史実はラノベよりも奇なり ~歴史短編集~   作:ロッシーニ

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その4 ~アーイシャ、立つ~

ウスマーンが死んだ後、支持者たちが一斉にアリーの下へ押し寄せた。アリーにカリフ就任を求める為である。

 

アリーは彼らの求めを固辞した。アリーが最早政治には興味がなく、一宗教家として生きることを望んでいたことは前述した。

また、ウスマーンと反乱者との折衝に失敗したこのタイミングで自らがカリフの地位につくことは信義に反するとも考えていた。

 

そんなアリーに古くからの親友マリク・イブン・アシュタルが語りかける。

 

「卑怯だぞ、アリー!」

「卑怯とはどういうことだ?」

「ウスマーンはお前のせいで死んだ。」

「それは…」

 

「いいか、オレはお前が反乱者の説得に失敗したことを言っているんじゃない。だが、そもそも、カリフには預言者に最も近いお前がなるべきだったんだ。 お前が責任から逃れ、隠遁し、自己満足の信仰を続けているから、俗物が権力を握り、挙げ句、信徒の血が流れるんだ! やれ、アリー! もうお前がやるしかないんだ!」

 

アシュタルの言うことは、尤もだった。

アリー自身、ウスマーンに自分の成すべきことを行えと説教した以上、自らもそのように振る舞わなくてはならない。

 

アリーはようやく首を縦に振った

「アシュタル、お前の意思はわかった」

「では、カリフになるんだな!」

「だが、それを私とお前だけで決めることはできない…」

「じゃあどうする? ムアーウィヤにでも相談するかい?」

 

アシュタルがウマイヤ家当主の名前を出すと、アリーは苦々しい顔をした。

 

「これまでの成り行き上、彼らとは敵対せざるを得ないだろうな。」

「じゃあもう反発されるのは覚悟して、この場で勝手にカリフを宣言するしかないだろう?」

「いや…タルハとズバイルの話を聞きたい」

 

アリーが名を出したのは、初代カリフのアブー・バクルに近い2人である。それぞれタルハはアブー・バクルの従兄弟、ズバイルは娘婿であり、前者は商才、後者は武勇に恵まれた有力な信者であった。

 

要するに、アリーの考えは、ウマイヤ家との敵対は避けられないがアブー・バクルの派閥は味方につけたい、ということだった。

 

前出したが、この時、ウンマ内の有力派閥が3つあった。

 

まず一つはアリーの派閥。

これは、かつてムハンマドを有したハーシム家に加えて、アリー個人を慕って集まってきた人々…特に聖遷(ヒジュラ)以降メディナで信者になった者を中心としている。

既にウンマが巨大化してから信徒になった者たちはムハンマドを直接知らないから、教友の中でも預言者に近いアリーを尊敬の対象にした。単純な信徒の数で言えば最も多いが、ただ純粋に教えを学びたいという人が多い為、戦いになった場合の動員数や戦闘力はそう高くない。

 

次にウマイヤ家の派閥。

この時期になるとウスマーン政権下での専横でウマイヤ家が断トツに力をつけていたが、要するに元のメッカ有力者の派閥である。ムハンマドとは対立して戦闘を繰り返したが、メッカ征服後、命を助けられる代わりに改宗した者とその子息たちが中心となっている。

それでも若い世代にはイスラムの考え方が根づいているが、元が半強制的に改宗に応じた者の集団なので、基本的に信仰心は薄い。ムアーウィヤを筆頭にカリフの座を狙う者も多いが、それはかつてこの派閥から出たウマルの様な、自らが最も敬虔な信者である、という自負からではなく、既に既得権益化したその地位を狙って、という側面が強い。

ウマルやウスマーンが彼らを周辺国との戦闘に使っていたので、戦闘経験豊富な集団でもある。

 

