ラクダの戦いの後、アリーは拠点としたクーファに4ヶ月ほど滞在した。ウマイヤ家との戦闘準備をする為である。
それと平行し、アリーはダマスカスのウマイヤ家に何度も講和の使者を送ったが、良い返事は返ってこなかった。
ムアーウィヤ曰く、
「とにもかくにも、まずウスマーン暗殺の実行犯を処刑せよ。話はそれからだ」
とのことなのだ。
確かに、現在、暗殺犯たちはアリーの陣営に加わっている。
ラクダの戦い直前、タイム家派との同盟の為、アリーは彼らを無罪放免にした。その後、タイム家が暗殺犯の処分を大義名分にしてアリーと対立したので、彼らはタイム家派に戻ることができなくなり、アリーの下に留まることになった。
アリーからすれば、相手が暗殺犯だろうが何だろうが、一度命を助けると約束した相手なのである。
それを裏切ることはできない。
それに、アリーは彼らとしばらく行動を共にしたことで、その主張せんとするところを理解していた。
確かにウスマーンへの凶行は許しがたいが、彼らは単なる暴徒ではない。彼らには彼らなりに立ち上がる理由があった。
ウマイヤ家による専横を打破したい。
その主張を為政者が聞かなかったから暗殺犯たちは力に頼るしかなかったのだ。今また、彼らの話を聞かないまま処罰を下してしまっては同じことの繰り返しになる。
まずはムアーウィヤやマルワーンが暗殺犯らと対話すること。
アリーはそのように考えていたので、ウマイヤ家との交渉は不調に終わった。
ムアーウィヤ、マルワーンからすれば、暗殺犯たちが公の場でウマイヤ家への不満を表明すること自体を防ぎたかった。
その前に彼らを犯罪者として裁きたいのである。
アリーはとにかく、その辺りの小ズルい思惑がよく理解できない男だった。
最終的にアリーは何とか大勢の信徒を巻き込んでの殺し合いだけは避けられないかと、ムアーウィヤに
「一対一の決闘で新カリフを決めよう」
という提案すらしているが、ウマイヤ家の当主はそれを一笑に付した。
これにより、アリーとムアーウィヤは戦う以外の道を失ったのである。
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657年5月、アリーはイラクとヒジャーズから召集した9万の軍を率いてクーファを発し、ティグリス川の西岸沿いに北上した。そして、砂漠地帯を横断してイラク北部のラッカにてユーフラテス川を渡り、ムアーウィアが陣を構えたアレッポ東方のユーフラテス川西岸、スィッフィーンにたどり着いた。
戦いは水場を巡る攻防から始まった。
アリーの軍がスィッフィーンについた時、既にムアーウィヤは副将のアムル・イブン・アル=アースを使いユーフラテス河岸を占拠してアリーの軍が飲み水を確保できないようにしていた。
実はこの時、まだ両軍は完全に決裂していた訳ではない。
陣を敷いてにらみ合い、いつ戦いが始まってもおかしくない状態ではあったが、アリーは和平に向けた最後の希望を信じ、ムアーウィヤに直接交渉を持ちかけていた。
それ故、交渉中は水場を平等に使わせて欲しい、というのがアリーが持ちかけた最初の取引であったのだが、ムアーウィヤはバカにした態度でこれを拒否した。
アリーがムアーウィヤらの小ズルい考え方を解さないように、ムアーウィヤにもアリーの真っ直ぐすぎる考え方がわからない。ムアーウィヤにはアリーが、正義の味方を信じる世間知らずな少年のように見えていた。
いい年こいて、青すぎる。アリーは一体なぜ自分が先に水場を押さえたか、わかっていないのだろうか。
ムアーウィヤは呆れてしまった。
ムアーウィヤが考えているのは戦闘になった時のことだけではない。渇きによってアリーが音をあげて、譲歩してきたり、兵を退いたりするのを待っているのだ。
勿論、実際に戦闘になった場合でも有利に事を運ぶことができるから、それが示威的行為にもなる訳だ。
要するに、ムアーウィヤにとっては水場を押さえるということ自体が交渉の一貫なのだ。
だから
「まずは水場を分け合ってフェアな条件の下で交渉を進めよう!」
