史実はラノベよりも奇なり ~歴史短編集~   作:ロッシーニ

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その7 ~神託~

会談におけるムアーウィヤの態度はアリーを失望させるモノだった。

 

アリーがウマイヤ軍の槍先にクルアーンを掲げた行為を責めるとムアーウィヤは

「それは誤解だ。我々はクルアーンの下に平和を求めただけである。」

と白々しく言った。

 

 

それよりも重大であったのは、アリー軍の中で和平派と抗戦派で意見が割れて、派閥争いが起きてしまったことだ。

アリーは和平路線を基本としつつ、抗戦派が求める条件の主張が通るように慎重に交渉を進めていたが、両派の対立が深まる中で和平派のアシュアス・イブン=カイスがムアーウィヤ側と通じて強引に講和を結んでしまった。

 

これに憤った抗戦派はアリーの派閥から離脱して独自にハワーリジュ派を結成。

アリーは勢力を拡大し続けるウマイヤ家との戦いに加えて、身内から出たハワーリジュ派にも対処しなければならなくなり、勢力を著しく低下させることになった。

 

この後、アリーは658年7月、ナフラワーンにてハワーリジュ派の軍を破り首領であるアブドゥラー・イブン・ワハブ・アル・ラシブを殺害することに成功するが、ここからは暗闘になる。

 

スィッフィーンでは引き分けに持ち込んだもののアリーの強さを痛いほど思い知ったウマイヤ派も、ナフラワーンでの大敗で軍の戦闘能力を喪失したハワーリジュ派も最早アリーに真っ向勝負を挑んでくることがなくなったからだ。

だが、こうなるとアリーは弱かった。敵は、アリーの弱点を確実に突いてきたのである。

 

ナフラワーンの戦いの同年である658年。マリク・イブン・アシュタルが死んだ。

ウマイヤ派がアリー派の勢力圏であったエジプトを攻めるとの情報を受けて援軍に向かっていたところ、その道中で毒殺されたのである。無論、ウマイヤ派の謀略だ。

結局アシュタルの死後、エジプトは侵略されてしまう。

 

この結果を受け、ムアーウィヤは

「アリーはもはやその両腕を失った」

と歓喜したという。

 

そして勿論、アリーは失意に暮れた。

 

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神託、という概念がある。我々、現代日本人にはなかなか理解し難い言葉だが、簡単に言えば、神意を他に託し、くみ取ろうとすることをいう。

例えば、古代ローマにおいては戦いの吉兆を占う為に鶏を使った占いが行われたというし、古代日本では神憑りになったシャーマンが神の意思を民衆に伝達したという。

 

イスラム教において、神の言葉を聞ける存在はムハンマドだけであった。

根本に神の言葉を都合よくねじ曲げる権力者への反発があるイスラム教は、彼以降の預言者のことを認めない。

それ故、イスラム教においては神の意を推し測ろうという場合の一般的なやり方として、クルアーンなどの聖典の内容やムハンマドの生前の行動に照らし合わせて、その事象が神意に沿うのか信者たちで議論する方法がとられるようになった。

 

そして、これは謂わば外法であるが、神の意を知る方法がもう一つある。まず物事を実行し、その結果如何で、その事の善悪を判断するという方法だ。

これはつまり、自分達の行動が正しいのならば、神は決してそれを行う者を見捨てないであろう、という前提の下に事を起こす行為だ。

 

事実、唯一無二の正しい預言者であるムハンマドは当初、極小さな勢力しか持たなかったのにも関わらずメッカとの戦いに勝利してみせた。要するに、ムハンマドは神の声を聞き、その通り行動することで勝利という結果を得た訳だ。

だから、神の意を知ろうとする者はその逆を辿ろうとする。行動を起こし、その結果の成否により、神意を知ろうということだ。

 