そして、最後にアブー・バクルの派閥だ。

元はムハンマドの親友にして秘書官、その後は初代カリフになったアブー・バクルを中心とした集団だが、彼はもういない。それが今日まで一定の勢力を保つのは、彼の娘で事実上ムハンマドの正妻であったアーイシャが大きな影響力を持って健在だからだ。

つまりは、外戚勢力。今はアブー・バクル派というよりタイム家(彼らの出身家系)の派閥と言った方が良いだろう。

数は多くないが古くからの教友が多く、タルハとズバイルもそれぞれその一人である。

 

「タルハとズバイルなら、来ていたぞ!」

集まった群衆の中から誰かが叫んだ。

 

すると、人波をかき分けてアリーのいる場所へ進み出て来る者がいた。話題の人、タルハとズバイルである。

2人ともアリーより少し年上でこの時60代に差し掛かっていた。

 

ウェーブのかかった髪で涼やかな目元をしているのがタルハ。

若い頃はイケメンとして有名で、禁欲的なイスラムの信者でありながら数々浮き名を流した。サフラン染めの服を着て右手の中指に金色の指輪をしたお洒落な格好にプレイボーイの名残がある。

 

その隣がズバイル。目が小さくのっぺりとした顔立ちだ。

優柔不断な性格が顔に出ている、という風によく人から言われているが、本人もそれは自覚しているようだ。

エジプト征服の戦功により当時のカリフ、ウマルから総督に任じられた際、

「自分は命じる側であるより命じられていた方が本領を発揮できるから」

と断固拒否したのは有名だ。

そんな男が戦場では魔王のように強いのだから面白い。

 

武勇に優れるが陰気で無口なズバイルと荒事は苦手だが社交的で交渉事が得意なタルハ。彼らはいつも2人組で行動して弱点をカバーし合っている。

 

「お前たち、何のためにこんなところにいる!」

アシュタルがただでさえ厳つい顔を最大級に歪ませながら言った。他派閥に属する2人が支持者に紛れてアリーの邸宅にいることを警戒しているのだ。

 

「何のためって…なぁ…」

ズバイルがタルハに目配せする。

彼はこういう場面で何かを言える人間ではない。

この場はタルハに任せる。

そういう意味だ。

 

「何のためって人聞き悪いなぁ。」

「だが、怪しいじゃないか。支持者の中に隠れて盗み聞きしてたんだろう」

 

アシュタルは鋭い眼光をタルハに向けた。

愚直なアシュタルからすると、タルハのような男は軽口で相手を丸め込もうとする油断ならないタイプなのだ。

タルハはアシュタルに両手のひらを見せて敵意がないことを示す

 

「オイオイ、それはヒドイ誤解だな。俺たちは支持者の中に隠れてたんじゃない。」

「じゃあ何してたんだよ」

「支持者が支持者の群れの中にいて何が悪いんだ?」

「つまり…?」

「俺たちもアリーのカリフ就任を支持するってことさ」

「そんなバカな…!」

 

タイム家の派閥に属する教友の発言にアシュタルは驚いてしばらく言葉を失った。

タルハとズバイルもカリフの有力候補であった。もし、タイム家が政権奪取できるなら、それも現実のモノになるであろう。その彼らが権利を放棄してアリーを支持するという。

 

アリー本人も意外に思った。

そして、彼の真意を知るために次の言葉を待った。

 

「そんなびっくりしなくてもいいだろう?」

「だが、お前たちの後ろ楯…アーイシャはアリーを嫌っているはずだ」

 

アシュタルは混乱しているようで、やや早口であった。

 

「鋭いね、さすがアシュタル将軍。嘘をついても信用を失うだけだから言うが、実は、この事はアーイシャにはまだ言っていない。」

「なるほど。お前たちの独断という訳か。」

 

 

それならまだ納得できる。そういう意味でアシュタルとアリーは目を見合わせた。

 

「俺たちの仲間には…何だその、カリフになれる人間がいないんだ」

「お前たち2人のどちらかじゃダメなのか?」

「バカ言っちゃいけない。と、いうかバカにしてんのか?」

「何がだ?」

「俺にもズバイルにもその器はない。お前たちもそれはよくご存知なはずだ。」

「…すまない。自覚があるとは思っていなかった」

 

