○イスマーイール1世
12歳で挙兵し、サファヴィー朝を建国した天才児。とある西洋商人が「邪悪なほどに美しい」と表したほどの美形で、文学、宗教、軍事においても類い稀な才能を持つ。サファヴィー教団の信者達からは
○シャムス・アッディーン・ラヒージー
政争から逃れた幼きイスマーイールを匿ったギーラーン地方の有力者、カールキヤーによってイスマーイールに付けられた家庭教師。高名な詩作家でもあるがイスマーイールの才能には舌を巻く。サファヴィー朝建国後も秘書官としてイスマーイールに仕える。
○ドルミーシュ・ハーン・シャームルー
サファヴィー軍の両巨頭、右翼大
○ムハンマド・ハーン・ウスタージャールー
サファヴィー軍の両巨頭、左翼大
○ベルーザ・ハーヌム
絶世の美女と言われるイスマーイールの妻。稀代の天才で超絶イケメンのイスマーイールにベタ惚れ。
○シャイバーニー・ハン
シャイバーニー朝建国者。ティムール朝を滅ぼしてイスマーイールのサファヴィー朝と対峙することになる。チンギス・ハーンの末裔である事を誇りにしている。
○セリム1世
オスマン帝国第9代皇帝。
○ピリー・メフメト・パシャ
冷酷王セリムと壮麗王スレイマン、2代に渡って仕える大宰相。
その1 ~イスマーイールの邪悪な輝き~
本作では、16世紀から18世紀前半にかけてペルシャ地方(今のイランを中心とした地域)を支配したイスラム王朝、サファヴィー朝の2代目
そうでなければ、ラノベ主人公のようなスペックを備えた圧倒的カリスマが興したこの特殊な王朝を受け継いだタフマースブ1世の苦悩はわかりえない。
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サファヴィー朝の母体となったのはサファヴィー教団というイスラム教スンニ派に属する神秘主義教団である。
これは14世紀前半にカスピ海西南岸アゼルバイジャン地方のアルダビールでシャイフ=サフィー=アッディーンという人物が興した教団である。
この時代はムハンマドが
モンゴル帝国の西進である。これは1219年のチンギス・ハーンによるホラズム・シャー朝侵攻に始まり、次世代にも引き継がれた。
モンゴル鉄騎が馬蹄の蹂躙しうる限り西へ。
この方策に従ってモンゴル帝国は拡大を続けた。
ユーラシア大陸北部においては、キエフ・ルーシを屈服させ、ポーランドでは戦場となった地の通称を
これらのキリスト教国家では、常識を大きく越え、理不尽なまでの力を誇るモンゴル軍の襲来を神が与えた試練である、という風に言ったそうだが、元を辿れば同じ神を信仰する因果であろうか。中央アジアから中東に存在するイスラム教諸国家に対しても試練は平等に与えられた。
前述したホラズム朝を皮切りにアゼルバイジャンのイルデニス朝や暗殺教団の異名で知られるアムラートのニザール派、アナトリアのルーム・セルジューク朝、そしてイスラム世界に長く君臨したバクダード・アッバース朝までもが滅ぼされた。
人々は、そんな神の試練を克服するためにより強い信仰と指導者を求め始める。サファヴィー教団の勃興はそうした時代背景を受けてのものだった。
イスラム教は
アルダビールで興ったこの教団は代々ムハンマドやアリーの血をひく教主のカリスマ性を信仰の柱とし、歴代の教主たちは「アルダビールの聖者」と呼ばれ、半ば神のように崇拝されてきた。
イスマーイール1世の祖父でタフマースブ1世の曾祖父にあたるジュナイドの代からは更に先鋭化し、その教義には近隣地域に住まう遊牧民のシャーマニズム的要素のある信仰も取り入れられ、教えは更に神秘的かつ呪術的なものになっていった。
そうした動きにより、新たに信徒となった東アナトリアやアゼルバイジャン地方のトルコ系遊牧民たちは後にクズルバシュと呼ばれる武装集団を組織。教主の剣となり、盾となり教団の為に戦った。
そうした改革の成果もあってジュナイドの代にサファヴィー教団は急激に拡大し、サフィー家は単なる宗教団体の教主というだけでなくアルダビール周辺地域の君主としての役割を担うようになっていった。
このように、サファヴィー教団は確かに勢力を強めた。だが、それ故に受難した。それは、イエスやムハンマドがかつてそうであったように、新たな教えを広めようとする者にはついて回る運命なのかもしれない。
