる。
オスマン帝国は、ウルバン砲の鋳造や大艦隊の編成など、この戦いに多大な投資を行ってきた。それは、今後、コンスタンティノープルの都市経営で賄う予定であり、貿易はその柱だ。
それができなければオスマン帝国は財政破綻することになる。
そう考えると、ガラタ自治区への攻撃などそう気軽にできるものではない。
メフメトは、それらの事情を全て考慮した上で要塞都市攻略の計画をたてなくてはならない。
メフメトは、軍事作戦の計画立案に優れたザガノス・パシャを自分の下に呼び寄せた。そして、翌日、日が昇り始める頃まで長い時間をかけて、恐るべき計画を作り上げた。
戦史上名高い、オスマン艦隊の山越えである。
作戦は、ガラタ自治区のある、コンスタンティノープルから見て金角湾を挟んだ反対側の陸地を使って行われる。
ガラタを避け、その5km程北の海岸から、湾の遥か奥の方に向かって山を切り開き、更には開いた道に油を塗った丸太を敷き詰めて、輸送用のローラーを作る。
そして陸地に引き上げた船団をその上に乗せて運び、金角湾に浮かべるというものだ。
歴史上、稀にみる大作戦である。
誰もが、不可能だと思った。
ここまでメフメトに助言を与えてきたハリル・パシャもこの作戦には反対の意を示したが、結局作戦は実行されることになった。
現場の兵士たちから
「なんとしても、皇帝がたてた作戦を実行したい」
という声が多数あがったからだ。
オスマンの兵士たちは、「同じ釜の飯を食う仲間」になった若者を自分たちの皇帝として認めて忠誠を示すようになっていた。
何日間かかけて土木工事を行った後、艦隊の陸あげは、夜闇に乗じて行われた。
作戦は順調に進んだ。キリスト教国側もオスマン軍が何やら大規模な工事をしていることには気づいていたが、多勢に無勢のビザンツ軍にそれを妨害する余裕はない。
そして、よもや、艦隊が山を越えてやってくるなどと言うことは誰も考えていない。
ビザンツの人々はある朝、突然金角湾に現れたオスマン艦隊に対して、膝を折り、うなだれた。
それでも、コンスタンティノープルの守りは堅い。
ほとんど最後まで、金角湾からの上陸を許した訳ではなかった。
だが、守る戦線が一つ増えたことで、それぞれの戦線から少しずつ兵が引き抜かれて、金角湾沿岸の守備に回された。それによって、一人一人が戦線を守る時間と範囲も少しずつ延びた。
全て、少しずつではあった。
だが、その少しずつは既に全力で敵を防いできたビザンツ兵たちにとっては、命取りになるものだった。
守備担当時間中の居眠りや兵糧のつまみ食いなど、下らぬ軍規違反が増えた。そして、辛い状況の中でも誇りを持って戦っていると自負する者たちの中には、そうしたちょっとした違反を許せなくなる者が増え、味方同士の諍いが絶えなくなっていった。
メフメト2世の執念は、着実に、そして確実にビザンツ兵たちの集中力と誇りを削いでいったのである。
ビザンツの守備網は、街の西側、難攻不落と言われたテオドシウス城壁から崩れた。なんと、守備兵が通用門の鍵を閉め忘れて第一の門が突破されると、そこから雪崩式に守備が崩壊していったのだという。
この鍵の閉め忘れを後世「世紀の盆ミスだ」と言う人もいれば、「実は敵に寝返った兵が鍵を開けてオスマン軍を通したのだ」と言う人もいる。
だが、どちらにせよ、それは守備兵たちの精神の消耗がもたらした事態であった。
オスマン兵が街になだれ込んでくると、既に心を打ち砕かれていたビザンツ兵たちは一斉にコンスタンティノープルからの脱出をはかった。
自身を守る兵もいなくなり、この国、最後の皇帝となることが決まったコンスタンティノス11世は、自ら剣を抜いてオスマン兵の大軍の中に突っ込んで行った。
彼は自害を禁じたキリスト教の教えに殉じ、敵兵に殺されるまで戦うことを選んだのだった。
コンスタンティノス11世の遺体は見つからなかった。
おそらく乱戦の中で切り刻まれ判別不可能となったのだろうが、生存説もある。真相は不明だ。