「まぁ、いいさ。自覚してるってことは、俺たちはお前らが思っているよりずっと賢いということさ。どうだい、見直したろ?」

 

タルハはわざと明るく言ってから、ややトーンを落とした。

 

「まぁ、アーイシャが男であったらな、と思ったことはあるよ。それだったら俺は彼女を推しただろう。」

 

「で、お前たちがアリーを支持するのは何故だ? 自陣営に候補者がいないのはアリーを支持する理由にはならない。他の人間を支持したっていいし、静観を決め込んでもいい。色んな方法があるはずだ」

 

「なに、ウマイヤ家にカリフの座を渡したくないだけさ。」

「お前ら、アイツらのことそんなに嫌いだったか?」

「勿論。て、いうか敬虔なイスラム教徒なら奴らのことは嫌いであるべきだ。アイツら、ムスリムじゃない。」

 

タルハが言っているのは、ウマイヤ家の派閥を構成するメッカ有力者たちのほとんどが、ムハンマドのメッカ征服の後に改宗したという事実についてだ。

 

「慈悲深い預言者は彼らのことを許したが…正直、俺はあの時、彼らをメッカから追い出すべきだったと思う…。」

 

寛容性を重視するアリーはその話に賛同しないだろう。そう思い、アシュタルはアリーの顔色を窺ったが、彼はまだ真剣な顔をしてタルハの話を聞いている。

今のところ、同盟を破談にする程の意見の相違ではないということだろう。

タルハは更に熱を込めて話す。

 

「最悪、コッチの邪魔さえしなければ、信仰がカタチだけになるのはいいさ。敗れたとはいえ、奴らにだって信じるモノくらいあるだろう。だが、俺たちが気に入らないのは信仰心もない輩が権力だけを求めてウンマを私物化することだ。」

「つまり、ウマイヤ家…ムアーウィヤよりはアリーの方がいいってことだな?」

「その言い方だと好感度が悪いな…まぁ、今いる候補の中で一番才覚があって道徳的だからアリーを支持するってことさ」

 

「どうする、アリー?」

アシュタルはそこまで聞いてからアリーに問うた。

彼はコクりと頷いた。

「わかった、協力しよう。そもそも私たちはアーイシャの不義の件で仲違いがあっただけで(アッラー)を信じる心は同じはずだ」

 

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アリーに対する忠誠の誓い(バイア)を行ったタルハとズバイルはアーイシャの家へ足を向けた。

歩きながら、まずズバイルが言った。

 

「いやぁ、それにしてもアリーがカリフになってくれて本当に良かったよ」

「ああ。ホントにそうだな。二代連続で暗殺だものな。」

「あれだけの重責を背負いながら、恨まれて殺される…。」

「割に合わない仕事だよ。カリフってのはさ」

 

「やっぱり、権力は程よく持つに限るよ。」

「ああ。甘い汁だけ吸わせてもらって責任をとらないポジションこそ最高だ。」

 

2人がそんなことを言いながら、アーイシャの家を訪ねると、彼女は扉の前で腕組みをしながら待っていた。

そして、2人を激しく睨み付けて言う。

 

「アリーがカリフになったというのは本当ですか!?」

もう知っているとは。何たる地獄耳か。

2人は驚いた。

 

ズバイルがまたしても固まってしまったのでタルハが答えた。

 

「ああ。その通り。今、新カリフに忠誠の誓い(バイア)をしてきたところさ」

「何故?」

「何故、というと?」

「何故、アリーなどをカリフと認めたのですか?」

 

「そりゃあ、アリーがカリフに相応しいと思うからさ。アリーは人望があるし、信仰心も人一倍だ。」

「ウンマの中に人望と信仰心がある者はアリーだけなのですか?」

「難しい質問だな、お前が何を言いたいのか、さっぱりわからない。」

 