少し時代を遡るが、サファヴィー教団が成立してからしばらくした14世紀中盤頃からモンゴル帝国はその広大な領土を支えきれなくなり衰え始め、その後、アルダビールの一帯はモンゴル帝国の後継たるイルハン朝やティムール朝の支配下に入るが、いずれの支配も短命に終わった。
14世紀終盤、絶対的な支配者を欠く中で東部アナトリアと西部ペルシャにまたがるこの地域には武装した遊牧民が割拠し、やがて白羊朝と黒羊朝という2つの国がたった。
双方ともトルコ系遊牧民が興した国であり、いくつかの部族の連合という性格の強い国家であった。
勢力圏が重った2つの国家は、この地域の覇権をかけて、互いに競い領土を削りあった。
先述したサファヴィー教団の
1467年11月。白羊朝とサファヴィー教団は合同し黒羊朝の軍を急襲した。これにより黒羊朝五代目君主のジャハーン・シャーと跡取りの息子のムハマンディーは敗死。もう一人の息子、アブー・ユースフも捕らわれて両眼を抉られた。
この後、黒羊朝は再起をかけて何度か白羊朝に挑戦したが、この戦いの被害はあまりにも甚大であり、それは果たされなかった。数回にわたる決起の末、親戚の1人がインドに落ちのびた他は、黒羊朝の君主一族は全滅。黒羊朝の支配下にあった遊牧民部族は次々白羊朝に帰順していき、黒羊朝は白羊朝に吸収されるようなカタチで消滅した。
さて、黒羊朝に対して決定的な勝利をおさめた白羊朝の君主、ウズン・ハサンは名君であり、彼の存命中は白羊朝とサファヴィー教団の関係は良好であった。
しかし、彼が死ぬとそれは悪化する。
先述したようにサフィー家はムハンマドおよびアリーの子孫である。また、ハイダルの代に至るまでにササン朝王家や東ローマ皇帝とも親戚となっており、両国が滅んでからはサフィー家こそがこれらの王家の後継であると見る動きもあった。
これ以上ないほど高貴な血を持つサフィー家に対するアルダビール周辺の人々の信仰心は年を経るごとに強いものとなっていき、彼らが持つ武装集団であるクズルバシュもそれに比例して強大化した。
白羊朝は元々、遊牧民部族の連合体である。いくら名君ウズン・ハサンが内部を整えたとしても、そうした弛い統治体制しか持たない白羊朝にとって、サファヴィー教団の拡大は脅威であった。ウズン・ハサンは教団をうまく抑えていたが、彼の死後、サフィー家がどう動くかはわからない。
1488年。ウズン・ハサンの跡を継いだ次男のヤークーブはサフィー家への疑心を爆発させた。
サフィー家の軍団が領内を通過した際に無断で募兵を行ったとの理由で当主ハイダルを宮殿に呼びつけて、白羊朝に対する忠誠を改めて誓わせたのだ。
ハイダルからすれば、領内の通過は許可をとった正当なものである。それにヤークーブはハイダルが領内で募兵を行い人々を連れ去ったというが、ハイダルにその認識はない。彼らが教団への信仰心のあまり勝手についてきてしまったのだ。
ハイダルはそう説明したが、ヤークーブからすれば、むしろその「アルダビールの聖者」の権威こそが危険なのだ。会見はむしろヤークーブの猜疑心を強める結果となってしまった。
このままでは、潰される。
そう感じたハイダルは白羊朝に戦いを挑むことにした。
手始めにヤークーブの義兄弟ファルーク・ヤサールが支配する都市シャクヒーに対する包囲を行ったのだが、ヤークーブはそれに素早く対応して援軍を派遣。
その後、1488年1月29日にハイダルのサファヴィー軍とヤサール&ヤークーブの白羊朝軍がダルタナットで激突。サファヴィー軍はクズルバシュの死を恐れぬ突撃で奮戦するが、最終的には敗れ、ハイダルは戦死した。
ハイダルの決起は明らかに準備不足であり、反対にヤークーブの対応は異様なまでに早かった。もしかすると、ハイダルに対する一連の行動の全てがヤークーブによる謀略だったのかもしれない。そう考えると、ヤークーブという男は大した役者だ。
このまま彼がこの国を長く統治できれば、白羊朝も安泰であったかもしれないが、彼はその2年後、1490年に病死する。
その為、サファヴィー教団もそれ以上の追及を受けることはなく、やや勢力を削られたカタチにはなるが、ハイダルの長男スルターン・アリーが跡を継ぎ、アルダビールの聖者としての権威は保ったまま白羊朝の支配の中に留め置かれた。
