オクタウィアヌスは、キケロの言う通り、何もしなかった。ただし、何もしなかった、というのは今、ローマ中の議員が夢中になっている、政治的多数派工作において、という意味だ。
オクタウィアヌスがやるべきことはその他にもある。カエサルの後継者たる彼が行うべきは、その意思を継ぐこと。具体的に言えば、遺言の実行である。
さて、カエサルの遺言の中でオクタウィアヌスが行うように、と名指しされたものがあった。それは『首都在住のローマ市民には、一人につき300セステルティウスずつ贈り、テヴェレ西岸の庭園も市民たちに寄贈する。』というものである。後者は引き継いだものをそのまま市民に解放すれば良いので何とかなるが、前者が難しい。当然、若いオクタウィアヌスにそんな金はない。本来、その為の財源になるのはカエサルの遺産だったはずだが、アントニウスに差し押さえられてしまっている。
この遺言はオクタウィアヌスが自分の遺産を使って市民から支持を得られるように、というカエサルの親心であったが、それを成就させないようにする、というのが後見人に指名されたアントニウスの思惑だった。
だが、オクタウィアヌスはその思惑をいとも簡単に越えて、その遺言を実行した。借金をしたのである。
ローマ市民は熱狂した。莫大な借金をしてまで英雄の遺言を守ろうとする若き正統後継者と、その健気な若者から財産を着服するムサイ男。どちらが支持されるかは明白である。
特に、カエサル軍団の一般兵からの支持は熱烈だった。カエサルもまた、莫大な借金をして兵士たちに給与を支払ったという逸話がある。彼らはオクタウィアヌスに亡きカエサルの姿を重ね合わせたのである。
そんな風な状況だったから、オクタウィアヌスの元老院入りは簡単であった。ちょうど、カエサルの側近でありながら、暗殺事件に参加したデキムス・ブルータスがアントニウスの陰謀によって元老院と対立し武力衝突間近か、という時期だったから軍団を持つことも許された。
その実現の為に、キケロは議会で熱弁をふるったが、おそらくそこまでしなくても、結果は同じだっただろう。
キケロは弁舌が得意なだけでなく、好きだった。
自信を持っていたし、それをしている自分に酔ってしまうようなところもあったから、オクタウィアヌスにいかにも
「私のお陰で議員になれてよかったですね」
と言わんばかりの態度で接してきた。
アグリッパはそれが鼻についたが、オクタウィアヌスはしっかり畏敬の念を込めて礼をとっていた。
「お前、よくそんな殊勝な態度とれるよな。」
ある日、アグリッパはオクタウィアヌスに言った。
だが、彼は笑顔だった。
「あぁ、アグリッパがキケロ様を気にくわないと思ってるのはわかるんだけどさ。僕は結構好きなんだよな。彼の書く文章は素晴らしいよ。真に国を憂う人だと思う。」
「そうか…? でも、キケロはアントニウスを弾劾することでドンドン評価を上げている。ガイウス、お前を盾に使ってだ。そうだ、お前、自分でアントニウスを批判したらいいんじゃないのか? 議会に参加出来るようになったんだし、もうキケロに頼る必要なんかないだろう。」
オクタウィアヌスは首を傾げた
「え? ダメだよ。それじゃあ僕がアントニウスに嫌われちゃうじゃないか。」
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キケロによるアントニウスへの弾劾は連日続いた。その数、14回。議論で彼に敵う者はいない。
アントニウスは苦悩した。このままでは、議会を追われてしまうし、そうして支持基盤を失えば命すら危うい。
オクタウィアヌスが護衛のアグリッパを伴いアントニウスを訪ねたのは、そんな頃だった。
「僕たち、手を組みませんか?」
オクタウィアヌスの言葉にアントニウスは度肝を抜かれた
「お前…なに言ってやがる! お前は俺を弾劾するキケロの手下だろうが!」
「イヤだなぁ。キケロは養父上を批判し、当初は暗殺も支持していたんですよ。カエサルの意思を継ぐ、僕と思想が一致するはずないじゃないですか。」
「ぬかせ、小僧! 何が、"カエサルの意思を継ぐ"だ。ならば、なぜキケロなどと一緒に我々カエサル派を攻撃するんだ!」
オクタウィアヌスはショボくれた様子で下を向く。
