史実はラノベよりも奇なり ~歴史短編集~   作:ロッシーニ

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イスラム教の開祖ムハンマドの従兄弟にして、イスラム教シーア派の創始者とも言えるアリー・イブン・アビー・ターリブを主人公とした小説(フィクション)です。

この辺りの時代はスンニ派とシーア派で解釈の違いもあって何が正しいのか判然としないのですが、制作の出発点が「シーア派ってなんだ?」「シーア派ではどうしてアリーが尊敬されているの?」なので、シーア派寄りの見方を採用したところが多いです。また、小説なので勿論オリジナル要素も入ります。

日本語で書く分にはそんなに問題ないかなと思っているのですが、予防線を張っておきます。



アリーには負ける理由がわからない
その1 ~イスラム世界のクライシス~


632年6月8日。

アラビア半島はメディナにある預言者ムハンマドの邸宅に4人の男が集っていた。

 

日が落ち始めて部屋の中が暗くなってきたので、先ほど部屋に灯りを灯した。その、灯りの炎がチラチラと頻りに揺れる。

集まった4人の内の1人、ウスマーンが頭を抱え、

「どうしよう、どうしよう…」

と呟きながら部屋中をウロウロしているからだ。

 

「ウスマーン! 動じるな、情けない! ムハンマド様が、神の使徒が死ぬはずなんてないんだ!」

 

そう怒鳴ったのはウマルである。

普段から人に対して高圧的に接するところのある男だが、人に動じるなと言いながら大声を出すあたり、この男もなかなか正気ではない。

かなり年下のウマルに怒鳴られたウスマーンは、肩をビクッと震わせて立ち止まった。

 

「悪かった…ウマル、すまない…でも…」

 

ウスマーンが言いかけたところで、部屋の奥から

「お前たち、少しは静かにしろ。預言者のお身体に障る…」

とアブー・バクルが声をかけた。

 

痛いところを突かれたウマルとウスマーンは共に苦虫を噛んだような表情で下を向いた。

 

 

全ムスリムの悲願、西暦630年のメッカ制圧から2年後。

イスラム教創始者にして預言者のムハンマドは死の間際にいた。創業者の死はあらゆる組織にとって最大の危機である。イスラム教はキリスト教などとは違い、創業者を神聖視しない。

いくら信徒にとって偉大であろうと、本人が自分は人間であると宣言している以上、死は確実に訪れるもののはずだが、信徒たちは今まで誰もそのことを考えようとしなかった。

 

そんなことがあってはならない。だから言ってもいけないし、考えることすら悪である。

あまりにも大きすぎるムハンマドの存在が信徒たちの間にそうした風潮を作り上げていた。

 

今まで、誰も想像したことがないクライシスが始まろうとしている。

その不安は信者の中でも中枢メンバーにあたるとして集められた4人も同じである。

 

その中でもアブー・バクルはまだ落ち着いていた。

頭がズキズキと痛むようなストレスを抱えつつも、ウスマーンのように不安を表に出したり、ウマルのように現実を否定したくてカリカリしたりもしない。

それは、彼の年齢と経験の成せる業であった訳だが、その彼ですら、感心させる態度をとる者がいた。

 

アブー・バクルは部屋の入口付近を指差し、ウマル、ウスマーンに言った。

 

「お前たち、アリーを見ろ。立派じゃないか。」

 

アブー・バクルの指すところで、1人瞑想していたのがアリー・イブン・アビー・ターリブだ。単にアリーと言った方が通りが良いだろうか。

 

アリーはムハンマドの叔父のアブー・ターリブの息子…要は従弟である。

幼くして親を亡くしたムハンマドは、このアブー・ターリブに引き取られて養育された。

その後、ムハンマドが成人し、女豪商ハディージャと結婚して富を築いた頃、今度は反対にアブー・ターリブの家が没落していた。

何でも、このアブー・ターリブは史上稀に見る親切者であり、周囲の人を助ける為に自身の財産を使い尽くしてしまったらしい。

あまりにも人が善すぎる。

そうバカにする者もいたが、ムハンマドは困窮した自分を拾い育ててくれた叔父の過去の行動に感謝し、また、その清廉潔白な人柄を尊敬した。

そして、今度は自分がアブー・ターリブを助けて息子であるアリーを養育した。

だからムハンマドとアリーは、親子の様な関係でもあり、また同じアブー・ターリブを親とする兄弟とも言えた。

 