ヤークーブの死後、白羊朝は支配者が定まらず、10年間に6人の君主が生まれることとなる。激しい政争の中でアルダビールの聖者が持つ影響力を求める権力者は多く、一時は以前のような勢力を盛り返すかとも思われた。だが、その権威故に戦いに巻き込まれてしまった、という見方もできる。
1494年、スルターン・アリーは権力闘争の中で殺害されてしまった。
その為、サフィー家の一族もサファヴィー教団の教徒たちも一時的に離散した。この時、スルターン・アリーに代わって新たに教主となったのが、彼の弟、当時7歳のイスマーイールなのであるが、彼もまた政争の激しい都市部に留まることはできなかった。
カスピ海南岸のギーラーン地方でカールキヤー・ミールザー・アリーという地方の有力者に保護されながら力を蓄えることになった。
サファヴィー教団はかなり異色の教団ではあるもののイスラム教スンニ派に属している。
それに対してカールキヤーはシーア派の信者であったが、彼はイスマーイールをシーア派の祖ともいえるアリーの末裔として、丁重に養育した。教師にはシャムス・アッディーン・ラヒージーというシーア派の優秀かつ頑固な学者をつけた。
スンニ派の教団指導者である少年にシーア派の学者をつけると言うことは一見とんでもない事のようにも思えるが、カールキヤーからすればこれは
「イスマーイール様に正しい教えを学んで頂けるように」
という最上級の善意から出た行動であった。
イスマーイールはそんな敬虔なシーア派教徒のもとで7年の歳月を過ごすことになる。
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「決起する」
イスマーイールがそう言い出したのは1499年。彼が12歳の時であった。
イスマーイールの師であるシャムス・アッディーン・ラヒージーは始め、彼の言葉を本気にしなかった。
イスマーイールの利発さも、彼の教団再興にかける想いの強さもよく知っている。しかし、彼はまだまだ子どもである。
歴史上、幼君は何人もいるが、その即位は、ほぼ全てが世襲か周囲に担がれてのモノだ。侮るつもりはないが、このような年齢の子どもが自らの意思で軍を動かし政権奪取しようとするハズがない、という先入観がシャムスの頭の中にはあった。
だからシャムスはイスマーイールの言葉を
「いつかこうしたい」
という将来に向けた希望であると捉えた。
謂わば、我々が近所の子どもの
「宇宙飛行士になりたい!」
という夢を聞いてやる時のような感覚である。
「いや、まったくその通りですな。イスマーイール様が成人された暁には必ずや兵を起こしサファヴィー教団の都・アルダビールを取り戻しましょう!」
そう言った後、シャムスはイスマーイールに優しく微笑みかけようとしたが、それをする間もなくイスマーイールは
「シャムス・アッディーン・ラヒージーよ…」
と静かに、再び語りかけてきた。
「私は決起する。白羊朝を討ち滅ぼすのだ」
先ほどよりもゆっくりと、だが力強く彼は言った。
年老いたシャムスの方が、彼に言い聞かされているようだった。
「イスマーイール様…それは本気なのですか…?」
「愚問だな。シャムスよ、思い出してみろ。私が今まで真実以外を口にしたことがあっただろうか?」
そう問いかけるイスマーイールは一種の異様な雰囲気を身にまとっていた。
この地域でも珍しいエメラルドのような澄んだ緑色の瞳に見つめられたシャムスの背筋にビリビリと電流を浴びたかのような衝撃が走る。
彼に従いたい。
多くの人がカリスマと呼ばれる人物に出会った時に覚える感覚が津波のように襲いかかってきたが、シャムスは溢れ出る感情をなんとか理性で抑え込もうとした。
冷静に考えて、現実的でないと思ったからだ。
「しかし、我々が持つ兵力では、あまりにも心許ない…」
「わかっている。クズルバシュに再集結を呼び掛けるのだ。」
「しかし、彼らは…」
サファヴィー教団に従っていた武装騎馬軍団クズルバシュ。
イスマーイールが挙兵するからと言って、今さら彼らが従うだろうか、というところにシャムスの懸念があった。