というアリーの提案そのものが、既にムアーウィヤにとってはフェアではない。
水場を共有したいなら、まずはソチラからそれに値するだけの譲歩をしてこい、という訳だ。
ムアーウィヤは呆れると同時に気分を害した。
「え? そんなズルいことする人、いるの? 考えてもみなかったよ。」
というアリーの態度にひどい侮辱を受けたような気がしたからだ。
ムアーウィヤは戦場における最善手をとったつもりであった。
もっと言えば、
「どうだアリー、これで手も足も出まい!」
と、悪知恵の源泉たる自らの頭脳を誇らしく思いながら待ち構えていた。
なのに、あまりに純粋なアリーの言動のせいで恥をかかされてしまった。
あの野郎、マジで許せねぇ。
そう思ったムアーウィヤはアリーの交渉を黙殺することに決めた。
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ムアーウィヤからの返事はこなかった。
彼は何故、こうも争いたがるのか。アリーにはそれがどうしてもわからない。
だが、とにもかくにも、飲み水を確保できなければ兵を退くより他に道はない。アリーはムアーウィヤの沈黙を宣戦の布告ととった。
アリーがアシュタルに命じてウマイヤ軍のアル=アースが守るユーフラテス河岸に攻撃をしかけると、ウマイヤの軍はたちまち壊乱した。
彼らはアリー軍が不利な条件の中、攻勢に出てくるとは思っていなかったのである。
水場の支配権はアリーの手に移った。
そこでムアーウィヤはアリーに水場の共同利用を申し出た。謂わば、意趣返しである。
お前は、コチラが確保した水場を簡単に使わせろなどと言ってくれたが、立場が反対になった時、お前は敵に権利を譲ることができるのか。と、いうことだ。
アリーの軍に加わっていた諸将、アシュタルやアンマール・イブン・ヤースィル、アブドゥッラー・イブン・アッバース(前出したムハンマドとアリーの叔父、アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの息子。)らは水場の共同利用に反対した。
既に戦闘は始まっている。
コチラ側が共同利用を呼び掛けた時とは状況が変わっているではないか。
それに、交渉中ですらウマイヤ側はコチラが提案した同じ条件に応じなかった。そんな相手に慈悲を与えてやる必要はないはずだ。と、いうのが諸将たちの言い分であった。
だが、アリーは彼らの反対を押しきって水場を解放した。
クルアーンの中にあるジハードの理論によると、戦場で奮戦し殉教すれば死後の安寧が約束される。だが、いくら戦場にいても、そこで戦う前に干からびて死んだ場合はわからない。
アリーは預言者ではない。だから何をすれば殉教となるのか、正確なところはわからないが、仮に死ぬのだとしても互いに全力を尽くして戦えるカタチにしよう、というのがアリーの心づかいであった。
アシュタルは
「お前は甘すぎる! ムアーウィヤはそういうやり方が通用する相手ではない!」
と怒ったし、御年90歳ながら戦場に立つアンマール・ヤースィルは50代のアリーがまだ若く見えるらしく
「いやぁ、ワシにもそういう時代があったがのぅ…」
と何か含むところがあるように呟いた。
だが、それでも誰かがアリーを見捨てることはなかった。
結局のところ、そういうアリーだから、これだけの勇士たちがついていくのだ。
こうして、ユーフラテス河岸は両軍の中立地帯となった。
だが、アリーの好意を受けてもムアーウィヤは攻撃の手をゆるめようとはしなかった。
ムアーウィヤはアリーから向けられる善意を屈辱的に感じていた。
このウマイヤ家の当主は、策謀を張り巡らし敵対する相手を陥れることで、自身の有能さを確認し快感を得ようとする節がある。だが、アリーを相手にすると、それができない。いくら悪意のこもった策略を投げつけても、柳のようにかわされて、仕舞いには、善意のリボンをつけてそれを投げ返されてしまう。要するに、同じ土俵で戦ってもらえない。