「そりゃあ、僕だってカエサル派と組みたかった。と、言うか仲間に入れて欲しかった。でも、アントニウスさんがあまりに僕を敵視するから身を守るために、とりあえずあのようにするしかなかったんじゃないですか。」
そこを突かれるとアントニウスも痛い。
少し言葉のトーンを弱めた。
「なら、何故今更俺と組もうってんだ?お前は俺を憎んでいるだろう」
「アントニウスさんが僕にしたことは、誤解の結果だと思っています。僕はカエサルの後継者になったって、あなた方を蹴落とす気はないんだ。僕が望むのはカエサルの意思を継ぐことだけ。でも、キケロではその助けにはならないでしょう。僕が共に闘うべきは、亡きカエサルと共に戦ったあなたたちなのです! だから、今、あなたに倒れられては困るのです。」
アントニウスは迷った。
オクタウィアヌスの提案は確かに渡りに船とも言うべき考えだ。でも、何か確証が欲しい。アントニウスはオクタウィアヌスの顔を改めて眺めた。
真っ直ぐな目をしている。
気にくわないな、と思った。アントニウスもまた、カエサルを崇拝する一人ではあった。だがそれは、カエサルの政治家として、戦士として、男としての強さと手にした権力に惹かれたものであり、アントニウスが彼の思想を理解することは終生なかった。
カエサルを継ぐということは、彼の力を継ぐことである。
そう理解していたアントニウスには、カエサルの改革精神を真っ直ぐに語る少年が眩しすぎる。
自分の隣に立つ者にはもう少し濁った目をしてもらわないと困る。そうでないと、自分の強欲さがあまりにも目立ってしまうから。意識せずともそう考えたアントニウスは懐にしまっていたリストを取り出した。
「これは?」
「俺が議会を掌握したら殺そうと思っていた人間のリストだよ」
アントニウスの顔は紅潮していた。キケロに連日批判される日々の中、屈辱にまみれながらこんなものを作っていた事実を、少年に知られてしまうのが堪らなく恥ずかしかったのだ。
だが、それでもアントニウスにとっては避けて通れない儀式だった。
「うわぁ、メチャクチャたくさんいますね」
「300人までは数えたがそれより後は数えていない…」
アントニウスはニヤリと口元を弛ませた
「オクタウィアヌスよ、お前がこのリストに同意するというなら、俺はお前と組もう。」
理想を語るだけなら、誰でもできる。自分が手を汚してまでそれを貫く覚悟はあるのか。アントニウスはやや意地悪な気持ちでオクタウィアヌスを試したのだが、少年の返事はあっけらかんとしていた
「いいですよー。」
あまりにもあっさりとしていたので、アントニウスは少し焦った。
コイツ、本当にこのリストの意味を理解して言っているのか。
そう思ったのだ
「お前…正気か!? リストの一番上を見てみろ。」
そこには勿論、キケロの名があった。
「こういう事になったのは残念です。僕は彼を嫌いじゃなかった…。ただ、僕がアントニウスさんと同盟する以上、早かれ遅かれ、彼とは殺し合いになると思っていました。それが思っていたタイミングよりずっと早かったというのは確かですが…。でも、こうなったら先手必勝ですよね。さすがアントニウス殿。カエサル軍団一の将軍だ。」
「気に入ったぜ、お前も相当な悪人じゃねーか!」
アントニウスは声高らかに笑った。この如何にも清廉潔白な少年にもこんな腹黒い一面があったのだ、と安心して笑ったのだ。
アグリッパはオクタウィアヌスとアントニウスのやり取りを黙って見ていた。今日の彼は護衛という任務を明確に仰せつかっていたので、それ以上でしゃばらないようにしていた。アグリッパとは、そういう分をわきまえた男なのである。
だが、アグリッパは、黙って見ながら思うのだ。アントニウスは、オクタウィアヌスの真の恐ろしさを見逃してしまった、と。オクタウィアヌスはいつからこの絵図を描いていたのだろうか。ずっと行動を共にしていたアグリッパにさえ正確にはわからない。
オクタウィアヌスはキケロの助力により晴れて元老院議員になった訳だが、その後、特に目立った行動は起こさなかった。演説台で熱弁をふるうのは常にキケロの役目であり、オクタウィアヌスがしていたのは、それを裏手で誉め称えることくらいだ。
更に高まっていくキケロの名声と薄くなるオクタウィアヌスの存在感。動かないオクタウィアヌスを見て、アグリッパはもどかしさを感じていた。