更に言えば。

アリーはこの時、32歳で集まった4人の中では最も若いが、最初にイスラム教に入信した人物でもある。

なお、信徒全体で言えば、1人目の信者はムハンマド最初の妻・ハディージャでアリーはその次となるが、彼女は既にこの世を去っている。

要するにアリーは存命の人物の中では最も古いイスラム信者だということだ。

 

クッキリとした顔立ちをした美形で何か気品を感じさせるこの男は軍事指揮官としても優秀でメッカ制圧までの戦いで、いくつもの戦果をたてた。肉親として、部下として、ムハンマドに最も愛された男だと言ってもよい。

 

多くのムスリムは、ムハンマドの死という事態を、希望的観測のもとにまだまだ先のことである、と捉えていたから、同じ初期からのムスリムでも62歳になっていたムハンマドと同世代のアブー・バクルやウスマーンより若いアリーこそムハンマドの後継者に相応しいと考えていた。

 

ウマルは、アブー・バクルがアリーを褒めることが気にくわない。舌打ちした後、アリーを鋭く睨んだ。

 

ウマルがイスラム教徒になったのは、後程、説明する聖遷(ヒジュラ)の少し前であり、彼は4人の中では後発のムスリムである。

彼の属するクライシュ族アディー家は元々ウマイヤ家と並んでイスラムに敵対する勢力の筆頭であり、彼自身、ムハンマドの暗殺を計画したことがあるくらいだ。だが、一族の禁を破って改宗した妹からクルアーンの一節を聞いたことで突然教えに目覚めた彼はたちまち最も熱心な信者になった。

血気盛んな彼はムハンマドを讃え、敵対者には挑発的なセリフを吐き、時には軍勢を率いて叩き潰した。

後発でありながら彼がこの4人のメンバーに入っているのは、その信仰心と行動力によるところが大きい。

 

また、もう一つの重要なファクターは彼がアディー家の人間であることだ。

前述の通り、クライシュ族の有力家系であるアディー家やウマイヤ家はイスラム共同体(ウンマ)の最も強力な敵対者であり、ムハンマドがメッカに帰還するまでに何度も矛を交えた相手でもあった。

だが、ムハンマドが本来望むのは、彼らが(アッラー)の教えを信じることであり、殺し合いをすることではない。

その為、ムハンマドはメッカ入城の前に有力家系出身の信徒ウマルとウスマーンを使って彼らと和解したのだ。

 

その後、ウマルはクライシュ族全体を抑える重要な役割を担うことになった。

本当なら入信が早くて年長でもあるウスマーンがその役を担うべきだが、彼には求心力という面で不安がある。

彼も信仰に熱心な男ではあったが、それはウマルの様なムハンマドに対する狂信的な崇拝といった類いのものではなく、進んで喜捨(寄付)を行い儀礼と戒律を守って暮らすような信仰に対する真面目さといったもので、やや趣が違っていた。

ただ、ウマルの強硬路線だけでも反発が出るから、場面に分けて両方が重用され、二人三脚でクライシュ族を治めるカタチになっていた。

 

ウマルはフンと鼻で笑った。

「ムハンマド様が苦しんでおられるというのに平然としているとは…。薄情な男だ、アリー。」

 

アリーは瞑想をやめてため息をついた。

困ったものだ、そう思ったのだ。

 

アリーより7つほど年上のウマルはアリーに対して強烈なライバル意識を持っていた。

それは次世代のムスリムを担う者として、というのもあるが、結局のところ、信仰心では誰にも負けないと思っているウマルはアリーがムハンマドに高く評価されていることが気にくわないのだ。

 

「騒いで預言者が回復するならそうしよう。だが、そういう訳でもあるまい。そんなことより、私たちはこれからのことを考えに集まったのではないのか?」

「これから?」

「そうだ。ムハンマドの死後のことを、決めなくてはならないだろう。」

「貴様! バカをいうな、ムハンマドは死なん!」

 

アリーは眉をひそめて、あからさまにイヤそうな顔をした。

アリーにはウマルが持つムハンマドに対する個人崇拝のようなものが理解出来ない。

勿論、誰にも話したことはないが、実のところアリーはムハンマドが天使ジブリールから教えを授かったとか、そういった類いの話の信憑性はかなり怪しいと思っている。

ムハンマドが預言者でなく、ただの商人であった頃から知っているアリーからすれば、イスラムの教えにある数々の戒律はいかにもムハンマドが考えそうな内容であった。

 