イスマーイールがアルダビールを離れた時、彼はまだ7歳だった。それから今まで、間近で彼を見てきたシャムスには、この少年が持つ特別な才気というものが理解できる。
だが、そのシャムスでも決起には時期早々だと感じたのだ。
イスマーイールがあの後、どのように成長しているのかも知らない彼らの援軍を期待して決起することが、どれだけ危険なことか。
何とかそれをイスマーイールに伝えなければならない。
シャムスが考えていると、イスマーイールが懐から紙を取り出した。
「これを、各地に散らばった信徒たちの元へ届けて欲しい」
シャムスは受け取り、書状の中身を確認した。そこには燃えたぎるようなイスラム書法で一編の詩が綴られていた。
我が名は
これら全
我が母はファーティマ。
我が父はアリー、そして我は十二イマームの長なり。
余はイスマーイール、この世に来たり。
余はアリーなり。アリーは余なり。
完全なる導師がきたぞ。全てのイマームなり。
全
真実の体現であるぞ。跪け。
サタンに従うな。アダムが衣を新たに纏ったぞ。
神が来たぞ。神が来たぞ。
未来永劫の光が世にやってきたぞ。
シャムスはため息をついた。
感嘆のため息である。
イスマーイールに詩作の技法を教えたのはシャムスだ。だが、この詩の出来栄えは師のものを大きく上回る。
詩作においてのイスマーイールは一貫してシャムスの優秀な生徒であり、将来は詩人としても大成できるであろうという予感はあった。だが、この段階でこれほどのモノを書くことは、彼の師であるシャムスですら予想しえないことだった。
自分の眼は節穴であったのだろうか…。いや、違う。と、いうことに気づいてシャムスは身震いがした。
答えは詩の中にある。作中、彼は
「我が名は
と名乗った後、段々と言葉を強めて行き、終盤には
「神がきたぞ」
というところまでたどり着く。
要するに、彼の精神は限りなく神に近づこうとしていた。
それは修行によって神との合一を図ろうとするイスラムの一派、
イスラム教シーア派の祖・アリーはウマイヤ家による穢れた謀略と身内による卑怯な暗殺に敗れた。だが、正義はいつか必ず勝つ。いや、勝たねばならぬ。そうでなければ、世界は闇に包まれるであろう。アリーの子孫として、自らが正義を成す。そして、世界を光ある方へ導くのだ。
イスマーイールがその胸に抱く確信と決意が、彼の詩を聖人の域にまで一気に高めた。
このアゼルバイジャン語で綴られた美しい旋律の前には、最早、俗人の言葉など意味を成さない。シャムスはイスマーイールの前に跪いて言った。
「全ては
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イスマーイールの情熱的な呼び掛けにクズルバシュたちは即座に反応した。アルダビールに集結した7000人は白羊朝政府に対しては「グルジアへの聖戦」を口実に北へ向けて進軍。
1500年3月には東アナトリアのエルジンジャンを占拠。そして12月にはアゼルバイジャン地方のシルバン・シャー国に進入する。
ここはイスマーイールの父・ハイダルが白羊朝の同盟国だったシルバン君候のファルーク・ヤサールに敗れて命を落とした場所でもある。ファルーク・ヤサールは未だに健在であり、イスマーイールはシルバン・シャー国の首都・シャマフ近郊のジャバーニー村で因縁の相手と激突することとなった。
数においてはやはりイスマーイールのサファヴィー軍は圧倒的に不利だった。それでも、アルダビールの聖者を代々半ば神として崇めた集団は、この時13歳の天才詩人・イスマーイールにより宗教的な情熱を大いに引き出されて、シルバン・シャーの軍団を撃破した。これによりファルーク・ヤサールは戦死した。
イスマーイールは教団の悲願であったハイダルの敵討ちをいとも簡単に達成して見せたのである。
さて、この時の白羊朝当主はアルヴァンドという男である。アルヴァンドはサファヴィー軍のシルバン占拠を聞くと、激怒して大軍を発した。
イスマーイールはグルジアへ進攻しようとしていたが、引き返し、1501年8月。両軍はアラクセス川渓谷、シャルールで激突した。
挙兵以来、国家元首レベルの相手とは初めての対戦である。浮き足立つ兵もいたが、イスマーイールはここでも
「我は魂の導き手である。私のためにその身を捧げよ」