メフメトは判別不能な遺体の内、最も高価な衣装を身につけていたモノをビザンツ皇帝・コンスタンティノスだと断定し、市内に数日間晒した。
彼と直接会談したことのあるハリル・パシャは体格などの違いから
「おそらく、あの遺体はビザンツ皇帝のものではないだろう」
と思っていたが、それをわざわざ語ることはしなかった。
ビザンツ帝国は滅亡し、古代ローマの時代から続く由緒ある皇帝の地位は消滅したのだ。
これからこの街を支配するオスマン帝国は、新興国ながら、以前、数十年の間だけこの地を支配した第4回十字軍のラテン帝国のような基盤の弱い国ではない。
もし、彼が生きていても、その生涯の内にこの地を取り返す希望はほとんどない。
それは既に存在価値を失った元皇帝、一個人である。
きっと、時代と共に忘れ去られる運命だ。
コンスタンティノス11世の遺体(仮)は、数日間晒されたものの、その後はメフメト2世により最上級の栄誉をもって埋葬された。
メフメトはその苛烈な性格とは裏腹に敗者にそれ以上、ムチ打つようなマネをしなかった。
これにより、メフメトは「弱国を征服した隣国の王」ではなく「千年帝国ビザンツの
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メフメト2世の命によりチャンダルル・ハリル・パシャが牢に囚われたのは、コンスタンティノープル攻略の翌日のことだった。
罪状は「ビザンツに内通した罪」だとのことだが、ハリル・パシャには心当たりがない。
外交担当として何度かビザンツの使者に会っていたことか、艦隊山越えに反対したことを誰かが皇帝に対して大袈裟に讒言でもしたのだろうか。
何にせよ、メフメトの裁断が下るのを待つより他ない。
その日の晩、ハリルが囚われた地下牢にメフメトがやってきた。
供回りは連れず、一人であった。
ハリルは妙だな、と思った。
もしこの状況が誰かの讒言で引き起こされたものなのだとしたら、必ずその讒言を行った者がついてくるはずだ。
何故なら、その者からすれば、自分のコントロールが効かない状況でメフメトとハリルが会談し、讒言した内容の誤解を解いてしまうと、マズイからだ。
「チャンダルル・ハリル・パシャよ、牢の中の居心地はどうだ?」
メフメトの口元が弛んでいる。そして、彼はハリルのことをいつものように先生とは呼ばなかった。
その様子を見て、ハリルは察した。
「この状況は、全て陛下がお望みになったのですか?」
「そうだ」
「一体、何故!?」
「ハリル・パシャ、お前が、お前が僕の帝位を奪ったからだ! 覚えていないとは言わせないぞ!」
「それは…陛下が12歳の時のことを仰っていますか?」
「それ以外に何がある! あんな屈辱、2度も3度もあってたまるか!」
ハリルは愕然とした。確かにハリルはそのことで一度、死をも覚悟した。だが、メフメト復位の時に裁かれなかったことで、その罪は既に許されたものだと思い込んでいた。
「ずっとこの時を待っていた! 僕は栄光を掴んだ! 今ならもう誰も僕に逆らうことは出来ない!やっと、やっとお前に復讐出来るんだ!」
メフメトの血走った目の奥には尋常でない執念が見え隠れしていた。ハリルはその目に対して、ある感情を抱いていた。
それは、メフメトへの畏敬の念である。
「ハリル・パシャ。お前は昔、僕の夢を否定したな。だが、今のお前は僕のことをどう思う?」
素晴らしいとしか言いようがないじゃないか。
ハリル・パシャはそう思った。
今、ハリルの目の前にいる男は、かつての大海を知らず、栄光を夢見て無謀な冒険に打って出ようとしていた井の中の蛙ではない。
この若者は、いくら否定されても志を曲げず、遂にはその夢物語を現実のものにしてまった。
彼はもう、英雄に憧れる少年ではない。彼こそが、真の英雄なのだ。
「陛下は素晴らしい…最高の皇帝として、後世まで語り継がれることになるでしょう」