イスラム神学の理屈に則った行為ではあるが、ムハンマドの死後は、それ以前と状況が違う。

ムハンマドがいれば、神意を知り勝利を確約された状況で戦いに臨むことができるが、今はそうではない。

もしも自分達の行動が神の意に沿わないモノであれば最悪、死が待っている。

即ちこれは、一種の賭けである。かなり追い込まれた集団が最後に自分達の正義を神に問う為の方法であった。

 

 

さて、結成間もないがハワーリジュ派は追い詰められている。

「勝てた戦を捨てて、相手に和を乞うことは、神の意思に逆らう行為だ!」

そう主張して飛び出したのはいいが、元々ウマイヤ派に対して数的不利だったアリー派から更に分派した少数派である。

ナフラワーンの戦いに敗れるといよいよ戦闘能力を喪失し、ウマイヤ派からもアリー派からも逃げ回りながら暮らすことになった。

 

追いつめられた彼らは神意を確かめることにした。

考えははこうだ。

 

アリーとムアーウィヤの双方に刺客を送り、成功すれば自分達が正義である。

その結果を知れば、きっとウマイヤ、アリー両派の人々も神意を得たのはハワーリジュ派であるということに気づき、自分達を信任することだろう。

 

浅はかな思考にも思えるが、破れかぶれになった集団とはそういうものだ。

 

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ハワーリジュ派によるムアーウィヤの暗殺は失敗した。

彼は常に暗殺を警戒して懐に武器を忍ばせていた。

 

尤も、彼が警戒していたのはアリー派の刺客のことであった。ハワーリジュ派とは力の差が大きすぎる。それは暗殺によりウマイヤ派の体制を揺さぶったところで覆せるモノではない。

ムアーウィヤは、暗殺者を捕らえた後、これを討伐の口実としてアリーを攻めようと画策していたので、犯人の素性を知り大いに驚いた。

 

一方、アリーが襲われたのは661年1月のことだった。

クーファの大モスクで祈祷中、ハワーリジュ派の刺客・アブド=アルラフマーン・イブン・ムルジャムに刃物で切りつけられたのである。

アリーは抵抗し、ムルジャムを退けることには成功したが、刃には毒が塗ってあった。2日間苦しんだ挙げ句、アリーは死んだ。

ムアーウィヤとは違いアリーは暗殺への警戒心が薄かった。そのような卑怯なやり方をしたりされたりという発想がそもそもなかった。これまでにも歴代カリフのウマルとウスマーンが暗殺されていたにも関わらずである。

結局、アリーは終生こういう男であった。

 

 

ハワーリジュ派はこの行動によって形勢が大きく動くことを期待したが、結局、彼らの立場は何も変わらなかったと言っていいだろう。

 

破れかぶれの集団というモノは、物事を0か100かで考えがちになる。ハワーリジュ派もそのような例に漏れず、彼らはムアーウィヤとアリーの暗殺について、成功か、否かの2択しか想定していなかったので、2人の内の1人は成功で1人は失敗という、この結果に混乱した。

 

だが、その後、アリーというライバルが消えたことでムアーウィヤは遂に野心をむき出しにして自らカリフを宣言。更にはカリフ位をウマイヤ家で世襲する意思を示した。

ウマイヤ家による王朝、ウマイヤ朝の誕生である。

 

結果論、元々ウマイヤ家の専横に憤りアリーを支援していたハワーリジュ派にとってこの暗殺は、よりマシな選択肢が消えて、より邪悪な者を残す最悪な結末となった。

それ故、ハワーリジュ派はこの後もウマイヤ家と敵対していくことになる。

 

一方、党首を殺害されたアリー派にも特にハワーリジュ派と合同しようというような動きはなかった。

ハワーリジュ派の理論では暗殺が成功した場合、殺された者の行動は間違っていたということになる。

 

つまり、アリーは間違っていた。

それが証明されたことでハワーリジュ派はアリー派が自分達のことを認めると期待していた。

だが、アリー派の人々はハワーリジュ派が言う神の裁定の結果を信じなかった。

 