だが、この時のオクタウィアヌスは『何もしていなかった』のではない。『何もしないということをしていた』と言った方がニュアンスとして近い。
キケロはオクタウィアヌスを安全保障の後ろ楯にしたつもりだった。だが、実はオクタウィアヌスによって憎悪の矢面に立たされていたのだ。キケロの攻撃により、アントニウスは窮地に追い込まれると同時に彼を憎むようになる。そうなるのを待って、オクタウィアヌスはアントニウスに手を差しのべた。渡りに船、地獄に仏であっただろう。もしくは、地獄に現れたのが悪魔であったとしても、それにすがり付かなくてはならない状況だったかもしれない。
そして、オクタウィアヌスがダメ押しとして用意したのが、キケロの命というカードだ。
アントニウスにとって、このカエサルの正統後継者は自身の正統性を脅かす邪魔者であるし、キケロに与する敵でもあった。状況が状況とはいえ、強情なアントニウスがオクタウィアヌスを拒絶する可能性は僅かながらある。
だから、オクタウィアヌスはアントニウスが憎悪するキケロの首を手土産にした。これにアントニウスは飛びつくしかない。
自分は恨まれることはなく、対立する政治思想を排除し、手を結びたかった勢力からの協力を得る。この瞬間、オクタウィアヌスがローマに帰ってからの一連の行動は結実したのである。
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紀元前43年。オクタウィアヌスとアントニウスは同盟した。
そこへ調整役としてカエサル派の有力文官レピドゥスが加わり第二次三頭政治が始まった。
「良かった。これで旧カエサル派が一枚岩となって、共和派と戦える。私にとってカエサルが父なら、ずっと彼と共に戦ってきた軍団の皆さんは兄の様な存在です」
オクタウィアヌスはそう言い、その筆頭であったアントニウスには実際に兄になるように求めた。前夫と死別していた姉・オクタウィアとの結婚を提案したのである。アントニウスはそれに応じた。オクタウィアは美人であったし、ローマにおける女性の理想像を写し出したような献身的な妻でもあった。武骨で雄々しい軍人であるアントニウスとは相性がよく、政略結婚でありながらも夫婦関係は良好だった。
そして、その関係が続いている間は、三頭政治も安泰であった。
さて、三頭政治が成立し、彼らを筆頭とした旧カエサル派が最初に行ったのは、共和派の粛清であった。
歴史はそれをプロスクリプティオと呼ぶ。
凄惨な虐殺であった。アントニウスが起案し三頭政治によって可決された処刑リストはローマ中に公表される。リストに載った者は賞金首のように扱われ、その者を殺したり、情報提供した者には多額の報酬が与えられた。その数、少なく見ても2300人以上にのぼる。当然、共和派の面々は一目散に逃げ出した。ローマ市内、もといイタリア半島に彼らの居場所はない。
なるべく、できる限り遠くへ。カエサル暗殺の主犯であったカッシウス・ロンギヌスやマルクス・ブルータスは東方へと逃げた。
キケロは動けなかった。
負けた。
立ち上がることすら困難に感じる程の敗北感が彼を支配した。それは、オクタウィアヌスに対しての感情ではないし、ましてやアントニウスに対する感情でもない。キケロはユリウス・カエサルに対してその感情を抱いたのであった。
キケロは、彼が後継者に指名したオクタウィアヌスという青年を気に入っていた。利発で礼儀正しくもある。そして何より、真に国を想っている。
キケロにとって、国を想い身を犠牲に出来る者は皆同様に友である。それは政治的に対立する者ですら例外ではなくカエサルとも一旦政治を離れれば共に酒を酌み交わす仲だった。
キケロは、大した準備もないまま、カエサルの後継者に指名されたにも関わらず、使命感に燃え危険を承知で帰国したオクタウィアヌスにも同じような感情を抱いた。
彼は財産を着服されて困窮し、自分に助けを求めてはいるが、元々カエサルに近い人間だ。政治的思想は真逆だろう。ここで助ければいつかは対立するだろうし、彼が政治家として大きく育った暁には、自分は刺されて命を落とすかもしれない。
そこまでわかっていながら、彼はオクタウィアヌスを助ける道を選んだ。勿論、自己利益の為でもあったが、何よりキケロはこの孫ほど年の離れた少年の成長を楽しみにしていた。そして、いつか殺される日を待ち望んでいる感さえあった。