ムアーウィヤは、これまで自分が一番得意だと誇りに思ってきた行為を否定されてしまったのだ。アイデンティティーを失ったムアーウィヤは、最早勝つしかない。
勝利という結果でしか自分の存在価値を否定した相手に一泡吹かせることはできないのだ。
そこから、ムハッラム月の休戦を挟み、ウマイヤ軍による総攻撃が始まった。
だが、この攻撃は精細を欠いていた。ウマイヤの兵士たちはアリーから水の提供を受けたことで、彼を心から憎むことができなくなっていた。
一方、アリーの軍は士気が高い。
これには、この戦いの始めにアリー軍の代表的な将軍の一人、アンマール・イブン・ヤースィルが戦死していた影響も大きい。
この90歳の老将は、ムハンマドから直接教えを受けた教友であり、老齢ながら今日まで現役で戦い続け、この戦いの直前にあったラクダの戦いでも一騎討ちで30歳以上年下の敵将を討ち取った猛将である。
この本来であれば過去の栄光を盾に椅子にふんぞりがえっていても許されそうな年齢の男が、敵軍の襲来を聞くと、いの一番に戦場へ飛び出して味方の盾となり、命を落としたのである。
彼の死はアリーの軍団にとっては大いなる失望ではあったが、アリーは逆に
「皆、アンマール・ヤースィルの魂を胸に勇敢に戦うのだ!」
と檄を飛ばして士気を高揚させることに成功した。
そしてアリーの軍はアシュタルを中心に奮戦し、ウマイヤ軍の陣の深くまで入り込んで行った。
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「何故だ!」
とムアーウィヤは叫びをあげた。
次々入る敗報を彼は俄に信じられないでいた。
ムアーウィヤの認識から言えば、戦とは謀が多ければ多いほど有利になるモノだ。
鬼謀の人である自分があのバカ正直なアリーに負けることなど、あり得ないのである。
ならば、戦が思うように進まない理由は何なのか。ムアーウィヤは必死に考えた。
兵の数であろうか。いや、違うとムアーウィヤは頭に浮かんだ考えを即座に否定した。
戦前の兵数予想ではウマイヤ側が12万でアリー側が9万程度。
それもそのはず。アリー軍はラクダの戦いで兵を削られている上に、ウマイヤ軍はアリーがそこで足踏みしている間も募兵を続けていた。数に差が出るのは当然だ。
だが、今のところ、アリーが伏兵を隠していたなどという情報もムアーウィヤには伝わってこないのにウマイヤ側は圧倒的に圧されている。
ならば、数の問題ではないのだろう。
それでは、兵を率いる将軍の差であろうか。
それも違うだろう、とムアーウィヤは思った。
アリー軍のアリー、アシュタルはムスリムの中でも指折りの名将であるが、アリー軍には他がいない。彼らに次ぐ存在であった長老のアンマール・ヤースィルもウマイヤ軍による最初の攻撃で命を落としたという。
ウマイヤ側の指揮官であるマルワーン、アル=アースは非常に優秀だ。2人合わせれば総合力はアシュタルにも負けないだろう。
そして、何より自分がいる。現場指揮官としてはともかく、総大将として自分がアリーに負ける要素はない。
要するにアリーの能力はその立場に相応しいモノではない、というのがムアーウィヤの考えだった。
確かに、アリーの言っていること、やっていることは倫理的にも、理論的にも正しいのだろう。一人間として他人から好かれるだろうし、宗教家として道を説き信徒たちから尊敬を得ることもできるはずだ。
だが、人の上に立つ者には別の能力が必要だ。相手を陥れるズル賢さや躊躇いなく人の命を奪う冷酷さ…そういった能力なら自分はアリーに負けないはずだ。
だから、単純計算して現場指揮官がアシュタルVSマルワーン&アル=アース、総大将がアリーVSムアーウィヤという構図であれば絶対に勝てるはずだ、とムアーウィヤは認識していた。
ここに至るまでの戦略、兵の数、将軍の力量全てで上回っているはずなのに、勝つことができない。
「おかしい! おかしい! そんなのおかしいじゃないか!」
ムアーウィヤはそう叫び、身体中をかきむしりながら地面をのたうちまわった。