アーイシャはそこで急に大声を出した。

 

「どうして! あなた方は自分こそが一番の信仰者であると思わないのですか! 信仰に対して一心不乱に取り組んでいたら、誰もが自分が一番であると思うはずです! なのに、何故あなた達はそれを言えないのですか!」

「アーイシャ、何を言う。俺たちだって(アッラー)の教えに真摯に向き合ってきた。だが、謙虚さは大切だ。アリーを認めて何が悪い?」

 

ここまで来て、やっとズバイルが口を開いた

 

「そうだ、アーイシャ。お前の言っていることはメチャクチャだ。みんなが自分を一番の信仰者だと思ってカリフになりたがったら大変なことになるぞ!」

「それでも私は私が一番の信者であると証明したい!」

 

2人はアーイシャの発言を聞いて顔を見合わせた。

そして、タルハはおそるおそるゆっくりとアーイシャに問いかけた

 

「アーイシャ、お前…まさか、自分がカリフになろうってんじゃないよな…?」

「なりたいですよ!」

と吐き出すように即答したアーイシャを宥めるようにタルハは続けた。

 

「アーイシャ、それはいけない。」

「何故?」

「神の言葉だ。お前も知っているだろう。『女は従順に、夫の不在中を守る。』だ」

 

「それは知っています。」

「ならカリフになるなどと望んではいけない。大人しく…」

「嫌ですよ。正しくは『男は女の擁護者である。それはアッラーが、一方を他よりも強くなされ、かれらが自分の財産から、経費を出すためである。それで貞節な女は従順に、アッラーの守護の下に不在中を守る。』でしょう?」

 

「少し省略しただけだろう、何が違う!? お前は暗記力比べでもしたいのか!?」

「見解に相違がありますね。」

「どういうことだ?」

 

「神は、男が女の庇護者になるから、庇護される者は従順に家を守れと仰っているのですよ。でも、今の私が誰に庇護されていると言うのでしょう。」

「それは…」

「私はムハンマドの妻ですが、彼はもう亡くなって、私に庇護者と呼べる人はいない。そして、今の私には財と影響力がある。その気になれば、むしろその辺のオッサンより余程多くの者を養うことができるし、より多くの兵を集めることもできるのですよ。」

 

「わかったけど、しかし、お前はカリフなんかになってどうするつもりなんだ!」

「決まっています。ウマイヤ家を打倒して神の正しい教えを守るのです!」

「そんな面倒で危険なこと…アリーに任せておけばいいんだよ!」

 

タルハの口から本音がこぼれたところで、アーイシャは顔と頭を布で覆って表に出た。

 

「アーイシャ! どこへ行くつもりだ!」

ズバイルが叫ぶとアーイシャは留まっていたラクダに跨がり言った。

 

「ムハンマドの教えを自ら身をもって成す者こそが真の信徒です! 私はそれを人任せになどしない! 私は支持者を募ります。もし、自分が正しい人間であるという自負があるなら、あなた達もわたしについて来なさい!」

 

ラクダを走らせたアーイシャを追うようにタルハも走り出すが、ズバイルがそれを引き留めた。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」

「何だよ!」

「どこへ行くんだ!」

「知らん! アーイシャの行くところに着いていくんだよ!」

「それは、アーイシャを支持するってことか? 俺たち、アリーに忠誠を誓ってしまったぞ!」

「あぁ!? 俺があのじゃじゃ馬を支持するかどうかはわからん!」

「えぇ!?」

「だが、俺は勝ち馬に乗りたい! あのアーイシャが、ムハンマドの妻が動くんだ。情勢がひっくり返るかもしれん! 俺はアーイシャに賭けるぞ!」

 

そう言い、タルハも急ぎ小屋にいたラクダに乗って駆けて行ってしまった。

 

「そんなぁ…」

置いてけぼりになったズバイルも少し遅れてラクダを確保し、2人の走り去った方向へと向かっていった。

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