との演説を行い、その言葉が兵士たちのスローガンになった。
何か特別な戦術を使った訳ではない。
だが、イスマーイールの言葉によりサファヴィーの兵士たちにもたらされた
「
という意識は彼らに無限の力を発揮させた。
結果、この戦いでサファヴィー軍は圧勝。白羊朝の首都タブリーズをアッサリと占領することに成功した。
イスマーイールが王朝の樹立を宣言したのはこの時である。要するにサファヴィー朝の歴史はまさにその時から始まった訳だが、ここで一つサファヴィー朝にとってもその後のイスラム史にとっても重要な出来事が起きた。
イスマーイールによるサファヴィー教団のシーア派宣言である。
タブリーズの市民たちはアルヴァンドが敗走したことを聞くと、すぐさま新たな支配者イスマーイールを歓迎する式典の準備に入った。
白羊朝という国はそもそもが武装遊牧民の連合国家であり、支配者が土地に根づくという性質が弱い国家だ。更に言えば、彼らの前にこの地域を支配したモンゴル帝国の後継国家群もそうである。よって、この一帯における一般市民の民族的アイデンティティーは土地の支配者に頼ったモノではない。
では、この地域の人々が重要視するものは何なのかと問われれば、それは宗教ではなかろうか。
支配者となった遊牧民たちにも独自の信仰はあった。だが、その教義はイスラム教やキリスト教のように体系化され信者の末端にまで根づいたモノではなかった為に、後から帝国の領土に組み込んだ地域においては発展しなかった。
それ故、いくらモンゴル人たちが領主の首を切り、街を略奪しても、信仰は残った。むしろ、帝国が崩壊し
だからタブリーズの市民たちからすれば、既に弱体化していた自分達の支配者が街から追い出されたことなど屁でもない。むしろ高名なサファヴィー教団の教主が支配者になるなら良いではないか、というのが人々の意識にあった。
サファヴィー教団の教えが非常に独特なモノであるということは、既に触れた。アルダビールの聖者を半ば神の様に崇拝し、呪術的な儀式を用いる。
それでも、サファヴィー教団はイスラム教スンニ派がルーツであり、タブリーズ占拠の段階でもその看板は変わらない。
イスラム教スンニ派の意識からすれば、信者は皆、家族でもある。生活に多少の変化があっても、ある程度の節度で従ってさえいれば略奪されたり暴力を振るわれたりすることはあるまい、という安心感はあった。
だが、民衆の歓迎を受けながら入城したイスマーイールが国家の樹立と共に行ったのが、サファヴィー教団のシーア派宣言と領民たちへの改宗強制であった。
この態度にイスマーイールへの服従を決めていた市民及び役人たちは混乱した。国民の多くがソフトな神道及び仏教徒、あるいは無宗教である現代日本人には理解しがたいかもしれないが、イスラム教の中でもスンニ派とシーア派には教義の違いがある。
両派の成り立ちと分派の経緯については、この短編集内の別作品(『アリーには負ける理由がわからない』)を参考にされたい。あれはこの部分の説明がしたいが為に書いた。大変だった。
小さい様でいて複雑な違いなのだが、それをあえて簡単に言えば、ムハンマドの死後、権力闘争の末に政権を奪取したウマイヤ家の支配を許容したのがスンニ派で、絶対に認めずにムハンマドの義兄弟にして娘婿のアリーをリーダーとし、彼とその子孫の血を神聖視したのがシーア派だ。
アリーの人柄や行動が信仰に対して真摯で賛美されてしかるべきものであったことは、スンニ派の人々の多くも認めるところではある。
だが、スンニ派からすれば、シーア派のそれ以外を認めないというところが理解できない。また、シーア派信者のアリーを必要以上に神聖とする見方が「アッラー以外に神はなし」とするイスラムの理に違反している様に見えるのだ。
イスラム教もこの時点で成立から900年ほど経っている。クルアーンとハディース(ムハンマドの言行録)を元にイスラム法学者の解釈によって運営を行ってきたスンニ派と、法学者より
スンニ派とシーア派をイスラム二大派閥とよくいうが、実際のところ、シーア派は常に少数派であった。ウマイヤ朝では当然弾圧され、その後に建ったアッバース朝では王朝の樹立に協力したにも関わらずスンニ派住民の支持を取りつける為に途中で切り捨てられた。
シーア派は異端である。