一つ、ムアーウィヤが、敵に劣っているとするならば、それは正義である。ムアーウィヤ自身、それ自体は認めていたが、その正義というものが、謀略よりも冷酷さよりも大切なモノであるということはどうしても認めたくなかった。
ムアーウィヤは人に好かれず、尊敬もされない男だった。
正義を信じない人間だからそういう結果になっているのか、それとも、ずっとそうだったから正義を信じられなくなったのか。
それは彼自身にもわからない。
だが、それでも策略を駆使して競争相手を蹴落とし相手の上に立つことで己のプライドを保ってきたのがムアーウィヤだった。
だから、彼にはあの清廉潔白を絵に描いたようなアリーに負けることがどうしても我慢ならない。
今までの自分を全て否定されることになるからだ。
「イヤだ、イヤだ!」
ムアーウィヤはまるで子どものように泣きわめいた。
アリーは今まさに自分が最も大切にしてきたモノを奪い去ろうとしている。心底、腹が立つ。自分もアリーから大切なモノを奪い取ってやりたい。自分と同じ苦しみを味合わせてやりたい。そんな強い想いが、ムアーウィヤに悪魔的な閃きを与えた。
そうだ…。アリーの大切にしているもの…。それは、ムハンマドの、イスラムの教えだ。
それを思いついた瞬間、ムアーウィヤは今まで一度も感謝したことがなかった神に感謝した。
ムアーウィヤは俄に駆け出して近くにいた従者に問うた。
「おい、クルアーンはあるか?」
若い従者は怪訝な表情をした。
「ええ。陣に何冊か備えてありますよ」
「今すぐありったけ持ってこい!」
そうしてクルアーンを受け取るとムアーウィヤは一心不乱にクルアーンを1ページずつ引きちぎり始めた。
「何をするのです!」
若者たちはウマイヤ派でも少なからずクルアーンの神聖さを信じているので動揺しているようだったが、ムアーウィヤには関係ない。
「いいから、お前らもやれ! これで勝てるぞ!」
ムアーウィヤは満面の笑みで叫んだ。
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「前線の統率が乱れ、軍が壊乱寸前である。どうか前線に赴き、兵たちをなだめて欲しい」
合戦の総指揮をとっていたアリーに前線のアシュタルから報せが届いたのは戦闘が始まってから3日目の午後だった。
「この報せは、間違いではないな?」
アリーは報せを持ってきた伝令兵に問うた。
「勿論…です…。」
伝令兵は激しく息を切らせていた。必死に走ってきたに違いない。嘘であるはずもないだろう。
「そうだな…。済まない、下らんことを聞いた。」
とアリーはすぐに謝り、全力で任務を務めあげた兵を気遣った。
だが、もたらされた報せが情報の真偽を疑ってしまうぐらい意外なモノだったのは確かだ。
つい数時間前、いや数分前までアリーの軍は敵を圧倒しており勝利も目前だったのである。
アシュタルはアリーに助けを求めているが、彼もムスリムの中ではその名を知らぬ者はいない名将だ。
彼ですら指揮がとれないくらい現場が混乱しているというのなら、自分が行ったところで事態を収拾することができるのか。
アリーは不安を覚えていた。
敵が何か魔術的な奇策を放ったのだとしか思えない。
とにかく、前線へ行こう。
そう思った。
この短時間での逆転劇。
後方からつべこべと言ったところで挽回できないのは間違いない。
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前線に赴いたアリーはそこで恐ろしい光景を見た。
ウマイヤの軍が槍先に1ページずつ破かれたクルアーンを掲げ、聖句を連呼しながらアリー軍の陣に突撃しているのである。
ある者は神の力を恐れて逃げ出し、またある者は、逃げはしないが聖典に攻撃もできないと無抵抗に刺されて倒れた。それでも、なお戦おうとする者もいるが、隊列が乱れており効果的な攻撃が繰り出せないでいる。
混乱する戦場で、アリーはアシュタルを見つけて駆け寄った。
「アシュタル、これは一体どういうことだ?」
「どうって…見ての通りだ。奴ら、クルアーンを盾にしやがった!」