喜捨(ザカード)を行い貧しい者を助けること、ラマダーン月に断食(サウム)を行い貧しさを分け合うこと、同じ教えを信じる共同体全体を家族のように扱うこと。

 

貧困に喘ぐ中でアブー・ターリブの親切に救われて成長し、アブー・ターリブが転落した時に今度はムハンマドが彼を助ける。 そのような経験をしてきたムハンマドは、それを社会の理想像として考え、広めようとしたのではなかろうか。

天使云々は、人々を振り向かせる為の方便であるか、かといって正直者(アミーン)のアダ名のあったくらい真っ直ぐな彼が嘘をつくとも思えないから、社会の変革を強く願うあまり幻覚でも見るようになったのか、そのどちらかではないか。

 

何にせよ、ムハンマドが説く教えは正しいものであると思うから、その辺りにはあえて触れずにここまでやってきたが、それでもウマルの様な考えには共感できない。

 

ムハンマド自身を神のように崇拝することは

「自分は神ではなく預言者であり、あくまで人間である」

と常々言い、1人の人間として不平等な社会を変えようとしていた彼への侮辱であるとすら思う。

 

「ウマル、私も彼の回復を心から願っている。だが、ムハンマドは神ではない。人間である以上、必ずその時は来るのだ。」

「嘘だ、そんなはずはない…! 預言者は…ムハンマドは!」

 

ウマルが言いかけたところで、女が1人部屋に入ってきた。

ムハンマドの3番目にして最愛の妻、アーイシャである。

後述するが、若くしてムハンマドに嫁いでおり、この時、18歳。小柄で童顔なので、年齢以上に若く…いや、むしろ幼く見える。

 

アーイシャはムハンマドからただ1人病床に侍ることを許されて寝室の中にいた。

そのアーイシャが部屋から出てきた。と、いうことは、それが良いものにせよ悪いものにせよ、ムハンマドの身に何か異変があったのだ。

 

「アーイシャ、ムハンマドの…預言者の具合はどうだ…?」

彼女の父でもあるアブー・バクルが聞くと、アーイシャの目から大粒の涙がこぼれだした。

「ムハンマド様は、たった今、お亡くなりになりました…!」

それを聞くと、ムハンマドの古い友人でもあるアブー・バクルは

「そうか…そうか…」

と呟きながら肩を落としさめざめと泣いた。

 

それぞれ表現の仕方は違えど、カリスマを失ったことによる悲しみは他の者も同様で、ウスマーンは青ざめてその場にヘタレこみ、ウマルは慟哭した。

アリーもその場に跪き天を仰いだ。アリーにとってムハンマドは父であり、兄であり、戦友であり、指導者であった。ムハンマドはアリーのほとんど全てだと言ってもよい。

アリーは胸に大きな穴があいてしまったような喪失感を覚えた。

 

 

その後、少し落ち着いたので、全員でムハンマドの亡骸を見に寝室に入ったが、それを見たところで、また全員が動揺して泣いたり、茫然自失として、言葉を発することが出来なくなった。

 

それから、全員無言のまま、しばらく時が過ぎた。

朝日が昇り始め辺りが薄暗くなってきた頃、何かを思い出したかのようにアブー・バクルが言った。

 

「アーイシャ。ムハンマドは、最期に何か言っていたかい?」

「皆、教義と慣行(スンナ)に従うようにと…」

「他には、何か言っていなかったか?」

 

アブー・バクルが聞きたいのは、今後のことについてだ。

教徒たちは道標をなくしてしまった。これからどうしたら良いのか、ムハンマドからの指示が欲しいのだ。

 

それに対してアーイシャはしばらく沈黙した後、ポツリと言った。

 

「言っていました…後継者のことです。」

それを聞き、一同は身を乗り出した。

 

悲しみにうちひしがれる信徒たちにとってはやや気の早い話ではあったが、同時に最も気になる事項でもあった。

固唾を飲んで言葉を待つ一同にアーイシャは言った

 

「後継者…つまり預言者の代理となる者は、有力者同士の選挙で決めるように、と。」

「それは、本当か!」

 

アブー・バクルは驚いているようだった。

それもそうだろう。多くの者は、ムハンマドがアリー以外を後継者にする可能性などないと思っていたからだ。

 

後継ぎとしてこれ以上ない人物がいるのに何故わざわざ選挙などするのか。

ムハンマドが既にこの世にいない以上、彼の本意はわからない。

 

 

 




登場人物紹介は「その2」「その3」の冒頭にて。
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