スンニ派住民の間にはそのような意識がある。
歴史上、シーア派は寡兵ながらその高い団結力と信仰心でファーティマ朝、ブワイフ朝などの王朝を建てたこともあるが、それも一時代、一地域内でのことだ。
なおかつ少数派を自認していた彼らは領内のスンニ派に対して改宗を迫ることはなかった。だいたい、イスラム教は異教徒に
そういう意味でイスマーイールの改宗強制は異常な政策であった。
イスマーイールの宣言を聞く群衆の中に一人、勇気のある男がいた。男は周囲の者に
「自分は改宗に応じることはできない。信仰を隠すこともできるが、それは神に嘘をつくことである。あのイスマーイールとかいうガキに一言言ってやらなければならない」
と言った。
仲間たちは
「殺されるぞ、やめておけ!」
と諌めたが、男は
「これは私にとっての
と言ってイスマーイールの前に進み出て叫んだ。
「イスマーイールよ、若いお前にはわからないかもしれないが、この土地の信仰は代々スンニ派のモノなのである。この街の人々は武力を振りかざしても決してお前などには従わない!」
群衆の前に立つイスマーイールは笑った。
「ふむ。度胸のある男だ。気に入った。私と邸で話をしよう。」
そうして、男はイスマーイールと従者たちに連れられて行った。
仲間たちは悲しんだ。あの正直で勇敢な男がイスマーイールに殺されてしまうと思ったからだ。
だが、一晩して男は帰って来た。
仲間たちは歓喜して彼の家に集った。
あの頑固な男が意見を曲げるはずがない。生きて帰って来たということはイスマーイールがぐうの音も出ないくらいに言い負かして感服させたのだ、と思ったからだ。
だが、そこにいたのは仲間たちの知っている彼ではなかった。男はぽーっとした表情で
「イスマーイール様は素晴らしい。彼が言うのなら、シーア派の教えも正しいのかもしれない。」
と言うことを繰り返した。
コイツはそんな事を言う男じゃない。何か普通では想定できないほどの恐ろしい脅しをかけられたに違いない。
そう考えた仲間たちは男に
「イスマーイールの邸で何があった!」
と頻りに尋ねたが、彼はイスマーイールが如何に正しく素晴らしい人物かを語るばかりでマトモに回答しない。
「だから、具体的に何があったんだよ! 何をされた! 何を言われた!」
焦れた仲間の一人がそう問うと、男は
「
と泣き崩れて言葉を発することが出来なくなった。
その噂が広まると、同時に
「イスマーイール1世、只者にあらず」
との評判も瞬く間に領内に広がった。
そして、イスマーイールがその後、何日間か連続で市内を行進し、市民への顔見せを一通り終えると、不思議と批判はなくなった。
イスマーイールはこの時、15歳である。全てを頭で考えられていた訳ではない。だが、彼には感覚的にわかっていた。
詩的な表現力に裏打ちされた自分の言葉には人を動かす力があることを。
そして、自分の容貌は人々が神聖視して服従したくなるほどに美しいものだということを。
先に「イスマーイール、只者にあらず」との風聞をたてておいたことでその神性は更に際立った。
この頃、タブリーズに居合わせた西洋商人は時代の転換点を目撃した衝撃と共にイスマーイールの風貌について次のように説明している。
「イスマーイール1世は、邪悪なほどに美しい」
自惚れる訳でもなく、驕る訳でもなく。
自分の持ち合わせた魅力を的確に評価して、それに相応しい振舞いができるところに、イスマーイールの宗教的な天才性が見てとれる。
そう考えると、イスマーイールが持ち出したシーア派への強制改宗も、ただ彼個人の信仰心に基づくモノではない様に思える。
アリーという聖者を熱狂的に支持し、
こうして、多くの信者を獲得し勢力を強めたイスマーイールのサファヴィー朝に対して、タブリーズを失って以降の白羊朝は著しく弱体化した。
その後、大した反撃もないまま、イスマーイールは1507年に白羊朝最後の砦マルディーンにてアルヴァンドを再び撃破すると翌年には長らくイスラム社会の中心であった重要都市・バクダードに入城。
ここに白羊朝は崩壊した。
イスマーイールの詩の参考文献は
永田雄三 羽田正『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論新社
です。