アリーは絶句した。
イスラム教徒にとっての、この出来事の衝撃を、現代日本人に伝えるには、どのように形容したら良いだろうか。
日本ではこれを鳥羽伏見の戦いの際の官軍の行いに例えることが多いように思う。錦の御旗を掲げて幕軍の戦意を喪失させた行為である。
あるいは、やられる側の心情を考えると踏み絵をさせられる隠れキリシタンの心境に近いのかもしれない。
神への冒涜。
ウマイヤ軍の行動はそう責められても仕方のないモノであるが、効果は抜群だった。
よく考えれば、攻撃するのはクルアーンではなくそれを掲げるただの人なのだから、何も戦うのに躊躇することはないのだが、アリーの兵士たちにはたちまち動揺が広がって行った。
攻撃するのが罰当たりだとかいう以前に、度を越えて卑劣な敵の振舞いに対する戸惑いもあったかもしれない。
「わからない…」
アリーはそう静かに呟いた。
「え?」
「このようなやり方で勝利して、ムアーウィヤは何をしたいのか…」
心底不思議そうに戦場を眺めるアリーにアシュタルはやや乱暴に言った。彼からすれば、今は考え事などしている場合ではないのである。
「そりゃ、自分の欲のため…権力をつかみたいんだよ!」
「このようなやり方で、権力をつかめるのか…?」
「やり方なんかどうだって…! 敵対者を全員殺せば自然にそうなるだろう!」
「だが、それでは信徒たちの尊敬は得られない…。ムアーウィヤは何を考えている…?」
アシュタルは
「あぁ…」
と声をあげて目を覆った。
アリーはきっと、人の上に立つ者は正しい行いをして人々から尊敬を受ける人間でなくてはならないと考えているのだろう。
その通りだとは思う。
だが、必ずそうなる、と思っているところにアリーの間違いがある。
世の中にはただひたすら我欲の為だけに地位を欲する人間もいれば、暴力に屈する人間や利に転ぶ人間もいるし、日寄見主義者もいる。
為政者の行いに納得がいかないからと言って、正しいことのために強者に逆らえる人間がどれだけいるのだろうか。
何を考えるにしても正義が最優先事項に来る思考回路をしたアリーには、それが全く理解できないのだろう。
アシュタルはイラだっていた。
彼からすれば、アリーがたった一言叫んでくれればいいのだ。
クルアーンなど、神の言葉など今は関係ない気にするな、と。
死にたくなければ戦え、自分の為に戦え、と。
今戦っている者は皆、アリーを慕って集まった兵である。
アリーが一言言えば皆、迷いを絶ちきれるのだ。
アシュタルは
「大バカ野郎! この石頭!」
と彼を罵りたかった。
だが、少し考えてやめた。
宗教家として生きようとしていた彼に再び剣をとらせたのは自分である。この敗けは、アリー自身の敗けではない。彼に惚れ込んだ自分の敗けなのだ。
この男のことは恨むまい。
アシュタルはそう思った。
もし恨むモノがあるとするならば、正義というモノの存在に少しでも期待してしまった自分の心であろう。
少しばかり、この男の生き方に感化されすぎていたのかもしれない。アリーならば、それを証明してくれると思ってしまっていた。
「だけど、後悔はないさ…」
アシュタルは戦場に吹く風の音にかきけされてしまうような小さな声で呟いた。
正義が果てていく。その様を見ても、アシュタルはまだこの男を信じていたかった。
説明することをあきらめたアシュタルは
「アリー、どうする?」
と問いかけた。
アリーはキョトンとしている。ムアーウィヤの狙いがわかっていない彼には、これからの行動を判断するのが難しいのだろう。
「どうする…とは…?」
「このまま戦うのか、それとも一旦退くのかだ。お前が決めるしかない。みんな、どうしたらいいかわからないんだよ」
結局、アリーは戦線を立て直すために一旦退却することにした。
そして、その夜にムアーウィヤから講和の使者がやってきた。
アリーの陣内で断固抗戦するか、話し合いをするかで意見が割れたが、アリーは後者を選んだ。
アリーはこの期に及んでなお、ムアーウィヤに良心が残っていることを信じていたのである。