だから、アントニウスへの弾劾に際しては、議会で年上の議員に囲まれ大人しくしている彼に対し『議会ではこう振る舞うのだ』『演説とはこうやるものだ』ということを示そうと、いつもに増して張り切って臨んでいる自分がいた。
愚かだった。
そんなこと、オクタウィアヌスには余計なお世話、いや、そんな自分の感情すら予見した上で策略を練っていたのかもしれない。
オクタウィアヌスは雛鳥ではない。
既に成熟した鷲だった。
彼は、私心なく国を想いながら、邪魔になれば恩のある人物でも容赦なく命を奪う覚悟を持っていた。そして、機が熟すまではそれを隠し通す慎重さ…というよりも、あんないい人がそんなことを考えるはずがないと周囲の者に思わせる才能があった。おそらく、計画が実行された後でもオクタウィアヌスを本気で憎む者はいない。きっと多くの人は「アントニウスやレピドゥスに唆されたのだ」とか「余程深い事情があったのだろう」と同情するに違いないのだ。
謀略を張り巡らせ時に冷徹な手を下しながら、人々に愛される。そのことにかけて、彼には異常な程才能があった。
そして、キケロはカエサルの慧眼に戦慄するのだ。
カエサルは分かりやすい男だった。彼は自分の考えが伝わらないことは人に不信感を与えると知っていたから、持論を説明することに対しての労力と工夫を惜しまなかった。それが、多くの層から支持を得られた理由でもある。
だが、何故ガイウス・オクタウィアヌスを後継者にしたのか、それだけがわからない。だからこそアントニウスは遺産の引渡しを拒否したし、クレオパトラ7世はカエサルの実子を連れてエジプトへ帰ってしまったのだ。
キケロは、オクタウィアヌスと行動を共にしながら、自分だけがそれを理解していると思っていた。
だが、ここにきて分からなくなってしまった。
キケロは結局のところ、彼を単に前途有望な若者であるとしか捉えていなかった。
オクタウィアヌスは、底が知れない。
カエサルはこの病弱で控えめな少年の中に眠る禍々しい才能に気づいていたのだろうか。カエサルは彼の本質を見抜き、キケロは見抜けなかった。
完全なる敗北。
キケロは終生のライバルと見込んだ相手に対して初めて負けを認めたのだった。
紀元前43年12月7日。キケロは死んだ。
彼を追っ手から守って戦うと申し出た奴隷たちに対して
「無駄なことはせず逃げろ」
と伝えた上での死であった。
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この後、紀元前42年10月にフィリッピの戦いが起きる。
三頭政治とロンギヌス、マルクス・ブルータスら暗殺犯との戦いである。オクタウィアヌスは例のごとく病に倒れ活躍しなかった。三頭政治側がこの戦いに勝てたのは、アントニウスの武功によるところが大きい。
何にせよ、ロンギヌスとブルータスは死に、彼らはカエサルの敵をとることに成功したのだった。
戦いは続いていた。
カエサル暗殺の首謀者たちは死んだが、まだ三頭政治への反対派は残っている。三頭官はそれぞれアントニウスが東方、オクタウィアヌスは西方、レピドゥスはアフリカを担当して、その討伐を開始した。
だが、所詮残党狩りである。
その間、ファルサロスの戦いやフィリッピの戦いのような雌雄を決する戦は起きなかった。グラックス兄弟の改革失敗に始まる内乱の一世紀の中では比較的平穏な時代であったと言っていい。
そう言えば、紀元前36年にレピドゥスの軍が伸長著しいオクタウィアヌスを恐れて襲ってきたが、三頭官の中で最も影が薄いレピドゥスのことなどはどうでもよい。軍を率いるアグリッパが見事に撃退した。
オクタウィアヌスはレピドゥスを殺さず地位を奪うのみに止めた。寛容なのではない。どうでもいいからだ。
前述した通り、オクタウィアヌスは必要とあらば恩ある者でも殺す覚悟を持っている。だが、自分を追い込む程の実力がない者は殺さない。無用に人を殺して、恨みを買ったり、必要以上に怖れられたりということをオクタウィアヌスは良しとしなかった。キケロが殺されて、レピドゥスが死ななかった理由はここにある。
オクタウィアヌスのその判断もあり、レピドゥス事件は穏便に解決した。
ローマの平穏はまだしばらく続く。