よくアリー派とハワーリジュ派の分派原因は

「ウマイヤ家と和睦するかしないかで意見が別れた為」

であると説明される。

 

起きた出来事を追っていくと、なるほど、その通りである訳だが、根本的にはこの神託というものをどう捉えるかという考えの違いがあったのだと言える。

 

ハワーリジュ派は神託というものを非常に大きく捉えていた。

だからスィッフィーンの戦いでの和睦という、神による裁定の無視は、ハワーリジュ派にとっては、それによって派閥を割り、元の同志たちと抗争しようとするくらいに重大な違反行為なのであった。

 

だが、分派しなかった多くのアリー派は神の裁定よりもアリー個人を信任する人々であった。

彼らはアリーの勇敢さと清廉さを信頼してムハンマドの後継者、そして自分達の指導者になって欲しいと願ったのだ。

 

アリーが殺害された後、彼らの中には、これで希望は潰えた、とウマイヤ朝に帰順する者もいた。

ハワーリジュ派がアリー殺害の実行犯になったことによりウマイヤ朝の方がよりマシな選択肢になったことも要因の一つだろう。

 

だが、そうした離脱者も出る中で、アリー派そのものは残った。彼らは発足から常に少数派でありながらアリーへの尊敬を守り、彼の子孫たちを代々指導者(イマーム)とした。

そして、集団としての意志決定を必要とする時には、イマームこそが正しい教えを受け継いだムハンマドの後継者であるとして、裁定を託す事とした。

 

このアリー信奉者の集団が現地では「アリーの党派(シーア・アリー)」と呼ばれる。

因みに日本語ではよくシーア派と訳されているが、「シーア」というのが派閥という意味なので、シーア派というと「派閥派」という意味になってしまう。厳密に言えばこれは誤訳だ。

 

だが何にせよ、このシーア派が遠く日本にまで聞こえるイスラム2大派閥の一つとして今日まで機能している訳だ。

アリーの正義は今もシーア派の人々の心の中に生きている。

 

一方、この時ウマイヤ家の支配を受け入れた人々の党派は当時、「シーア・ムアーウィヤ」と呼ばれたが、次第にその呼び名は消えていき、スンニ派と呼ばれるようになった。

 

イマームの様な意志決定者を持たないスンニ派では、イスラム法学者が力を持った。何らかの決定が必要な際はクルアーンとムハンマドの生前の言動、即ち慣行(スンナ)に深い知識を持つ彼らが、これから起こす行動が神意に沿うものなのか話し合いを行うのだ。

12代目イマームの御隠れ(ガイバ)以降、シーア派でも盛んになる方法であるが、スンナ派では当初から特にこの過程を重視した。

 

なお、生前のムハンマドに最も近かった人物として、慣行(スンナ)を広めたのは、アーイシャだ。その為、スンニ派では彼女が特に尊敬される存在になっている。

 

要するに、スンニ派になった信者たちは、ウスマーンやムアーウィヤを尊敬していた訳ではない。あくまで、アリー個人よりもムハンマドの過去の言動を重要視しただけの話である。

 

むしろ、敬愛すべきムハンマドの親族を陥れたウマイヤ家を非難する声はスンニ派内部でも根強い。彼らの党派名が「スンニ派」になり、「シーア・ムアーウィヤ」の名が欠片も残らなかったところに信者たちの意識が垣間見えないだろうか。

 

 

正義と言うモノの事を考える時、それは争いの勝者が作り上げる掟や価値観のことだという話がある。

だが、このアリーとムアーウィヤの戦いを見た時にも、そう言えるだろうか。

確かにムアーウィヤが属するウマイヤ家は争いに勝利して権力を握った。

 

だが、その後に何が残っただろうか。

 

先の話をすると、ウマイヤ朝は750年に滅びる。

その治世は100年もたなかった。

 

一方、アリーは敗れた。

だが、彼への尊敬は永遠に続く。

 

正義とは何なのか。

 

アリー・イブン・アビー・ターリブの人生はそれを後世に示し続けている。

 

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