「そうか…。あなたほどの人がそう言うなら、きっとそうなのだろうな。」
メフメトは満足したように天を仰ぐと、更に続けた
「ところで、ハリル・パシャ。お前は僕のことを一番良く知っていると思っているだろう?」
口にした覚えはないが、その通りである。ハリルは先代のムラト2世からメフメトの教育係に任じられ、誰よりも長く、近くでその成長を見てきた。
「だが、それは逆もまた然り。ハリル・パシャ、僕もお前の事を一番良く知っているんだ。」
「それは…そうかもしれません…」
「ハリル・パシャ、お前は堅実なムラト2世の下で働きながら、実のところ、世界を支配するような英雄に仕えることを夢見ていたはずだ。そうだろう?」
ハリルは、胸を貫かれるような衝撃を受けた。
宰相の役割は、現実に基づいた助言を行い国家を安定させることだ。そうした認識と使命感から、ずっと圧し殺してきたハリルの想いを、メフメトは言い当てた。
ハリルは赤面した。隠していた恋心を意中の相手に打ち明けた乙女のような、悦びと恥ずかしさの入り交じった心境であった。
「ハリル・パシャ、お前は僕に仕えたいか?」
「は、はい、勿論! あなたは、私が望んだ、真の英雄そのものです!」
ハリルは思わず叫んだ。
「だが、それは許さない」
「そんな…!」
肩をビクッと震わせてから、ハリルが餌を目の前で取り上げられた犬のような失望を表情に浮かべると、メフメトは噴き出し、それを嘲笑した。
「それはそうだろう。当たり前じゃないか。一体、何のためにここまでやったと思っている?」
「弟を殺して宮殿に舞い戻ったのも、大金をかけてウルバン砲を鋳造したのも、イェニチェリに頭を下げたのも、艦隊で山を越えたのも…。全て私への復讐の為だったのですか?」
「そうだ! 僕が英雄になったのは夢の為だけじゃない、お前に復讐するためだ! どうだ、無念だろう!」
ハリルは、たった一人への報復の為にここまでやったメフメトの行いを、下らないとは思わない。
むしろ、たったそれだけのことをここまで金と時間と精神力をかけて実現する、皇帝にスケールの大きさに感服していた。
「ハリル・パシャ…いや、お前の事はただのハリルと呼ぼう。どうせ、明日には裁定が下り、お前は
ハリルはこの言葉に手足をもがれるような痛みを感じた。自分が育て上げた理想の君主に、仕えることができない。その実感が急に襲ってきた。
ハリルはメフメト2世に向かい、地に手をつけて頭を下げた。本来、神に祈りを捧げる際の姿勢である
「あなたは、あなたは素晴らしい! どうか、どうかこれからも私をあなたに仕えさせて下さい! お願いします!」
「断る…」
メフメトは冷たく言った。
ハリルの目からは涙がこぼれだした。
「お願いします! お願いします!」
「何だ? お前は皇帝に逆らっておきながら、まだ宰相職を望むのか。何て強欲な男だ」
「宰相でなくても良いのです、宰相なんてとんでもない! あなたの為ならば、何でもする! 一兵卒で…いや、下僕でいい。下僕でいいから仕えさせて下さい!」
メフメトは声高らかに笑った
「そうか、そうか。ハリルよ、もっと頼むといい。僕の気が変わるかもしれないぞ。」
地下牢には、一晩中、ハリルの懇願とメフメトの笑い声が響いていた。
それから、ほどなくしてハリルの刑は執行された。
メフメトは涙を流した。
その涙が、復讐の悲願を達成した感激からくるモノなのか、父に等しい宰相を殺した悲しみからくるモノなのかは、メフメト本人にもわからない。
確かなのは、メフメトが、これで自分は一人の自立した大人になったと思ったことだ。
彼が、それを実感したのは、復位した時よりも、コンスタンティノープルを陥落させた時よりも、その瞬間であった。
この後もメフメト2世は数々の戦争を起こして多くの領土を獲得し、征服王の名と呼ばれるようになる。
周辺諸国を怯えあがらせる、世界に冠たるオスマン帝国。
その最盛期がこの男によって始まったのだ。